No.130 5月9日 クラベウマ外交の時代(前編)

横浜市中区根岸台に広がる根岸森林公園がかつて競馬場であったことは有名です。
幕末1866年に欧米列強の要求で完成した日本初の競馬場です。
この横浜競馬場(根岸競馬場)が明治初期、重要な外交の舞台であったことはあまり記されていません。
今日と明日二回に分けて 明治横浜競馬場物語を紹介します。
明治天皇は横浜競馬場での競馬見学が大好き(根岸行幸)と記録には多く書かれています。
1899年(明治32年)今日5月9日、13回目の横浜競馬場に行幸しこれが最後の根岸行幸となりました。

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(横浜競馬場誕生のあらまし)
横浜で競馬が行われたのは、
1860年(万延元年7月16日)9月1日、現在の元町ストリートあたりで開催されたのが最初です。
1861年に横浜洲干弁天社裏の海岸を埋め立てて造成した土地(現在の横浜市中区相生町5丁目および6丁目)に建設された馬場で居留外国人が競馬を行います。
1862年(文久2年3月22日・23日)5月1日・2日に横浜新田(現在の中華街のあたり)でより本格的な競馬会が開かれた記録が残っています。
『The Nippon Race Club 1862-1912』

都度、広い場所を見つけては競馬を開催しましたが、居留地にはどんどん人が増え市街化が進み開催場所確保が難しくなります。
そこに生麦事件が起り安全確保も必要条件になり、山手の練兵場などを使って開催するようになります。
業を煮やした欧米列強の居留民は、安全で快適な場所で競馬を開催したいという強い要望を幕府に突きつけます。
その後、居留外国人の要請を受けた幕府は各国領事との間で約書を交わし
建設費用は幕府が全額負担し、競馬場運営は居留民を代表する委員会に委託するという条件のもと1866年根岸新競馬場が完成します。

(なんでこんなに競馬が好きなの?)
16世紀、イギリスに生まれた競馬競技は、17世紀フランスでも盛んになります。18世紀に入り、ドイツ、イタリア、アメリカへと普及します。
普及と言っても、大衆の娯楽ではなく権力者、成功者の社交場としてそのルールが確立していきます。
時代は植民地主義全盛期、列強各国は植民地に支配シンボルとして競馬場を作っていきます。
競馬は「貴族性」を象徴するものとして開催されました。幕末、横浜で競馬が行われる前、アジアではボンベイ、上海、香港に競馬場が整備されていました。

「彼(カノ)空地へ馬場を補理(シツライ)ありておりおり乗馬をなす。其日の服は平日とハ違い思い思いの派手やかなる装(ヨソヲイ)して、三人五人ぐらい競馬(クラベウマ)をいたすを、同士の見物仲間にて、洋銀を百枚あるいは五百枚などとて賭けて勝負をなし楽しむことなり」菊苑老人「みなとのはな 横浜奇談」(文久二年)
横浜綺談日本、横浜居留地に来た欧米人は一段落すると社交倶楽部に参加することを考え始めます。その最上級クラスの社交場が「競馬」でした。また、居留地内(外には出られなかったので)=関内エリアを馬で闊歩するのがステイタスでもありました。横浜に関する錦絵には数多くの乗馬風景が描かれています。

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ハリスと共に日本に来たオランダ人の通訳ヘンドリック・コンラッド・ヨアンネス・フースケン( 英名:Henry Conrad Joannes Heusken1832年1月20日 – 1861年1月15日)は日記に「日本に来て、まず下男を雇った。今度は馬持ちだ。」と記しています。
アメリカ人実業家Francis Hallは、1859年に来日するとすぐに乗馬を始め、60年には日本初の競馬の様子を克明に記録しています。

(根岸行幸)
列強の要人が社交場としていた「競馬場」を日本政府が外交の場にと考えたことは当然のことでした。クラベウマ外交のはじまりです。
(明日に続く)

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