No.346 12月11日(火)ララの羊

1946年(昭和21年)12月11日(水)の今日、
11月末にアメリカから横浜港に到着した
第一弾の援助物資を市内の社会施設・病院等に配布し始めました。

本文とは関係ありませんが支援物資で戦後給食が実現

1945年(昭和20年)の秋、日本は敗戦に加えて20世紀始まって以来の凶作の年が重なり1,000万人の餓死者がでるのではないかとの予測も出されるほど、日本の戦後は飢餓から始まりました。
“戦後最初にして最大”の危機は、すぐに米国に伝わりましたがアメリカ本土の“戦災慈善活動”は欧州を対象にしていたたためアジアは忘れ去られていました。
特に日本に対しては反日感情が強く、一部の戦前からの知日派キリスト教関係者が立ち上がりますが大きな運動には結びつきませんでした。
実質的に日本向けの支援活動の原動力となったのは日系人と在留邦人達でした。
中でも、岩手県盛岡出身の日系人ジャーナリスト「浅野七之助」
仲間達と「日本難民救済有志集会」を企画し組織化を図ります。

さらにメディアを通して物資・資金提供を呼びかけます。
「故国の食糧危機重大」と題し
「一食を分ち、一日の小遣いを割いても、(日本人)を援助することは良心的な義務」と戦災難民救済を当時の邦字新聞「ロッキー新報」上で檄を飛ばします。
この檄に戦争が終結し多くの日系人が敵国関係者として抑留されていた状態から開放されたばかりでしたが、支援に立ち上がります。

彼の呼びかけで集めた物資を日本に送ろうと「日本難民救済会」を組織し公認団体とするように申請しますがこの善意は米国政府には伝わりません。
そこで、在留日本人牧師やエスター・B・ローズ(Esther B.Rhoads)女史ら知日家の尽力で別の援助物資輸送組織が組織されます。
対日援助物資窓口組織として多くのキリスト教団体が集まり
アジア救援公認団体ララLARA;LicensedAgenciesforReliefinAsia)が組織されます。
1946年(昭和21年)11月30日夕刻、クリスマスに間に合うように第一便の救援物資を積んだハワード・スタンズペリー(Howard Stanbury)号が横浜港に到着します。
運ばれて来た総量は450トンで
ミルク、米粉、バター、ジャム、缶詰、などの食料や衣類の他、医薬品・医療品などが陸揚げされました。
その後、第二便、第三便と支援物資が1952年(昭和27年)まで7年に渡って続々運び込まれます。支援物資・資金は北米のアメリカ、カナダ、メキシコ、南米のチリ、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなど多くの日系移民の暮らす国々から集まりその総額は当時で推定400億円にもなり1,400万人がその恩恵を受けました。

これらの支援活動に感謝し記憶するために「ララ物資」の記念碑が横浜市中区新港埠頭に建っています。
その横には、1949年(昭和24年)10月19日に昭和天皇皇后が行幸啓になられた際の香淳皇后の歌が刻まれています。


ララの品
つまれたる見て
と(外)つ国の
あつき心に
涙こほしつ

あたゝかき
と(外)つ国人の
心つくし
ゆめなわすれそ
時はへぬとも

(CARE・GARIOA・EROA)
日本への支援はララだけではありません。
米国の民間援助団体CAREは食糧・医療・医薬品・学用品の無償配布を8年間に渡って行いました。その額、5,000万ドル(約180億円=当時)にもなりました。
また経済復興の資金援助も行われました。
GARIOA(Government Aid and Relief in Occupied Areas)
占領地域救済基金は1947年から51年まで。
EROA(Economic Rehabilitation in Occupied Areas)
占領地救済復興資金は1949年から51年まで経済復興資金として提供されます。
このGARIOA・EROA債務は1973年に完済しました。

(東西冷戦)
これらの対日支援は、キリスト教国の人道支援に根ざしていますが、LARA支援以降、経済復興に提供された資金は国際情勢に影響された戦略的支援の側面もあったことも確認しておく必要があります。
余談ですが、
LARA物資品目には、生きた羊もあったそうです。
佐賀平等院住職・西村照純師の記録では
「『横浜まで山羊が来ているので受け取りに来い』とのこと。県の係官と弟が上京。数日がかりで、貨車で数頭佐賀まで山羊を運んできた。たしか日本の山羊より大きくザーネン種という種類だったと思う。」

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