閉じる

No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心

1931年(昭和6年)の今日
神奈川県史跡名勝天然記念物が県内の歴史資産に対し指定されました。関東大震災からようやく復興の兆しが見え始めていましたが、一方で満州事変が起った年でもあり、国内外に時代のうねりが押し寄せている年でもありました。神奈川県史跡名勝天然記念物として指定された主な内容は、横浜市では三ツ沢貝塚、小机城址、アメリカ使節応接所跡生麦事件旧跡、汽車開設当時の横浜駅跡、藍謝堂跡等でした。これらの指定史跡の中で「三ツ沢貝塚」に注目しました。
※他の小机城址、アメリカ使節応接所跡生麦事件旧跡、汽車開設当時の横浜駅跡、藍謝堂跡棟は、別の機会に紹介できると思います。

blog-E8-B2-9D-E5-A1-9A-E7-9C-8B-E6-9D-BF8

「三ツ沢貝塚」
三ツ沢の丘にある神奈川県立横浜翠嵐高等学校脇に横浜市地域史跡「三ツ沢貝塚」を記した看板が建っています。1905年(明治38年)、このあたりで貝塚の発掘調査が行われ、多くの貝と同時に土器、住居跡、人骨が出土しました。ここには発掘者として一人のスコットランド人医師の学究魂が宿っています。

blogmituzawa52

横浜の古代、海岸線はかなり内陸に入り込んでいたことがわかります。

blog-E4-B8-89-E3-83-84-E6-B2-A2-E3-81-AE-E4-B8-9853
blog-E4-B8-89-E3-83-84-E6-B2-A2-E3-81-AE-E4-B8-987

大森貝塚を横浜から汽車に乗っていたモースが発見したことは有名ですが、この「三ツ沢貝塚」は、スコットランド人の医師Neil Gordon Munro(ニール・ゴードン・マンロー)が医師業のかたわら、人類学研究の一貫としてこの場所に注目し発掘調査を行いました。

Neil_Gordon_Munro

マンローは、たまたまインド航路の船医として来日し、日本の風土に魅せられ横浜山手にあったゼネラルホスピタル(山手病院)で医師として働くことになります。
医者であると同時に、考古学にも深い造詣のあったマンローは日本文化、北方の少数民俗アイヌ文化に関心を寄せていきます。

三ツ沢を発掘した1905年(明治38年)日本に帰化、帰化日本名「満郎」として1933年北海道に渡り、平取町二風谷(にぶたに)にマンロー邸を建てて医療活動を行いながらアイヌ文化を研究し保存に尽力します。
アイヌ民具などのコレクションの他、イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残したことは貴重な資料となっています。

(執念のアイヌのルーツ探し)
スコッツ魂“頑固さ”が光るニール・ゴードン・マンローはアイヌ民族の北方移動説を証明するために、本土の同時代遺蹟(貝塚)の発掘を考えます。この「三ツ沢貝塚」発掘では、彼の仮説の一部を補完する土器や人骨が見つかり、当時の人類学、考古学会に衝撃を与えました。

29歳で日本に来た彼は1942年(昭和17年)4月11日に78歳でその生涯を終え軽井沢町軽井沢会外国人墓地に眠っています。
Neil Gordon Munro (1863〜1942) was a Scottish physician and anthropologist. Resident in Japan for almost fifty years, he was notable as one of the first Westerners to study the Ainu people of Hokkaido. Educated in Edinburgh, he traveled in India and Japan before settling in Yokohama as director of the General Hospital in 1893. From 1930 until his death he lived among the Ainu in Nibutani village in Hokkaido. Film footage he took of the local people survives. Between 1909 and 1914 he sent more than 2,000 objects to the Royal Scottish Museum in Edinburgh.

※「三ツ沢貝塚」は、神奈川区沢渡(さわたり)・三ツ沢東町・三ツ沢南町にかけての台地に分布する縄文時代後期から弥生時代前期にかけての貝塚である。標高30mのこの台地は、東西に細長く、南北を谷に挟まれているが、縄文海進の頃にはこの台地の直ぐそばまで海が迫っていたとされる。
 この貝塚は、1905年に横浜居留のイギリス人医師ニール・ゴードン・マンローにより発掘調査が行われ、貝塚の他、竪穴式住居跡や墓地などを含む大きな集落があったことが判明した。
 集落の規模は、県立翠嵐高校あたりから松ヶ丘にかけての東西約600メートル、南北は三ツ沢東町の北斜面から沢渡の南斜面にかけての、広いところで300メートルを超えるものとされている。

E3-82-B9-E3-82-AF-E3-83-AA-E3-83-BC-E3-83-B3-E3-82-B7-E3-83-A7-E3-83-83-E3-83-88-2012-07-30-4.50.24
E3-82-B9-E3-82-AF-E3-83-AA-E3-83-BC-E3-83-B3-E3-82-B7-E3-83-A7-E3-83-83-E3-83-88-2012-07-30-4.52.30
E3-82-B9-E3-82-AF-E3-83-AA-E3-83-BC-E3-83-B3-E3-82-B7-E3-83-A7-E3-83-83-E3-83-88-2012-07-30-4.53.54


 貝塚からは、土器・土器片・土錘(土のおもり)・土偶(土で人を形どったもの)・打製石斧・磨製石斧・石棒・石皿・石鏃(やじり)・骨角器(ヤス・つり針)などの他、多種類の貝や魚・鳥類・シカ・イノシシなどの骨も発見された。
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/mb06/06img/MAIY_10s.pdf#search=’三ツ沢貝塚’

No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください