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No.701 運河の街誕生(序章)
江戸時代の日本は、同時代の世界経済史上からもユニークな経済体制だったといわれています。
幾つか理由が挙げられますがその一つが17世紀から2世紀半もの間、戦争(領土拡張も)が無かったことです。緩やかに成長しながら循環型社会が出来上がったことで日本を比較的安定した経済状態を維持することができました。
この近世経済の中核を担ったのが<米(こめ)>でした。
江戸時代の経済は絶妙な「石高制」が支えたのです。
ここに<戦国時代>に進化した利水・治水技術の革新と普及が土地活用の変化を起こします。
耕作地の改善と増加、<稲作>への転換により米の増収が可能となる河口部の干拓事業を全国の諸藩は積極的に推進します。
(河口干拓)
現在のような河口域の青田風景は近世に出来上がります。
それまで河口域は豊富な水があることにはまちがいありませんが、一度大雨となると田畑は根こそぎ流されるハイリスクな場所となっていました。
中世から近世にかけて日本の農業とりわけ稲作は、谷あいの筋に作られ<谷戸田><谷池田>と呼ばれるエリアに集中します。
江戸時代に入り、河口部、湖沼部の開墾事業が<官><民>で盛んに行われるようになります。特に民間の事業者は開墾事業(干拓・埋立て)をすることで新たな土地の所有権や、名字帯刀などの名誉も受けられたため積極的に事業申請が行われます。
この頃、江戸に港都横浜誕生の恩人が登場します。
千住中村の音無川流域の湿原の干拓事業に成功し、木材・石材の販売や新田の農業経営に才能を発揮した江戸の木材・石材問屋「吉田 勘兵衛良信」です。
彼は、江戸での事業を果敢に進めますが、幕府に申請した目標千石に至りませんでした。
そこで勘兵衛は関東近在の候補地から久良岐郡戸部村近くの大岡川河口に広がる深い入海に着目します。
十七世紀中頃の話です。
この頃、多くの事業家達が江戸近辺の候補地探しを実施していました。簡略図をみても明らかなように、江戸時代に河口は「帷子川」「大岡川」の二つありました。勘兵衛は何故「大岡川」河口を選んだのでしょうか?
詳細な理由は資料が無いため判りませんが、この大岡川河口地を選択したことが後に都市横浜を育てた大きな要因となっていきます。仮説がありますが、いずれまとまった時点で紹介します。
(干拓事業)
1656年(明暦2年7月17日)に干拓事業を開始し釣鐘形の入り海を挫折を含め11年の歳月をかけて完成させます。
大岡川入海に誕生した新田は約35万坪、横浜近辺の干拓事業の中では一番早い<大普請>となりました。
横浜の歴史で必ず習う「吉田新田」が開拓されることで、<横浜開港>が現実のものとなります。干拓前の入海状態では、国際港を支える<開港場>の形成は難しく日本側も欧米列強側も<横浜港>議論にはならなかったに違いありません。
もし?帷子川河口が先に<干拓>されていたら、その後の横浜史が大きく変わったことは間違いないでしょう。
ここに歴史の<イフ>の面白さが広がっていきます。
大岡川河口域の<入海>と帷子川河口域<入海>=袖ヶ浦を比較すると
農業経営に適した新田事業候補地として考えた時
帷子川河口域<袖ヶ浦>干拓は非現実的でした。
神奈川宿(湊)に近い帷子川河口域芝生村近辺は、東海道筋にあたり帷子川を使った水運経済が盛んだったことで干拓する理由がありませんでした。
一方の大岡川河口域の<入海>は、江戸中期には河口域の半分が遠浅で船の利用が難しくなっていたようです。
しかも<入海>全体をまとめて干拓するスケールメリットがある点も
勘兵衛はこの地に着目した点でしょう。
これに対して帷子川河口域<袖ヶ浦>の干拓事業は、江戸後期に沿岸部が徐々に部分的に進められます。事業の直接のきっかけが宝暦の「富士山噴火」でした。神奈川県一円に大量の火山灰が降り落ち、上流の支川に流れ込み入江に沈殿するようになります。
川を使っていた帷子川河口域の人たちは必要に迫られて河岸の整備(埋め立て)を幕府に申請します。一方で、河口でこれまで水運事業をすすめてきた勢力とは、入海の利用を巡って係争の記録も残っています。
帷子川河口域は挑戦しつつも失敗、挫折を繰り返し新田を開拓していきました。
(帷子川河口域の新田史)
1707年(宝永4年)
宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火が起こります。
徳川吉宗の新田開発推奨により尾張屋新田・藤江新田・宝暦新田など帷子川河口の岸沿いに「塩除け堤」を築き小さな新田開拓が行われます。
1761年(宝暦11年)
検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)
検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
→開発者の尾張屋九平次、その子武平治に引き継がれますが、頓挫し開発権は藤江、平沼両氏に譲ることになります。
1780年(安永9年11月)
検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)
検地を受け藤江新田となる。
→藤江新田を手掛けた藤江茂右衛門も挫折。残りの権利を岡野勘四郎に譲ります。
(岡野・平沼)
1830年(天保年間)
程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な干拓事業を開始します。
1833年(天保4年)
岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)
検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)
検地を受け弘化新田となる。
1864年(元治元年)
さらに検地を受け岡野新田拡大。
しかし、完全に帷子川河口埋め立てが完了したのは大正時代でした。
(大岡川河口新田史)
1656年(明暦2年)
吉田勘兵衛、江戸幕府から、新田開発の許可を得た。
1656年9月5日(明暦2年7月17日)
吉田新田 鍬入れ式
1657年6月21日(明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで
大雨で潮除堤が崩壊
1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を再開 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島
1667年(寛文7年)
吉田新田 完成
1669年(寛文9年)
功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)
公式の検地、新田村となった。
1804年〜文化年間
横浜新田完成
1850年代
太田屋新田事業着工、完成
1859年11月10日(安政6年)
太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年7月1日(安政6年6月2日)
横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)
野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟が竣工。桜川の誕生。
(まとめ)
吉田勘兵衛が、江戸で成功し新たな事業として大岡川河口干拓に着手。
農業事業として干拓を考えたため事業リスクはありましたが一気に<入海>全体の干拓事業を構想したおかげで まとまった港の後背地が誕生します。
宝暦の富士山噴火で入江に大量の灰が流れ込み帷子川河口域の埋立てが促進されます。沿岸の人たちが必要に応じて順次埋立てを進めていきます。
なかなか全域の埋め立てには至りませんが、入江の埋立て全体の骨格が形成されていきます。この入江のエッジが開港場の要となった<横浜道>筋となります。
ペリーが来航し、一気に横浜開港へと歴史が展開します。
二つの大きな入江が、それぞれの自然条件とここに関わる人々の情熱が重なり合うことで、横浜が<開港場>として誕生することができたのです。
※斎藤司先生の講演を元に構成させていただきました。
No.700 【横浜の河川】川いろはのイ
これまでいろいろ横浜の川を紹介してきました。
この横浜の「河川の基本?!」をおさらいしておきます。
(その1)
川の左岸・右岸の基準知っていますか?
