No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?
1925年(大正14年)の今日横浜市長に就任した 有吉 忠一の戦後では考えられない業績について紹介します。
時々誤用として使われるのが、市町村長や知事を「組長(くみちょう)」と言うことです。選挙を「くみちょうせんきょ」なんて言う人もいますが、正しくは「首長(くびちょう)」の聞き間違いから派生したものです。さらに、
「首長」、本来は「しゅちょう」と読みますが、同じ分野に同音異義語があるため誤用をさけるため「首長(くびちょう)」と表現しています。
ただ、威張り腐って気に喰わないボス(首長)を揶揄して「くみちょう」とあえて誤用している場合も散見しますが、どうどうと「殿(との)」と言っている自治体幹部もいらっしゃるようで、面白いですね。
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有吉 忠一市長 |
最初から横道に逸れましたが、有吉 忠一(ありよし ちゅういち)京都府の宮津出身で、内務官僚として活躍、山縣有朋の秘蔵っ子でした。

内務省は現在の総務省的な役割も含む巨大な組織でした。
有吉は、弱冠35歳で第11代千葉県知事を二年、1910年には朝鮮総督府総務部長官(後に再度朝鮮総督府政務総監として就任)翌年の1911年には第13代宮崎県知事に就任します。
この時38歳の若さです。
宮崎県知事時代の業績は「鉄道と港湾一体開発」事業を成功させた人物として評価されています。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/036/036.html
その後、1915年(大正4年)に神奈川県知事に就任しますが、この時に洪水多発地帯であった多摩川の改修を指示し川崎市中原区に「有吉堤」の名が残る土木遺産が現在もごく一部残っています。(中原区中丸子児童公園内)
河川事業としては全く動かない国に対し、道路整備の名目で土手を高くして堤防とする荒技で申請し許可を得ます。工期途中で国の停止命令がでますが、無視。懲戒処分も受けますが工事を完成させます。
日本基督教団教会員でもあった有吉は関東学院の開設にも助力します。
3月11日 内村鑑三と関東学院
約四年神奈川県知事を務めた有吉 忠一は、
1919年に第15代兵庫県知事に就任。
当時画期的だった労使協調組織の地方版「兵庫県工業懇談会」創設を主導します。ここで三年。
1922年(大正11年)6月に軍事権を除く行政・立法・司法の実務を統括した「朝鮮総督府政務総監」に就任します。
이형식(李炯植)
「中間内閣時代(1922.6-1924.7)の朝鮮総督府」より
水野錬太郎の推薦で兵庫県知事から一躍政務総監に就任した有吉忠一の朝鮮赴任によって、朝鮮総督府は新しい局面を迎えるようになった。原―水野の積極―同化政策を可能にした第一次世界大戦による好景気は、1920年からのいわゆる「戦後恐慌」で終わりをつげ、好景気が支えた積極政策は修正を余儀なくされた。地方官出身の有吉の政務総監就任に対して朝鮮での世論は好意的ではなく、内閣や議会との交渉では推薦者である水野の協力に依存するしかなかったため、総督府内での有吉の立場は確固たるものではなかった。
有吉は 在任中、朝鮮総督府の日本人高級官僚、特に「生え抜き官僚」との軋轢、関東大震災時の“朝鮮人虐殺”に反発する暴動等の真ただ中でかなり苦労します。
1924年(大正13年)7月4日にその任を解かれ東京に戻ります。
1925年(大正14年)の今日5月7日、第10代横浜市長となりました。
(あえて 横浜市長時の業績に関しては 略します)
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/097/02.html
業績のキーワードは
迅速な震災復興(公債募集による復興資金調達)
商業都市から工業都市へ(臨海工業地帯の形成)
横浜港の拡張(横浜港の外防波堤建設)
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Ariyoshi Plan |
市域の拡張(約64万坪の市営埋立、周辺の9つの町村合併)
区制による中区・鶴見区・神奈川区・保土ケ谷区・磯子区の誕生
開港記念日を6月2日とする
さらに、
ホテルニューグランド創設の主導 等が挙げられます。
1930年(昭和6年)2月10日、議会で名台詞を残して辞任します。
「予算案さえつくれば、その決定は予算を実行する後任市長と市会の自由裁量によるべき…」昭和6年度の予算が成立する前に辞職します。
その後、日本商工会議所副会頭、勅撰貴族院議員となり
1933年(昭和9年)に横浜商工会議所会頭として再び横浜と関わるようになります。
