第827話 1876年(明治9年)6月21日張り棹禁止
1876年(明治9年)の今日
前に紹介しました神奈川県史料によると
沿海各区と正副区戸長に対し
「第三十
船乗渡世之者張り棹禁止之事」と題した禁止令を出しています。
船乗を仕事としている者、張り棹を使って石垣の透間へ棹を差し込み
船を繋ぎ碇泊したり
あるいは潮の満ち干を待つなどするものがいるが
これは石垣損傷の原因となるのでこれからは行ってはいけない
指定地域での船待、船宿および船乗乗などに
もれなく伝える!
って感じですかね。
内容は河川の石垣損傷の原因となるので棹をむやみやたらに隙間に挿すな!!という内容です。
昔の船の風景を追いかけてみます。
小舟による水運が盛んな明治から大正にかけて、堀に係留する際<棹>は重要な役割を果たしました。棹を石垣の隙間に挿すな!と言われた船乗りたちは どうしたのでしょうか?
※ついでに第三十一号禁令では
早染めあるいは染め粉という理由で有毒の薬品を使うのは禁止する!
という行政命令も出ています。
横浜は輸出用の<染物>捺染の工場が集中した地域でもありますから、違法行為も多く出てきたのでしょう。
(過去の6月21日ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=435
1964年(昭和39年)6月21日(日)の今日、
横浜市神奈川区にある三ツ沢公園(みつざわこうえん)で、
この年の10月10日開催予定の「第18回夏季東京オリンピック」に向けた横浜フェスティバルが開催され約45,000人が参加しました。
第824話1877年(明治10年)6月19日神奈川県史料語る
1877年(明治10年)6月19日
「神奈川県史料」に下記のような記述がありました。
「第四十七 大半揚弓等稼業時間相定之事
同年(明治)十年六月十九日
大半揚弓及室内射撃銃を以稼業致候者従前時間に制限無之候処以来大半弓は日出より日没まて揚弓并射撃銃は午後十二時迄と稼業時間相定候条右渡世之者へ無洩可触示此旨相達候事」
揚弓:江戸時代に流行した遊びで、小さな弓で的を当てる<射的>
営業時間について規定を設けています。
<揚弓と射撃銃>は午後十二時までとするとなっています。実質この遊戯は風俗営業の一端で、
http://yokyuten.exblog.jp/6793966/
トラブルもあったようです。
また「射撃銃」は現在も懐かしい遊びとして復活している「射的」用の銃だったと思います。「射的」の歴史は調べていませんが江戸時代からあり、<遊戯用の銃>も明治に入り普及したようです。
「コルクを弾丸にして発射する空気銃またはスプリング式銃で的を射る遊戯。座敷鉄砲ともいわれる。室内射的用の銃は,普通後者が用いられる。的との距離は約 3mで,コルク弾が命中すると的の止め具がはずれて,分銅式に景品の玩具や人形が降りてくる。」
同じく同日付で
「第四十八 浴場男女混入を禁する事
明治十年六月十九日
第拾大区 正副長 同七小区正副戸長
本年五月二日本件丙第百三十号を以浴場へ男女混淆(こんこう)之儀云々但書共相達候処右は其区内布田駅に於ても同様相心得浴湯場男女分界取設之儀は来る八月十五日限り落成可為致其他他凡て最前相達候通り相心得該渡世之者へ無遺漏示諭可致此旨相達候事。」という達しが出されました。
第10大区7小区の正副区戸長に対し、布田駅にある浴場に、男女の分界を8月15日までに設けるよう達した。という内容です。
明治に入っても 風呂場は江戸時代から続く<混浴>習慣があり
新しいルールを徹底させるためにこういった<お達し>を出していました。
この江戸のおおらかな文化<男女混浴>に怒ったのが
ペリーでした。彼は「日本遠征記」で
「男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である」
と記しています。