「川の上流から下流に向かって、左側を左岸、右側を右岸と呼びます。」
例:かつて横浜市電は堀割川の右岸を走っていた。
横浜市中区にある元町商店街は堀川右岸に沿っている。
(その2)
本川(ほんせん)・支川(しせん)・派川(はせん)
「たくさんの川が(=支川)が集まって大きな流れ(=本川)になります。また、途中から本川と分れて直接海に注いだり再び本川に合流する流れを(=派川)といいます。または本川=本流・幹川、支川=支流、派川=分流といった別称が使われる場合があります。」
この本川(ほんせん)・支川(しせん)・派川(はせん)全体を総称して<水系>と呼びます。
(横浜市内の主な水系)
鶴見川・帷子川・大岡川・境川の四つが横浜の代表的な水系です。
(その3)
この水系には<等級>があります。
<一級水系><二級水系><単独水系>
『国土保全上または国民経済上特に重要な水系を建設大臣が直接管理し「一級水系」』と呼びます。「一級水系」以外の水系は「二級水系」として都道府県知事が管理します。この一級水系,二級水系以外に「単独水系」と呼ばれる水系もあります。
<その2>で紹介した「本川(ほんせん)・支川(しせん)・派川(はせん)」はそれぞれ
一級水系に係わる河川→「一級河川」
二級水系に係わる河川→「二級河川」
「一級水系,二級水系,単独水系」→一部「準用河川」等級にかかわらず設定され(河川法の規定の一部を準用し)市町村長が管理する河川といった区分があります。
定義だけではどうも想像しにくいので 横浜市内で例にとり紹介しましょう。
(水系と河川)
一級水系鶴見川には国が直接管理する「一級河川」が9河川あります。
<本川の一級河川鶴見川(30,500m)>
<支川>恩田川(7,600m)、梅田川(2,200m)、鴨居川(100m)、大熊川(2,840m)、鳥山川(4,180m)、砂田川(1,470m)、早渕川(9,770m)、矢上川(2,800m)
二級水系帷子川には神奈川県知事が管理する「二級河川」が7河川あります。
<本川の帷子川>帷子川(17,340m)
<支川>中堀川(850m)、今井川(5,590m)、石崎川(1,600m)、新田間川(2,200m)、幸川(300m)、帷子川分水路(6,610m)
二級水系大岡川には神奈川県知事が管理する「二級河川」が6河川あります。
<本川の大岡川(10,540m)>
<支川>)日野川(1,900m)、中村川(3,000m)、堀川(900m)、堀割川(2,700m)、大岡川分水路(3,640m)
二級水系境川には神奈川県知事が管理する「二級河川」が9河川あります。
<本川の境川(18,300m)>
<支川>柏尾川(7,030m)、平戸永谷(4,920m)、阿久和川(5,510m)、いたち川(7,180m)、和泉川(9,510m)、宇田川(3,830m)、舞岡川(1,640m)、名瀬川(2,210m)
この水系の他に「侍従川(2,620m)」と「宮川(2,040m)」も「二級河川」です。
合わせて市内には「二級河川」が合計24河川あります。
さらに 市長が管理する「準用河川」は25河川あります。
市内には58の河川(準用河川を除く)が流れています。
市が管理する準用河川にも鶴見川水系の黒須田川(2,820m)、奈良川(3,470m)といったかなり長い河川が存在します。
横浜の河川関係ブログ
No.377 1月11日(金)花鳥風月のまちづくり
No.699 【横浜 失われた風景】ある総菜店
1990年代、戸部駅近辺に事務所があって良く買った総菜店があります。
当時は写真なんて考えていなかったので記録はありませんが、魚のフライがめちゃくちゃ美味しいお店でした。
コンビニでライスだけ購入して総菜はここで揃えるランチに凝った時期もありました。
この店の名は「たかさご亭」。国道一号線沿いにある知るヒトぞ知るお店でした。
横浜の総菜店として紹介したことがあります。
この時お店の名は伏せて欲しいとの要望があり「店名は秘密」としました。
<横浜18区のほん「横浜の食材」>
国道一号線を戸部駅あたりから保土ケ谷駅方向に走ると左手に、セットバックせず拡張工事から取り残されているような“一見 立ち退き反対のような”建物が2軒あって、その一つが総菜店「高砂亭」看板は「たかさご亭」とひらがなになっていました。
一方反対側にはこれまた取り残されたように「理容店」と「酒屋」が営業中で、他に数軒閉店した店舗が並んでいました。時系列ははっきり記憶していませんが
理容店・酒屋が閉まった後も「たかさご亭」は営業していて、コロッケを買いました。