1947年2月10日に亡くなるまで、貴族院議員として静かな生活を送りますが、有吉にとって佐佐木信綱を師匠とする“和歌の世界”が愉しみの一つでした。
一すじにまことの道をたがへじと
ねがふ我手をたすけてよ我友
(昭和2年(1927年)12月1日
ホテル・ニューグランド開業の日)に
今日よりは外国人もこゝろ安く
旅寝かさねんこゝのみなとに
(昭和5年(1930年)5月
時事新報社主催の遣米答礼使の令嬢たちへ贈る)
ポトマック川辺のさくらふるさとの
やまと少女をまちつゝゑむらん
No.121 4月30日 日本にCivil engineeringを伝えた英国人
桜木町または日ノ出町からほど近い丘の上に整備された野毛山公園があります。
起伏に富んだ幾つかの庭園と、動物園があり、市民の憩いの場所となっているこの公園の一角にヘンリー・スペンサー・パーマーの記念ブロンズ胸像があります。
1987年(昭和62年)の今日、横浜水道創業100年を記念して建てられました。
(Henry Spencer Palmer)
1838年4月30日にHenry Spencer Palmerはイギリス領インド帝国のバンガロールに生まれました。
教育を英国バースで受け、王立陸軍士官学校で土木工学(Civil engineering)を学び卒業と同時に工兵中尉を任じられます。
カナダ、ニュージーランド、バルバドス、香港と世界各地の英国領に赴任し、地形測量、道路工事、水道設備設計といったCivil engineerとしての才能を発揮します。
※Civil engineeringは狭義では土木工学ですが社会基盤学とも訳されます。
明治11年頃、香港で水道設計を成功させたパーマーは、何回か立ち寄ったことのある日本にたまたま来日していた時、英国公使パークスの紹介で水道調査の仕事に就きます。限られた時間の中、3ヵ月で実地測量から計画までを脅威の行動力で完成させ、多摩川取水計画と相模川取水計画の2案を提出し日本を離れます。
多摩川取水計画に関しては、後の東京との水源競合を与件事項として明記されることで、横浜の水源が相模川水系、道志村になる基礎データとなります。
いざ工事を始めるにあたり、日本には技術者が殆どいないという現状がありました。そこで、Henry Spencer Palmerを再招聘します。1885年(明治18年)4月から日本初の近代水道の工事が始まります。水源を相模川支流の道志川に求め、野毛山配水池(野毛山公園)に至る総延長48kmの2年にわたる難工事でした。
1887年(明治20年)10月17日に横浜水道は通水します。
パーマーはその後、東京の水道事業を手始めに大阪水道、神戸水道、函館水道ほか全国の水プロジェクトに参画し、多くの業績を残します。
1890年(明治23年)日本人の女性・斉藤うたと再婚し、娘が生まれますが、三年後の1893年脳卒中で東京麻布の自宅にて54歳で亡くなります。東京青山霊園に埋葬されています。
パーマーはいわゆる「お雇い外国人」ではないと私は考えます。そこには、世界を歩き社会インフラの基本中の基本を設計するCivil engineerとしての誇りがあったのでしょう。
タイムズの通信員としても日本の情報を発信し、 豊富なイラスト入りの『Letters from the Land of the Rising Sun(日出ずる国からの手紙)』を執筆していました。彼の死の翌年出版され、母国英国でも多くの読者がこの本を手がかりに日本を知ります。
Henry Spencer Palmer Museumという個人で編集された秀逸なライブラリがあります。お孫さんにあたる樋口次郎氏の作業によるももです。
http://homepage3.nifty.com/yhiguchi/
「祖父パーマー 横浜・ 近代水道の創設者」有隣新書 (平成10年10月15日発行)
No.68 3月8日 禁酒の勧めに横浜バンド活躍
私、禁煙しましたが今だ禁酒にはほど遠い日常生活です。
痛飲で後悔しきり、禁酒にまで心が動きません。
そんな立場で紹介するのも何ですが、日本の禁酒運動は明治時代、横浜から始まりました。
日本の禁酒運動の強い後押しとなったのが三人のアメリカ人女性の来日でした。
Mary Greenleaf Clement Leavitt (1830–1912) 夫人、Jessie A. Ackermann(1857〜1951)女史らの活動です。中でも旅行家でジャーナリストだったAckermann女史の演説活動は日本人に響いたようです。
1890年(明治23年)の今日、「横浜一致教会」(現在の横浜海岸教会)で彼女は「禁酒」の勧めを演説しました。
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開港広場、開港資料館に隣接 |
最近、コンビニや居酒屋で未成年の飲酒禁止が厳格になったことをご存知ですか?
