No.131 5月10日 クラベウマ外交の時代(後編)

明治天皇は在位中、東京都内以外への行幸は約100回を数えました。
その半数が陸海軍の演習観閲や軍の学校や施設訪問などの軍事関連のものでしたが、明治14年から32年までの18年間で13回にわたって横浜競馬場への行幸が行われました。
1881年(明治14年)の今日5月10日は初の横浜競馬場への行幸が行われた日です。

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幕末から明治にかけて、横浜は列強各国が“治外法権”の中、自国のスタイルをアピールする場でもありました。
特に英米仏蘭の四カ国は居留地でバランスをとりつつも自国優位の外交を行う場としていました。
時に“揃って”、時に“異なった”要求を幕府、明治政府に行ってきました。
横浜を舞台に繰り広げられた「洋式競馬」はその中でも“揃って”要求した支配的な異文化でした。
「洋式競馬」を列強の外国人居留民社交外交の場として活用しました。
乱暴に表現すれば、
横浜を舞台に、日本に対し英国がリードし、米国が異論を都度はさみ、仏はポストナポレオンで右往左往し、蘭は発言力を失っていた中で、
競馬による社交場形成は“揃った”要求でした。

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英国はボンベイ、香港、そして上海に競馬場を開設し日本でも英国流に進めようとしますが、米国の牽制もあり、日本はいち早く反応し、「横浜競馬場」を舞台に外交チャンネル構築に動きます。
幕末から1883年(明治16年)に「鹿鳴館」ができるまで
日本の社交外交の場は“根岸”にありました。
その後、東京倶楽部という本格的な社交外交組織ができ、
「横浜競馬場」は外交から経済にその役割を変えますが、明治天皇以下「横浜競馬場」での競馬観戦はお気に入りだったようです。
冒頭でも書きましたが18年で13回の行幸は突出しており、好き嫌いではなく競馬がいかに重要な国家行事に組み込まれていたかを計ることが出来ます。

根岸競馬場は、豚屋火事(慶応の大火)が契機となった不平等条約の典型「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」(第3回地所規則)により日本側の負担で完成しました。
欧米列強は互いに牽制し合いながら自国の流儀を要求してきました。
今も同じ「グローバルスタンダード」化です。
外国との交易が殆ど限定されていた日本には明文化されたルールがありませんでした。
列強は中国とは違った“不文律の國日本”に不安と不思議さを感じます。
明治22年に明治憲法、27年に不平等条約改正が行われるまで、欧米列強との社交外交の舞台だった「洋式競馬」はその役目を終えます。
その後も「根岸競馬」を中心に日本の競馬は拡大していきます。
その大きな理由は、“馬は軍用品”だったからです。横浜に来た欧米人はまず馬を求めました。移動手段であると同時に「ステイタス」だったからです。
ところが日本の馬は小さく「調教・血統管理」といった欧米スタンダードではありませんでした。このことにも日本はいち早く反応し、時の陸軍大臣 西郷従道が積極的に欧米の競馬システムから調教、騎乗技術を(ピックアップ)します。
外交上、軍事上、そして経済上の理由から横浜競馬場は欧米各国の要人、日本の要人が集まるアジア最大級の(社交場)となっていました。

会員名簿1
「文明開化に馬券は舞う」より
会員名簿2
「文明開化に馬券は舞う」より
会員名簿3
「文明開化に馬券は舞う」より

現在、東京競馬場のダート1,400メートルで施行する「根岸ステークス」というレースがありますが、これは「根岸競馬」に由来するものです。
天皇賞の前身で1944年まで行なわれていた帝室御賞典(ていしつごしょうてん)も1880年6月9日に横浜競馬場で行われた「The Mikado’s Vase」(天皇の花瓶賞または皇帝陛下御賞典)から始まったものです。

※競馬の歴史は奥が深いです。
競馬そして根岸競馬場に関しては 正直 まだまだ消化不良です。
集めた資料の10分の1も読み切れていませんが途中で見切り発車しました。
参考資料「文明開化に馬券は舞う」講談社 立川健治 著
競馬史の決定版、この資料に負うところが大きかった名著です

「馬の博物館」http://www.bajibunka.jrao.ne.jp/U/U01.html
横浜市中区根岸台1-3

(余談)
西郷従道(さいごう じゅうどう 1843〜1902年)
西南戦争で亡くなった西郷隆盛の弟で、
隆盛が「大西郷」と呼ばれたのに対して、「小西郷」と呼ばれていましたが逸話に関しては長く生きた以上に従道の方が多く残しました。
日本レース倶楽部の最初の会員で陸軍大輔だった従道は「トビヒノ」「草摺」「ミカン」「桜香」という4頭の持ち馬を登録し、オーナーズアップ(馬主自ら騎手を務める)として出走します。
未勝利馬景物800メートルという種目で出走馬は11頭。
従道は愛馬「ミカン号」に騎乗して、日本人として初の優勝をさらったといいます。

 

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