お店には 時折 笑顔がすてきなおばあちゃんがいらして立ち話をしたものです。
このあたりの国道1号線拡幅工事のための土地買収が始まったのがバブルの直前で、以来四半世紀遅々として進んでいないのが現状です。京急戸部駅の拡幅に対応した工事が終了してるので、そろそろ最終工事に入るかな?という状況ですね。
元々 このあたりは1928年(昭和3年)9月に扇田町となり戦後の1966年(昭和41年)に西区中央となったエリアです。扇田のなごりは石崎川に架かる「扇田橋」くらいですね。
おばあちゃんの話では「たかさご亭」は戦後まもなく義理のお兄さんが開店したお店が始まりだとか。区役所があり市電「扇田駅」近くということもあり商売は順調だったようです。
先日、閉店した「たかさご亭」前を通ったら閉店の張り紙に多くの方の書込みがありました。心温まるメッセージですね。
もったいないので記念に撮っておきました。
人づての話では、国道拡幅計画に対し、反対ではないがお店を移転して営業するつもりは無いので、ぎりぎりまで営業したいという意向があったようで、計画進行が遅れることにともなってこの店の命も長らえたというところのようです。また一つ 横浜から時代の記憶が消えていきました。
No.698 【横浜 橋物語】幻の橋?、吉田橋。
「橋」の定義はなんだろう?
「人や物が、谷、川、海、窪地や道路、線路などの交通路上の交差物を乗り越えるための構造物である」
「河川・渓谷・運河などの上に架け渡し、道路・鉄道などを通す構築物。橋。」
「土木工学ハンドブック」では
「橋梁とは、道路、鉄道、水路等の輸送路において、輸送の障害となる河川、渓谷、湖沼、海峡あるいは他の道路、鉄道、水路等の上方にこれらを横断するために建設される構造物の総称である。」「市街地において効率的な土地利用の観点から、道路上あるいは河川上の空間に連続して建設される高架橋も橋梁の一形態である。」
今日は<橋>の話です。江戸から明治に<近世>から<近代>になった大きな変化の一つに橋梁の歴史があります。江戸幕府は橋梁設置に消極的でした。一方で近代に入り、橋梁は政府の重要政策となります。ちなみに大阪も東京も<橋都(きょうと)>です。城下町には橋がシンボルですね。
前置きが長くなりましたが、横浜も新田の町、運河の町として発達してきました。特に開港時からは<橋>が重要になってきます。
横浜開港場の<橋>といえば、
『吉田橋』です。ここは関門橋ですから、まさに横浜開港場の<関内><関外>を繋ぐ橋でした。このあたりに関しては、多くの歴史情報、観光情報がありますので<吉田>の名を含めて調べる楽しみがあると思います。実際に『吉田橋』脇に解説看板も記念碑もありますので参考にしてください。
今日は 吉田橋の歴史的解説をするためにブログを書き始めた訳ではありません。
もう少しひねくれた 素朴な疑問です。
冒頭に橋ってなんだろう?と疑問を提示しました。
(川は濁って橋は濁らない?)思いっきり寄り道します。
ちなみに、行政的に<橋>は<はし>で<ばし>とは表記されていません。
川の表記は<おおおかがわ><つるみがわ><かたびらがわ> 何故なんでしょうね?
本論に行く前に横路にそれていますが どんどん行きます。
当たり前ですが橋には一つ一つ名前があります。それぞれ橋を渡る時 橋の名を確認することができます。(面倒でなければ)
橋=橋梁には 両脇に欄干=高欄(こうらん、hand rail)があります。この高欄の端々(四隅)に親柱というものを立てたり、プレートを設置したりします。
この高欄の四隅に着いている橋に関する<プレート>河川橋の場合、全て異なっています。
1橋梁名称の正式名称(漢字かな表記)
2橋梁名称のふりかな(ひらがな表記)
3設置河川名称
4設置年月
では?陸橋や架線橋の場合は?
→謎解きは ご自分の目で!確認してみましょう。(別の機会にじっくり紹介します)
はなしが捩れてきましたので元に戻します。
横浜が開港した際、治外法権の居留地(関内)と市街地(関外)を結ぶ橋が「吉田橋」です。
<派大岡川>の上に架けられ、その後ここを首都高速が通ることになりましたので、河川橋から架道橋に変身します。
【架道橋】道路や鉄道を立体交差で越えるために架けられた橋。跨道(こどう)橋・跨線橋など。
吉田橋、(首都高道)路の上を渡る<橋>であるはずなんですが、
「吉田橋」は橋じゃない?かもしれないという 疑問が湧いてきたのです。
いやー どうみても 橋でしょ!
でも、横浜市の橋梁リストに「吉田橋」がありません!!!!
「吉田橋」を横から見たことありますか?

