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No.25 1月25日 馬車道の華

「横浜の酒場に 戻ったその日からあなたがさがして くれるの待つわ昔の名前で 出ています」 (「昔の名前で出ています」作詞星野哲郎、作曲叶弦大、編曲斉藤恒夫) 小林旭のヒット曲です。
資料を探していると、地名や施設名が時を経て変わることが往々にしてあります。
名称の変化は時代を特定するヒントになりますが、逆に事実が見えにくくなることもあります。 でもこれが歴史を調べる時の愉しみのひとつです。
1970年(昭和45年)のこの日、中区馬車道にある「横浜宝塚劇場」が改装オープンし「市民ホール」となりました。その後
1986年(昭和61年)に老朽化などを理由に新しく建て替えられたのが現在の「関内ホール」です。 「横浜宝塚劇場」から「市民ホール」へ。そして現在「関内ホール」として馬車道の華となっています。

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個人的には常々「馬車道ホール」という名が良いなと思っています。 正式名称は「横浜市市民文化会館」といいます。指定管理者でテレビ神奈川が管理していますから「馬車道TVKホール」ってネーミングライツしたらどうでしょう?(そんな話しは出ていません。)

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馬車道界隈は開港のころ、文字通り「馬車」が走り抜け大きな金融機関、様々な商店が立ち並ぶ最先端のガス灯が明るいモダンな通りでした。
横浜開港場には外国船が停泊するイギリス波止場とは別に、国内をつなぐ船が数多く利用する日本波止場がありました。馬車道はこの日本波止場と居留地を支えた関外エリアをつなぐ吉田橋を一直線に結ぶ開港場のメインストリートでした。
戦後その界隈性を残すため、いち早く通りをモール化した都市デザインの先駆的商店街でもあります。現在も万国橋からイセザキまで、ブラリ歩きには最高の道です。

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昔から 賑わいには劇場がつきものです。
1935年(昭和10年)4月1日、横浜宝塚劇場(通称ヨコホウ)が住吉町4-42に開館しました。1スクリーン、1,305席(別資料では1,440名)を擁する大劇場・映画館でした。
「関内馬車道に出現した待望の東宝直営横浜宝塚劇場はいよ々々明後四月一日咲く桜に魁て華やかに蓋を明ける。昨年十月廿八日着工して以来、完成開場まで僅五ヶ月といふスピード建築の恐らく記録をつくつた清水組設計に成るこの横宝劇場は鉄筋鉄骨コンクリートの三階建で建坪四百十坪、延坪八百三十坪収容人員は千四百四十名このうち階下が九十一名定員となつてゐる(後略)」(『横浜貿易新報』1935年(昭和10年)3月30日付)
劇場前にあったうなぎの老舗「わかな」が人気の店だったとあります。 現在はすこし場所が移動しています。
劇場には食も欠かせませんね。

戦争を挟んで人気劇場でした横浜宝塚劇場は、
1960年(昭和45年)横浜市に譲渡され改装「市民ホール」としてオープンします。
その後、
1986年(昭和61年)宝塚劇場時代から約50年経たこともあり老朽化などを理由に建て替えが行われます。 これが現在の「関内ホール」です。
関内ホールと言えば、正面玄関と楽屋口の赤いオブジェでしょう。
この赤いオブジェは第13回 高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した世界的彫刻家マルタ・パン(Marta Pan)の作品、「平和1」「平和2」です。(時には近づいてみましょう)
座席数は1,102席。主に落語などの寄席、ミュージカル、演劇、講演会等に利用されています。
志の輔の横浜拠点、関内寄席 『立川志の輔 独演会』はもう何回目になるでしょうか。 ホール玄関前広場の「馬車道ショートパフォーマンスライブ」も大きく育って欲しいと思います。ヨコハマ映画祭も1987年以降関内ホールで開催されています。

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■今また、このホールを軸に馬車道の賑わいが欲しいものです。
※番外編
もう一つの馬車道映画館。
戦後横浜で映画と言えば、馬車道の横浜東宝会館でした。東宝会館は1956年(昭和31年)3月27日に開館しイセブラと映画鑑賞が当時の定番デートコースとなりました。残念ながらシネコン時代の到来とともに2001年(平成13年)11月29日に閉館し、現在はビジネスホテル「リッチモンドホテル(オープン当時はロイネットホテル)横浜馬車道」が建っています。

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(ホテル外観)
 
冒頭の歌詞に関して
引用としての利用(著作権法第32条)許諾を得ずに複製、口述などによる引用ができる条件に入っている?引用も文化論として議論すべきテーマかな。
①公正な慣行に合致する引用であること
(自分の著作物と他人の著作物との間に妥当な主従の関係があること)
(引用する部分が明確に区分されること)
②引用の目的上正当な範囲内で行われること(引用の必然性があること)
③公表された著作物の利用であること
許諾を得ずに引用できる場合であっても、原則として出所を明示しなければならない

No.24 1月24日 西へ新たなフロンティアへ

米国は
南北戦争(The Civil War, 1861年〜1865年)で中断した
50年代の「フロンティアプラン」を再燃させます。
西へ、西海岸の先に広がる太平洋をさらに西へ。
合衆国政府支援を受けた
Pacific Mail SteamShip Co.太平洋郵船(以下PMSと略)船籍のColorado号は、
金門(ゴールデンゲイト)を1867年(慶応2年)1月1日に出発し
進路を西北西にとり
1867年(慶応2年12月19日)のこの日1月24日横浜港に入港しました。
日米間(サンフランシスコー香港間の中継地として)初の定期航路運行が始まります。
この定期航路は単に日米関係だけではなく「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」日本の未来を左右する「情報革命」「物流革命」の幕開きでした。

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(PMSのドックで二隻のうちどちらかがコロラド号)