WHO勧告にようやく(日本にありがちな)重い腰を上げ始めた結果です。
日本は残念ながら未成年飲酒と児童ポルノに甘い国というレッテルが貼られています。
若干方法がせこい感じもしますが…。
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写真と内容は関係ありません |
禁酒運動と女性参政権といえば、ドラマ「ボードウォーク・エンパイヤ」に描かれた1920年代の禁酒法時代が有名ですが、アメリカでの禁酒運動は19世紀後半から始まります。女性の地位向上運動(禁酒と参政権)として多くの女性活動家が生まれました。ベースにはプロテスタントの布教活動がありますが、単に宗教の枠に収まる話しではありませんでした。その中に、基督教婦人矯風会( Woman’s Christian Temperance Union (WCTU) )のメンバーAckermann女史がいました。
舞台を幕末明治維新の横浜に移します。
1873年(明治6年)横浜の居留地で外国人船員に向けて禁酒会が開催されます。
江戸時代、酒造りが酒株によって新規参入と製造量の面から規制されていた日本ではあまり禁酒に関心がありませんでした。飲酒による社会問題が生じてきたのは、日本政府が酒造の免許化(だれでも酒が造れる)と酒税徴収(戦費調達)を安易に行った以降のことです。
急激に高度数のアルコール飲料が普及すれば、飲酒による社会問題が生じるのは当たり前のことで、外国人が宗教上の理由だけで禁酒が日本に広まることはありませんが、すでに巷では飲酒問題が起っていました。
この頃、Yokohama Bund(Bandではありません)と呼ばれた青年たちがいました。アメリカ・オランダ改革派から派遣された宣教師、J・H・バラが1872年に創立した横浜一致教会(今の横浜海岸教会)に集った青年たちです。
※下記参照 彼らの布教プログラムの一つに『禁酒』がありました。
このYokohama Bundの日本人メンバーの一人に奥野 昌綱という日本人牧師がいました。
彼が日本人による禁酒会を横浜で1875年(明治8年)に初めて開催しますが、盛り上がらずすぐに解散します。
前にも触れたように1871年(明治4年)に新規免許料十両と免許税五両、販売額の五分に相当する酒税を支払えば、誰でも自由に清酒が造れることになります。それまで一般庶民は自宅で簡単に造るいわゆる「どぶろく」が飲酒スタイルでした。度数も低くしかも保存がききません。それが、清酒の登場で、一年中高アルコール飲料を大量摂取できるようになります。
しかも年齢制限がありませんでしたから、未成年に悪影響を及ぼしたことは当然の結果です。外で働く男達の飲酒によるDVも表面化してきました。
Ackermann女史は「横浜一致教会」でこの点を強く問題視し「禁酒」を訴えたのです。
このとき、奥野 昌綱牧師67歳、会場の一角でこの講演に耳を傾けていたかどうかは定かではありませんが、次第に高まりつつあった日本の禁酒運動拡大の大きな力となります。
また宗教を越えて、仏教会でも多くの禁酒会が全国で組織されます。
その後、未成年の飲酒禁止法案は10年に渡って提出され1922年(大正11年)第44回帝国議会でようやく可決制定されます。この法案を巡っては議場封鎖や小競り合いの末、強行採決されたという経緯があります。
※横浜バンド
バンドとは築堤・埠頭を意味する “Bund” に由来します。「外灘」「外国人の河岸」を意味し上海では外国人租界を表しました。
1859年10月、アメリカ改革長老派教会のJ.C.ヘボン夫妻と1859年11月に米国オランダ改革派教会のS.R.ブラウンが神奈川湊に、同じくオランダ改革派の1861年11月にJ・H・バラが横浜湊に来日します。当時日本はキリスト教が禁止されていたために租界(居留地)以外での伝道ができませんでした。彼らはまず、日本語を習得し英語や医学の塾を開き、多くの日本人青年を教育しました。この中心メンバーのことを横浜バンドと呼びます。
※3月10日は横浜海岸教会の創立記念日
横浜一致教会とは宗派を越えた教会という意味で、明治期、日本という異郷の地で宣教師たちは宗派を超えた教会を目指しました。現在の日本キリスト教会・横浜海岸教会です。
創設は1868年5月、この場所に石造りの小会堂が建設されました。1872年3月10日、J.H.バラによって篠崎桂之助以下9名の受洗が行なわれました。同日、既に他所で受洗していた2名を加え、11名で日本基督公会を設立し、バラが仮牧師となり、小川義綏が長老、仁村守三が執事に就任しました。この日が横浜海岸教会の創立記念日となっています。(横浜海岸教会HPより)
※奥野 昌綱
「日本の牧師、横浜バンドの中心的メンバーの一人。文語訳聖書の翻訳や日本賛美歌のために大きな貢献をした。