<改装後の 吉田橋 マリナード入口あたり>
構造は、マリナード地下街の入口通路の上に<屋根>のように吉田橋、通路の下に首都高速が通っています。地下街の下を通過する道路にイチイチ橋梁名は付いていないですし、ここは<暗渠>なの?
この天井が吉田橋ですね。
リストには無いし、橋の下は広場?だし…
なぞは深まるばかり。
期待させといて つづく!
<吉田橋関連ブログ>(他にもいろいろありますが)
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇
No.697 【一枚の横浜絵葉書】昔の絵葉書風景を読む。
戦前の絵葉書の役割は現在の絵葉書とは少し異なります。<観光>に加えて<ニュース性>のある絵葉書が多く発行されています。
今回は一枚の読み解きにくい<風景>を探索します。
「Yokohamashi Zenkei 横浜市全景」
<港>や<水際>の無い横浜の全景絵葉書です。あまりに場所がわかりにくい<風景>ですね。ランドマークが良く判らない風景です。横浜全景なのに港がありません。港の無い「横浜」は市域拡張後の横浜では普通ですが、「横浜市全景」をタイトルにしているところから開港場周辺であるとは疑いがないでしょう。ということは、戦前の<組絵葉書>の可能性があります。
港の風景と住宅街の風景を対比させているかもしれません。
が、この絵葉書に写し出されている情景のみで“すこし”読み解いてみましょう。
(ヒントとなるものを探す)
「横浜市全景」という表現からこの風景が1889年(明治22年)から1927年(昭和2年)の市域拡大前の時期ではないかと推理しました。さらに1923年(大正12年)の関東大震災以前ではないかとも推理できそうです。
次に遠景から、地平線に稜線があり、この風景の撮影ポイントもある程度の高いところからと思われます。初期の横浜の特徴を良く顕している<山手側>か<野毛山側>であることは間違いないでしょう。
では、山手側・野毛側?どちらでしょうかと推理してみます。その前に、
ここで一点考えておかなければならない“要素”が「逆版」です。一応逆版画像も紹介しておきます。
<トーンを変えています>
昔の写真や絵葉書には時折この<逆版>がありますので注意しなければなりませんが、今回は参考程度に留めておきます。
稜線の高さが一定に見えるように視界が開け、さらには開港場の洋館などがあまり見えない場所はどこか?
その前に、この風景に写っている<ポイント>を探します。
画像を右下から左上に向け対角線状にかなり広い道路が走っています。
※電信柱から十四・五連の大きさを読み取ることができます。
この通りに沿って、商家の家が連なっています。
ここに通りと川筋を私の推測で引いてみました。
遠景に教会・仏閣が見えます。さらに目を凝らしてみると 左上ゾーンには和風の甍が無いことがわかりますので、もしかしたら元町方向かも?しれません。
稜線の上には建物らしき影もあります。
さらに基本的な風景情報としてこの<光景>は朝焼け?夕焼け?
これらの情報をもう少し織り込んで さらなる謎解きを続けます。
(今回はここまで)
さらに探索を続けます。
この情景は、震災で崩れた「百段坂」上からの開港場風景です。目前に堀川端がはっきり見えています。今回の謎解き風景には道路が一切見えておりません。おそらくもう少し低い位置からの風景と推理できます。
<百段坂>階段中腹としても目前に広がる風景には少し違和感を感じます。では上記画面左端のあたりから見たらどうでしょうか?そうすると<遠景>の建物がかなりマッチするように思えます。
(20150120)時点での中間報告です。
No.696 【一枚の絵はがきから】安藤記念教会
戦前の絵はがきに関心があり、収集したり参考資料を探したりしています。有名どころの<絵はがき>は高価ですが当時盛んに発行された<普通の絵はがき>は手軽に入手できます。
キロ単位で購入した<絵はがき>にも思わぬ発見があります。今日はこのあたりから、話を進めます。意外な横浜接点がありました。
ここに一枚の絵はがきがあります。
「安藤記念教会構内全景(向って右 礼拝堂・中央幼稚園・左 安藤先生旧宅)」
この一枚に写っている建物はタイトルの通り、安藤記念教会として現存します。
http://ando-kinen.com
1917年(大正6年)に建てられ約一世紀、メソジストの伝統をもつプロテスタントの教会です。創設者の安藤太郎は1846年5月3日(弘化3年4月8日)に鳥羽藩医・安藤文沢の子として生まれました。開港間もない横浜でアメリカ人宣教師のディビッド・タムソンとサミュエル・ロビンス・ブラウンに英語を学びます。
※サミュエル・ロビンス・ブラウン
http://ja.wikipedia.org/wiki/サミュエル・ロビンス・ブラウン
※ディビッド・タムソン
http://ja.wikipedia.org/wiki/ディビッド・タムソン
海軍操練所、陸軍伝習所で学んだ後
榎本武揚らとともに1868年(慶応4年)江戸を脱出する<北行部隊>の一員として箱館戦争「五稜郭の戦い」の一員に加わります。階級は二等見習士官という下級士官でした。