その後も 欧米列強の皆さんはこの「男女混浴」には大反対だったようで、明治政府は取り締まろうとしますが実質<体裁>だけで 徹底されるには時間がかかったようです。しかも下町や地方では混浴習慣が徹底されず 何回も、幕府から混浴禁止令を受けながらも復活するという<日本古来の風習?>かもしれません。
(神奈川県史料)
神奈川県が政府の命によって、明治元年から明治十七年までの間の出来事を編年で記述した史料です。この第一巻は主に行政資料となっていて
制度部
県庁・庁即・租法・職制・禄制・軍役 等々事細かに事件録のようになっています。
独特の文体なので読みにくいですが、面白い記述に出会うことがあります。
このブログでも時折活用しています。
明治元年から明治十七年 横浜を含め 日本が実生活の中で<近代>と出会った時期です。
まさに この神奈川県史料は カルチャーショックの記録ともいえるでしょう。
(過去の6月19日ネタ)
No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=437
1916年(大正5年)6月19日(月)の今日
歌人佐佐木信綱(44歳)は横浜三渓園に行き、
滞在していた詩人であり思想家のタゴールと面会しました。
第823話 1889年(明治22年)6月18日増田知
1889年(明治22年)6月18日の今日
初代横浜市長に増田知(ますだ さとし)が就任しました。
Wikipediaにもほとんど情報が無いし、さらっと参考情報位の扱いにしておこうかな?
と思いつつも調べ始めたら
<やめられない> <とまらない>そして<まとまらない>
ということで今日は初代横浜市長 増田知を紹介します。

1889年(明治22年)4月1日から日本全国で市政が始まり
順次大都市が<市>となっていきます。
1889年(明治22年)4月時点で全国31都市が市政導入。
人口規模の順でいくと
■大阪市 大阪府 人口476,271人
大阪府下4区を大阪市とし市制施行
市制特例により市長を置かず、大阪府知事が市長職務を行う。
■京都市 京都府 人口279,792人
上京区・下京区を京都市に。
市制特例により市長は置かず、市長職務は府知事が行う。
■神戸市 兵庫県 人口135,639人
神戸区が荒田・葺合両村を合併し神戸市となる。
■横浜市 神奈川県 人口121,985人
横浜区を横浜市に。
■金沢市 石川県 人口94,257人
金沢区534町を金沢市に。
■仙台市 宮城県 90,231
仙台区をは仙台市に。
※人口第1位の東京市は特別で政府直轄行政都市の色合いが濃く
市政導入は1889年(明治22年)5月1日
他の<市政>より1ヶ月後に旧15区の区域が東京市となる。
※当時人口規模人口162,767人 第4位の名古屋市は遅れて
1889年(明治22年)10月1日に市政を導入。
横浜は上記のように4月1日「横浜区」から「横浜市」となります。 当時の市域面積は、横浜港周辺の5.4平方kmと小さな市域でした。
市政導入で まず市議会議員選挙が行われます。
ところが この議員選挙とその後の<市長推薦>がオオモメにモメたことが資料から伝わってきました。
その当事者が初代横浜市長増田知(ますだ さとし)です。
当時の市長の任期は6年でまず市会が市長候補を3名推薦します。
これを県知事が受けて国に上奏。
内務大臣が市会の推薦した3名の候補者の中から<上奏裁可>を請い「選任」するという形式をとっていました。
※明治憲法下では天皇に官吏任命権(憲法第十条)があり、これを内務大臣が補弼したため、実質内務大臣が任命しました。しかも一応本命が示され、通常なら<本命>が なるのが ならなかった。
市会オオモメの元は、市制となる前に起こった「共有物事件」です。
初代横浜市長 増田知(ますだ さとし)を語るにはこのオオモメ騒動「共有物事件」を理解しないとできません。
横浜開港史上長らく「地主派」と「商人派」という横浜独特の地域を真っ二つに割る派閥が形成されていました。
※超簡単に「共有物事件」を説明すると、貿易商人たちが居留地時代から歩合金で作ってきた<地域の共有物>は誰のものか?