1872年に奥野の女婿の友人小川義綏の誘いでヘボンの日本語教師になった。8ヶ月間ヘボンの助手として『和英語林集成』第二編の編集を手伝った。ヘボンが上海に出張すると、S.R.ブラウンを助けて、1872年に始まった文語訳聖書の翻訳に際して協力者になった。」
※明治時代は外国人女性も大活躍
イザベラ・バード
(Isabella Lucy Bird, 結婚後はIsabella Bird Bishop夫人, 1831〜1904)はイギリスの女性旅行家、紀行作家。明治11年5月横浜に上陸し、東北地方や北海道、関西などを旅行し、その旅行記”Unbeaten Tracks in Japan”(邦題『日本奥地紀行』『バード 日本紀行』)の中で「微笑みの国の物語」日本を描いた。
No.470 パーセプションギャップを読む
エリザ・ルハマ・シドモア
(Eliza Ruhamah Scidmore,1856〜1928)は、米国の地理学者、文学博士、ジャーナリスト、写真家。女性として初めてアメリカ国立地理学協会の理事で、東洋研究の第一人者。横浜から運ばれた、ポトマック河畔の植桜に尽力したことで知られる親日家である。
エリザ・ルハマ・シドモアが執筆したナショナルジオグラフィックマガジン』1896年9月号で明治三陸地震津波を報じた記事”The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan”が、英語文献において、Tsunamiという語が使われた最古の例とされている。
このテーマは、課題が重層していてうまく整理されていません。継続して追跡、咀嚼したいと考えています。
ご容赦ください。
No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る
あのペリー提督が、予定よりも早く再来港し開港を求めたとき、交渉場所が中々決まりませんでした。
ようやく、幕府は「横浜村」に決めます。ここがまさか<1859年の開港場>になるとは予想もしていませんでした。
交渉は約一ヶ月にわたり、延べ四回の交渉が行われます。
嘉永7年(1854年)のこの日、合意に至り日米和親条約が調印されました。
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たまくす広場 |
この交渉場所が、現在の開港資料館「たまくす」のある広場です。
隣接して「開港広場」が当時の様子を記念して整備されています。
この日米和親条約は、後に神奈川が開港場所に決まる「修好通商条約」(安政五カ国条約)に対して蔭が薄くなりがちですが、日米関係にとって重要な外交交渉コトハジメでした。
東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーは、(武力行使無しで)開国せよという本国指令はあったものの、二回目の交渉からかなり楽天的に考えていました。
錦絵などにも描かれているペリーからのプレゼント「電信機、模型の蒸気機関車、大砲」などを交渉中に将軍献上します。しかも調印前に幕府の交渉関係者を招いて「パーティ」も開催します。
この交渉、終始友好的に進められたことが分かります。
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ペリー上陸の図をラベルにした横浜ゆかりのワイン |
ペリーに対し、日本側全権は林復斎(大学頭)です。
日米の交渉は漢文で行われました。朱子学者、復斎は卓越した漢文力と国際情勢の広い知識を買われ、交渉をほとんど任されました。ペリーも林とのやりとりで、直ぐに彼への信頼を確かなものにしたようです。ペリー以前にロシアやオランダと通商交渉はしていましたが、基本的に幕府は開港を望んでいませんでした。ペリーの片思いでした。
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開港広場 |
アジアに列強が押し寄せていることを幕府は認識していましたが、戦争を伴わない交渉で2カ国条約を結んだことは日本外交史の画期的できごとであったといえるでしょう。
一般的に日米和親条約が米国側だけ最恵国待遇を得た「片務性」をもって不平等条約とみなす場合もありますが、日本側が最恵国待遇を辞退した可能性も否定できません。
この一連の重要な外交交渉は、日本側全権代表 林復斎(大学頭)の甥に引き継がれます。総領事タウンゼント・ハリスに絶大な信頼を得た「幕末三俊」の一人、日米修好通商条約に尽力した岩瀬忠震です。
そして、歴史の皮肉というか、岩瀬忠震を安政の大獄で失脚させた時の大老 井伊直弼が、大雪の降る桜田門外で暗殺された日が
安政7年(1860年3月23日)の3月3日でした。
この井伊直弼も、横浜と関係の深い人物です。
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井伊直弼ゆかりの彦根ひこにゃん |
