横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
●1900年(明治33年)の今日
「巌谷小波(30歳)横浜港からハンブルヒ号で出航、ベルリン大学付属東洋語学校講師としてドイツに向かう。尾崎紅葉、石橋思案、江見水蔭、武内桂舟、大橋乙羽、大橋新太郎らが備前丸に便乗して見送る。」
※横浜港利用ネタですが意外な横浜との関係がありました。
唱歌「富士山」(1911年)の作詞者で児童文学者となった巌谷小波(いわやさざなみ)がドイツに向かった日です。
今日多くの人たちに親しまれている『桃太郎』や『花咲爺』などの民話や英雄譚の多くは巌谷小波の手によって再生され、日本近代児童文学を開拓した人物です。
代表作の一つ「こがね丸」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000981/files/3646_12287.html
は、明治24年1月3日に博文館から発刊されました。
小波21歳の時の作品です。
一方この作品を取上げた博文館もまた新進気鋭の経営者・編集者 大橋佐平が明治20年に創業した出版社でした。
博文館は現在の日記の博文館、印刷の共同印刷、書籍取次トーハンとなっています。
「太陽」「少年クラブ」「文芸クラブ」の三つの雑誌で黄金時代を築きます。
巌谷小波の生家は代々医者の家でした。
小さい頃からエリート教育を受け、小学校からドイツ語を学びます。
小学校を卒業後ドイツ語教育に強い“訓蒙学舎”に進みますが、当時ドイツに留学していた兄から絵本が届き小波の児童文学への道が拓けてしまうのです。小波は医者になることを拒否するようになり、文学の道に傾倒するようになります。
作品「こがね丸」は小波が江ノ島「金亀楼」に籠もり4日間で書き上げたもので、森鴎外が序文を添えています。
1900年(明治33年)の今日、横浜港に巌谷小波を見送ったメンバーの中にいた大橋新太郎は博文館を創業した大橋佐平の長男で、父を支え新規事業に成功し博文館発展の礎を支えた人物です。
大橋新太郎、東京馬車鉄道の経営改善に辣腕ぶりを発揮し、東京ガスの建直し、大橋図書館設立、衆議院議員等々政界、実業界で名を轟かせます。
この大橋新太郎は、横浜とも深い関係があります。
彼の偉業の一つが
金沢文庫と称名寺の復興です。
北条氏の支流である、金沢実時が作った称名寺と
そこに保存されている膨大な古典の保存に新太郎は多大な貢献をしています。
大橋新太郎生誕150年記念企画展(〜10月6日(日))
http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/02kuban/2013/1307-01.html
No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺
●1903年(明治36年)の今日
「永井荷風(23歳)横浜港から日本郵船の信濃丸で出航、実業のためのアメリカ留学に向かう。巌谷小波、押川春浪(おしかわ しゅんろう)、生田葵山(いくた きざん)らが見送る。ヨーロッパ滞在を経て、41年7月に帰国する。」
※横浜港利用ネタ
同じく同時代の横浜港利用ネタです。文学界にはその名を残す永井荷風ですが、まあ、私生活はかなりのもんでかなり放蕩三昧の人物であることはご存知の方も多いでしょう。
暦で語る今日の横浜【9月13日】
でも少し紹介しました。
こういった見送りネタは、メンバーを調べることで交友録が判り新しいネタにつながることが多いのでネタ調べの「悦」の一つです。
押川 春浪(おしかわ しゅんろう)は、明治生まれの冒険小説作家、SF作家です。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person77.html
生田葵山(いくた きざん)は小説家で巌谷小波の門下生。
1945年(昭和20年)12月31日に瀬戸内海で自殺してしまいます。享年70歳でした。
※日本郵船「信濃丸」ネタ
レストラン「馬車道十番館」と「山手資料館」に、
「信濃丸」で使われた椅子がある!と聞き確認に行きたい!と思っています。
●1933年(昭和8年)の今日
「俳人飛鳥田麗無公(38歳)で没した。」
若くして亡くなった飛鳥田麗無公は横浜由縁の俳人です。
「風すぎて蝉のこゑととのひけるよ」
杉田妙法寺に句碑があります。
「さびしさは星をのこせるしぐれかな」
No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?
●1936年(昭和11年)の今日
電気局開局15周年を記念し、24日までの3日間を「市電愛用デー」として普通運賃7銭を5銭にした記念乗車券を発売しました。
当時花形だった1000型電車のイラストが描かれました。
●1945年(昭和20年)の今日
「終戦連絡横浜事務局が設置されました。」
同じくこの日台湾総督府内にも
「終戦連絡事務局」が設置されました。
中央事務局の責任者は
長官として岡崎勝男(外務省)
彼は マッカーサー布告と戦い
ミズーリ号艦上のサンフランシスコ講和条約締結時に、
サインの誤りを指摘した外交官。
終戦連絡横浜事務局は
1945年10月に事務局長に就任した鈴木九萬(すずきただかつ)が
占領終結(サンフランシスコ講和条約発効1952年4月28日)直前の
1952年(昭和27年)3月まで横浜連絡調整事務局長として日米間の調整にあたりました。
No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)