市域を構成する町の代表グループ(地主派)と、貿易商グループ(商人派)が真っ向から対立し裁判にまで至った事件です。現在のように法整備が整っていない地方行政のスタートラインだったこともあり、解釈と思惑が入り乱れ横浜を真っ二つに割りました。裁判結果は「共有物のすべては横浜市の財産である」となりますが そのままで収まらないのが世の常。
近代民主主義の試行錯誤期ともいえるでしょう。
この横浜政界に四分五裂の抗争がはじまります。一部はそのなごりを引きずり<戦後まで>続いていきます。
なので ここでは「地主派」と「商人派」の闘争史はパスします。
シンプルに初代横浜市長の紹介だけにし、闘争史は別途じっくり行きます!
初代市長に推薦された3名は
茂木保平(商人派)
平沼専蔵(商人派)
増田 知(地主派)
ここで増田知は市会の本命ではありませんでした。
ところが、県知事、内務大臣の裁可の時点で地主派の「増田知」となります。
→この背景説明が一筋縄ではいかない。
(日本初の辞任)
市会の主流ではない初代横浜市長が就任したため、議会は紛糾、
就任して8ヶ月後
1890年(明治23年)2月15日には辞任するという事態に陥ります。
(増田知)
歴代市長の中で最も在任期間が短く、しかも日本で初めて辞職した市長が増田知です。
増田知のプロフィールを紹介しておきましょう。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/picture/12_05.html
天保14年9月 下野国都賀郡壬生藩(栃木)士族の子として生まれます。
幕末の壬生藩は新政府側か徳川側か藩内は二分して大混乱の末、新政府側になるという事態の中、優秀だった増田は明治4年の廃藩置県まで権大参事(副知事)を担当します。
その後名古屋県、白川県、熊本県、神奈川県、群馬県、内務省と地方官僚を歴任します。
1886年(明治19年9月)に神奈川県役人から横浜区長と橘樹郡長を兼務します。
初の横浜議会の推薦を受けます。※ただし 上記の通り本命ではありませんでした。
1889年(明治22年)6月18日に初代横浜市長となり
1890年(明治23年)2月15日に議会混乱を受け辞任。
その後
富山県参事官、内務省、伏木測候所所長、南多摩郡役所郡長を歴任し明治44年3月6日に亡くなります。
生涯 地方官僚として生きた人物です。
市会多数派の意向と異なった派閥の初代市長は辞任に追い込まれます。
その後の歴代市長は、このような食い違いは起こらず、市会での決定が市長となるスタイルが戦後まで続きます。ただ、時を経るに従って中央とのパイプを重視する市長が推挙される<現実>を市会が学んでいったことも歴史の一断片といえるでしょう。
このような事態最近もある話です。
議会と首長 ねじれ自治体。そして一時期のねじれ国会といわれますが
<ねじれ>というと何かおかしい感じがします。
決しておかしい訳ではなくこれが民主主義ですよね。ねじれるから<一色>にしろ!というのは筋が違うのですが、政治主張になってしまう未熟な政治闘争ですね。
(過去の6月18日ブログ)
No.170 6月18日(月) 大荷物「リゾート21」の旅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=438
1986年(昭和61年)6月18日(水)の今日、東急田園都市線開通20周年記念イベントの一貫として「リゾート21」が横浜市内を走りました。
第822話1877年(明治10年)6月17日モース横浜へ
1877年(明治10年)6月17日の今日
「エドワード・シルベスター・モース(38歳)東京大学で動物学を教えるため来日、サンフランシスコから横浜港に着く。明治12年8月31日、アメリカに帰国する。」
この表記は正確ではありません。<東京大学で動物学を教えるため来日>ではなく最初は研究のためでした。
少しプライベートな話を。
小学生の頃、父と小旅行で電車に乗った時、車窓の風景を指さしながら、「あの丘は古墳かもしれないぞ。近くではわかりにくいがこうやって少し離れ電車のように動きながら探すと発見しやすい」と聞いて、ワクワクしながら景色をのぞき込んだ記憶があります。