※時々、桜田門外の変を万延元年とする記述がありますが、間違いです。3月18日万延元年に改元されました。
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英文日米和親条約 |
No.29 1月29日 福沢諭吉の横浜ワンデーマーチ
福沢諭吉は慶応義塾創立者で多くの言論活動を行った思想家ですが、ここでは家庭での福沢諭吉についてご紹介しましょう。
1888年(明治21年)の今日、 福沢諭吉(53歳)は、家族と約束していた横浜ワンデーマーチを、五人娘のうち三人と実行します。
福沢は筆まめでした。
確認されているだけでも2,600以上の書簡があります。
彼は日記を付けなかったので書簡が彼の日常を追う日々の記録になっています。
「今日は兼ねての約束にて、子供の内、おふさ、おしゅん、おたきと同道、徒歩にて神奈川まで東海道を通行して、夕景に可相成、そこで神奈川発の汽車に打ち乗り帰宅と、唯今支度最中なり。右要用のみ、早々不一。 一月二十九日朝八時 諭吉」
息子達に送った手紙の一部です。
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福沢諭吉書簡集第五巻 |
福沢諭吉には四男五女、9人の子供がいました。
福沢の特技は居合いの名手でした。趣味は、玄米を精米する「米つき」が健康のための日課で、自宅の改装、増築が好きな普請道楽でもあり、観劇、落語、相撲の観戦も大好きだったそうです。
家庭では、子供達を「さん」付けで呼び、自由放任主義の子煩悩だった様子も手紙で確認することができます。
横浜ワンデーマーチの実像にせまりましょう。
いっしょにでかけた娘三人。
次女 房(ふさ)は18歳、
三女 俊(しゅん)は15歳、
四女 滝(たき)は12歳でした。
長女の里(さと)はすでに結婚して家を離れていました。五女の光(みつ)は9歳でまだ徒歩旅行には幼かったのでしょう。
ワンデーマーチの内容ですが、出発地は福沢の自宅である港区三田(慶応義塾内に自宅がありました)から明治時代の「神奈川駅」あたりまでと想定します。
距離計算すると約24キロです。
歩き慣れていれば徒歩で時速4キロですが
12歳の足では3キロでも早いかもしれません。
約八時間くらいかかると計算しましょう。
食事の時間もあり9時間で少なくとも夕方(日没)までに「神奈川」に到着するには?
当時の横浜の日没時間を調べてみました。17時6分頃です。
福沢の手紙では八時に「唯今支度最中なり。」とありますので、手紙を書いていますからすぐに出発してちょうど夕方到着というところでしょう。
実際はなりゆきで
道中「鶴見」あたりで時間となり汽車に乗って帰宅するのが安全な選択でしょう。
東海道は箱根駅伝でも分かるように、保土ケ谷まではほぼ平坦ですので歩くのは無理がありません。晴れていれば少し小高い場所から富士山を眺め、鶴見近辺では東京湾を見ながら生麦事件や黒船の話しでもしながら歩いたのかもしれません。
※(当時の鉄道)明治21年当時は横浜(桜木町)と田町間を汽車が走っていました。
その間には東京から「品川」「大森」「川崎」「鶴見」「神奈川」駅がありました。昔の「神奈川」駅は現在の京浜急行神奈川駅ではなく現在の横浜駅そばにある台町近辺です。
同じ「神奈川駅」あたりのエピソードとしては
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン
福沢は大変子煩悩で家族を大切にしました。
忙しい中でも時間を作り家族旅行、自宅でのパーティを楽しんでいます。
この膨大な書簡集からは 新しい福沢像を見出すことができます。
No.23 1月23日 大正の正義
国会は誰のためにあるのか?
大正に入り議会政治は徐々に成熟しつつあった。
神奈川一区(横浜)選出の島田三郎は、大正3年(1914年)のこの日
開かれた第31議会衆議院予算委員会で、一通のドイツ発外電電文を元に海軍をめぐる贈収賄事件を厳しく追及した。歴史に残る政財界を巻き込んだ一大疑獄事件シーメンス事件が国民の前に晒された瞬間である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/シーメンス事件
シーメンス事件(シーメンス・ヴィッカース事件)とは、海軍出身の山本権兵衛ひきいる内閣を倒壊させた海軍の装備購入に関する贈収賄事件である。
事件の発端は、ドイツ有数の重工業会社であるシーメンス社東京支店社員カール・リヒテルが自社の機密文書を持ち出し、東京支店長を脅迫したことにはじまる。
同支店長は脅迫を拒否、リヒテルはこの機密文書をロイター通信特派員アンドルー・プーレーに売却しドイツへ帰国。リヒテルはその後恐喝未遂罪で逮捕され裁判が始まる。