(アジアの拠点戦略)
横浜(日本)は、米国の西方市場(東アジア)への重要中継点でした。
太平洋の定期航路開設は米国の宿願でした。
大西洋航路は英国に奪われ、インドを含めたアジア市場はスエズ運河開通でさらに英国勢力下にありました。二度の独立戦争であまり英米関係もあまり思わしくない状況でした。

しかし、国内のエネルギーは国外へ向きます。
1850年代に狂喜乱舞するゴールドラッシュの時代がこの国を変質させます。
米国が次に拡大する市場を、宿敵英国及び欧州列強が牛耳る「中国大陸」に標準を合わせたことに始まります。スタートはアジア太平洋の“捕鯨”から始まります。
ハワイに拠点を築き、環太平洋へ
この戦略は2013年の現在も続いています。

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(英国に遠く)
米国はゴールドラッシュ以前は全く無関心だった太平洋です。
16世紀から17世紀の太平洋はスペイン商船が闊歩するSpanish Lakeと呼ばれていました。
もともと
サンフランシスコも1776年にスペインが上陸し作った街でした。
※聖フランシスコですから
米国が東部から西部開拓をほぼ終え、その先に広がる太平洋に次ぎなるターゲットを模索したことはごく自然なことでした。
しかも二度の独立戦争を経て、英国との経済的独立を迫られていました。
太平洋郵船PMSは
もともとゴールドラッシュに沸く西海岸と東海岸をパナマ経由で結ぶために1848年に創業された海運会社でした。
といっても、この頃パナマ運河はまだ無く陸路を使って西と東を結ぶルート(パナマ鉄道)でした。PMSはその西側を担います。

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(何故海路?)
アメリカ大陸は1840年頃まで
ミシシッピー川を挟んで東を(東部)と呼び経済の中心部でした。
西部はまさに西部劇で言うテキサス、南西部のことで
西海岸はゴールドラッシュ前は未開拓地でした。
西海岸への道は、ロッキーとシエラネバダが大自然の壁となり、また先住民との領土争いというリスクも持ち合わせていました。
当時、大陸間横断は(武器を片手に)幌馬車隊で数ヶ月かかります。
ジョンウェインの世界、ララミー牧場、ローハイドの舞台です
ところが西海岸からパナマを経由するルートは、
途中陸路はありますが“船を乗り換え”数週間で結ばれていました。
当然海運会社も乱立・競合状態が生まれます。
(鉄道が馬車を駆逐)
1869年5月10日に大陸横断鉄道がオマハからサクラメントまでの 2,826 km(1,756マイル)を一週間で結ぶことで一気に海運会社は淘汰されます。
PMSは、いち早く西海岸の近海航路から“太平洋”という未知の航路開拓というチャレンジに出ます。
合衆国政府による太平洋航路航路運営会社公募に参加したのは唯一Pacific Mail SteamShip Co.(PMS)でした。
この太平洋航路開通に政府援助はありましたが条件も厳しく誰もチャレンジしようとは考えませんでした。
「月一回以上の定期運行と外洋航海に十分絶えられるファーストクラスの蒸気船で3,000tクラスを用意すること」
航路はホノルルと日本を経由し中国まで結ぶことでした。
(物流革命)
太平洋航路が定期化することで欧州からアジア大陸に向かいたい場合、
いくらスエズ運河が便利でもインド経由は時間がかかり過ぎることになります。

最新の大西洋航路の蒸気船に乗りアメリカ東海岸経由、大陸横断鉄道でサンフランシスコまで出るルートが資本の移動に革命をもたらします。
1876年には大陸横断超特急が開通し、ニューヨークを出発してからサンフランシスコに到着するまで83時間39分の記録を作ります。
そして、サンフランシスコから約一ヶ月程度で横浜
そして香港まで到達できるようになったのです。
まさに西ルートのロジスティック・ハイウェイが完成したことになります。
(Spanish LakeからAmerican Lakeに)
サンフランシスコを出発した第一号のColorado号は
最新鋭排水量3,728トンの商船でした。
米国にとって620 tという吹き飛ぶような船で太平洋を横断してきた
咸臨丸ショック”は大きかったのです。

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2
PMS社の西海岸用の蒸気船は通常1,000から2,000t程度だったことも含め比較するとColorado号の大きさがわかるでしょう。

その後米国PMS社
City of Tokyo 号、
City of Beijingを皮切りに4,000t級を続々投入します。
この定期航路を使って多くの「お雇い外国人」が来日します。
また多くの日本人が欧米を目指しました。
もし日本に来る太平洋ルートが確立していなかったら
生命の危険を犯してまで未知の国日本に3,000人近いテクノラートは訪日したでしょうか。

そして 彼ら無くして日本の“欧米化”文明開化、殖産興業は進みません。そして欧米化に必要な外貨を稼いだ“限りある原資”は、
この航路によって大量に買い付けられたシルク、そしてお茶であることは意外と知られていません。
(ある沈黙)
明治期に入り、日本から米国の姿が消えます。影響力はイギリス・ドイツが全面に出てきます。
この時期、米国は静かに国力を計りながら機を熟すのを待つことになります。

黒船以降約55年、
太平洋航路開通後40年の
1908年10月、16隻の軍艦に14,000人の軍隊を乗せたGreat White Fleet(白い艦隊)は横浜に入港します。
日露戦争に勝ったばかりの日本に対し最初の軍事的プレゼンスを行います。
日本は、友好色を前面に打ち出し、米国の狙いを躱したとされていますが?
果たしてそうだったのでしょうか。