この時、榎本艦隊の軍艦頭だった荒井郁之助(あらい いくのすけ)が安藤の妻の文子の兄であり、自分の姉の夫でもあった重縁もあり箱館戦争に身を投じることになったのでしょう。
安藤の義兄「荒井郁之助」は徳川政権のときに横浜で大鳥圭介と共にフランス式軍事伝習を受けた軍人でした。榎本<箱館政権>(蝦夷共和国)の下で海軍奉行となり、宮古湾海戦や箱館湾海戦で<新政府軍>に対し奮闘し降伏後は開拓使、開拓使仮学校・女学校校長、初代中央気象台長を歴任しました。
一方、安藤太郎は函館戦争後、一年間の禁固刑に処せられますが語学力をかわれ明治政府の外務省翻訳官に任官されます。1871年(明治4年)岩倉使節団の通訳官(四等書記官)として参加し帰国後香港領事、初代ハワイ総領事となりますが、この時期にキリスト教と出会い、文子夫人とともに洗礼を受けキリスト教徒となります。
その後、安藤の妻文子の遺志により自宅の一角に講義所を設けます。
1917年(大正6年)9月に礼拝堂が完成し、関東大震災、戦災を乗越え現存しています。
ここで注目すべきは、礼拝堂にあるステンドグラスです。
(未訪問ですので是非機会を作って訪問したいと思っています)
ステンドグラスを制作したのは小川三知(おがわ さんち)で、横浜とも少し縁のある方です。
小川三知は、「知る人ぞ知る日本のステンドグラス界のパイオニア」と呼ばれています。
「小川 三知は大正から昭和初めに活躍したステンドグラスの工芸家。 橋本雅邦に学んだ高い日本画の素養と、アメリカで修行して身に付けた複雑な色調を生み出すガラス技法で、アール・ヌーヴォー、アール・デコ風でありながらどこか日本情緒を感じさせる作品を生み出し、日本初のステンドグラス作家といえる存在である。(Wikipedia)」
東京と神奈川の現存する作品をざくっと紹介します。
日本メソヂスト教会 銀座教会(東京都中央区)
鎌倉国宝館(神奈川県鎌倉市)
横浜では
日本郵船氷川丸(神奈川県横浜市)一等特別室ステンドグラス
http://www.nyk.com/rekishi/index.htm
横浜市長公舎(神奈川県横浜市)
子安小学校(神奈川県横浜市)
ステンドグラスと横浜も広がるテーマですので改めて紹介します。
(今日はここまで)
No.695【横浜路線バスの旅】市民に最も利用されている路線は?
最近、路線バスに少しハマっています。
市内で最も広く・多くの市民に愛用、利用されている路線バスはどこだろう?と考えました。
私の直感的推理では<旭23系統>と考えています。
乗降者総数では他にナンバーワン路線があると思いますが“広く・多くの市民に愛用、利用”となるとこの<旭23系統>でしょう。
理由は至ってシンプルで「運転試験場」と「がんセンター」があるからです。
<旭23系統>=二俣川駅〜運転試験場〜二俣川駅の循環バスです。
神奈川県警察運転免許試験場、多くの利用者には「二俣」または「二俣川」で通じるでしょう。
二俣川運転免許試験場、1963(昭和38)年10月に開設していらい半世紀50年が経っていることになります。
https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mes83001.htm
統計からアバウト計算すると、神奈川県の年間免許交付数が約97,000人(平成24年度)ですから半世紀で人口変動や書き換え等の利用者も加味し約500万人位?
内横浜市民が人口比から200万人位の利用かな?
冒頭にも書きましたが
人数は別にして、市内全域から市民が利用するバス路線はここしか無い!
と思っているのですがどうでしょう。
「運転免許試験場」のある横浜市旭区中尾周辺は<旭区神奈川県>
と呼んでも良いくらい県有地と県関係の施設が集中しています。
行政用語でいう「広域利用圏をもつ公共施設」が多く立地しています。
このエリアの県有地は総面積で約26.7haもあるそうです。
●神奈川県立産業技術短期大学校
●神奈川県立二俣川看護福祉高等学校
●神奈川県立よこはま看護専門学校
●神奈川県立公文書館
●神奈川県国際研修センター
●県立保健福祉大学実践教育センター
●神奈川県立がんセンター
●がんセンターあゆみ園
●神奈川県ライトセンター
●県立がんセンター医療従事者公舎
●災害救助用備蓄物 資保管倉庫
●公益財団法人神奈川県少年少女育成指導協会
※日本ボーイスカウト神奈川連盟事務局
※公益社団法人ガールスカウト神奈川県連盟
※一般社団法人神奈川県子ども会連合会事務局
■県職員二俣川アパート
ざくっと探しただけですのでこの他にもあるかもしれませんが、行政機関集中地区です。ここへの利用者も加味すると、<旭23系統>は広範囲の利用率が高い路線バスといえるのではないでしょうか?
その割にといってはなんですが、バス利用が不便ですね。二俣川ライフ(駅ビル)の一階にバスターミナルがありますが、初めての方にはちょっと探しにくい場所ですね。
駅ビルの途中で この案内指示を見逃すと彷徨ってしまいます!!!!
