暦で語る今日の横浜【9月24日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。

●1873年(明治6年)の今日
「前年2月28日に廻り髪結の不都合をいましめたが、重ねて警告し、違反者は過怠金を取る旨を触れた。神奈川県史料(1)」
1871年9月23日(明治4年8月9日)に太政官第399「散髪脱刀令」が発令されました。明治政府は、当初強制ではなく散髪を”許す“という“お触れ”から始めます。
ところが中々浸透しないどころか、全国各地で抵抗にあいます。
そこで、明治天皇は1873年(明治6年)3月20日、範を示すということで自ら断髪します。それでも断髪しない“輩(やから)”がいるので上記の“お触れ”が半年後にだされます。


No.80 3月20日 西洋理容発祥の地、横浜

No.457 ザンギリ野毛

実は、この太政官第399「散髪脱刀令」は、
明治時代の憲法制定前の最大改革だった廃藩置県を徹底させる役割をもっていました。
1871年8月29日(明治4年7月14日)に断行された廃藩置県は、徳川幕府を支えていた藩閥体制を解体する一大改革(これこそ実質的革命一説ではクーデター)でした。
実際、廃藩置県は各藩中枢部の抵抗なく進行しますが全国約200万人に上るとも言われる藩士の大量解雇が行われ、巷に素浪人が溢れる事態になります。
その点、横浜一帯は 城下町でも無く幕末から西欧化も進んでいたため、大きな抵抗はありませんでした。それでも冒頭のお触れが出た背景は
新天地横浜に多くの職失った“素浪人”が集まってきたという状況があったからではないでしょうか。

●1949年(昭和24年)の今日
横浜市議会の定例会が9月24日から9月29日まで開かれた中で
8月15日に竣工し第4回国民体育大会(夏期)の為に作られ使用された市営野毛山プールの市民開放のための使用条例が検討されました。
(使用料は1時間15円)
定例会ではその他
最大の議案である「日本貿易博覧会の終末処理(赤字問題など)」で論議が行われました。
No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA

市営野毛山プールが完成した野毛山公園一帯は
1947年(昭和22年)まで米軍に接収されていました。
1948年(昭和23年)から旧日本庭園の部分を動物園に(1951年開業)、旧洋式庭園は児童遊園地に造営されます。公園内に完成した野毛山プールは第4回国体のために作られ9月15日から18日の4日間の夏期大会に使用されます。

野毛山プールは解体されてしまいます。


その他横浜市内の競技施設が会場となったのは
三ツ沢バレーコート→バレーボール
反町体育館→体操
No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶

●1874年(明治7年)9月24日の今日
朝野新聞(ちょうやしんぶん)創刊
1893年(明治26年)11月19日まで東京で発行された、民権派の政論新聞です。1871年1月28日(明治3年12月8日)に創刊した先輩紙「横浜毎日新聞」の良きライバル紙となりました。
近代ジャーナリズムの草分け的人物 成島柳北が創刊しました。


暦で語る今日の横浜【9月20日】

●1945年(昭和20年)の今日
伊勢佐木町にある不二家が米軍に接収され「横浜スペシャルサービス・クラブ」として使用されました。
接収は1958年(昭和33年)5月15日に解除され不二家は営業を再開します。

2月10日 不二屋伊勢佐木町店新築開店

No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体

「横浜スペシャルサービス・クラブ」は将校用の倶楽部で
→「ヨコハマ・サービス・クラブ」「米第八軍ヨコハマクラブ」YOKOHAMA CLUB(米軍将校クラブ)
 などと呼ばれました。
 不二家の前に建っていた野沢屋は米軍用のショッピングセンター、PX(Post Exchange)でした。
不二家は兵士用のヨコハマ・サービス・クラブ ・野沢屋はショッピングセンターPX(Post Exchange)
YOKOHAMA CLUB(米軍将校クラブ)
この不二家イセザキ店は
アントニン・レーモンドの設計で価値ある歴史的建造物です。
施工は戸田組、R.C.造です。

●1939年(昭和14年)の今日
商船「照国丸(てるくにまる)」が予定通り横浜港を出発し第25次航(ロンドン線)の往航に就きます。歴史の悲劇に巻き込まれ最後の航海となります。

「照国丸」が出発する直前の1939年(昭和14年)9月1日に第2次世界大戦が始まりますが、この時日本は国際法上中立国でした。
この戦争勃発と共に、欧州航路は当時の日本のような中立国に属する商船でも、頻繁に船客や搭載貨物の臨検を受けるなど、航海は大変厳しいものでした。
横浜を出た「照国丸」は名古屋、大阪、神戸、門司、上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、ベイルート、ナポリを経由して、マルセイユに到着します。
マルセイユでは乗客及び積荷の厳しい“敵対的”臨検が行われ、4日間抑留されることになります。乗客から下船を希望する者多数が出ます。
最終的に28名の僅かな乗客を乗せ、地中海を抜けるためにジブラルタルを通過する頃には、航路周辺に“浮遊機雷情報”が多数寄せられ、緊張感の中カサブランカに到着し2泊します。1939年(昭和14年)11月15日に最終目的地ロンドンに向かって出港します。19日には英国ドーバー海峡北方のテムズ川河口沖ダウンズへ到着したところで英国海軍から独軍が敷設した機雷を除去するため待機するよう指示がでます。
翌11月20日に掃海が終了し航海許可が通達されます。
「照国丸」は英軍水先案内人の下で航海指図書に指示された通りの航路をとり船内で航海最後の食事をしながら

ロンドンに向かう途中、機雷に触れイギリス東岸ハーウイッチ港沖、北緯51度50分、東経01度30分の地点で沈没します。
幸いなことに乗船乗員は軽傷者がでますが全員退避します。
※日本政府は「この照国丸の爆沈は、中立国の通商航行権の侵害であり、国際法上の重大なる違反行為である」として、英独両国に明確な説明と正式回答を文書で求めます。しかし機雷の所属をめぐり、英・独は互いに責任の所在を認めず真相は判らないままに終わってしまいます。
日本が第二次世界大戦に参戦する1941年(昭和16年)12月8日までちょうど二年前の事件でした。


”英機雷に非ず”
照国丸事件、英の回答
ロンドン【十五日】工藤本社特派員発
照国丸の遭難事件に関しては我が駐英大使館岡本参事官より先月末英国外務省に対して具体的説明を要請したが十四日深更漸く文書により正式の回答が手交された、右回答はわが方の態度を反映して長文にわたる極めて慎重な内容で英国側の機雷に非ざる旨を述べ、国際法により今日まで機雷敷設のたびごとに緯度、経度をもって機雷敷設原を明示し来ったことを逐一繰返し照国丸遭難の個所たる東海岸には英国が機雷を敷設したことなく、従って英国の機雷による爆沈にあらざる旨縷々説明したものであるが、英国のパイロットの乗組その他については触れていないと解される、従って従来通り英国のパイロットが乗っておりながら遭難したのだから当然英国の機雷でないという見解を取来っているものと見られる、右回答は直に東京に送られドイツ側の回答と対照して今後の対策が決せられるものと見られる


※照国丸は1930年(昭和5年)5月31日、三菱重工業長崎造船所で竣工し横浜を母港に横浜・ロンドン線で活躍した商船です。

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