No.445 「有吉堤」(加筆修正)

投稿者: | 2013/05/16

震災復興時横浜市長を務めた有吉忠一(ありよしちゅういち)、彼は市長就任の前に神奈川県知事を経験しています。この県知事経験が震災復興の的確な市政に結びついたと言えるでしょう。

1915年(大正4年)有吉、県知事就任直後、直ちに行動を起こしたのが水害対策でした。
頻繁に起こった多摩川の氾濫に泣く「平間」地域に堤を築く治水事業を積極的に進めます。
今日はNo.443「岸辺のアル闘い」に続く「有吉堤」誕生を紹介します。

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有吉堤

明治18年頃の川崎 平間エリア

橘樹郡御幸村周辺は明治に入り 度々大水害を被ります。
何度も治水請願をしますが、内務省からは「堤防整備不許可」が続きます。
皮肉にも不許可直後、2度に渡る大洪水が橘樹郡一帯を襲います。
1914年(大正3年8月〜9月)のことです。
この時の洪水に対し御幸村の村会議員、秋元喜四郎は
水防活動の最中に濁流に呑み込まれますが、かろうじて一命をとりとめます。
秋元は「身体を賭けても堤防を築く」と決意します。
横浜の県庁へ出頭し東京府との交渉結果はどうなっているのか?尋ねますが要領を得ない回答しか手にする事はできませんでした。
そしてついに起ったのが
『アミガサ事件」です。
1914年(大正3年)9月16日未明の決起です。
 ところがこの実力行使も“うやむや”にされます。
1915年(大正4年)9月神奈川知事に有吉忠一が就任します。
早速有吉は、内務省に許可を求めますが一度不許可にしたものは無理だと却下されます。
そこで有吉は現行法の隙間を狙います。

郡道整備建前に堤防として改修する事を決定します。

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明治39年頃の平間エリア。赤丸が平間八幡神社

1916年(大正5年)1月25日
「郡道改修工事」としての正式な許可が下ります。
1916年(大正5年)4月18日
着工後間もなく、内務省からは工事中止の命令が下されます。
河川法によりこの工事は国の許可が必要である。中止せよ!
有吉県知事は「郡道改修工事」を続行を指示しますが懲戒処分を受けてしまいます。
神奈川県は、内務省とこの工事に関して交渉を続け、再開許可をとりつけます。
1916年(大正5年)12月18日
「郡道改修工事」の竣工式が行われます。
このとき、地元の総意として羽田橘樹郡長は堤防を「有吉堤」と命名します。

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昭和7年頃の平間エリア

では、なぜ内務省はこれまで被害がありながらも多摩川右岸の治水工事を認可しなかったのか?
今ではまるで笑い話のようですが、右岸を整備すると左岸が洪水になるからでした。少し乱暴な表現をすれば、多摩川左岸側(大田区南部地域)の方が帝都東京圏で地域的に優先度合いも高く政治力があったからといえるでしょう。

鶴見川多摩川想定浸水深

鶴見川多摩川想定浸水深

※今も鶴見区で想定されている多摩川氾濫浸水の警告プレート
その後、1918年(大正7年)にようやく内務省は重い腰を上げます。
川全体の視点で治水計画が進められるようになり、多摩川改修史のターニングポイントとなります。
ただ、水害に強い築堤が完成することで、周辺の地域構造に大きな変化が起こります。
洪水は災害である反面、上流から運ばれる土砂が田畑に恵みをもたらすという災害との共生関係でもあったわけです。程よく治水政策を行えば、より良い農作地が誕生したかもしれませんが、内務省による治水工事は、多摩川下流域に広大な都市基盤整備が実現します。
さらに1923年(大正12年)の関東大震災以降、大小の工場が新しい土地を求め整備された多摩川岸に移転します。

■有吉 忠一

横浜市長有吉忠一

(1873年(明治6年)6月2日〜1947年(昭和22年)2月10日)
京都府宮津出身。山県有朋に新任された官僚。
内務省入省後、
1908年(明治41年)第11代千葉県知事
朝鮮総督府総務部長官を経て、第13代宮崎県知事に就任。
千葉県知事時代には
県営軽便鉄道の開通を手がけた功績をたたえて「有吉町通り」(現在千葉県野田市野田)という地名が残ります。
宮城県知事時代は、
宮崎県営鉄道妻線・飫肥線の敷設、港の改修、開田給水事業などを実施し、宮城県発展のインフラ整備を行います。
また日本で初めての学究的発掘調査である西都原古墳群の発掘調査も命じます。
1915年(大正4年)9月に神奈川県知事就任
※有吉堤を築きます。
その後、第15代兵庫県知事、朝鮮総督府政務総監を経て
1925年(大正14)第10代横浜市長に就任します。
関東大震災によって破壊的な被害を受けた横浜の復興に尽力を注ぎ、道路・河川運等の整備、学校・病院の新設・改築と並んで、瓦礫を埋め立てて山下公園などの公園を整備します。
その後横浜商工会議所会頭等を歴任し、戦後間もなく亡くなります。

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.347 12月12日(水)横浜自立の原点

日本基督教団神戸教会の教会員で、関東学院の開設にも助力を果たします。
佐佐木信綱に師事し歌人としても多くの“歌”を残します。
有吉が所属した横浜の佐佐木信綱同人会「新月会」には
原善一郎(はらぜんいちろう)、斎藤虎五郎(さいとうとらごろう)、野村洋三(のむらようぞう)らが同人として入会していました。

一すじにまことの道をたがへじと
  ねがふ我手をたすけてよ我友

霜深き夜ふけに電車の音をきゝて
  つとむる人の労をぞおもふ

今日もまた街をまわりてさまざまの
  進む工事を見るぞたのしき

今日も雨なり復興のわざのかくしつゝ
  おくれもてゆく堪えがたみ思ふ

今日よりは外国人もこゝろ安く
  旅寝かさねんこゝのみなとに
※1927年(昭和2年)12月1日ホテル・ニューグランド開業の日に詠う

ポトマック川辺のさくらふるさとの
  やまと少女をまちつゝゑむらん

此国のゆく末はしも憂はるゝ
  党のあらそひかく増し行けば

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