改札には大きく掲示されていますが?出て見ると 一瞬わからなくなります。
この「二俣川駅」
開業は神中鉄道時代の1926年(大正15年)5月12日と古く、交通の要衝でもあったため歴史的にも面白いエリアです。現在は相鉄いずみの線との分岐点です。
神奈川県施設集中の中で地味ですが気になっていたのが
「神奈川県ライトセンター(指定管理者:日本赤十字社)」です。
http://www.kanagawalc.org
ここでいう“ライト”が視覚障害福祉のための“ひかり”を表すものだったとは知りませんでした。
「ライトセンターは神奈川県内の視覚障害福祉の向上のために、日本赤十字社の基本理念である「人道」「公平」を掲げ視覚障害の皆様のために、視覚障害援助ボランティアの皆様のために、積極的に業務を行わせていただいています。」
「神奈川県ライトセンター」は県内の視覚障害者に対して、「点字・録音図書」などの情報提供や各種相談・指導を行っている施設です。
さらに視覚障害者へのボランティア活動を志す人達の育成・指導なども行ってるそうです。設立は1974年(昭和49年)4月、運営は日本赤十字社が指定管理者として行っています。この神奈川県ライトセンターの特徴の一つが“視覚障害者を対象とした点字図書館と体育館・プール等の利用施設機能を併設したセンター”で他県には例がないと言われています。
現在の建物は1993年(平成8年)10月に竣工し現在に至っています。
(バリアフリー商店街)
もう一つ「二俣川銀座商店街」は90年代に「地域と人にやさしい躍動感あふれる街づくり」をコンセプトに、高齢者や障害者にもやさしい街づくりを推進し別名”フラット通り”商店街としていち早くスタートしましたが、完全にバリアフリー化まで達していません。これは商店街の責任ではありませんが、せっかくパイオニアとして”フラット通り”商店街を推進したのですから、ライトセンターとコラボし もっとやさしい街づくりを推進して欲しいですね。
※バスはまだまだ 高齢者や障害者には厳しい乗り物です。
ベストは<低床車両>ですがこれに関しては抜本的計画が必要になってきますね。
(南口再開発)
二俣川駅というのは何気なく利用していますが、断崖絶壁中腹に線路があるって感じの駅です。
駅南口は改札を出て登り!
駅北口は改札を出て降り。
南側には「グリーングリーン」というショッピングビルがありましたが、2014年9月に閉店し、目下再開発が始まるところです。
新線計画も進んでいるところですので もう少し伸びるか?
注目しておきたい駅です。
路線バス<旭23系統>から少し離れましたが、追々市内路線バスも紹介していきます。
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」
区役所は、歴史的地勢や例外を除いて概ね区の中心に近いところに設置されていますが、
中には様々な事情で区役所が移動した区があります。
今日は<一枚の絵葉書>から一時期桜木町駅前に中区役所があった風景を紹介します。
約20年間、桜木町駅前に中区役所がありました。かなり『西区』よりにあったんですね。
No.326 11月21日(水)彷徨える中区役所
※近年でいえば、南区役所は端っこに移転しますね。ほぼ中区といっても良いくらいの位置です。
さて、ここで一枚の絵葉書を紹介しましょう。
「桜木町横浜市授産所ノ偉観」です。
(撮影位置)
このシーンが撮影されたのは恐らく、下図の位置でしょう。
現在ならJRガード下近くの公衆トイレ近くでしょうか。
鉄道発祥の地「初代横浜駅」(現 桜木町駅)前には当初から噴水がありました。
(授産所)
ここに写っている煉瓦作りの建物が「興産館」で1929年(昭和4年)に竣工しました。
「興産館」は震災復興政策の一つとして建設されました。ここに「市中央授産所」がありました。<授産所>あまり聞き慣れない言葉かも知れませんが、
「授産所(じゅさんじょ)とは、身体障害者や知的障害者、ならびに家庭の事情で就業や技能取得が困難な人物に対し、就労の場や技能取得を手助けする福祉施設である。施設の設置は、おもに社会福祉法人などの団体によって行なわれている。(wikipedia)」
授産所=授産施設は<生活弱者のための就労支援施設>です。
1927年(昭和2年)横浜市が復興社会事業費より28万円を捻出して着工します。
1929年(昭和4年)「興産館」桜木町駅前授産所の場所に開館。
1929年(昭和4年)6月11日に「市中央授産所」として桜木町に設置されます。
1930年(昭和5年)5月11日「 横浜興産館主催の国際文化映画大会が5日間開催」※こんな記事も見つけました。
この絵葉書の情景、拡大してみると看板に人が写っています。「●●展覧会 」という看板を製作しているように見えます。最初、『復興記念横浜大博覧会』の看板かな?と思いましたが、拡大してみると違っていました。この博覧会もついでに紹介しておきます。
(復興記念横浜大博覧会)
1935年(昭和10年)3月26日から『復興記念横浜大博覧会』が5月24日まで山下公園を中心に開催されます。
大正12年の<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興を記念して産業貿易振興を含め様々な催しが開催されました。
山下公園に約10万平方メートルを会場を設置し開催されました。来場者は3,299,000人とされています。
第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(中区役所)
1942年(昭和17年)3月 中区役所が港町1丁目(市役所内)より桜木町1丁目の興産館へ移転します。
1944年(昭和19年)4月1日西区が中区より分区して誕生しました。
※これによって、中区役所は<中区>の端に位置することになります。
1961年(昭和36年)に住吉町4丁目の横浜銀行ビルを改装し移転するまで、約20年中区役所は桜木町駅前にありました。
1983年(昭和58年)11月21日(月)三度目、現在の場所に引越します。前川國男建築設計事務所の設計です。
(市役所去って)
桜木町駅前から「中区役所」が去ってしまい、
1968年(昭和43年)4月30日に「桜木町ゴールデンセンター」が竣工します。
現在の「ぴおシティ」です。
(まとめ?)
冒頭に明示しておきませんでしたが、この<興産館>の跡地は現在桜木町駅前の立体パーキングになっています。
Google earthで確認しておきます。
再度この絵葉書を眺めてみると、
中々良い姿ですよね。横浜は震災と空襲で多くの味わいのある建物が失われてしまいました。復古趣味になることには異論がありますが、失いたくなかった風景です。
この味わいを今後どう活かして行ったらいいのでしょうか?
