横浜年表ピックアップ【10月17日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。
皆さん台風の被害は大丈夫ですか?
伊豆大島にはかつて何度も竹下桟橋から夜行便でお世話になりました。
伊豆稲取だとすぐですが…
亡くなられた皆様のご冥福をお祈りいたします。

●1875年(明治8年)の今日
「維新後横浜に来住し私塾を開いていた山梨県の人真下晩菘(77)が浅草で没した」
最初調べても(山梨ネタ)ばかりなので、諦めかけていましたが
さらに検索を続けていたら横浜ネタ出てきました。
ここに登場する「真下晩菘(ましも ばんすう)」は
1799年(寛政11年)山梨県に生まれ、幕末に旗本に仕えた幕臣です。
そして明治維新後、横浜野毛で私塾「融貫塾」を開きます。
ここまでは調べで判りましたが
横浜野毛の私塾「融貫塾」
場所はまだ特定していません。

「融貫塾」はその後、政治結社「融貫社」の母胎となり多くの活動家・指導者を輩出しました。真下晩菘は晩年、原町田に塾を開きこの地で亡くなります。

幕臣時代に面白いエピソードがあります。
ちょっと長くなりますが紹介しておきましょう。
真下晩菘の生まれた甲州市塩山に暮らす同郷の親友だった樋口八左衞門の息子大吉が
1857年(安政4年)に父の親友だった彼を頼って江戸に出てきます。
彼は郷里の“古屋あやめ”と駆け落ち同然でした。
幕臣としてすでに役職に就いていた真下晩菘は、彼に仕事を斡旋します。
幼名大吉は“樋口為之助”と名乗り(後に則義)、
蕃書調所の小使いとして働き金を貯め同心株を買い職を得ます。
明治になっても失職期はあったものの職に就き役人の傍ら不動産の売買・斡旋などを副業として生計をたてていました。
樋口 則義とあやめの間には娘3人の息子2人の計5人の子どもに恵まれ、
中流に近い豊かな家庭を築きます。
ところが
明治21年頃から家族に不幸と不運が重なります。
父の事業失敗と死が突然訪れ、
借金で残された家族は 樋口家三女の「奈津」の稼ぎに頼ることになります。
樋口家三女「奈津」こと夏子、一葉という名で短くも珠玉の作品を残して逝った日本最初の女性文筆家「樋口一葉」です。

●1910年(明治43年)の今日
和辻哲郎(21歳)横浜に泊まりがけで、14日から4晩つづけて山手のゲーテ座に通い、ウォリック・メイジャー一座の芝居を見たそうです。四日間連続泊まりがけの観劇というのは凄いですね。上演したウォリック・メイジャー一座とは
Warwick Major. Comedy Companyのことで、アジア公演を行い神戸でも上演しているようです。
「横浜ゲーテ座」は、日本初の本格的演劇場で、フランス人建築家であるポール・サルダの設計で 1870年(明治3年)に横浜居留地68番地に建てられました。
その後、1885年(明治18年)現在の場所に新しいホールが建設されました。
1923年(大正12年)関東大震災で建物が崩壊しますが、1980年(昭和55年)岩崎学園によって復元され現在に至っています。


ゲーテ座の「ゲーテ」の語源は、 詩人のゲーテではなく、英語の「陽気・愉快・快活」という意味に由来します。

●1914年(大正3年)の今日
大町桂月(45歳)
横浜鶴見に行き、花月園で好文会を催す。池辺義象、久保天随、武島羽衣、金子元臣らが参会する。
大町桂月(詩人、歌人、随筆家、評論家)
池辺義象(国文学者、歌人)
久保天随(漢文学者)
武島羽衣(詩人、国文学者、作詞家)
金子元臣(国文学者、歌人)

●1930年(昭和5年)の今日
「電車前後に丸形系統番号を採用(側面方向板は廃止)」


●1942年(昭和17年)の今日
根岸競馬場で最後の秋季競馬開催。戦争の激化のためこの日で終了。

No.276 10月2日(火)フェンスに囲まれた公園

No.130-1 5月9日 10日クラベウマ外交の時代(前編)
No.130-1 5月9日 10日クラベウマ外交の時代(後編)

●1987年(昭和62年)の今日
「近代水道100周年記念式典」が行われました。
No.291 10月17日(水)横浜水要日!

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