その公判審理中、彼の持ち出した文書の中に日本の海軍将校にシーメンス社が贈賄していた記録文書が含まれることが外電によりあきらかになった。事態は俄然、海軍の腐敗問題に発展すると同時に、海軍を母胎とする山本内閣の責任問題に発展したのである。
これに関しては書籍およびネットにも詳しいので詳細はそちらに譲る。
島田三郎肖像
私が注目したシーメンス事件を巡るポイントを幾つか。
■この国会に山本内閣は、海軍拡張案とその財源として営業税・織物消費税・通行税の増税の予算案を提出していた重要な時期であった。(予算案は不成立になり内閣総辞職)
■この事件の背景には維新以来の陸海軍を分つ藩閥政争があった。長州閥は陸軍、薩摩閥は海軍に影響力が大きく 陸海軍の軋轢は昭和にまでひきずることになる。
■前年の大正2年には30年続いた藩閥政治への批判が高まり大正政変で第3次桂内閣(桂は長州派閥陸軍大将)が倒れた。(山本権兵衛は薩摩派海軍大将)
■疑獄捜査の途中、汚職事件はさらに広がりイギリスのヴィッカース日本代理店である三井物産の贈賄まで明らかになるが中途半端な結末となる。
1914年6月に第一次世界大戦の勃発もあって海軍の責任は3名の軍人を有罪にとどまり三井物産は社長職引責辞任ただけでこの事件は終結。軍産癒着構造にはメスを入れられないまま終結する。
しかし、ジャーナリスト出身の島田三郎の果たした大正の正義は、国民が民主主義を実感するキッカケとなる。時代は大正デモクラシーのうねりの中にある。
(余談)
この事件を契機に破天荒な海軍省改革を行った八代六郎という変わり者がいた。
彼は、次の海軍大臣として大改革をする。
軍を藩閥から切り離し(海)軍による権限拡張を抑止し、政府の方針と綿密に連携するコントロールできる軍隊への一大改革を行った人物である。
秋山真之、広瀬武夫の海軍兵学校時代の恩師であったといえば、思い出す人も多いだろう。八代六郎海軍大将、愛知県犬山市出身で水戸藩浪士・八代逸平の養子となり海軍兵学校に入学。「坂の上の雲」では片岡鶴太郎が演じた役どころである。
明治28年(1895年)から31年までの3年間、ロシア公使館附武官を勤め、対ロシアの諜報活動に勤めた時代の後輩に広瀬武夫がいる。
明治44年(1911年)海軍大学校長に就任し、教官として着任した軍令部第1班長・秋山真之が着任する。
八代六郎、大正2年当時楽隠居コースと言われた舞鶴鎮守府司令長官に就任し、事実上の引退となる予定だったが、大きく人生が変わる。
このシーメンス事件で海軍は大混乱に陥っていた。
混乱収拾のため、海軍大臣の指名を受けた八代は海軍大学校の部下であった秋山真之を海軍次官に推薦するが慣例無視で強く拒絶された。そこで秋山を軍務局長に任命し、腹心としてそばに置くことに成功し、大改革に踏み切ることになる。
(関連ブログ)
No.290 10月16日(火)文士の大家さんは法律家
※島田三郎(しまだ さぶろう、1852年12月17日(嘉永5年11月7日) -大正12年 1923年11月14日)は、日本の政治家、ジャーナリスト、官僚。幼名は鐘三郎、号は沼南。帝国議会開設後は、神奈川県第一区(横浜市)選出の衆議院議員として連続14回当選し、副議長、議長を務めた。『横浜毎日新聞』主筆(出展:Wikipedia)
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
1953年(昭和28年)のこの日、
東急電鉄会長、五島慶太は大山街道沿いの地主58名を招き「城西南地区開発趣意書」を自ら発表した。
五島慶太(1882年(明治15年)〜1959年(昭和34年))が語った「城西南地区開発趣意書」は今読んでも新鮮な中々の名文である。
トップセールス、プレゼンテーションドキュメントとしてもかなり質が高いものとして評価されている。
この説明会後、
五島は神奈川県北東部を中心とした地域の多摩田園都市開発に次々と着手する。
まず簡単に「強盗慶太」こと五島慶太について紹介しておく。
「西の小林・東の五島」と呼ばれた五島慶太、
西の小林とは「阪急の小林一三」のことである。
西の小林とは対照的な経営手法で、次々と東急をまとめあげ最終的に東京急行電鉄を最大手の私鉄企業に育て上げた。
強引な手口から「強盗慶太」の異名をとったが、鉄道事業の経営手腕は歴史に残る評価を得ている。
東京帝国大学時代、大正期に活躍した外交官で横浜とも関係が深い政治家、加藤高明の息子の家庭教師をしていた時期もある。
大学卒業儀、鉄道官僚となった五島は平凡な仕事に我慢できず、
役所を辞め「武蔵電鉄」の常務となる。
転機のキッカケは西の小林からもたらされた。
当時、実業家の渋沢栄一らによって設立された「田園都市株式会社」が経営不振に陥り、再建を阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)総帥の小林一三に依頼された。
