【番外編】古い葉書を読み解く
今日は あるキッカケから少し足を踏み込んだ
「絵葉書」の世界の話を紹介します。
戦前の絵葉書を読み解く方法を紹介します。
絵葉書は絵柄の読み解きが楽しい作業ですが
宛名面も時代を探る重要な情報が多いので時代推定のヒントを紹介します。
使用した時期を推察するには「切手」と「消印」が正確な印です。
未使用の場合、判読が難しい場合は 大きく何時ごろ発行されたものかをさぐることになります。絵の面で読み解ける場合も多くありますが
絵葉書は幾つかのルールが「郵便法」で決まっているためこの形式からある程度時期を推定できます。
【表裏の問題】
絵葉書の表はどっちか?
おわかりですか。
封書で考えると分かりやすいかもしれません。相手に届くことが第一義です。
宛名が「表」で、差出人が「裏」ですし、まとめて宛名と差出人を書いても表は変わりません。宛名が最優先されます。
そこで「葉書」ですが、葉書というメディアは面白い存在で
本来「私信」の持っている「通信内容」の「秘匿性」がありません。
でも(郵便)配達員は見てはいけないことになっているのです。
ということで、絵葉書の絵柄は「裏面」です。
巷の絵葉書に関する「書籍」やブログの殆どが「裏面」をテーマにしているというのも面白い話です。
【表面の話】
ここでは 絵葉書の“表”をテーマにします。
(年代の推定)
切手が貼ってある場合で消印が判読できない時は
→金額で年代が推定できます。
『壱銭五厘』切手の場合
1937年(明治32年)4月1日
〜1937年(昭和12年)3月31日迄
『二銭』切手の場合
1937年(昭和12年)4月1日〜
1944年(昭和19年)3月31日迄
『三銭』切手の場合
1944年(昭和19年)4月1日〜
1945年(昭和20年)3月31日迄
→ハガキ自身のレイアウトが
時代によって変わります。
ハガキの宛名欄は 郵便制度が施行された時点で
宛名以外のメッセージを書くことができませんでした。
現在のように、ハガキ面の一部を通信欄に使える様になったのは
1907年(明治40年)絵葉書の表面の下部3分の1以内に、通信文の記載を認める法律ができます。
現在のように、宛名面の半分が通信欄となったのは
1918年(大正7年)からです。
戦後は原則は2分の1ですが、さらに緩やかにな ります。
内国郵便約款第23条第1項第4号)
「(4) 通信文その他の事項(郵便葉書の下部2分の1(横に長く使用するものにあっては、左側部2分の1)以内の部分に記載していただきます。ただし、あて名及び受取人の住所又は居所の郵便番号と明確に判別できるように記載する場合にあっては、この限りでありません。)」
通信文が半分を超えても、あて名との境界線をひいたり、あて名と通信文の間に明確な余白を設けたりすれば大丈夫だということになります。
■ハガキの通信欄区分比率で ハガキ発行年代が分かります。
→「郵便はがき」どう表記?
