開港をキッカケに多くの宣教師が来日しました。
そして教会、学校を軸に布教活動を拡げ多くの文化を伝えました。
特に横浜は開港の地であったこともあり歴史ある教会も多い。
1892年(明治25年)のこの日、指路教会の大会堂が現在の尾上町6丁目85番地に新築されました。
(写真は大正15年に建替えられたもの)
正式には日本基督教団横浜指路教会といいます。
(しろきょうかい)の名は
旧約聖書にある地名・人名のシロ(Shiloh)に日本語の指路を当てたものです。
この教会を設立する中心人物がジェームス・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn)です。
ローマ字表記で有名なヘボンといったほうが分かりやすいでしょう。
1859年にアメリカから来日した宣教医J・C・ヘボン博士は、神奈川区の成仏寺を仮住まいにしていました。
日本に来て3年目の秋、近くのアメリカ領事館(本覚寺)から役人が血相を変えて飛び込んできました。寺に重症患者がいる、街道筋で英国人が薩摩に切られたというのです。江戸から京都に帰る島津久光の行列と英国人グループがトラブルを起こし、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した生麦事件が起ったのです。
この時ヘボン医師は他国(イギリス)の事件でしたが幕府役人にも信頼が厚く、応急処置を強く依頼され任に当たります。
生麦事件の後、ヘボンは横浜居留地39番(現在の横浜地方合同庁舎あたり)に医療施設と学校(ヘボン塾)を開設しました。
このヘボン塾が発展して明治学院大学になります。
女子校として最も古い歴史を持つフェリス女学院もヘボン塾内で宣教師メアリー・E・キダーが創設(1870年)した学校です。
学校も軌道に乗り、そろそろ布教の拠点としての教会を設立する機運が高まります。
教会は居留地39番から尾上町、太田町、住吉町と転々としますが、冒頭の通り明治25年(1892年)のこの日、尾上町に赤レンガの教会堂が完成しました。
設計者は、サルダ( Sarda, Paul)フランスの建築家で、海軍省横須賀造船所付属学校の機械学教官として来日します。東京帝国大学教師、三菱の技師を経て横浜で建築家として開業することになります。
山手のゲーテー座、「極東一のすばらしい名建築のひとつ」と母国に報告されたフランス領事官邸、グランドホテル新館などを設計しました。
残念ながらこれらの全ての建物は関東大震災で倒壊してしまいました。
指路教会は震災後復興計画のもと、大正15年に再建され戦災はうけたものの修復し現在に至っています。
指路教会は横浜市認定歴史的建造物に指定されています。
※毎年クリスマスには 教会前で合唱団が賛美歌を歌うセレモニーがあります。
だれでも参加できます。私も何回か参加したことがあります。
※余談2 指路教会は過去 野口雨情が講演したり、近衛文麿が楽団の指揮をして音楽会を開催したり、結構多目的にも使われていたようです。