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【余談】
この太平洋定期航路にはもう一つのミッションがありました。
中国大陸から大量の労働者をアメリカ大陸に送り込む苦力(クーリー)船の役割も担っていました。
南北戦争後奴隷解放宣言をした米国は黒人に頼っていた低賃金労働力が不足します。
その補充にアヘン戦争と太平天国の乱等で疲弊する中国から
1860年代には64,000人、
70年代には123,000人、
80年代には61,000人が移民(苦力)として移送されています。

No.23 1月23日 大正の正義

国会は誰のためにあるのか?
大正に入り議会政治は徐々に成熟しつつあった。
神奈川一区(横浜)選出の島田三郎は、大正3年(1914年)のこの日
開かれた第31議会衆議院予算委員会で、一通のドイツ発外電電文を元に海軍をめぐる贈収賄事件を厳しく追及した。歴史に残る政財界を巻き込んだ一大疑獄事件シーメンス事件が国民の前に晒された瞬間である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/シーメンス事件
シーメンス事件(シーメンス・ヴィッカース事件)とは、海軍出身の山本権兵衛ひきいる内閣を倒壊させた海軍の装備購入に関する贈収賄事件である。

事件の発端は、ドイツ有数の重工業会社であるシーメンス社東京支店社員カール・リヒテルが自社の機密文書を持ち出し、東京支店長を脅迫したことにはじまる。
同支店長は脅迫を拒否、リヒテルはこの機密文書をロイター通信特派員アンドルー・プーレーに売却しドイツへ帰国。リヒテルはその後恐喝未遂罪で逮捕され裁判が始まる。
その公判審理中、彼の持ち出した文書の中に日本の海軍将校にシーメンス社が贈賄していた記録文書が含まれることが外電によりあきらかになった。事態は俄然、海軍の腐敗問題に発展すると同時に、海軍を母胎とする山本内閣の責任問題に発展したのである。

これに関しては書籍およびネットにも詳しいので詳細はそちらに譲る。
島田三郎肖像
私が注目したシーメンス事件を巡るポイントを幾つか。
■この国会に山本内閣は、海軍拡張案とその財源として営業税・織物消費税・通行税の増税の予算案を提出していた重要な時期であった。(予算案は不成立になり内閣総辞職)
■この事件の背景には維新以来の陸海軍を分つ藩閥政争があった。長州閥は陸軍、薩摩閥は海軍に影響力が大きく 陸海軍の軋轢は昭和にまでひきずることになる。
■前年の大正2年には30年続いた藩閥政治への批判が高まり大正政変で第3次桂内閣(桂は長州派閥陸軍大将)が倒れた。(山本権兵衛は薩摩派海軍大将)
■疑獄捜査の途中、汚職事件はさらに広がりイギリスのヴィッカース日本代理店である三井物産の贈賄まで明らかになるが中途半端な結末となる。
1914年6月に第一次世界大戦の勃発もあって海軍の責任は3名の軍人を有罪にとどまり三井物産は社長職引責辞任ただけでこの事件は終結。軍産癒着構造にはメスを入れられないまま終結する。
しかし、ジャーナリスト出身の島田三郎の果たした大正の正義は、国民が民主主義を実感するキッカケとなる。時代は大正デモクラシーのうねりの中にある。

(余談)
この事件を契機に破天荒な海軍省改革を行った八代六郎という変わり者がいた。
彼は、次の海軍大臣として大改革をする。
軍を藩閥から切り離し(海)軍による権限拡張を抑止し、政府の方針と綿密に連携するコントロールできる軍隊への一大改革を行った人物である。
秋山真之、広瀬武夫の海軍兵学校時代の恩師であったといえば、思い出す人も多いだろう。八代六郎海軍大将、愛知県犬山市出身で水戸藩浪士・八代逸平の養子となり海軍兵学校に入学。「坂の上の雲」では片岡鶴太郎が演じた役どころである。
明治28年(1895年)から31年までの3年間、ロシア公使館附武官を勤め、対ロシアの諜報活動に勤めた時代の後輩に広瀬武夫がいる。
明治44年(1911年)海軍大学校長に就任し、教官として着任した軍令部第1班長・秋山真之が着任する。
八代六郎、大正2年当時楽隠居コースと言われた舞鶴鎮守府司令長官に就任し、事実上の引退となる予定だったが、大きく人生が変わる。
このシーメンス事件で海軍は大混乱に陥っていた。
混乱収拾のため、海軍大臣の指名を受けた八代は海軍大学校の部下であった秋山真之を海軍次官に推薦するが慣例無視で強く拒絶された。そこで秋山を軍務局長に任命し、腹心としてそばに置くことに成功し、大改革に踏み切ることになる。

(関連ブログ)
No.290 10月16日(火)文士の大家さんは法律家

※島田三郎(しまだ さぶろう、1852年12月17日(嘉永5年11月7日) -大正12年 1923年11月14日)は、日本の政治家、ジャーナリスト、官僚。幼名は鐘三郎、号は沼南。帝国議会開設後は、神奈川県第一区(横浜市)選出の衆議院議員として連続14回当選し、副議長、議長を務めた。『横浜毎日新聞』主筆(出展:Wikipedia)

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)

2011年、仕事の合間に「横浜とお茶」をテーマに調べている時、大谷嘉兵衛という人物に出会いました。日本のお茶産業の振興に情熱を捧げた彼は、横浜村の鎮守のために「伊勢山皇大神宮」を野毛山に遷座し初代氏子総代の一人となります。
1931年(昭和6年)1月22日の今日、伊勢山皇大神宮境内の一角で大谷嘉兵衛翁銅像の除幕式が行われました。