父は学生時代 大山柏の下で、考古学者を目指していました。
この話を私は父のオリジナルと思っていましたが、社会人となった頃エドワード・モースを読み
元ネタがモースの逸話だったことを知った記憶があります。
エドワード・モースはアメリカの動物学者としてまだ外国人の行動が制限されていた日本を訪れます。2枚の殻を持つ腕足動物を研究対象にしていたモースは、アジアの腕足動物研究に<日本>を選びます。
1877年(明治10年)6月17日の今日、
横浜港に着き居留地で情報収集にあたりますが、まだ外国人の行動半径が制限されていたため、
19日東京の文部省にダビッド・モルレーを尋ねるために「横浜駅」から「新橋駅」まで汽車に乗ります。
※ダビッド・モルレー
下関賠償金返還を求めるロビー活動も行います。日本に教育制度の助言を行った教育学者。
モースは、新橋に向かう途中列車の窓からこの時「大森貝塚」を発見します。実際の発掘はこの年の10月からですが、横浜駅から列車に乗りしかも海側で無かったら大森貝塚の発見はもう少し遅れたかもしれません。
エドワード・モースの功績は 3度の来日で
当時日本人があまり関心を示さなかった陶器の収集(ボストン美術館)
そして民俗資料の収集(ピーボディ・エセックス博物館)を行ったことです。
http://pem.org/collections/9-asian_export_art
このモースコレクションから意外な発見をしました。
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378
(過去の6月17日ブログ)
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=439
横浜スポーツの百年に1876年(明治9年)6月17日(土)の今日
「北方の鉄砲場でスイス人の射的会開催」とあります。
(第686話)明治4年、象の鼻 晴天なり。(後編)
横浜開港のために幕府は二三ヶ月の突貫工事で開港場を整備します。
二本の小さな突堤を開港場の真ん中に造成し、港の体裁を整えますが、冬の北風が強い日は波が強く小舟も着けることができない状態でした。
そもそも貿易港として開港した横浜港ですが、大型船が着岸できず諸外国からはしっかりとした桟橋の設置(港の整備)を望む声が高まります。
慶應4年の春に、ようやく二本の突堤の一本を波受け用に湾曲させ、その形が象の鼻に似ていることからいつの間にか「象の鼻」と呼ばれるようになりました。
横浜港に本格的な桟橋が完成したのは1894年(明治27年)ですから開港から35年もの時間がかかります。港の整備が遅れた理由は予算でした。
この国には、国内最大の国際港に桟橋を架ける予算がありませんでした。経済破綻した幕末の借金が新政府にも重くのしかかっていたからです。かろうじて国家財政を支えていた貿易は皮肉にも横浜港から輸出されていた「生糸」と「製茶」でした。
新政府は様々な分野に“近代化”が求められていたのです。
明治4年11月12日(1871年12月23日)
晴れ上がった横浜港に、多くの人々が維新後最大の渡航する「岩倉使節団」を見送りに集まりました。
「岩倉使節団」の公式記録を編纂した一行の一人、久米邦武は「回覧実記」に出航の模様を詳細に描いています。
『此の頃は続いて天気晴れ、寒気も甚だしからず。殊に此の朝は暁の霜盛んにして扶桑を上る日の光も、いと澄みやかに覚えたり。
朝八時を限り一統県庁に集まり十時に打ち立ちて馬車にて波止場に至りて小蒸気船に上る。この時砲台より十九発の砲を轟かして使節を祝し、尋ねて十五発し、米公使「デロング」氏の帰国を祝す。海上に砲煙の氣弾爆の響、しはし動いて静まらず。使節一行及び此の回の郵便船にて米欧の国々へ赴く書生、華士族五十四名、女学生四名も皆上船し、各其部室を定め荷物を居据えるなど一時混雑大方ならず。十二時に至り、出航の砲を一弾してただちに錨を抜き、汽輪の動をはずしけり。港に繁ける軍艦より、水夫皆橋上に羅列し、帽を脱して礼式をなし港上には見送りのため、船を仕立て数里の外まで恋ひ来りぬ。』