ところが小林が多忙のため代わりに五島が推薦されたことが大東急の出発点となる。
東京府荏原郡の田園調布や洗足等に分譲用として45万坪の土地を購入していた田園都市株式会社は「荏原電気鉄道」を設立していたが、事業が頓挫した。
五島はその荏原電気鉄道に目をつけた。元鉄道官僚の慧眼だった。
目黒蒲田電鉄と変更し事業を開始するが関東大震災が起る。
震災後も決してあきらめず
1924年(大正13年)に全線開通させた結果、関東大震災で被災した人々が沿線に移住し始めたため一気に沿線が郊外化したのである。
この勢いを受け目黒蒲田電鉄の経営が好転することになる。
ここで得た利益を勤め先であった「武蔵電鉄」の株式に投入、過半数を買収し実質の経営者になる。
この時点で、名前を「武蔵電鉄」から「東京横浜電鉄」と変え、
渋谷〜桜木町間を開通させる。東急の背骨「東横線」の登場である。
昭和恐慌(1930年(昭和5年)〜翌1931年(昭和6 年))のため
業績は悪化するが、五島は誘致計画を立案し長期的な視点で経営を行った。
例えば、東横沿線に学校を誘致し「学園都市」としての付加価値をつける戦略である。
大学を中心に、多くの学校を沿線に誘致するという当時大胆な計画が功を奏する。
●東京工業大学を蔵前から目蒲電鉄沿線の大岡山に誘致。
●日本医科大学に武蔵小杉駅近くの土地を無償で提供し誘致。
●東京府立高等学校を八雲に誘致。
●慶應義塾大学に日吉台の土地を無償提供し誘致。
●東京府青山師範学校を世田谷・下馬に誘致。
自らも東横商業女学校を設立、
武蔵高等工科学校(現東京都市大学)、
東横学園女子短期大学(現東京都市大学へ統合)を創設する。
さらに五島は、駅に百貨店等の商業機能を直結させる。(渋谷駅開発)
しかし五島は成功ばかりではない。
数多くの失敗も重ねている。
当時の財閥「三井・三菱」を相手に闘いを挑んだが大敗北する。
長年の夢だった“伊豆の開発”も決して成功したとは言えない。
※西武とも東西戦争も有名だ。
特に
この「城西南地区開発」構想した時代の10年、決して上手く事業が進んだとは言えない。
しかし、後継者によって実を結んだ「五島慶太の夢」が城西南地区開発構想である。
五島慶太の基本プランはかなり大風呂敷だが、
田園都市構想を現実にした偉大な都市プランナーである。
■城西南地区開発構想での開発予定地域(1953年当時の地名)
地区名:対象地区
宮前:川崎市字馬絹・字梶ヶ谷・字野川・字有馬・字土橋・字宮崎(旧宮前村)
中川:横浜市港北区中川町・南山田町・北山田町・牛久保町(旧中川村)
山内:横浜市港北区元石川町・荏田町(旧山内村)
中里:横浜市港北区寺家町・鉄町・鴨志田町・成合町・上谷本町・下谷本町・西八朔町・北八朔町・市ヶ尾町・黒須田町・大場町・小山町・青砥町(旧中里村)
田奈:横浜市港北区恩田町・奈良町・長津田町(旧田奈村)
新治:横浜市港北区十日市場町・新治町・三保町(旧新治村)
都田:横浜市港北区川和町(旧都田村)
「城西南地区開発」は、まずこれらの地域内に核となる街区を建設する事から始め、これらの北部地域を貫通する交通機関(高速道路または鉄道)と、渋谷から開発対象地域の東部を貫通して、小机、横浜駅西方を経由し湘南方面を連絡する高速道路を建設して、一気に新都市を建設するという大構想(ターンパイク(有料道路)プラン)※であった。
現在の「田園都市線沿線の開発」「港北ニュータウン構想」の出発点がここにある。
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
※ターンパイク(有料道路)プラン
渋谷〜江ノ島間の一般自動車道「東急ターンパイク」(昭和29年免許申請)
小田原〜箱根間の一般自動車道「箱根ターンパイク」(昭和30年免許申請)
藤沢〜小田原間の一般自動車道「湘南ターンパイク」(昭和32年免許申請)
と次々と有料道計画を立てるが
ことごとく「建設省プラン」と競合する。
箱根のみ実現する。「箱根ターンパイク」は日本初のネーミングライツ道路「TOYO TIRES ターンパイク」となっている。(現在は営業譲渡)
No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前半)
新年あけましておめでとうございます。
今年一つの目標を立てました。
「暦で綴る今日の横浜」です。暦から一日一日の出来事を拾い出し横浜について綴っていきます。 日によってはその日に直接結びつけることができない事もあるかもしれませんが、それでも何か書いていきます。
今から30年前、本で綴る今日の暦の原稿を書き続けた経験があります。大変な一年でしたがこの努力が私の大切な転機となりました。「暦で綴る今日の横浜」は横浜を軸にしたため、かなり苦戦しそうですが自分自身のため楽しく苦戦します。 正月元旦なので 特別版を書きます。(2012年6月27日書換版)
(エピローグ?)
