ホーム » 2013 » 3月 » 21

日別アーカイブ: 2013/03/21

2013年3月
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
2013年3月
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

No.430 鶴見警察署長・大川常吉

今日は連発です。
年表で探しにくい「3月21日」のエピソードです。
この日に因んだ「大川常吉」さんの話しを紹介します。
大川さんは関東大震災の時、流言飛語に凛とした態度で正義を守った人物として、現在まで語り継がれている人です。

横浜市鶴見区潮田にある「東漸寺(とうぜんじ)」本堂横に建つ記念碑には
「故大川常吉氏の碑
 関東大震災当時、流言飛語により激昂した一部暴民が鶴見にすむ朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し、当時鶴見警察署長故大川常吉氏は、死を賭してその非を強く戒め、三〇〇余名の生命を救護したことは誠に美徳である故、私たちはここに故人の冥福を祈り、その徳を永久に讃揚する。
       一九五三年三月二一日 
           在日朝鮮統一民主戦線鶴見委員会」

と記されています。


No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

震災後のパニック状態の中、
約300人の朝鮮人、中国人を暴徒から守った警察官が大川常吉です。
この事を知ったのは 10年前にこの本の著者キョンナムさんのトークショーで紹介された一冊の本「ポッカリ月が出ましたら」からでした。


大川常吉さんは1877年(明治10年)に生まれ、震災時は46歳でした。
大正12年9月1日に起った関東大震災の直後、
「朝鮮人が井戸に毒をいれた。」
「震災の混乱に乗じて日本人を襲ってくる。」
というデマが広がり、全国で朝鮮人に対する迫害、襲撃虐殺事件が起こります。
この朝鮮人に対する流言飛語は、無責任な“新聞記事”も
火に油を注ぐ役割を果たしました。
当時の鶴見警察署は署員30人あまりの今とは比較にならない小さな警察署でした。ここに震災で被災したおよそ300人の朝鮮人・中国人が保護を求めてきました。署長大川常吉さんは、警察署を取り巻いて騒乱状態になっている中で
「持っているビンに毒が入っている。たたき殺せ」という声に
「その井戸水を持ってこい。私が飲んで死ねば朝鮮人を引き渡す。異常が無ければ私に預けよ。」
「私を信頼しないのなら、朝鮮人を殺す前に、この大川を殺せ。自分を殺してから中へ入れ。」
と警察署の入口に仁王立ちで暴徒に冷静さを求めたという事件です。
「どこの国の人間であろうと、人の生命に変わりはない。それを守るのが私の任務だ。」とも語ったそうです。
この碑に記されている
「在日朝鮮統一民主戦線」という厳めしい名は
今緊張感の高まる北朝鮮系「朝鮮総連」の前身ですが、
日本人を賞賛することはかなり珍しいことだと在日の友人も語っていました。
地元では 現在でも語り継がれているそうです。
当時、鶴見町の有力者・町議会議員だった人の日記が残されているそうです。
事件の時、大川署長とまちの人々とのやりとりも克明に記録があるそうです。
日本の小さな街の小さな事件ですが、
 この時代と、人間の尊厳を再確認する 重い事件といえるでしょう。

No.429 Y校創設地はどこだ?2

昨日の「Y校創設地はどこだ?」の記事で
叱咤激励のメールをいただきました。

No.428 Y校創設地はどこだ?
「Y校の創設地を調べるなら
Y校の歴史を直接図書館か何かで調べ、もうひとひねりしてほしい。」

ごもっとも
前日の「Y校創設地はどこだ?」の本意は
手元の二次情報で、二つの食い違ったデータの謎解きをする愉しみを追いかけました。
そう データ追跡の基本は「一次情報」にあたれ!
ということなので
一次情報をあたりました。
というか、古書店を巡っていたら
偶然、「Y校八十周年記念誌」に出会いました。

nnWV210032

地味な表紙で ほとんど気がつかない場所での発見です。
※即 入手しました。
そこには、Y校創設期の話しが詳しく記載されていました。

「横浜商法学校」の命名は早矢仕有的で、創設者“美沢進”校長のヘッドハンティング
も彼が小幡篤次郎に伝え、福沢諭吉の快諾を得たそうです。
「横浜商法学校」誕生は横浜町会所の二階で、3月20日開校し
最初の生徒は4名、教員が5名という状況だったそうです。
そこで、25日に急遽夜間部を設け14名の生徒が集まり、現在の定時制部の起源となります。定時制としても日本で初期創設の部類に入るのではないでしょうか。
そして
「11月27日に北仲通六丁目六十八番地」に
新校舎が完成し、移転します。
ここでも 発見です。昨日の「No.428 Y校創設地はどこだ?」
の下になった年表では11月26日となっていました。

nn-25E6-2598-258E-25E6-25B2-25BB15-25E5-25B9-25B43-25E6-259C-258820-25E6-2597-25A5

以上が 「横浜商法学校」設立の顛末です。

nnY-E6-A0-A1-E3-81-AE-E5-A0-B4-E6-89-8028

この「Y校八十周年記念誌」にはその当時の手書き地図が掲載されていましたので転載させていただきます。横浜駅(現桜木町駅)前には噴水がありました。

nnY-E6-A0-A1-E3-81-AE-E5-A0-B4-E6-89-809

ここでもう一つ 個人的大発見。
横浜正金銀行支配人、慶応義塾塾長、交詢社の設立発起人だった小泉信吉(こいずみ のぶきち)の自宅が桜木町一丁目一番地にあったことがこの手書き地図に書かれています。
Y校との関係も深く、強力な支援者でした。

(試練)
1888年(明治21年)3月18日に近所で起った火事で学校が全焼します。
その時、
「学校が焼けたのではないぞ、建物が焼けたのだぞ、解ったか。
 解ったらよい 酒でも飲め」と
美沢校長を強く励ましたのが小泉信吉だったそうです。
隣接地の本町六丁目八十四番地の生糸会社を借りて授業を再開、
一年九ヶ月後、新校舎ができあがり大きな試練を乗り越えます。
さて?
この間借りした生糸会社?
手元資料で調べましたが判りませんでした。
帝蚕倉庫株式會社は創設が大正なので違います。
追跡してみます!

この「Y校八十周年記念誌」にはY校のエピソードが一杯記載されています。
テーマを練りながら 折々に紹介していきます。

No.267 9月23日(日)Yの真価