ブログを書くために資料を探していると
横浜市内の「会場」が多く出てきます。
幕末から大正あたりまで、横浜の輝きを示す傍証として
劇場、料亭の存在は重要になってきます。
今日は、ざくっと 横浜の「座・樓・亭」探しの
中間報告をします。
横浜の「座・樓・亭」探し
最初は簡単にリスト化する程度で済ませよう
と軽く考えていました。
ところがどっこい、重要な役割を演じた会場がかなりありました。
(開港と共に料亭政治開始)
横浜に限った事ではありませんが、
横浜開港と共に新しい「談合場所」が登場します。
横浜は元々半漁半農の小さな村でしたから、城下町や門前、宿場のように
宿泊施設も食事、会合場所もありませんでした。
そこで、劇場・料亭・旅館・会館が開港後、多く開業します。
教会や寺院も会合、講演場所に使われました。
「談合華やかに」
幕末明治の政商、高島嘉右衛門は、
現在の尾上町近くに旅館『高島屋』を開業し、
要人の料亭政治の場を提供し情報力を得ます。
※百貨店「高島屋」とは全く関係ありません。
もう一人
「お倉」なる女将も同様に「富貴楼」を舞台に料亭政治の中心となります。
No.255 9月11日(火) 謎多き尾上町の女将
明治に入り、盛んに料亭政治が行われますが
一方で
お寺、教会、劇場、料亭等が
“市民メディアの役割”を果たすようになります。
世の中の出来事が芝居や義太夫、講談で伝えられます。
代表的人物は横浜でデビューした川上音二郎です。
日清戦争をいち早く戦争劇に仕立てた「壮絶快絶日清戦争」「川上音二郎戦地見聞日記」は空前のヒットとなります。
このように
報告会、時勢講演会等が頻繁に開催されます。
No.208 7月26日 (木)ザ・みなとの劇場
No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。
名料亭も生まれます。伝説の
割烹料亭「千登世」や現在も現役の料亭「田中家」
芝居小屋は現在の伊勢佐木界隈に集中して開業します。
羽衣座・相生座・粟田座・勇座・太田楼・喜楽座・雲井座・佐野茂・蔦座 他
例えば、
羽衣座は関外の大門外(現在の関内駅前国道16号線の並び、東京ガス営業所辺り、羽衣町バス停近く)にありましたが1915年(大正4年)に廃止されます。
No18 1月18日(水) 三度あることは四度ある
No.293 10月19日(金)Citizen of No Country
新富亭
No.109 4月18日 品川の名人濱に死す
(教会も情報発信基地)
芝居小屋はビジネスですが、
政治運動や社会運動のプロパガンダに
教会も多く利用されました。教会というと保守的に感じますが
どっこい かなり過激な講演会も開催されています。
→今年中に在る程度まとめてみたいと思っています。
■羽仁もと子(46)横浜に行き、尾上町の指路協会で開かれた、日本基督教会婦人伝導会社主催の基督教婦人大講演会で、「十字架を負う者は誰」を講演する。植村正久も「十字架周辺の婦人」を講演する。
■島田三郎(68)横浜に行き、尾上町の指路教会で開かれた、横浜文化学会主催第一回講演会で、「内外の形勢とその政治策」を講演する。
■荒畑寒村(17)横浜の海岸教会牧師館で横浜平民結社
(7月25日結成)の茶話会を開く。
■武者小路実篤(36)横浜に行き、蓬莱町のメソジスト教会で開かれた「新しき村」横浜支部の講演会で講演する。
教会はコンサート会場にもなっています。
No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。
日本のオーケストラにとってパイオニア的存在といわれた音楽家、近衞 秀麿が1926年(大正15年)11月27日の今日、横浜市の指路教会で新交響楽団の指揮を執りました。
今日はランダムに
横浜の「集会場」を紹介しました。
おいおい この中から 時代の現場となった 物語を紹介していきたいと思います。