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「横浜とお茶」にまつわるエピソードはたくさんあります。
これから折をみて紹介していくことになるでしょう。
今日は伊勢山皇大神宮と大谷嘉兵衛について簡単に触れておきます。
1931年(昭和6年)1月22日大谷嘉兵衛翁銅像の除幕式挙行」
ならば
大谷嘉兵衛の像または碑が伊勢山皇大神宮にあるはずだ
ということで神社内を歩いてみましたがそれらしき像が見当たらない。
現在もネット検索上では、大谷嘉兵衛の碑が伊勢山皇大神宮境内にあるというテキストが幾つか掲載されています。本当のところを確認するために社務所で事実関係を聞いてみると「ありません」というそっけない答えでした。

ネットで出てきたデータは間違いか?
さらに資料を探すと、
浜田猶三氏の手紙の紹介があり
『(前文略…当横浜市にも郷土出身吾々の大先輩 故 大谷嘉兵衛翁が市民から忘れ去られて行く事は遺憾の極みであります。翁は当横浜の草分けの一人であり、戦前までは野毛の伊勢山大神宮の庭前に銅像が建立されていましたが、戦争のなかばに鋼鉄の不足で回収せられ長らく台石のみが残って居りました。所が昭和二十年頃 前市長半井清氏の奔走で高さ五メータ位の顕彰燈籠が建てられましたが、神宮所では神前結婚式を行う為め今では自動車の駐車場同然で誠に嘆かわしき次第です。…以下略)』
という内容がでてきた。
再度伊勢山を確認することにしました。
そういえば以前伊勢山皇大神宮が“破産”する原因となったホテル海洋亭建設の際、表参道の駐車場を大きく改装したことを覚えています。
その時に外されたか、除去されたか。
その可能性が高い。しかし 事実は薮の中です。

銅像になった大谷嘉兵衛は、現在の三重県松阪市に生まれました。1862年(文久2年)17歳の時に横浜に出て、故郷の隣村出身小倉籐兵衛が経営する横浜北仲通り「伊勢屋」に奉公します。
関西屈指のお茶の生産地だった伊勢の製茶貿易に就きます。
彼に大きな転機が訪れます。お茶関係の貿易経験を活かして「スミス・ベーカー商会」の製茶買入方として働き始めます。
ここで彼の才能が開化します。ビジネス感覚と国際感覚を身につけ日本を代表する実業家の実力を磨きます。
彼のエピソードを一つ紹介しておきましょう。
幕末好調だったお茶の対米輸出も、大変浮き沈みの激しい業界でした。特に最大の輸出先だったアメリカが戦費調達のために“お得意の”高い関税を決め、日本国内お茶産業が大打撃を受けます。
この状況に対し、大谷は積極的行動に出ます。
アメリカに対しコーヒーは無税、茶に重税とは不合理と主張し、当時のマッキンレー大統領にも直談判します。その後、茶関税は廃止され輸出はふたたび伸びたため瀕死のお茶業界が復活したそうです。気骨ある明治人の一人でした。
その後
横浜市会議員、神奈川県会議員に推挙され、議会では議長を務めるなど、政治家としても活躍した大谷嘉兵衛は、晩年亡くなるまでお茶業界振興に尽くしました。
1931年(昭和6年)1月22日のこの日、翁銅像の式典が行われてから二年後の1933年(昭和8年)2月3日90歳でその生涯を終えました。
処世訓は
「修養は怠るなかれ」
「信用は人生の花」
「人は平等、金は共通」
「用心は処世の要道」

No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)

岸田 吟香(きしだ ぎんこう)という人物を知っていますか?
開港、そして「はじめて物語」では欠かせない横浜ゆかりの人物です。
1880年(明治13年)のこの日、
岸田 吟香は日中間の薬事業拡大のため横浜港から東京丸で中国上海に向かいます。
その後1890年代まで、毎年のように上海に出向き、
日中間の薬事ビジネスを成功させた異色の実業家です。
単に横浜港から出発した有名人をテーマにすることは避けたいと思っていましたが
この日の渡航が彼にとって重要な旅立ちだったので
岸田 吟香の「この日」を紹介します。

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(三省堂「画報日本近代の歴史5」より)

幕末明治期には破天荒な人物が多く輩出しています。
ギンコウも代表的な豪傑の一人と言えるでしょう。
岸田 吟香は1833年(天保4年)美作国久米北条郡垪和村に生まれ、
19歳で江戸に出ますが病気で郷里に戻ることになります。
故郷で英気を養い、再度23歳で大坂へ向かいます。
大阪では漢学を学び、翌年には江戸の藤森天山に入門しますが、師匠の天山が幕府に追われる身となり、ギンコウも上州伊香保へ逃れることになります。
決して順風ではなかった彼にチャンスが訪れます。
1863年(文久3年)4月
ギンコウ、眼病を患い横浜にヘボンを訪ねたことから彼の人生が変わります。
ヘボンと“ウマが合った”ギンコウは
横浜で“居留地”を隠れ蓑に匿名新聞を創刊し自由な意見を展開し成功します。
これが「横浜新報 もしほ草」新聞です。
1868年(明治元年、慶応四年)に米国人バン・リードEugene M.Van Reedが主宰し岸田吟香が共同で横浜居留地内で発行した(ことになっている)新聞で、週2回刊で記事のほとんどは岸田吟香が執筆したものでした。
リードの名は吟香が筆禍(言論弾圧)を免れる為の隠れ蓑的存在で、
実際新政府の検閲を逃れ、自由な発言を行います。

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「もしほ草」は木版刷り、半紙四つ折、四六判、
一行20字詰め、一面10行、唐紙片面刷りの袋表紙、
萌黄色の絹糸二箇所綴じ出版デザインとしても素晴らしいものです。
広告記事が一切無く、仮名混じりの平易な文で書かれています。
「…余が此度の新聞紙は日本全国内の時々のとりさたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海、香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且月の内に十度の余も出板すべし。それゆゑ諸色の相場をはじめ、世間の奇事珍談、ふるくさき事をかきのせることなし。また確実なる説を探りもとめて、決して浮説をのせず。…」