少子高齢化で都市が萎縮して行くことは間違いありませんね。
ちょっと 時代を振り返るヒントが あったほうが これからはなお良いと思います。
No.693【一枚の横浜絵葉書】「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」
オークションで絵葉書を探している時、目に留まる一枚に出会うことがあります。この一枚に関しては、まず萬国橋に関心が行き、どうしようかなと迷う程度のレベルでした。
戦前の「萬国橋」が写っていますが、もう少し大きく「萬国橋」が写っているものを探そうと思いました。ところが、
「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」のタイトルが気になりました。
<露臺>?
<露臺>とは、建物の外面に張り出した、屋根のない平らな所でバルコニーのこと。
現在の位置だとどこにあたるのだろうか?と探すとすぐに見つかりました。
海岸通り4丁目にある「萬国橋会議センター」(横浜港労働出張所)ハローワーク横浜港労働出張所から萬国橋を撮ったものでしょう。
この葉書の<表面(おもて)>には「神奈川県匡濟会 発行」「沖人夫休憩所新築落成記念」とありますので間違いなく“港で働く人”の施設で、現在も施設として機能していたことに驚きました。
(万国橋)
この絵葉書に写されている「萬国橋」めちゃデコラティブですね。
現在の万国橋は、1940年(昭和15年)に竣工した新港埠頭と北仲を結ぶコンクリートアーチ橋です。シンプルなコンクリートアーチ橋の前はこの絵葉書にあるような鉄橋で1914年(大正3年)に完成した「税関埠頭」と陸地を結ぶ唯一の橋として建造されました。
※橋の建設主体は大蔵省で現在も財務省管轄?
ということで、この絵葉書に描かれている「萬国橋」は1940年(昭和15年)以前ということがわかります。
「横浜近代史年表」を調べてみました。
1921年(大正10年)1月上旬に「沖人夫休憩所、税関構内の象ケ鼻と日本波止場に建設決定」。竣工は翌年1922年(大正11年)6月中旬「県匡濟会の施設として沖人夫休憩所竣工、名称を各々税関構内象ケ鼻・日本波止場沖仲仕休憩所と命名」とありました。
この年譜からこの絵葉書は1922年(大正11年)6月中旬頃の発行の可能性があります。
関東大震災の一年前のことですね。
その後、1925年(大正14年)12月12日に「沖仲仕休憩所、日本波止場に開所」
恐らく震災後復興・再建されたものでしょう。
この資料の範囲内では、絵葉書「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」は
震災直前の1922年(大正11年)か、復興の1925年(大正14年)と推定することができます。
橋周辺の風景から私は“震災直前”のように感じますが皆さんはいかがでしょうか?
その後、二カ所あった沖仲仕休憩所は1943年(昭和18年)3月31日に廃止されます。
(スペック)
神奈川県匡濟会 発行
沖人夫休憩所新築落成記念
「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」
現在の「萬国橋会議センター」
(横浜港労働出張所)
ハローワーク横浜港労働出張所
No.692 世界一周機「ニッポン」(号)
1939年(昭和14年)8月27日午後3時3分47秒
北海道千歳の飛行場から世界一周をめざし一機の大型双発機が飛び立ちます。
J‐BACI「ニッポン号」
前日の8月26日午前10時27分に羽田を出発し、一旦北海道千歳に移動。
ここでスタート宣言し国産機初の世界一周に成功します。
このエピソードから少し<横浜>との関係をたぐり寄せてみましょう。

第一次世界大戦に登場した航空機は、戦争の形態を大きく変えました。その後、軍拡と併せて航空機の技術革新による世界一周が各国でブームとなります。
1920年代に始まる世界一周飛行を追ってみます。
●1924年(大正13年)4月4日〜9月28日
アメリカ陸軍のスミス中尉が、ダグラス DWC複葉機4機編隊で挑戦し、各地で補給と整備を繰り返しながら2機が成功しました。
航続距離4万6560km、175日、飛行333時間。
ルート:シカゴ→シアトル→ダッチハーバー(アラスカ)→※霞ヶ浦→上海→カラチ→ロンドン→アイスランド→グリーンランド→シカゴ
■1927年(昭和2年)5月
世界一周ではありませんが、単葉機スピリットオブセントルイス号でチャールズ・リンドバーグが単独の大西洋無着陸横断飛行を初めて達成し世界を驚かせます。
→リンドバーグ夫妻は1931年(昭和6年)9月7日(月)に横浜を訪れています。
●1928年(昭和3年)
オーストラリアのブリスベン生まれのチャールズ・キングスフォード・スミスが、カリフォルニア州オークランドから離陸、途中ハワイ、スヴァを経由してブリスベンに至る歴史的な横断飛行を飛行時間83時間38分で達成します。
●1929年8月8日〜8月29日
LZ 127 グラーフツェッペリンが飛行船により世界一周を達成します。この時、予定に無い航路を選び、横浜上空を周回し霞ヶ浦に着陸します。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命
●1931年(昭和6年)6月23日〜7月1日
アメリカのウィリー・ポストとゲッティが、ロッキード ベガ「ウィニー・メー号」で航続距離2万5910km、8日15時間51分、飛行125時間を達成します。
ルート:ニューヨーク→ベルリン→モスクワ→ニューヨーク
●1931年(昭和6年)7月28日
アメリカのパングボーンとハーンドンが、ベランカ機「ミス・ビードル号」で世界一周最速を狙います。様々なトラブルで達成できませんが初の太平洋無着陸横断飛行には成功します。