「岩倉使節団」一行は使節46名、随員18名、留学生43名総勢107人が上船します。
横浜港の沖で一行を迎えたのが米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ号」で、太平洋上で新年を迎え二十三日間の航海を経て明治5年1月6日「岩倉使節団」はアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに到着します。
「明治4年、象の鼻 晴天なり。」前編でも書いたように一行は20代から30代中心の若きメンバー達ばかりでした。
この旅はアメリカに約8ヶ月、その後大西洋を渡りイギリス4ヶ月、フランス2ヶ月、ベルギー、オランダ、ドイツに3週間、ロシアに2週間を費やしました。
出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に横浜港に帰る長旅でした。
彼らはまずサンフランシスコ最大のグランドホテルに逗留します。
様々な歓迎式典の中で、
当時のサンフランシスコ随一の資産家、ラルストン(William_Chapman_Ralston)氏の歓迎式典で自宅に100人近い一行が招かれたという記述があります。
ラルストンは、1826年オハイオ生まれの実業家で、ゴールドラッシュの恩恵を最大限に利用した銀行家でもありました。
1864年にカリフォルニア銀行を創設し、
1875年にサンフランシスコ湾で溺死しますが事業の失敗による自殺とも言われています。このたった十年の輝かしいひと時に、日本の使節団が彼と出会ったことになります。
このラルストンという人物、間接的ではありますが日本、そして横浜と深い関係になるとはその時 誰もわかりませんでした。さて その人物は?
(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。
江戸時代に生まれ、激動の幕末に頭角を現した総勢107名の日本人が
明治4年11月12日(1871年12月23日)横浜港を出航しました。
彼ら目的は色々ありましたが、多くの同行者は欧米の実情を知ることでした。
「岩倉使節団」のメンバーです。
この国は理想と現実、欲望と信義が落ち着かないまま明治という全く新しい体制に突入します。
革命か政権委譲か?コップの中の嵐を、欧米列強の外交官達は固唾をのんで眺めていました。
明治維新は、
不思議なほどの静かで力強いエネルギーによって始まります。明治新政府は日本の近代化は幕末生まれの若者と、優秀な徳川時代の元官僚が支えられることで大きな混乱なく誕生します。
しかし、大政は奉還されましたが、その先のことは全く白紙状態でした。この国がどうなるのか、どうしていくのか、朝から深夜まで合意と同意の議論が連日続きます。
未熟な維新のリーダー達は皆苛立っていました。派閥抗争も表面化します。
260年続いた徳川政権、武士による連合国家に近い政権がいとも簡単に覆ります。
そして維新後 矢継ぎ早の大変革でこの国の近代化が始まります。
版籍奉還と廃藩置県の実施によって全国の諸藩を一気に解散させ中央集権型に移行させます。
制度の変革には成功しますがここに登場する若き明治のリーダー達は、青臭く原則論者で血気盛んな者達でした。
この若き維新の志士たちに強いショックを与えたのが岩倉具視が率いる「米欧回覧使節団」俗にいう「岩倉使節団」です。

1871年(明治4年7月14日)に、制度による大革命「廃藩置県」を行ったその年の暮、
明治4年11月12日(1871年12月23日)「岩倉使節団」は横浜を出発します。
総勢107名
幹部の多くが20代から30代、最長老の岩倉自身も43才という若者集団でした。
同行した者達がその後の各界をリードする人物となっていきます。
この外交団の記録『特命全権大使米欧回覧実記』を著した人物が久米 邦武です。
彼の記述は、日本史上希有の見聞録として、国際社会でも高く評価されています。