まずは 事例をご覧ください。
戦前の文字表記の殆どが右から左流れでした。ハガキの表記「郵便はがき」も最初は「きかは便郵」→「きがは便郵」と変わり
戦後は現在と同じように左から右流れ「郵便はがき」に変わります。
1933年(昭和8年)から「きがは便郵」となり
戦後から「郵便はがき」となります。
→印刷方法
明治期1888年(明治21年)からコロタイプ印刷により絵葉書が発行されます。
コロタイプ印刷は平版印刷の一種で写真・絵画などの精巧な複製に適しますが、大量印刷には適さないため量産化に向かなかった「絵葉書市場」から1915年(大正4年)頃で姿を消していきます。
大正に入り、印刷技術が飛躍的に進化しはじめます。
凹版印刷や活版・石版の両印刷の新技術が次々と海外から導入されます。
1912年(大正元年)国産オフセット印刷機器の製造に成功します。大正中期(1918年)くらいからカラーオフセットによる「絵葉書」印刷が主流となってきます。
初期の横浜絵葉書はモノクロ印刷に手彩色によるカラー絵葉書が発行され現在貴重な歴史資料となっています。
以上 細かい話ですが これらの特徴を組み合わせながら総合判断し年代を推定することができます。
ただ、例外も幾つかあるようです。あくまで目安にし、描かれた「裏面」から読み解くことが大切でしょう。
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【新しい資料】横浜港桟橋 学校教材
「神奈川県」横濱港 桟橋
文面から 1909年(明治42年)以降数年の間に発行されたものと推測できます。
三重県多気郡下御糸村(しもみいとむら)尋常小学校の教材として使用したものらしき印が押されています。
ここに写っている風景は、現在の山下公園西端あたりからの情景でしょう。今年で120年を迎える「大さん橋」は竣工から少しずつ変化していて、何時の時代かを知る「手がかり」が欲しいと思っているところです。
ここでわかるところは
竣工当時に無かった「てすり」もすでに見えます。
おいおい 時代変遷を追いかけていきます。
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(つづく)
【絵葉書が語る横浜】芝浦製作所
手元に6枚の芝浦製作所が発行した絵葉書があります。
入手する際、横浜との関係というより企業の発行した絵葉書というカテゴリーに触手を動かされ手頃な価格だったことも手伝い購入しました。
一見、横浜には関係が無いと思われましたが、芝浦製作所は横浜に関係の深い企業です。絵葉書のどこかに関係はないのか?
(芝浦製作所)
ハガキの表面には「芝浦製作所」のマークとクレジットが表記されています。
この「きがは便郵」から年代は昭和8年から昭和20年の間に発行された可能性が高いものです。
戦時体制の絵葉書を推定するマークです。
※キャプションが右書き、当時としては異例です。
ハガキの下部には「芝浦製作所」とありますので、発行者が特定できます。
この6枚の中に横浜と思われる一枚がありました。
鶴見工場のスケッチが描かれている一枚です。
写真は「鍛冶工場」と表記され、下地のスケッチは鶴見工場と思われます。
「芝浦製作所」は、「からくり儀右衛門」と呼ばれ活躍した田中 久重が興した会社で、重電メーカー大手に成長し、1939年(昭和14年)には弱電メーカーの「東京電気」と合併し最大手「東京芝浦電機→東芝」となります。
ここで、
この絵葉書が昭和8年から14年の間に発行されたことが分かります。
(海芝浦)
鉄道マニアに人気の鶴見線「海芝浦」駅は、「東芝」の敷地内にある企業専用駅で関係以外降りることが出来ませんが、駅構内で“形式上”の下車、改札口の出場ができるため、一般客も多く訪れます。
No.177 6月25日(月) 出られない出口
この一帯は、芝浦製作所が「東芝」になる前の横浜工場でした。
東芝となった1939年(昭和14年)の翌年の
1940年(昭和15年)10月11日(金)に
戦前最後で最大の観艦式が行われます。この観艦式(陪観者)参観者を送り出す会場として合併直後の東芝(芝浦製作所)の「新芝浦駅」(1932年(昭和7年)6月10日開業)が使われます。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
「海芝浦駅」はこの観艦式の翌月、
1940年(昭和15年)11月1日に開業します。
残りの絵葉書5枚を見ていきます。
芝浦製作所の本社があった東京日比谷の三信ビルディングが描かれています。
この「三信ビルディング」はつい最近まで現役でしたが、事故と老朽化で2007年に解体されて残っていません。
1929年(昭和4年)に建設された震災復興ビルの一つです。藤森照信がスパニッシュ風のアールデコ様式と評した古典様式で、戦後は1950年(昭和25年)6月までGHQに接収されていました。
