横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1870年10月30日(明治3年10月6日)の今日
福沢諭吉(34歳)は、金澤(当時は久良岐郡で横浜エリアではありませんでした)に一泊、その後横浜に出て三泊します。
9月14日から“家族と”熱海での病気療養を終え帰り道に箱根湯本に二日間滞在します。10月6日に湯本を出て藤沢〜江の島〜鎌倉と回り金沢で一泊します。翌7日に金沢を発ち横浜に出て3泊します。10日朝横浜を発ち東京に戻ります。
福沢のごく普通の日常生活の記録ですが、諭吉は
1870年(明治3年5月中旬)
発疹チフスを患い生死を彷徨います。そこで、熱を下げるために氷が必要になりますが、初夏に天然氷はこの時代殆ど手に入りません。
そこで元福井藩主・松平慶永(春嶽)が所有していたアンモニア吸収式冷凍機を借用し氷を製造し福沢の治療に使い彼は回復します。
完全に健康を回復するのに二、三年かかりましたが、この年の後半は静養に専念した彼にとっての健康面・思想面でも転機となります。
明治の思想家“福沢諭吉”は、日記を残していません。
その代わりに彼の日常を知る手がかりが書簡です。福沢の書簡は確認されているだけでも2,600以上あります。
この、熱海からの病気療養の帰り道を伝えた書簡は、
明治3年10月22日教え子の“阿部泰蔵”に送ったものです。
※阿部泰蔵(あべたいぞう)
三河国豊橋藩の医家に生まれ、儒学、蘭学を学んだ後
1868年(慶応4年)に鉄砲洲慶應義塾に入学しますが
途中戊辰戦争のため帰国(藩)。戦争後、再度入塾し卒業後明治生命保険会社を創業します。
福沢が手紙を送った1870年(明治3年)当時「阿部」は大学南校教授に就いていました。
明治生命保険会社設立以外も丸善商社取締役、東京統計協会特別会員、生命保険会社協会評議員会会長、日本郵船会社監査役 等を歴任します。
No.29 1月29日 福沢諭吉の横浜ワンデーマーチ
●1881年(明治14年)の今日は
29歳の「郵便報知新聞」の主幹“藤田茂吉”が横浜に行き、
町会所(開港記念会館)で開かれた「生糸荷預所事件に関する演説会」で、
「商戦」を演説します。
手元の資料では彼が演説した「商戦」の内容は不明ですが
“藤田茂吉”が演説したこと。
そのテーマが【生糸荷預所事件】だったことが注目に値します。
明治期の日本を支えた生糸貿易の転機となる大事件が生糸荷預所事件です。
※【連合生糸荷預所事件】
1881年(明治14年)生糸取引方法を改革したい横浜の生糸売込業達が輸出生糸の管理組織「連合生糸荷預所」創設を目指します。
一方、「連合生糸荷預所」創設により商品の管理権を失うことになる外国商館との間で生じた紛争です。
最終的に外国商社が約二ヶ月にわたり取引を拒否した事件です。
生糸売込業(輸出側)の主なメンバーは茂木惣兵衛、原善三郎、渋沢喜作など横浜の生糸実業家達でした。
これまで外国商館(輸入側)が生糸の現物を自分たちの手で検査、計量を行っていましたが取引上様々な弊害が生じていました。
日本側は「荷預所」は、「商権」の奪還が設立目的だ!と東京日日・朝野・東京横浜毎日・東京経済雑誌などマスコミと連携し世論を味方に付けようとします。
これに対し外国人商社は「条約違反」「自由貿易に反する」と取引を拒否し外国銀行も資金を止めるなど徹底して対抗します。
横浜の各国領事・公使や神奈川県令(政府)が和解調停工作を行いますが決裂します。
「郵便報知新聞」の主幹“藤田茂吉”が横浜に出向いたのはちょうどこの事件のど真ん中にあたります。
世論は盛り上がりますが、結論は「日本側の敗北的妥協によって終息」となりますが、不平等条約のもとで外国人商社が求めていた“内地通商権拡大”の要求を拒否し居留地貿易(現状維持)を守ったことは、政府ができなかった民間の貿易交渉の成果と評価されています。
この交渉過程には
三井物産会社・三菱系の貿易商会など日本の商社、横浜だけではなく東京の商工会議所も巻き込み、最終的には渋沢栄一、益田孝らの交渉で「日本側の妥協」となります。
「港都横浜」財界人の最初のつまずきでした。
藤田茂吉は
新聞記者、政治家、鶴谷山人・九皐外史・鳴鶴居士・聞天楼主人・翠嵐生等の多くの号を名乗り言論界で明治期活躍します。「郵便報知新聞」の主幹として活躍、自由民権の立場から「東京日日新聞」の福地桜痴と紙上で論戦を展開しライバル紙として言論界をリードします。相馬御風(そうま ぎょふう)は娘婿となります。
豊後国佐伯生まれで、慶應義塾出身で福澤諭吉の直弟子。
郵便報知新聞社に入社し、新聞の主筆、その後立憲改進党に参加。
1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に東京府第4区から出馬し当選、衆議院議員を通算二期務めました。
