暦で語る今日の横浜【9月12日】

横浜の年表から 今日起った出来事をピックアップしました。
●1879年(明治12年)の今日
「政府は貿易銀と洋銀の等価取扱を布告した(9月19日実施行)」
幕末から明治初期は貿易銀と洋銀の交換レートがめまぐるしく変わり為替レートが安定してませんでした。
開国と共に始まった貨幣制度の弊害は、多くの資金を海外に流出させ、財政破綻を起こします。これが起因となって徳川幕府は崩壊しますが

No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」

新政府になっても通貨制度は安定せず、幣制の建直しを図ります。
1871年(明治4年)6月17日に日本最初の貨幣法規「新貨条例」を決めます。
「円」「銭」「厘」という新しい単位を導入します。

※明治貨政考要の記事によると大隈重信が新しい貨幣を円形(丸い硬貨)に統一するのが良いと主張しますがこれに反対する者が多かったそうです。重信は「親指と人さし指の先を合わせて、円の形を作りそれをそばの人に見せれば誰でもそれが貨幣であるということが分からないものはない。だいたい物が四角であると廻しにくくて摩損することが多い。円ければ摩損が少なく廻し易い。外国では貨幣はみな円形を採用している。実際上も懐中からの出し入れには円い貨幣は便利である。だから新しい貨幣は円形にするのが一番よい。」と説き貨幣が丸くなったそうです。

新通貨制度は当初“金本位制度”で始まりますが
貿易のために開港場限定で「1円銀貨(貿易銀)」を発行し、外国で通用している「洋銀」と同等“等量目”とします。この通貨制度を自由化したのが
1879年(明治12年)の今日「政府は貿易銀と洋銀の等価取扱を布告した(9月19日実施行)」となり「金銀複本位制」となっていきますが、維持は難しく大正期まで制度の試行錯誤が行われます。

●1881年(明治14年)の今日
根岸北方の海軍射的場でスイス射的会開催。
スイス射的会は何回も行われたようで、
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない
でも紹介しています。

●1920年(大正9年)の今日
「帝国蚕糸株式会社設立発起人会が成立した(総代原富太郎・今井五介)。当初資本金10,000,000円の予定だつたが、株の申込が多いので15,000,000円に増額した。」
1914年(大正3年)第一次世界大戦ぼっ発による蚕糸恐慌で一次帝国蚕糸株式会社を作り、滞荷生糸を買い入れ供給調整を行うことで恐慌を乗り切りますが、2回目の蚕糸恐慌が、1920年(大正9年)に起こります。
ニューヨーク生糸市場在庫が三か月分売れ残っているところへ、日本の株式が暴落、銀行破綻や生糸商倒産が相次ぎます。この時、蚕糸業同業組合中央会が活動を起こし、当時の原内閣を動かします。
蚕糸業者の組織するシンジケート「第二次帝国蚕糸株式会社」を設立し、不況を乗り越えます。

No.93 4月2日 蚕糸貿易の歴史を見つめてきた倉庫
1926年(大正15年)4月2日「帝国蚕糸倉庫株式会社」創立総会が開催されました。

●1927年(昭和2年)の今日
「横浜音楽協会主催「藤原 義江独唱会」開催、開港記念会館」
藤原 義江(ふじわら よしえ)日本のオペラ歌手、声楽家として
戦前から戦後にかけて活躍します。私生活はスキャンダルの連続でしたが、その歌唱力と奔放さで、創設した「藤原歌劇団」とともに一時代を築きます。
戦前スキャンダルまみれで欧米を放浪した頃
ロンドンでは吉田茂(当時は駐英一等書記官)の引き立てられる
三井の大番頭中上川彦次郎ファミリーとのスキャンダルがありながらも
三女藤原あきとの恋に『世紀の恋』と謳われるなど
など運?にも恵まれた人生を送ります。
http://www.youtube.com/watch?v=wkJ3c3K0pfg
作詞:時雨音羽、作曲:中山晋平
『出船の港』

●1933年(昭和8年)の今日
岡倉天心が亡くなります。52歳でした。
No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

No.280 10月6日(土)天心と三渓

No.382 1月16日(水)横浜と福井

No.375 1月9日(水)残した大正の財産

●1959年(昭和34年)
新市庁舎完成に伴い、交通局本局も滝頭から同庁舎に移転
No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題

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