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その他、ギンコウは様々なビジネスに関係していきます。
汽船事業、骨董玩具店、氷の販売店開業とビジネスの目利き感覚は冴え渡ります。
自分の目の病気治療で出会ったヘボンとは意気投合し、
日本初の「和英辞書」を彼と恊働編纂、
上海で9ヶ月かけて印刷して販売し第三版まで発刊する売れ行きを示します。
ジョセフ・ヒコの“はじめての国産新聞”を手伝い、
日本初の従軍記者として文筆活動の傍ら
ヘボンにヒントを得た眼薬「精錡水」の販売で大成功します。
さらにジャーナリストから足を洗い薬業に専念しますが、
日中交流事業の草分けとして日中交流、初期アジア主義の組織化にも尽力します。
また盲学校作りにも情熱を注ぎ教育者としても多大な功績を残しました。

眼薬「精錡水」を軸に吟香は銀座に楽善堂という薬業店を開業します。
この出店も成功し中国進出(上海支店オープン)のため横浜港から上海に渡った日が、
1880年(明治13年)1月21日です。
その後、楽善堂上海支店も順調に実績を上げます。
この時代、アジア主義も岸田が意図した興亜の方向から、
いわゆる脱亜の方向に向かって行くことになる転換期ともなります。

岸田 吟香の四男は洋画家で有名な「岸田劉生」です。

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(おじいちゃん似だよね)

No.20 1月20日 鶴見線「73型電車サヨナラ運転」

「オタク」最近では「熱中人」という名の不思議な人たちがいます。私もその一人かもしれません。興味外の者にとって「そこが好き、夢中になる」理由が全く分からなりません。
1980年(昭和55年)の今日
鶴見線「73型電車サヨナラ運転」があり別れを惜しむ多くの「鉄男君」に見送られました。鶴見線自体もかなりマニアックな路線ですが、ここに最後の姿を求めて鉄道ファンが押し寄せました。

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まず鶴見線を紹介しておきましょう。
「鶴見線」普段はまず乗ることの無い路線です。ここ20年は鉄道ファンの人気路線となっていますが、最近では現代アート展が行われたり、廃止となった旧式車両の展示会を行ったりしています。
鶴見線のおすすめは超有名な「国道駅」そして「海芝浦駅」です。国道駅も海芝浦駅も駅ごとに語りだしたら止まらないほどエピソードたっぷりの駅です。
「海芝浦駅」の敷地は元々“東芝”(東京芝浦電気)の私有地で、改札から外には社員、関係者以外降りることができません。それでも一般客(マニア)が絶えないのは、駅構内に海芝浦駅に隣接する私設公園「海芝公園」があるからです。東芝京浜事業所が敷地の一部を使用し、東芝によって「海芝公園」が運営・管理されています。
入園無料、開園時間は9:00〜20:30でここから見る風景はすばらしいので未体験の方は必見でしょう。(特に工場夜景で人気沸騰、夕景もおすすめ)

(海芝公園)
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(海芝浦駅はまさに海の中にある駅のようです)

もともとJR鶴見線は私鉄でした。
「鶴見臨港鉄道株式会社」が経営する路線で戦前、京浜工業地帯の鶴見川崎エリアの工場に貨物や人を運ぶために開かれました。1943年(昭和18年)に戦時買収され、保有する鉄道路線が国有化となり現在に至ります。
その時にこの「鶴見臨港鉄道株式会社」は<鉄道部門>を切り離したまま事業を継続し不動産を中心にした事業で現存しています。
もう一つ、鉄男君系エピソード。
この臨港鉄道の系列会社だった「鶴見川崎臨港バス」は1938年(昭和13年)12月に合併し「川崎鶴見臨港バス」と社名が入れ替わるという面白い社名変更をしました。現在は京急の系列会社になっています。

鶴見線のマップを下記に紹介します。駅名に注目してください。

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(路線図)

「鶴見小野は地元大地主の小野信行、浅野は浅野財閥の創設者で、鶴見臨港鉄道の設立者でもある浅野総一郎、安善は安田財閥の安田善次郎、武蔵白石は日本鋼管(現在のJFEスチール)の白石元治郎、大川は製紙王の大川平三郎から取ったものである。扇町も浅野家の家紋の扇に因む。また、国道15号が近くを走るから「国道」、昭和電工扇町工場が近くにあるから「昭和」、石油精製所の近くにあったことから「石油(後の浜安善)」、曹洞宗の大本山である総持寺の近くにあったことから「本山(廃駅)」など、あまりにそのままな命名がされた例もある。」(wikipedia引用)

若干前置きが長くなりましたが
表題の「73型電車」がなぜファンの心をつかんで離さないのか紹介しましょう。
73型とは“モハ73(後のクモハ73)、中間電動車に改造されたモハ72型”を総称して73型電車といいます。
モハ?クモハ?
鉄道車両には製造番号と型式番号がついています。
これがまたファンにはたまらない。
いろいろ詳しいものがあるがこれが簡単で分かりやすいので
http://asuzuki.la.coocan.jp/hp3/train41/tetumame.htm参照してください。

この73型は戦争直後の旧型通勤電車を代表する型式で、限られた資材と設備の中で最大限に効率的な電車を量産するために設計された車両です。
73型製造のキッカケは1951年(昭和26年)に起きた桜木町事件(4月24日)です。桜木町構内で起った車両火災事故が原因で死者が106名、負傷者96名という多くの犠牲者を出した鉄道事故史に残る大事故となったことと人災でもあったため事件と称されています。
この教訓として急いで改造が行われたのが72系です。
戦後の復興期を代表する車両でした。高度成長が進むに連れて、新規車両が登場します。運ぶ機能から快適を指向し始めます。したがってどんどん廃車になって行きます。
そして、鶴見線で走っていた「最後の車両72型」が消える!
ということで鉄道ファンを集めました。

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(表情がちょっと可愛い、食パンのような窓)

72系引退そして新101系の投入を記念して、鶴見線全線と南武線浜川崎支線が乗降自由となる「鶴見線フリー乗車券」が発売されました。
価格は大人200円・小人100円で、乗車券は発売日当日のみ有効。鶴見駅・浜川崎駅・川崎新町駅・尻手駅で発売されたそうです。
冒頭にも紹介したように
現在鶴見線は昭和を感じる観光路線にもなっています。
日曜日には臨時電車も出ているようなのでレトロ路線の旅、ぜひ一度お試しあれ!