その他、日本橋区会議員、同議長、同衛生会長、東京府会議員、同区部会議長などを歴任します。
明治12年7月29日から8月14日まで10回にわたって「郵便報知新聞」社説で「国会論」を発表し国会開設運動に多大な影響を与えました。
この「国会論」に関しては面白いエピソードがありますので長くなりますが紹介しておきます。
「郵便報知新聞」社説で展開された「国会論」は、草稿を福沢諭吉が書き、藤田茂吉がリライトして掲載したもので、福沢が「福翁自伝」の中でその時の顛末を詳しく述べています。
「明治十年西南の戦争も片付て後、世の中は静になつて、人間が却て無事に苦しむと云ふとき、私が不図思付て、是れは国会論を論じたら天下に応ずる者もあらう、随分面白からうと思て、ソレカラ其論説を起草して、マダ其時には時事新報と云ふものはなかつたから、報知新聞の主筆藤田茂吉、箕浦勝人に其原稿を見せて、「此論説は新聞の社説として出されるなら、出して見なさい、屹と世間の人が悦ぶに違ひない。但し此草稿のままに印刷すると、文章の癖が見えて福沢の筆と云ふことが分るから、文章の趣意は無論、字句までも原稿の通りにして、唯意味のない妨げにならぬ処をお前達の思ふ通りに直して、試みに出して御覧。世間で何と受けるか、面白いではないかと云ふと、年の若い元気の宜い藤田箕浦だから、大に悦んで草稿を持て帰て、早速報知新聞の社説に載せました。当時世の中にマダ国会論の勢力のない時ですから、此社説が果して人気に投ずるやら、又は何でもない事になつて仕舞ふやら、頓と見込みが付かぬ。凡そ一週間ばかり毎日のやうに社説欄内を填めて、又藤田箕浦が筆を加へて東京の同業者を煽動するやうに書立てて、世間の形勢如何と見て居た所が、不思議なる哉、凡そ二三ケ月も経つと、東京市中の諸新聞は無論、田舎の方にも段々議論が喧しくなつて来て、遂には例の地方有志者が国会開設請願なんて東京に出て来るやうな騒ぎになつて来たのは、面白くもあれば、又ヒョイと考直して見れば、仮令ひ文明進歩の方針とは云ひながら、直に自分の身に必要がなければ物数寄と云わねばならぬ共物数寄な政治論を吐て、図らずも天下の大騒ぎになつて、サア留めどころがない、恰も秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するやうなものだと、少し怖くなりました。併し国会論の種は維新の時から蒔てあつて、明治の初年にも民選議院云々の説もあり、其後とても毎度同様の主義を唱へた人も多い。ソンナ事が深い永い原因に違ひはないけれども、不図した事で私が筆を執て、事の必要なる理由を論じて喋々哺々数千言、噛んでくくめるやうに言て聞かせた跡で、間もなく天下の輿論が一時に持上って来たから、如何しても報知新聞の論説が一寸と導火になつて居ませう。其社説の年月を忘れたから、先達箕浦に面会、昔話をして新聞を尋ねて見れば、同人もチャント覚えて居て、其後古い報知新聞を貸して呉れて、中を見ると明治十二月の七月二十九日から八月十日頃まで長々と書並べて、一寸と辻褄が合つて居ます。是れが今の帝国議会を開く為めの加勢になつたと思へば自分でも可笑しい。」(福翁自伝)
■1887年(明治20年)の今日
根岸競馬場で天皇が競馬を観覧します。
No.130 5月9日 クラベウマ外交の時代(前編)
No.131 5月10日 クラベウマ外交の時代(後編)
■1910年(明治43年)の今日
横浜砂糖商組合が設立されました。
横浜港は砂糖の輸入功としても一時期日本最大の貿易港でした。
昔鶴見区大黒町に「横浜さとうのふるさと」がありましたが、現在は閉鎖されてしまいました。
181系統「横浜さとうのふるさと 行」というバス路線が 博物館閉館後も入っていた記憶があったので調べてみたらまだ残っていました。
「横浜さとうのふるさと館」は、1997年(平成9年)5月に開館し2004年(平成16年)5月に閉館します。この「横浜さとうのふるさと館」は
「パールエース」印の砂糖で知られる製糖最大手会社です。
会社名は砂糖なのに「塩水港精糖株式会社」で、台湾の塩水港に因んで付けられた社名です。「パールエース」株式会社は大洋漁業(株)(現マルハ株式会社)と塩水港精糖株式会社が共同出資で作られた製糖会社で現在は塩水港精糖の完全子会社となっています。
http://www.pearlace.co.jp
■1929年(昭和4年)の今日
保土ケ谷区保土ケ谷町に横浜市児童遊園地が完成開園式が挙行されました。
地味な公園ですが、中々良い公園です。
ちょっと不便なのがネックですが その分 穴場かもしれません。
http://park.hama-midorinokyokai.or.jp/park/kodomo-park/summary/
隣接する「英連邦横浜戦死者墓地」も横浜ならではのメモリアルパークです。