【ミニミニ今日の横浜】2月28日

この日、2月の終わり28日も取り上げてみたい出来事が多くあります。

■■1881年(明治14年)の今日
左右田 喜一郎が横浜で生まれました。
左右田(そうだ)の名で<銀行>と連想された方はかなりの横浜通ですね。
左右田銀行を一代で築いた左右田金作の長男、喜一郎は幼い頃から優秀で、1887年(明治20年)に入学した横浜小学校では第1学年を飛ばし2年生として入学、飛び級入学の草分け?といえるでしょう。
経済学者、経済哲学者であり新カント主義者の哲学者でもありました。
横浜商業学校(Y校・現横浜市立横浜商業高等学校)を経て
東京高等商業学校(現一橋大学)を優秀な成績で卒業します。
卒業後英国とドイツに学びます。留学中、父「左右田金作」の病気を知り、
1913年(大正2年)家業を継ぐために留学先より帰国します。
1914年(大正3年)父の創設した左右田銀行の取締役及び株式会社左右田貯蓄銀行の取締役に就任し父の銀行を引き継ぎます。
1915年(大正4年)3月26日、創業者 左右田金作は死去し喜一郎は頭取に就任、横浜経済界の様々な役職にも就きます。
また実業家でありながらも経済哲学の研究も続け
1918年(大正7年)からは京都帝国大学(現京都大学)文学部講師も務めました。
1920年(大正9年)の経済恐慌で横浜の有力総合商社「茂木商店」が破産し取り付け連鎖が起こります。市内の有力金融機関「七十四銀行」「神奈川銀行」「戸塚銀行」などが取り付け騒ぎとなり経営危機に。
この一連の取付騒ぎに連鎖し「左右田銀行」も経営危機となりますがなんとか倒産までは免れます。ところが大震災がそれに拍車をかけ、ついに銀行が経営破たん状態となり、喜一郎も母校東京商科大学講師や、京都帝国大学講師、貴族院議員という一切の公職をやめ事後処理にあたりますが、苦難の中、
1927年(昭和2年)8月11日病気のため46歳の若さで死去します。
リーダーを失った左右田銀行は1927年(昭和2年)12月7日に横浜興信銀行(後の横浜銀行)に引き取られ(営業譲渡)ます。

■■1902年(明治35年)の今日
「茶輸出米国商モリアン・ハイマン商会、横浜支店閉鎖(横浜歴史年表)」
この「モリアン・ハイマン商会」は神戸では有名な商社でした。ここでは米国商と表記されていますが、英国人2名が作った商社です。
(グラバーが残したパイオニア)
幕末に活躍したグラバーとフランシス・グルームが設立したグラバー商会に勤めていた二人の英国人が神戸に商社を開きます。
グラバー商会創設者の一人フランシス・グルームの弟アーサー・ヘスケス・グルームと同僚のハイマンが設立した会社で、主に日本茶の輸出とセイロンティーの輸入を手掛けます。幕末の武器を扱う政商だったグラバーの時代が終わり1870年(明治3年)にグラバー商会は倒産します。残された二人は居留地101番地にモリアン・ハイマン商会を設立し着実にビジネスを拡大していきます。
その後、アメリカに対しお茶のビッグビジネスが行われていた横浜に1883年(明治16年)本拠地を移します。
ところが横浜でのビジネスはあまり上手くいかず、
1902年(明治35年)の今日<横浜支店>を閉鎖し、神戸へ引き返すことにします。神戸居留地内の播磨町34・35番地に商社を構え改めて茶の輸出を続け利益を上げていきます。グルーム個人はリゾートビジネスに進出「オリエンタルホテル」を買収しゲオルグ・デ・ラランデの設計による新館を建設、「東洋一の洋館ホテル」と呼ばれました。ゴルフクラブの経営等、六甲山エリアの整備開発に私財を投じ順調に伸びていきますが、第一次世界大戦後の恐慌のあおりを受けオリエンタルホテルの経営状態が悪化、
1916年(大正5年)に経営権を横浜と縁の深い浅野総一郎に売却し破産を免れます。しかし、1918年(大正7年)1月2日に神戸倶楽部で開かれた新年会に出席したとき泥酔し転倒、傷口から破傷風に感染したことが原因で9日に死亡してしまいます。

■■1891年(明治24年)の今日
「川上音次郎一党は壮士芝居を吉田町蔦座で旗上興行したが幕間に演説をしてその筋の忌諱にふれた。オッペケペー節はこの時から初まつたものである(横浜歴史年表)」
こに記事にある「川上音次郎」は「川上音二郎」の誤りと思われます。私のブログでもいくつかの違った視点で紹介しています。
川上音二郎は筑前黒田藩(福岡藩)出身、「オッペケペー節」で一世を風靡した当時のパフォーマンス・アーティストの代表格です。
過去のブログでも書きましたが、wikipediaの川上紹介には横浜・茅ヶ崎との関連が全く触れられていません。このあたりに詳しい方、ぜひ追記されてはいかがでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/川上音二郎

No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=621

1895年(明治28年)1月2日の話
No.415 横濱的音楽世界
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=162

No.397 横浜「座・樓・亭」探し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=182

No.155 6月3日(日) パリ万博と神奈川沖
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=458

(2月28日関連ブログ)
1961年(昭和36年)の今日
日本郵船、氷川丸を氷川丸観光に売却。氷川丸観光株式会社を設立し6月1日に開業しました。(NYK資料)

No.59 2月28日 アジア有数の外為銀行開業
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=561
1880年(明治13年)この日横浜正金銀行開業

 
川上 音二郎
(かわかみ おとじろう、1864年2月8日(文久4年1月1日) – 1911年11月11日)は、筑前黒田藩(福岡藩)出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博した。「新派劇の父」と称される。 Wikipedia