【番外編】偽作三昧
福沢関連データを調べていたら偽作の横行を知りましたので紹介しておきます。
「福澤心訓」なる額装販売がいまだビジネスになっています。
「福澤心訓」は福澤諭吉が作成したとされていますが全くの偽作です。
「福沢心訓」、「福沢諭吉翁心訓」、「福沢心訓七則」、「諭吉心訓」、「心訓」、「七則」などとも呼ばれビジネスになっています。
これは売る側の責務として販売を直ちに中止すべきだと思います。
額装して高額で販売しているある会社にメールを送ったら、
「発売以来20年、クレームは一切ありません。」とのことでしたが 最近突然販売を中止しました。理由は判りません。
私の知る限り6人(社長4名、大学職員1名、芸能人1名)確認し、お伝えして(おそらく)もう掲示していないと思います。
著作権の権利をいち早く日本に伝えた福沢諭吉が泣きます。
慶應出身の“経営者”の方 特にご注意くださいませ!!!!
慶應義塾大学の公式見解です。
Q「福沢心訓七則」の内容を知りたい。
A福沢心訓七則は福澤諭吉が書いたものではありません。
詳しくは以下の文献をご覧ください。
富田正文. 1963年. 「福沢心訓七則は偽作である」 『福沢諭吉全集』(第20巻付録). 東京: 岩波書店. p.10
富田正文. 1964年. 「重ねて福沢心訓について」『三色旗』 198号, p.2.
富田正文. 1972年. 「福沢心訓七則は偽作である」『塾友』 9号, p.5.
慶應義塾編. 1996年. 『慶應義塾豆百科』 東京: 慶應義塾. (No.98 福澤心訓)
http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/98.html
1963年から指摘されているのに
知らない人の方が多いのは慶應義塾の責任でもありますが、
ほんの少しでもメディアで告知されればこんな無様なことにはならないのでは。
No.161 6月9日(土) 日本、ロシアに勝利!
21世紀、日露の戦いが横浜で!といえば
2002年(平成14年)6月9日(火)の今日行われた、
日韓共催FIFAワールドカップ予選第二戦の対ロシアです。
会場は横浜国際競技場(現日産スタジアム)1対0で日本が初勝利した試合です。
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スタジアムパンフより |
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ロシア国旗 |
(横浜で日本初勝利)
ワールドカップ初戦は、6月4日埼玉スタジアムで対ベルギー戦。
試合結果は惜しくも2対2の引き分けでした。
そして6月9日の第二戦がここ横浜国際競技場で午後8時半キックオフしました。
両チーム一進一退を繰り返し前半を終了します。
後半に入りまもなくでした、中田浩二が低いクロスを前線の柳沢に送り、柳沢の絶妙なワンタッチパスで稲本に落とすと、稲本がワントラップで美しい弾道を描く豪快なシュートを放ちます。
ゴール右上に突き刺さる稲本のシュートで、勝ち点を4に伸ばし日本代表をH組トップに押し上げる快挙でした。日本サッカー史上、FIFAワールドカップにおける初勝利となった決定ゴールでした。
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作成:著者 |
日本 vs ロシア 10分編集版
https://www.youtube.com/watch?v=mCX-zQVA2no
★これは“横浜に”でっかい記念碑!!もんです。
(横浜で日露)
横浜で、開港時列強5カ国の一つ露西亜の歴史を知る場所はあまりありません。
歴史的建造物では、
■旧露亜銀行横浜支店
旧露亜(Russo-Asiatic Bank)銀行横浜支店はイギリスの建築家バーナード・M・ワードの設計で、1921(大正10年)年頃建てられました。
皮肉にも、英国人により設計された露亜銀行設立の目的は、アジアそして中国における大英帝国に対抗するための戦略的金融機関でした。
その後ドイツ領事館、法務省横浜入国管理事務所を経て警友病院別館となりますが病院移転に伴い現在は保全リニューアルされブライダル施設に変身しています。
日本金融史黎明期の外国資本による銀行建築で唯一残っている作品です。
横浜市の指定有形文化財となっています。
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旧露亜銀行横浜支店 別館リニューアル前 |
No.123 5月2日 全県下警察官待望の楽園
■横浜と露西亜を結ぶ人たち
エリアナ・パブロワ(日本名 霧島 エリ子)
日本初のバレエの稽古場を鎌倉七里ガ浜に開設し多くのバレリーナを育てました。初期、横浜でレッスンを行っていましたが、1927年(昭和2年)に鎌倉に移りました。
2月21日 東洋一の遊園地
■リューリ兄弟の貿易商会とロシア革命
「横浜開港と境域文化 (神奈川大学評論ブックレット) 」内海孝 著
日露関係史をひも解く場所として関係が深い町といえば北海道函館でしょう。
幕末期には開港を求めて、開港後は日露最大の貿易港として函館とロシアは密なる関係にありました。ロシア革命の時、多くの白系ロシア人が
日本(函館)に亡命します。
彼らの中で実業家として横浜で成功を収めたのがリューリ家の人々でした。
1920年にロシア革命の難を逃れ、函館経由横浜に移り住み海産物商社として事業を展開します。
たまたま函館で避暑中に「関東大震災」があり難を逃れますが、倉庫が倒壊し大損害を被ります。一時期神戸に事務所を移しますが、また横浜に戻り事業を戦争直前まで続けます。
■外国人墓地とロシア人
横浜で外国人墓地は4カ所ありますが、一番知名度の高いのが山手にある横浜外国人墓地です。関係国は40余国、4400人余りの外国人が葬られています。この横浜外国人墓地第一号の埋葬外国人がロシア人といわれています。また横浜外国人墓地全体の墓の約3分 の1をロシア人の墓で占めていることは知られていません。
外国人墓地には、正門の反対側にメーエル=M=リューリ門があります。この門は、前述の海産物商リューリ氏が寄付したものです。(場所は知りつつも残念ながら気に留めまていませんでした。近々確認に行きます。)
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「横浜開港と境域文化」より |
多くのロシア人の墓の中には
エリアナ・パブロワ(日本名 霧島 エリ子)もここにあります。
No.209 7月27日 (金)浜で起り、浜で終結
※函館外国人墓地
1854(安政元)年にペリー一行が来航した際に死亡した水夫2人を埋葬したのが始まりとされています。函館湾の入口を見下ろす高台、函館市船見町23 元町地区にあります。
※参考
NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会
〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3丁目9
http://www.kanagawa-eurasia.org
旧HPアーカイブ
http://www.kanagawa-eurasia.org/old/index.html
特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
http://www.geocities.jp/eurask/
〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3?9 横浜平和と労働会館5階