No.438 神奈川奉行入門

特に詳しく知っていて 役に立つとは思えませんが、
恐らく、幕末の幕府役職の中で、
どちらかといえば 任命されたくない
 でも優秀な人材が望まれたポジションでした。
今日は、横浜散策の際 ちょこっと他の人に差をつけるかもしれない神奈川奉行について紹介しましょう。

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神奈川奉行所の運上所が現県庁に

「お奉行!」で最も有名なのが?
遠山の金さん、大岡越前守あたりですかね。
「奉行」という役職の歴史は古く、江戸以前の平安時代からある役職です。
簡単に言えば「行政官」のことで、政務を担当した職名を指しました。
江戸時代に官僚制が成熟し様々な「奉行職」(役職)が設けられました。
■三奉行
寺社奉行
→エリート中のエリートが就任、宗教団体担当
勘定奉行
→会計ソフトの商品名にもなっていますが
 幕府の財務、会計、幕府直轄領の支配等を担当
町奉行
→江戸の民政最高責任者、南北に分かれる
東京都知事兼警視総監兼東京地方裁判所長みたいなもの
■その他
道中奉行、作事奉行、普請奉行、寄場奉行、書物奉行、腰物奉行、吹上添奉行
この他にも様々な役職があったようですが、今日のテーマである
「神奈川奉行」は遠国奉行(おんごくぶぎょう)という役割の中の一つの職制でした。

(遠国奉行)
幕府直轄の要地に配した奉行の総称です。
江戸の町以外の幕府直轄領(天領)のうち重要な場所を管理監督しました。
重要な直轄都市が「京都」「大阪」「駿府」の三都市です。
設置年代順(幕末時点)に都市名を挙げると
長崎・(京都)・(大阪)・伏見・山田・日光・奈良・堺・(駿府)・佐渡・浦賀・下田・新潟・箱館・神奈川・兵庫
といった順です。
長崎奉行は1603年(慶長8年)に設けられた最も古い奉行で外国貿易を政府が管理した最初の奉行です。
数ある各都市奉行の中で
神奈川奉行は1859年(安政6年)に
兵庫奉行が“徳川幕府最後の”設置で1864年(元治元年)でした。
兵庫奉行は短く、殆ど機能しませんでしたので最後の重要な「遠国奉行」が神奈川奉行でした。
長崎に始まり神奈川(横浜)・兵庫(神戸)に終わったのも
歴史の皮肉でしょう。

(神奈川奉行)
横浜港が開港された1859年(安政6年)に開設されました。
開港が決まった初期は外交専門担当の「外国奉行」(遠国奉行より上格)が兼務していました。
初代「外国奉行」が横浜開港をリードした岩瀬忠震です。
神奈川奉行の任務は開国に関する様々な事務ですから
開港場建設の責任でもありました。

設置当初の神奈川奉行は三カ所で運営されました。
当時1,000人以上のスタッフ(役人)を抱え日本最大級の都市管理組織となります。
【会所】→事務所
青木町(神奈川県横浜市神奈川区青木町)

【奉行役所】主に内国司法・行政事務
戸部村宮ヶ崎(同西区紅葉ヶ丘、現・神奈川県立青少年センター)


【運上所】主に関税及び外務全般事務
横浜村波止場近傍(同中区日本大通、現・神奈川県庁付近)
運上所は1860年(万延元年)に独立します。

No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

(外交官兼務の神奈川奉行)
1859年(安政6年7月)外国奉行に就任し、8月には神奈川奉行を兼務早々、重要な命令を受けた「新見正興」は
1860年(万延元年)(3月18日に安政より改元)
日米修好通商条約批准書交換使節団の正使として渡米の任に就きます。
「万延元年遣米使節団」と呼ばれたこの使節団は
副使に村垣範正(淡路守)、監察には小栗忠順(豊後守)が任命され共に外国奉行経験者で批准書交換を達成した優秀な三人組でした。
「万延元年遣米使節団」の護衛という名目で渡米したのが
「咸臨丸」で乗船メンバーが派手?だったので有名になりましたが
正使はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込み横浜よりハワイを経由し太平洋を横断、サンフランシスコに到着しパナマ経由でワシントンD.C.に到着大役を果たします。

開港記念会館のステンドグラスに描かれたポーハタン号
ポーハタン号

到着したのが
1860年5月15日(万延元年閏3月25日)
そして正式に調印(批准書の交換)したのが
旧暦4月2日(1860年5月22日)
アメリカ合衆国大統領ブキャナンと謁見し、
批准書が交換され任務を終えます。
使節団は
1854年の開国後、最初の公式外国訪問団であり、世界一周も達成します。

黒ルートは咸臨丸、遣米使節団は赤と緑ルートで世界一周します

この批准を記念して百年後の1960年に「日米修好通商百年祭」が開催されます。
吉田茂元首相が民間の遣米使節団の団長としてアメリカ諸都市を訪問し、100年前に新見ら遣米使節団を迎えたのと同じ会場で開催された正式午餐会に出席しました。
一方、アイゼンハワー大統領の日本訪問も計画されましたが、日米安保条約改定をめぐる国内の「安保反対」運動の高まりを受けて、実現しませんでした。


使節団をアメリカまで運んだポーハタン (USS Pawhatan) 号をモチーフにしたマークが作られました。

 


写真はその時の切手、記念フラッグと皿です。
「ポーハタン (USS Pawhatan) 号は、南北戦争時の米国海軍の外輪フリゲート艦である。
名前はアメリカ・インディアンのポウハタン族に由来する。米国海軍では最大かつ最後の外輪フリゲート艦であった。嘉永7年(1854年)のペリーの日本再訪の際の黒船の一隻。」
このポーハタン号と同型の「亜墨利加蒸気船 長四十間巾六間」をデザインしたイヤープレートが今年2013年横浜焼の伝統を受け継ぐ
増田工芸によって制作されました。

http://www.masuda-art.com/masuda/cn89/pg1296.html

(余談) 
新見正興が外国奉行就任時の領地は現在の横浜市戸塚区品濃町あたりだったそうです。


今日番外編で咸臨丸

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2

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No.386 清水の次郎長、横浜に通う

No.55 2月24日 YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA

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