No.398 野毛山公園句碑を訪ねる

野毛山公園には、中村汀女の句碑、佐久間象山の顕彰碑などがあります。
意外と知られていないかも知れません。
公園は大きく三つのブロックに分かれているために、市立中央図書館前に広がる手前の「野毛山」を通過してしまうことが多いからかもしれません。

中村汀女(なかむら ていじょ)さんの句碑が質素に建っています。

「蕗のたう おもひおもひの 夕汽笛」

私は句碑のこの周辺の雰囲気が好きです

桜の季節には多くの見物客が訪れますが、ふだんは人影も少なく静かな空間になっています。初めての方はどうぞ一度お立ち寄り下さい。

中村 汀女は、昭和期に活躍した代表的な女性俳人です。
高浜虚子の次女「星野立子」「橋本多佳子」「三橋鷹女」とともに四Tと呼ばれた大正・昭和を代表する俳人です。

中村汀女さんは一時期、西戸部に暮らしていました。
横浜に因んだ俳人の一人です。
作品には横浜で詠んだ句も幾つかのこされています。

「横浜に 住みなれ夜ごと 夜霧かな 」
「噴水の ましろにのぼる 夜霧かな 」
「船影が つつじのうえに ふとくなる 」
「竜のひげ 夕方落ち葉 やみにけり 」

戸塚区小雀町1160の「灯明寺」境内にも句碑があるそうですがまだ未確認です。
「木蔭はや 彼岸詣での 肩袂」

代表作品

「たんぽぽや 日はいつまでも 大空に」
「外(と)にも出よ 触るるばかりに 春の月」
「秋雨の 瓦斯(ガス)が飛びつく 燐寸かな」
「とどまれば あたりにふゆる 蜻蛉かな」
「咳の子の なぞなぞあそび きりもなや」

※四T
中村 汀女(1900年(明治33年)4月11日〜1988年(昭和63年)9月20日)
橋本 多佳子(1899年(明治32年)1月15日〜1963年(昭和38年)5月29日)
星野 立子(1903年(明治36年)11月15日〜1984年(昭和59年)3月3日)
三橋 鷹女(1899年(明治32年)12月24日〜1972年(昭和47年)4月7日)

(野毛山公園)
簡単に野毛山公園を紹介しましょう。
この一帯はかつて原善三郎や茂木惣兵衛といった明治期の横浜の豪商が邸宅を構えていた場所でした。

今はマンションが建っている野毛山邸宅のなごり

関東大震災によって壊滅し、その復興事業として旧野毛山貯水池や病院などの跡地とともに公園として整備されたものです。
※関東大震災震災復興事業の「公園整備計画」の一つ
日本庭園・西洋庭園・折衷庭園の三つの様式を持つ公園として1925年(大正14年)に着工、その翌年に開園しました。
第二次大戦中はこの場所を陸軍が使用し、戦後は1947年(昭和22年)まで米軍に接収されていましたが、接収解除後の1949年(昭和24年)に日本庭園だった部分に動物園ができ、1951年(昭和26年)には洋式庭園だった部分に児童遊園が造られました。
1972年(昭和47年)児童遊園を廃止し、8月15日に動物園のみ「野毛山動物園」として独立します。

もうすぐ仲間が増えますね

No.228 8月15日 (水) 夏休みはナイトのげやまへ

人気の野毛山動物園入口横から吊り橋によって南に道路を渡ると野毛山配水池があります。野毛山配水池は水の備蓄の役割を持つ施設で、現在西区全域と中区・南区の一部の地域にここから水が送られています。
1887年(明治20年)に日本最初の近代水道が創設された際に最初の浄水場があった場所です。ここには「近代水道発祥の地」碑があり、日本近代水道の創設者として知られるヘンリー・スペンサー・パーマーの胸像があります。


No.152 5月31日(木) もう一つの近代水道発祥の地

No.151 5月30日 100年前の先見性

野毛山配水池の一角を抜けると開放的な雰囲気の広場になっています。
芝生の部分や植え込みなどは幾何学的に配置され、整然として端正な美しさを持っています。
春は花見の名所です。

改装前の展望台(現在改装されました)

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