No.177 6月25日(月) 出られない出口

No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢

1953年(昭和28年)のこの日、
東急電鉄会長、五島慶太は大山街道沿いの地主58名を招き「城西南地区開発趣意書」を自ら発表した。
五島慶太(1882年(明治15年)〜1959年(昭和34年))が語った「城西南地区開発趣意書」は今読んでも新鮮な中々の名文である。
トップセールス、プレゼンテーションドキュメントとしてもかなり質が高いものとして評価されている。
この説明会後、
五島は神奈川県北東部を中心とした地域の多摩田園都市開発に次々と着手する。

まず簡単に「強盗慶太」こと五島慶太について紹介しておく。
「西の小林・東の五島」と呼ばれた五島慶太、
西の小林とは「阪急の小林一三」のことである。
西の小林とは対照的な経営手法で、次々と東急をまとめあげ最終的に東京急行電鉄を最大手の私鉄企業に育て上げた。
強引な手口から「強盗慶太」の異名をとったが、鉄道事業の経営手腕は歴史に残る評価を得ている。
東京帝国大学時代、大正期に活躍した外交官で横浜とも関係が深い政治家、加藤高明の息子の家庭教師をしていた時期もある。
大学卒業儀、鉄道官僚となった五島は平凡な仕事に我慢できず、
 役所を辞め「武蔵電鉄」の常務となる。
転機のキッカケは西の小林からもたらされた。
当時、実業家の渋沢栄一らによって設立された「田園都市株式会社」が経営不振に陥り、再建を阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)総帥の小林一三に依頼された。
ところが小林が多忙のため代わりに五島が推薦されたことが大東急の出発点となる。
東京府荏原郡の田園調布や洗足等に分譲用として45万坪の土地を購入していた田園都市株式会社は「荏原電気鉄道」を設立していたが、事業が頓挫した。
五島はその荏原電気鉄道に目をつけた。元鉄道官僚の慧眼だった。
目黒蒲田電鉄と変更し事業を開始するが関東大震災が起る。
震災後も決してあきらめず
1924年(大正13年)に全線開通させた結果、関東大震災で被災した人々が沿線に移住し始めたため一気に沿線が郊外化したのである。
この勢いを受け目黒蒲田電鉄の経営が好転することになる。
ここで得た利益を勤め先であった「武蔵電鉄」の株式に投入、過半数を買収し実質の経営者になる。
この時点で、名前を「武蔵電鉄」から「東京横浜電鉄」と変え、
渋谷〜桜木町間を開通させる。東急の背骨「東横線」の登場である。
昭和恐慌(1930年(昭和5年)〜翌1931年(昭和6 年))のため
業績は悪化するが、五島は誘致計画を立案し長期的な視点で経営を行った。
例えば、東横沿線に学校を誘致し「学園都市」としての付加価値をつける戦略である。
大学を中心に、多くの学校を沿線に誘致するという当時大胆な計画が功を奏する。
東京工業大学を蔵前から目蒲電鉄沿線の大岡山に誘致
日本医科大学武蔵小杉駅近くの土地を無償で提供し誘致。
東京府立高等学校八雲に誘致
慶應義塾大学日吉台の土地を無償提供し誘致。
東京府青山師範学校を世田谷・下馬に誘致
自らも東横商業女学校を設立、
武蔵高等工科学校(現東京都市大学)、
東横学園女子短期大学(現東京都市大学へ統合)を創設する。
さらに五島は、駅に百貨店等の商業機能を直結させる。(渋谷駅開発)
しかし五島は成功ばかりではない。
数多くの失敗も重ねている。
当時の財閥「三井・三菱」を相手に闘いを挑んだが大敗北する。
長年の夢だった“伊豆の開発”も決して成功したとは言えない。
 ※西武とも東西戦争も有名だ。

特に
この「城西南地区開発」構想した時代の10年、決して上手く事業が進んだとは言えない。
しかし、後継者によって実を結んだ「五島慶太の夢」が城西南地区開発構想である。
五島慶太の基本プランはかなり大風呂敷だが、
田園都市構想を現実にした偉大な都市プランナーである。

■城西南地区開発構想での開発予定地域(1953年当時の地名)
地区名:対象地区
宮前:川崎市字馬絹・字梶ヶ谷・字野川・字有馬・字土橋・字宮崎(旧宮前村)
中川:横浜市港北区中川町・南山田町・北山田町・牛久保町(旧中川村)
山内:横浜市港北区元石川町・荏田町(旧山内村)
中里:横浜市港北区寺家町・鉄町・鴨志田町・成合町・上谷本町・下谷本町・西八朔町・北八朔町・市ヶ尾町・黒須田町・大場町・小山町・青砥町(旧中里村)
田奈:横浜市港北区恩田町・奈良町・長津田町(旧田奈村)
新治:横浜市港北区十日市場町・新治町・三保町(旧新治村)
都田:横浜市港北区川和町(旧都田村)
「城西南地区開発」は、まずこれらの地域内に核となる街区を建設する事から始め、これらの北部地域を貫通する交通機関(高速道路または鉄道)と、渋谷から開発対象地域の東部を貫通して、小机、横浜駅西方を経由し湘南方面を連絡する高速道路を建設して、一気に新都市を建設するという大構想(ターンパイク(有料道路)プラン)※であった。
現在の「田園都市線沿線の開発」「港北ニュータウン構想」の出発点がここにある。