□変圧器試験場
詳細は分かりませんが、水力発電所から送電する際の「変圧器」をテストする設備が描かれていると思われます。
山の風景と送電線が描かれています。
□自動車用品工場
背景に描かれている牧歌的な風景が どこの場所を表しているのか未調査です。
□木型工場
鋳造等に必要な木型を製造する工場の風景写真です。
背景にはカモメが乱舞する海の様子が描かれています。
□扇風機工場
写真には「扇風機」を製造する工場風景が写っています。
背景には欧米の雰囲気を漂わせた風景が描かれています。肝心な部分が写真に隠れているのが残念ですが、この時代に海外の雰囲気が漂っているのは珍しいのではないでしょうか。
扇風機に関しては、1894年(明治27年)に「芝浦製作所」が日本ではじめて白熱電球付き直流扇風機というものを製造したそうです。
「アイロンと並んで最も早く国産化されたという電気扇風機。関東大震災で工場が全焼して生産が止まったこともあったが、景気の回復とともに需要も拡大し、卓上用、天井用、換気用、鉄道車両用など製作アイテムも増え、「扇風機は芝浦」と言われるようになった。」(東芝科学館)
※現在東芝の社史を調べていません。
変圧器試験場、自動車用品工場、扇風機工場、木型工場 等が分かってくると
さらにこの「絵葉書」の面白さが見えてくるかもしれません。
(現在の東芝事業所 in Yokohama)
・横浜事業所
・電力・社会システム技術開発センター
・磯子エンジニアリングセンター
・東芝原子力エンジニアリングサービス株式会社
・東芝電力検査サービス株式会社
・東芝電力放射線テクノサービス株式会社
・東芝マテリアル株式会社
〒235-8522 神奈川県横浜市磯子区新杉田町8
・生産技術センター
・東芝燃料電池システム株式会社
〒235-0017 神奈川県横浜市磯子区新磯子町33
・大船分室
・芝浦メカトロニクス株式会社
・東芝メモリシステムズ株式会社
〒247-8585 神奈川県横浜市栄区笠間2-5-1
・京浜事業所本社工場
・東芝アイテック株式会社
〒230-0045 神奈川県横浜市鶴見区末広町2-4
・京浜事業所タービン工場
・東芝ジーイータービンコンポーネンツ株式会社
〒230-0045 神奈川県横浜市鶴見区末広町1-9
・東芝ジーイー・タービンサービス株式会社
〒230-0034 神奈川県横浜市鶴見区寛政町20-1
・東芝エンジニアリングサ―ビス株式会社
・東芝プラントシステム株式会社
〒212-0014 神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央4-36-5
・東芝シグマコンサルティング株式会社
・東芝総合人材開発株式会社
〒222-0035 神奈川県横浜市港北区鳥山町555
・東芝ピーエム株式会社
〒222-0033 神奈川県横浜市港北区新横浜2-8-12
【一枚の地図から】昭和27年の観光地図
手元に一冊の観光案内書があります。
「日本案内記」関東編
昭和二十七年四月発行
監修は運輸省
編集は運輸省の外郭団体の観光事業研究会。
発行も財団法人 日本交通公社です。
日本交通公社は
1912年(明治45年)3月に外国人観光客誘客促進を目的として設立された団体です。
1942年(昭和17年)財団法人東亜旅行社に改組
1945年(昭和20年)財団法人日本交通公社に改称し
英文名称(Japan Travel Bureau) JTBに改称します。
「この法人は、旅行及び観光の健全な発達と観光関係事業の向上発展に関
する事業を行い、我が国の観光文化の振興に寄与することを目的とする。」
この観光ガイドに折込まれている横浜の地図を元にこの時代を旅してみましょう。
この観光案内が発刊された時期は昭和27年4月です。観光マップは昭和26年頃のものをたたき台にしていると思われます。昭和26年という時期は、
□ マッカーサーが、朝鮮戦争の対応でトルーマン大統領と対立し解任
□大惨事となった国鉄桜木町電車火災事故(4月24日)
□ラジオ東京(現:TBSラジオ)が開局。
未だ 朝鮮戦争中の日本で、横浜の接収まっただ中の状態でした。
(山下公園)
当時、山下公園は接収地で米軍宿舎が建っていました。
山下町の海岸通り・水町通り周囲は市街地の区分は無く空白が目立ちます。この周辺の多くが米軍によって接収されていた状態を表しています。
ホテルニューグランドがポツンと表記されているのが分かります。
山下公園は1954年(昭和29年)から段階的に接収解除され、1961年(昭和36年)には再整備が完了し、ほぼ現在の姿となります。この地図は解除直前ですね。
(東神奈川)
東神奈川駅周辺を拡大してみました。
現在とどこが大きく変わっているでしょうか?