ルート:ニューヨーク→(大西洋)→ロンドン→ベルリン→モスクワ→ハバロフスク→東京→※青森県淋代海岸(10月4日)→ウェナチー(10月5日7時11分(米国時間))→ニューヨーク
※この飛行には「リチャードデリシャス」というリンゴにまつわるエピソードがありました。
http://www.aomori-itc.or.jp/index.php?id=1153
●1932年(昭和7年)7月21日〜11月10日
ドイツのウォルフガング・フォン・グロナウが、ドルニエワール飛行艇で達成します。111日をかけ西回りルートをとります。
ルート:トラーヴェミュンデ(ドイツ)→アイスランド→グリーンランド→オタワ→ダッチハーバー→霞ヶ浦→フィリピン、マラッカ、インド、イラン、キプロスなどを経由しドイツに帰還。
●1933年(昭和8年)7月14日〜7月22日
アメリカのウィリー・ポストが1931年に引き続きロッキード・ヴェガで達成しました。この飛行で初の「単独」世界一周飛行を実現します。
航続距離2万4957km、7日18時間49分、飛行114時間
ルート:ニューヨーク→(大西洋)→ベルリン→モスクワ→イルクーツク→ハバロフスク→フェアバンクス→エドモントン→ニューヨーク
●1938年(昭和13年)
アメリカの実業家・映画製作者・飛行家と多才なハワード・ヒューズがロッキード単葉機で達成します。2万3488km、3日19時間17分。
ルート:ニューヨーク→パリ→モスクワ→オムスク(シベリア)→ヤクーツク→フェアバンクス→ミネアポリス→ニューヨーク
☆★1939年(昭和14年)8月26日午前10時27分
「ニッポン号」が羽田を旅立ち、55日目の1O月20日午後1時47分に羽田に無事帰還し世界一周を達成します。
少し長くなりますがルートを紹介します。

8月26日 東京→8月27日 札幌→8月29日 ノーム→8月30日 フェアバンクス→8月31日 ホワイトホース→9月02日 シアトル→9月03日 オークランド→9月07日 ロサンゼルス→9月08日 アルバカーキ→9月09日 シカゴ→9月16日 ニューヨーク→9月18日 ワシントン→9月19日 マイアミ→9月22日 サンサルバドル→9月23日 サンティアゴ・デ・カリ(コロンビア)→9月24日 リマ→9月25日 アリカ→9月27日 サンティアゴ→9月29日 ブエノスアイレス→10月1日 サントス(ブラジル)→10月4日 リオデジャネイロ→10月5日 ナタール→10月6日 ダカール→10月8日 カサブランカ(モロッコ)→10月9日 セビリア(スペイン)→10月12日 ローマ→10月13日 ロドス島(ギリシャ)→10月14日 バスラ(イラク)→10月16日 カラチ→10月17日 コルカタ(インド)→10月19日 バンコク→10月20日 台北→羽田
※上の葉書に予告されたコースが実際には一部変更されました。
すでに欧州では<戦争>が始まっていたからです。
少し前置きが長くなりましたが、この世界一周計画は大阪毎日新聞社)が東京日日新聞と共同企画したもので、航空機は当時海軍が使用し好成蹟をあげていた「96式陸上攻撃機」を長距離輸送機に改造して使用する計画でした。

当時「96式陸上攻撃機」は双発、引込脚機能を持つ世界トップクラスの海軍機でしたが、軍用機として現役でもありこの企画はかなり無謀と思われました。
毎日新聞社の再三のプレゼンに対して、海軍は断り続けます。最終的には毎日新聞社トップが当時の海軍次官山本五十六中将に直談判し“長距離輸送機への改造”が許可されます。
海軍が民間使用を許した背景には、航空機の技術将校であった山本五十六の自信と海軍と陸軍・毎日新聞社と朝日新聞社のライバル意識が微妙に働いていました。
この企画が立てられた背景には、朝日新聞社が「神風号」を使って日本からロンドンへのスピード記録達成や「航空研究所試作長距離機(航研機)」による長距離飛行世界記録達成が続き最大のライバル新聞社としても“負けられない”という意識が生まれたのでしょう。
朝日新聞の「神風号」は陸軍の九七式司令部偵察機試作2号機の払い下げによって達成されましたので、自然競争のターゲットは海軍の最新鋭機に向かいます。
海軍の許可を得て「96式陸上攻撃機二一型328号機」を輸送機型に改造しますが、この「96式」、三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所が製造したもので、改造も三菱が担当します。
「96式」は新聞社の他、当時国内最大手の航空会社「大日本航空株式会社」も輸送機として利用されました。
「大日本航空株式会社」横浜と縁の深い航空会社です。
「大日本航空株式会社」1940年(昭和15年)横浜の根岸に飛行場を開設します。この飛行場からは南洋諸島パラオ島への定期航空路が運行されていました。
横浜を5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00といったルートでした。
少し、【よこはま】に近づいてきました。
横浜には戦前戦中、そして戦後一時期飛行場が幾つかありました。
暦で語る今日の横浜【9月10日】
軍用機から民間輸送機にも転用され活躍したJ‐BACI「ニッポン号」三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所で製作されたものですが、この模型を横浜で見ることができます。
「三菱みなとみらい技術館」
ここに登場した山本五十六は、「ニッポン」世界一周から一年後の1940年(昭和15年)10月11日に行われた紀元二千六百年の特別観艦式を連合艦隊司令長官として指揮しました。
この先、開戦論と非戦論が激しく議論されながらも日本は日米開戦へと向かいます。関東大震災から始まった激変の日本の選択を、私たちは再度検証していく責務があるのではないでしょうか。
今回はあまり【よこはま】に近づくことができませんでした。