No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
※ターンパイク(有料道路)プラン

渋谷〜江ノ島間の一般自動車道「東急ターンパイク」(昭和29年免許申請)
小田原〜箱根間の一般自動車道「箱根ターンパイク」(昭和30年免許申請)
藤沢〜小田原間の一般自動車道「湘南ターンパイク」(昭和32年免許申請)
と次々と有料道計画を立てるが
ことごとく「建設省プラン」と競合する。
箱根のみ実現する。「箱根ターンパイク」は日本初のネーミングライツ道路「TOYO TIRES ターンパイク」となっている。(現在は営業譲渡)

No.18 1月18日(水) 三度あることは四度ある

幕末から明治にかけて横浜は東京と肩を並べる芝居の中心地だった。横浜には大小合わせて20以上の劇場があった。大正4年1915年のこの日、横浜で最も歴史のある劇場「羽衣座」が四度目の焼失を受け再建を断念、半世紀の歴史に幕を降ろした。

羽衣座は、文久元年に創業された下田座と佐野松が合併されて羽衣町、厳島神社横にオープンした。前身を含めると最も歴史ある芝居小屋だった。東京・関西の一流役者を多数受けいれ歌舞伎を始め有名人の大芝居を興業した名門劇場である。

(かつてのイシマル電気の裏あたり?)

演目は歌舞伎が中心だったが、新派はもちろん、ボクシングの試合も行われた。
1909年(明治42年)に羽衣座で、英国人のボクシングチャンピオン、スミスと柔道家の昆野睦武(こんのつかのり)の「柔道対ボクシングの国際試合」が行われたという記録が残っている。英国海軍の艦隊がその威容を誇るため横浜に寄港した際に講道館に申し込んだというから面白い。明治のK1だ。昭和の「猪木・アリ戦」??
結果は?
ボクシングなど全く知らなかった昆野睦武だが、激しい戦いの応酬の末、肋骨を2本折られながらも7勝1敗で世界一のスミスを破った。英国と言えば当時ボクシングは国民的スポーツだぜ。
当時、ライバルであった喜楽座と競いながら人気を分けてきたが、
明治32年8月12日に起った関外大火事で全焼する。この関外大火事で、伊勢佐木界隈の多くの劇場が店をたたんだが、羽衣座は再建。
翌年の10月に今度は自分の所から火を出し焼失する。それでもめげないで新築する。
明治36年にこれまた焼失するが再建。
そして大正4年に焼失し 再建を断念する。この頃、芝居小屋の主流は喜楽座に移っていた。

(喜楽座が建っていた場所)
喜楽座成功の特徴は、19世紀末から娯楽の世界に参入した活動写真(映画)を活かし芝居も行ったことだ。また九世団十郎・五世菊五郎・初世左団次等、明治期に人気役者が没した後も一流役者たちののぼりを上げたことであった。
横浜の芝居小屋は、明治32年の関外大火事と大正12年でほとんどを失う。その後現在まで、芝居の中心地としてのエネルギーは失われたままだ。
長くなるが
今年の新春歌舞伎は、歌舞伎座が改築中のため、新橋演舞場で「め組の喧嘩」が上演された。ストーリーは「ふとしたことから、江戸火消し「め組」の鳶と、場所中の相撲取りの喧嘩がはじまり、お互い意地の張り合から ・・ 江戸を沸かせた大喧嘩となった。命知らずの火消と力自慢の力士達の舞台いっぱいの喧嘩の大立ち回りが見せ場・・・。」これは文化二年(1805年)に、実際にあった事件を河竹黙阿弥が芝居にしたもの。
ただの喧嘩が時の三奉行を巻き込んだ(役人の縦割りや揶揄?)大事になるという芝居だ。
歌舞伎の定番、新春にも良くかかるこの演目は、羽衣座とも少なからぬ縁がある。明治34年5月横浜市羽衣座で世話物が得意の二代目尾上菊次さん(昭和45年に亡くなる)が初舞台を踏んだ作品が『め組の喧嘩』だ。
歌舞伎とは「傾く」(かぶく)からきているとか。時代の空気を表現した「歌い舞う芸妓」が皮肉にも「め組の喧嘩」をかけるとは、どこかのマツリゴト師にも見て欲しいものだ。

No17 1月17日(火) 本日芥川賞発表

(速報)芥川賞、円城塔『道化師の蝶』と田中慎弥『共喰い』の2作が受賞

(17日朝)本日、第146回芥川龍之介文学賞が発表される。前回は該当者無しだった。過去に横浜出身の芥川賞受賞者はざっと調べた所では6名いた。最初は第9回受賞の保土ケ谷出身、半田義之の「鶏騒動」である。
第84回尾辻克彦(赤瀬川原平)の「父が消えた」、第105回荻野アンナの「背負い水」、第116回柳美里の「家族シネマ」が有名な所だが、第67回宮原昭夫の「誰かが触った」と第68回郷静子「れくいえむ」も忘れてはならない。今日は、中でも郷静子について紹介しておく。

芥川賞とは、純文学の新人に与えられる文学賞。大正時代の文学者を代表する芥川龍之介の業績を記念して友人の菊池寛(文藝春秋社創始者)が昭和10年(1935年)に直木賞と共に創設した。
年二回を原則に選考委員の議論で決まるが応募方式ではない点が特徴だ。現在の選考委員は石原慎太郎・小川洋子・川上弘美・黒井千次・島田雅彦・高樹のぶ子・宮本輝・村上龍・山田詠美の各氏。選評は公開される。