鉄道路線から見ていきましょう。
横浜市電の路線があります。
京浜急行路線には旧名「京浜神奈川駅」が表記されています。
1956年(昭和31年)現「神奈川駅」に改称します。
この「京浜神奈川駅」は位置と名称が変わるので歴史的にはやや面倒な駅です。
ここでは京急の「神奈川駅」についてざくっと変更の歴史を紹介しましょう。
[]内の駅名は全て旧または廃止された駅名です。
※川崎駅より東京方面は省略します。
1905年(明治38年)に
[川崎駅]〜[神奈川駅]( 神奈川停車場前)が開通します。この時、路線内に幾つか駅が開業し神奈川寄りに[(京急)反町駅]が開業します。
1925年(大正14年)に
[神奈川駅]が[京浜神奈川駅]に変更されます。
→この時は[川崎駅]〜[京浜神奈川駅]が営業区間です。
[京浜神奈川駅]から路線が少し延伸します。
1929年(昭和4年)に
[京浜神奈川駅]〜[(仮)横浜駅]が月見橋近くに開業します。
この間約200mです。
1930年(昭和5年)に
[(仮)横浜駅]が300m延伸し【横浜駅】が開業します。
[(京急)反町駅]を廃止。
[青木橋]を開業します。
[京浜神奈川駅]を廃止し[青木橋駅]を[京浜神奈川駅]に改称します。
1956年(昭和31年)に
[京浜神奈川駅]が【神奈川駅】に改称し現在に至ります。
※かえって複雑で分かりにくくなった感じですが?
横浜駅が桜木町から二度引越をしている影響で、伝統ある!「神奈川駅」が国鉄東海道から無くなり、京急も変更しなごりが少し移動し「神奈川駅」として残っています。かつての偉大な「神奈川駅」はほんの少し“なごり”が残っています。
(仲木戸陸橋)
京浜急行「仲木戸駅」にも語り尽くせない物語があります。
1905年(明治38年)
最初は[中木戸駅]という名で開業します。
「仲木戸駅」となったのは1915年(大正4年)[京浜神奈川駅]となった時期と同じ頃だそうですが資料は未確認です。
現在
「仲木戸駅」の近くに京浜東北線「東神奈川駅」がありペデストリアンデッキで結ばれています。
この京浜急行線と京浜東北線に挟まれたエリアは戦後未整備のまま時間が流れ、整備されたのはごく最近のことです。合意形成に長い時間がかかり神奈川区の重要懸案事項でしたが、関係者の努力で現在の区画整理が実現しました。
「東神奈川駅」は横浜線の乗換駅として利用者が多い駅ですが、
歴史的には「仲木戸駅」の方が先輩です。
1908年(明治41年)
横浜鉄道株式会社が「八王子」「東神奈川」を開通させます(現横浜線の開通)。
この時、
東海道本線のメインが「神奈川駅」だったので
その東にある駅ということで「東神奈川」と命名されます。
(高架化せよ)
横浜鉄道線が後に開設しますが、貨物線を海岸まで延伸させるために
京浜電気鉄道は“高架化工事”を余儀なくされます。
「横浜鉄道」が「京浜電気鉄道」を横切るので
「京浜電気鉄道」は高架にしろ!
ということになります。
現在の京急に乗ると良くわかります。
現在の神奈川新町を過ぎたあたりから徐々に高くなり、「仲木戸駅」を過ぎたあたりから下がりはじめ滝野川あたりで地上に戻ります。
なぜこのような無理が通ったのか?当時の横浜鉄道も“民営”で国鉄ではありませんでしたが開業して2年、1910年(明治43年)国有化され「八浜線(はっぴんせん)」となります。
鉄道路線として
国鉄「八浜線(はっぴんせん)」の計画が京浜電気鉄道より法律的に上位になるため、「八浜線」の路線計画が優先されることになります。
京浜電鉄は開設が手軽だった「軽便鉄道法」
横浜鉄道のちの国鉄「八浜線」は「私設鉄道法」の制約を受けました。
京浜電鉄が高架化し、「仲木戸駅」近くを「八浜線」から繋がる貨物支線が「海神奈川駅」まで開設します。
1959年(昭和34年)4月1日に
貨物支線の「東神奈川駅」〜「海神奈川駅」間は廃止され
この路線のなごりが現在も残っています。
(つづく)