■米欧使節団の主なメンバー
岩倉 具視 1825年10月26日生まれ 43才→正使
由利 公正 1829年12月6日生まれ 39才→随行
大久保 利通 1830年9月26日生まれ 38才→副使
田辺 太一 1831年10月21日生まれ 37才→一等書記官
木戸 孝允 / 桂 小五郎 1833年8月11日生まれ 35才→副使
東久世 通禧 1834年1月1日生まれ 34才→神奈川府知事
三條實美 1837年3月13日生まれ 31才→太政大臣
大隈 重信 1838年3月11日生まれ 30才
山口 尚芳 1839年6月21日生まれ 29才→副使
久米 邦武 1839年8月19日生まれ 29才→公式記録者
名村 泰蔵 1840年11月24日生まれ 28才
何 礼之 1840年8月10日生まれ 28才→一等書記官
伊藤 博文 1841年10月16日生まれ 27才→副使
福地 源一郎 1841年5月13日生まれ 27才→一等書記官
沖 守固 1841年8月13日生まれ 27才→初代神奈川県知事
中山 信彬 1842年11月17日生まれ 26才
長野桂次郎(立石斧次郎) 1843年10月9日 25才
新島 襄 1843年2月12日生まれ 25才→留学生
山田 顕義 1844年11月18日生まれ 24才
川路寛堂 1845年1月28日生まれ 23才→三等書記官
田中 不二麿 1845年7月16日生まれ 23才
安藤 太郎 1846年5月3日生まれ 22才→幕末、横浜で英語を学ぶ
中江 兆民 1847年12月8日生まれ 21才→留学生
小松 済治 1848年生まれ 20才→横浜地方裁判所長
渡辺 洪基 1848年1月28日生まれ 20才→両毛鉄道社長
林 董 1850年4月11日生まれ 18才→二等書記官
川路 利良※ 1834年6月17日生まれ 34才→司法省の西欧視察団
鶴田皓※ 1836年2月12日生まれ 32才→司法省の西欧視察団
井上 毅※ 1844年2月6日生まれ 24才→司法省の西欧視察団
※明治5年派遣の司法省西欧視察団メンバー
この岩倉使節団の出発光景を描いたのが「岩倉大使欧米派遣」という作品です。山口蓬春が1934年(昭和9年)に描いたものです。
この一枚の絵画 初期の横浜港を語る上で、興味深い画像ですが意外に知られていないようです。
(つづく)次回は『特命全権大使米欧回覧実記』を元に横浜港の出発風景を探ってみます。
(第686話)明治4年、象の鼻 晴天なり。(後編)
No.273 9月29日(土)明治版2Ch?
今日は閑話休題、ネタ探しの宝庫について紹介しましょう。
明治時代ともなると、百数十年も前のことで時代劇の領域のように感じますが、当時の新聞を読んでいると、
何時の時代のことなんだろう?と思う出来事が多く報道されてる事に失笑しつつ“変わってない”世の中に複雑な思いもあります。
例えば1909年(明治42年)9月29日開港50周年の年「横濱貿易新報」のいわゆる生活欄、三面記事には?
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やっぱり日本女性は和服でしょ!? |
明治版おれおれ詐欺
上記の記事の次に、不逞の学生どもが電話を使って詐欺をして捕まった記事が大きくでています。
ことの顛末をかいつまんで紹介します。
学生グループは自動電話(交換を通さない)を使って、著名人の名を語り高価な出前を頼み“食い逃げ”し、若い女性を尾行しレイプに及び、若いカップルからは恐喝し金銭をまき上げるという“どうしようもない連中”が捕まったという記事です。
冒頭に「堕落学生の跋扈することを耳にするは久しきこと」とありますから、
明治の時代でも馬鹿な学生はいたようです。
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良く読むとかなり凶悪犯です |
明治の新聞記事は「横濱貿易新報」か、「横濱毎日新聞」で調べますが、多くの場合、年表等で事件を発見しその日の記事を確認する作業を行うのですが、面白い記事に関心が行ってしまうこともしばしばあります。