1999年(平成11年)正月元旦(金)。
一つの歴史が終わり、一つの偉大な記録が残りました。
横浜のスポーツにとって奇跡の一年、1998年でした。
横浜以外にお住まいの方でも、おそらく日本史上最初で最後の偉大な記録を一つは記憶されているでしょう。
こんなに一つの街がスポーツに輝いた年はかつてありませんでした。
1998年は二度と無いかもしれない!「横浜スポーツイヤー」でした。
1999年(平成11年)正月元旦、横浜奇跡の1998年を締めくくるフィナーレに相応しい戦いでした。舞台は国立競技場。新年の明け方、気温は0度近くまで冷え込み雲一つない快晴でした。
この日、第78回全日本サッカー選手権大会が開催され横浜フリューゲルスが頂点に立ち天皇杯に輝きました。
対戦相手は清水エスパルス、逆転の末の優勝でした。この天皇杯は、日本サッカー界の年間チャンピオンを決める記念すべき、お正月恒例の試合です。
天皇杯はトーナメント方式ですので負けた時点で姿を消します。横浜フリューゲルスにとって、負けた時点でチーム消滅となるデッドラインの戦いでした。
事前の予測を全く裏切り、フリューゲルスは1月1日の決勝まで苦しみながらも一つ一つ勝ち上がり、みごと優勝に輝きました。このドラマのような横浜フリューゲルス物語は詳しいネット情報に譲ることにします。
(プロローグは十人抜き)
1998年奇跡の横浜イヤー
プロローグは、正月開け
1月・2日の第74回東京箱根間往復大学駅伝競走の神奈川大学(神大)から始まりました。
鶴見中継所で11位だった神大は、戸塚で8位、藤沢で7位、平塚で6位と静かに粘り強く順位をあげていきました。この時点でも往路はトップ早稲田と二位駒大の争いだろうと多くの関係者は予測していました。
湘南海岸を各チームが走り抜ける中、さらに神大はじりじりと順位を上げていきます。二宮で5位に着け小田原市内に入ると中央大学と3位を争うトップが視野に入る位置までになっていました。
そして往路ファイナル第5区で一気にトップに立ち往路優勝を遂げることになります。2位とわずか13秒差で駒澤大学が入り箱根駅伝始まって以来の僅差となるゴールシーンとなりました。
翌日1月3日復路は神大王者の走りでした。
前日の結果をふまえ駒大と僅差のスタートでしたが、一度も順位を譲ることなく往路復路優勝という完全優勝を遂げました。この神奈川大駅伝チームを率いていたのが大後栄治(だいご えいじ)監督で、前年の総合優勝に続き二連覇達成でした。日本体育大学出身で、89年に陸上競技部コーチに就任、現在も指揮をとっています。
http://professor.kanagawa-u.ac.jp/hs/human/prof09.html
(第二幕は豪快に)
横浜の快進撃は第二幕が訪れます。
同じ二連覇を遂げたのが神大の大後栄治監督の先輩となる、春口廣監督率いる関東学院大学ラグビー部です。
首都圏がこの年二度目の大雪となり、都心では16センチの積雪となった
1月15日(木)成人の日。
国立霞ヶ丘競技場で開催された大学ラグビー選手権大会決勝で、関東学院は47ー28で明治大学を圧倒し優勝を決めました。この知らせは、ファンは勿論、大学関係者、市のスポーツ関係者を歓喜に包みましたがまさか 横浜の大進撃がさらに続くとは誰も予測(夢にも想像)していませんでした。
(第三幕はいけるかも?)
朗報はさらに続きます。
第70回選抜高等学校野球大会、春の甲子園大会で投手松坂大輔を擁する横浜高校が優勝します。確かに松坂大輔の評価は前年の関東大会から野球界で注目されていましたが、春の甲子園にはハプニングもつきもの、何が起るか予測できない状況でした。
しかし予想通りの決勝は4月8日(水)3対0で関大一校を破り第70回というきりの良い優勝となりました。横浜高校は25年ぶり2回目の優勝でした。さらに常勝チーム横浜は、第80回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)でも春と同様に京都成章校を3−0で破り参加校数4,102校の頂点に立ちました。
この夏の大会で横浜高校が勝ち進む頃、プロ野球ファンはリーグ戦の動向が気になって仕方ありませんでした。あの阪神と最下位争いの常連横浜ベイスターズが開幕以来かなり、かなり善戦していたからです。
300話にしてようやく後半を書くことができました。