昨年の「暦で綴る今日の横浜」2月3日で咸臨丸を紹介しました。
No.34 2月3日 ポサドニック号事件で咸臨丸発進
「咸臨丸」は何回か取上げました。
今日は簡略版でご容赦ください。
簡単に「咸臨丸の一生」を紹介しておきましょう。
※全て西暦 和暦は( )で
時代に翻弄されながら、何度も座礁し修理を重ね航海した「咸臨丸」
1857年(安政4年)3月
オランダで誕生。
幕府が注文した木造3本マストの蒸気船で、納品時は「ヤーパン号」
日本に納品され長崎に投錨されたのが9月22日(火)です。
1858年(安政5年)
築地の軍艦操練所所属になり練習船として活用されます。
1860年(安政6年)
咸臨丸太平洋横断が決定します。
当初太平洋横断の予定はありませんでした。
2月4日(土)品川を出帆し横浜着
3月18日(日)サンフランシスコ入港
6月23日(土)浦賀に帰着
1861年(文久元年)
ロシア軍艦対馬占領事件(ポサドニック号事件)が起こり
外国奉行・小栗忠順が咸臨丸で対馬に急派されます。
1862年(文久元年)
幕命による小笠原派遣。輸送・客船として活躍
1868(慶應4年)
4月6日(月)江戸無血開城、五箇条の御誓文
旧幕府脱走軍の船となる。
浦賀沖で座礁
回天丸の曳航で浦賀沖を出発
回天丸との曳航綱が切れて漂流状態にメインマストを切り倒して安定確保。
下田入港
清水を目指して下田出港するが、悪天候で下田に戻る。
蟠竜丸曳航で清水入港
新政府軍の脱走艦隊追捕艦隊の富士山丸が
白旗を掲げた咸臨丸を砲撃し乗員全員死亡。
新政府軍に曳航されて浦賀へ。
1869年11月19日(明治2年)
咸臨丸、浦賀番所での修理が終わり、兵部省管轄から開拓使に移管される。
開拓使運搬船(北海道間定期航路)として活躍
1871年(明治4年)
上総国興津沖で暴風雨により座礁・損傷 修復
片倉小十郎家臣団401名を乗せ、小樽へ向けて寒風沢出帆
航海中に妊婦死亡の為、函館へ進路変更し函館寄港後
11月7日(火)更木岬(木古内釜谷村)沖の暗礁に乗り上げる
咸臨丸、水没/開拓使、咸臨丸を放棄。
No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!
No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2