郷静子は1929年に横浜で生まれ、鶴見高等女学校(現・鶴見大学附属鶴見女子中学校・高等学校)卒。1972年、戦時中の体験(特に横浜大空襲)を描いた中編『れくいえむ』を『文學界』に発表、同作で第68回芥川賞を受賞した。一冊のノート(日記)を軸に末期の戦争、特に横浜大空襲を生きる軍国少女が体験する終戦を描いている。
文庫化された文春文庫では芥川賞の先輩第67回受賞の宮原昭夫が解説を書いている。この中で、宮原は
「青春にしか許されない、ひたむきな正義感が、ある時代には「立派な軍国少女」たらんと刻苦することに当人を追いやるしか無い、ということの、この無惨さ。」と評している。
9人の文学賞選考委員の中で、中村光夫は
「推しました。素人くさい粗雑さが構成にも文章にも指摘され、リアリズムの観点から見れば、破綻だらけといってよいのですが、結局読ます力を持ち、最後まで読めば、強い感銘をうけます。」「こういう混沌とした強さは、とくに新人に望ましいのですが、近ごろはこれと反対の傾向が幅をきかせています。」「ともかく、欠点がそのまま魅力になったような、この一作は珍重すべきでしょう。」と強く評価した。
一方、舟橋聖一は「二八〇枚の力作だが、芥川賞の銓衡内規では、枚数超過で、寛くみてもスレスレのところにある。長すぎることが、この作品をより素人っぽくしていることは否み難い。」「あくまで戦中の体験と事実に立脚した小説であるのに、主人公節子を殺すことが嘘だと言っては過酷なら、小説作りのための御都合主義だという点が、私がすっきり出来なかった理由である。」と辛辣だ。こういった選考は難しいものだ。
昨今の文学状況では一体どのような評のもとで誰が受賞するのか、愉しみである。
発表されたら少しコメントを加えるかもしれない。
文藝春秋社

第146回芥川龍之介賞候補作品(平成二十三年度下半期)
石田千「きなりの雲 」(群像十月号)
円城塔「道化師の蝶」(群像七月号)
田中慎弥「共喰い」(すばる十月号)
広小路尚祈「まちなか」(文學界八月号)
吉井磨弥「七月のばか 」(文學界十一月号)

第146回直木三十五賞候補作品(平成二十三年度下半期)
伊東潤「城をませた男」(光文社)
歌野昌午「春から夏、やがて冬」(文藝春秋)
恩田陸「夢違」(角川書店)
桜木紫乃「ラブレス」(新潮社)
葉室麟「 蜩ノ記」(祥伝社)
真山仁「コラプティオ」(文藝春秋)

No.16 1月16日(月) 指路教会建つ

開港をキッカケに多くの宣教師が来日しました。
そして教会、学校を軸に布教活動を拡げ多くの文化を伝えました。
特に横浜は開港の地であったこともあり歴史ある教会も多い。
1892年(明治25年)のこの日、指路教会の大会堂が現在の尾上町6丁目85番地に新築されました。

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       (写真は大正15年に建替えられたもの)
正式には日本基督教団横浜指路教会といいます。
(しろきょうかい)の名は
旧約聖書にある地名・人名のシロ(Shiloh)に日本語の指路を当てたものです。
この教会を設立する中心人物がジェームス・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn)です。
ローマ字表記で有名なヘボンといったほうが分かりやすいでしょう。

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1859年にアメリカから来日した宣教医J・C・ヘボン博士は、神奈川区の成仏寺を仮住まいにしていました。
日本に来て3年目の秋、近くのアメリカ領事館(本覚寺)から役人が血相を変えて飛び込んできました。寺に重症患者がいる、街道筋で英国人が薩摩に切られたというのです。江戸から京都に帰る島津久光の行列と英国人グループがトラブルを起こし、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した生麦事件が起ったのです。
この時ヘボン医師は他国(イギリス)の事件でしたが幕府役人にも信頼が厚く、応急処置を強く依頼され任に当たります。
生麦事件の後、ヘボンは横浜居留地39番(現在の横浜地方合同庁舎あたり)に医療施設と学校(ヘボン塾)を開設しました。
このヘボン塾が発展して明治学院大学になります。
女子校として最も古い歴史を持つフェリス女学院もヘボン塾内で宣教師メアリー・E・キダーが創設(1870年)した学校です。

学校も軌道に乗り、そろそろ布教の拠点としての教会を設立する機運が高まります。
教会は居留地39番から尾上町、太田町、住吉町と転々としますが、冒頭の通り明治25年(1892年)のこの日、尾上町に赤レンガの教会堂が完成しました。
設計者は、サルダ( Sarda, Paul)フランスの建築家で、海軍省横須賀造船所付属学校の機械学教官として来日します。東京帝国大学教師、三菱の技師を経て横浜で建築家として開業することになります。
山手のゲーテー座、「極東一のすばらしい名建築のひとつ」と母国に報告されたフランス領事官邸、グランドホテル新館などを設計しました。
残念ながらこれらの全ての建物は関東大震災で倒壊してしまいました。
 指路教会は震災後復興計画のもと、大正15年に再建され戦災はうけたものの修復し現在に至っています。
指路教会は横浜市認定歴史的建造物に指定されています。
※毎年クリスマスには 教会前で合唱団が賛美歌を歌うセレモニーがあります。
だれでも参加できます。私も何回か参加したことがあります。

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※余談2  指路教会は過去 野口雨情が講演したり、近衛文麿が楽団の指揮をして音楽会を開催したり、結構多目的にも使われていたようです。