広告は面白いので時々このブログでも引用しています。
No.137 5月16日 全店サマークリアランスセール開催中
最近興味深く読んでいるのがいわゆる「投稿欄」です。
幾つか紹介しましょう。
「漫遊外人などが上陸早々面会するのは税関監視部の人なり。一寸した事だが能く考えると監視部には立派な人を置きたいね」
“置きたいね”という言葉から、今で言えば、入国審査官はその国顔ですからしっかりした人にしろ!という意見なんでしょう。
まるで落語に出てくる『ネタ』のような投稿が
「イセサキ一(丁目)の天金では夜二時過ぎまで調子の合わぬ三味線を弾くので近所では大迷惑(不眠休)」
「若葉町三丁目の下駄屋では毎夜調子の合わぬ三味線弾いては近所迷惑」
「近頃滑稽な噺は初音町の祭礼に生花の奉納があったところ隣の床屋の“権”という若者が生花を見に来た別嬪に見とれて客の睫毛を剃り落したとの事」
今も昔も変わらないのが
「生命保険の勧誘五月蝿ね」
明治時代も勧誘は迷惑だったようで。
「市長サンは不二山との評を受けたんだ。なるほど少しも物に動ぜぬからね」
何もしてくれないという揶揄です。
「皆んなが皆んなと言う訳ではないが横濱の電話交換手ほど不親切極まるものは例が少ない。五百番は何のために設けているのですか」
「羽衣町弁天社内は雨が降ると道が悪くて高い下駄が沈没します。早く地上げをお願いします。」
「野毛山双葉楼別荘下の道路へ電燈を点ぜよ(安全男)」
「停車場の札売場にて駅夫が衣服を着替えるのは見苦しい沙汰です(商館番頭)」なんて公共サービスへの投稿もあります。
一方で、投稿にどれほどの信憑性があるのかわかりませんが、
「不老町の英漢数教授某先生 生徒から金を借りて酒食に耽る事は止したまへ」
「赤松春よ 男子との交際は止めよ(忠告生)」大きなお世話のような気もしますが。
「戸部警察署詰の高木刑事君の住所ご存知の方は此蘭まで御通知を乞う」
新聞で警察官の住所を聞いてしまうなんて今じゃ考えられませんが、この記事には後日談があったようで、数週間後“戸部警察署詰の高木刑事”は東京に転勤となった記事がでていました。何なのでしょう?ちょっと興味あります。
「住吉二(丁目)のお倉ちゃん十四日の晩は御三人で御楽しみね(住吉三(丁目))」
「戸部四 湯屋の西岡さん淫売の妾はおよしなさい。御身分に障ります。」
「寿二(丁目)の早川おトシさんあまり方々の男と歩行くのはおよしなさい。(注告女)」
こんな目撃証言、当人は効いたでしょうね。
「横濱停車場の出札係高辻タマ子は客に対して頗る親切だ 第一釣り銭を投げつけるなんか 又一二等口の婦人は英語にも熟達して居て丁寧懇切だ」
この光景、
一等二等の窓口の担当女性は英語も話せて懇切丁寧だが
一般客(三等)担当の接客には我慢ができない!!と読んだのですが。
今も近いものがあるように見受けます。横濱のどことは言いませんが…
最後に
「横濱市内の奇観
(1)弁天橋の古褌
(2)噴水器の青藻
(3)ドンタラ時計(会館上の)とす」
さあ どんな光景なんでしょうか?
このドンタラ時計はかなり市民に不人気のようで別な場所の投稿にも新しくしろという趣旨の記事がでていました。
ようは時間が正確ではないので“時計の役割”を果たしていないということのようです。
お粗末でした。御後がよろしいようで。
No.143 5月22日 横浜遺産、あまりに無名!
北緯:35度26分01秒
東経:139度37分50秒
この位置にあるごく普通の神社、
明治時代の そして横浜の貴重な刻印の物語をご紹介しましょう。
(まえおき)
1932年(昭和7年)の今日、現在の南区八幡町にある中村八幡宮の上棟式が挙行されました。
“おそらく”関東大震災で受けた本宮の再建が行われたものです。
創立年代は不詳ですが、第60代天皇醍醐天皇(885年〜930年)の頃すでに「八幡大明神」の神祠としてここにあったと伝えられている神社です。
社格は明治6年に八幡村の村社となりました。
この神社はごく普通の“村の鎮守様”ですが、Wikipediaの【八幡神社】には
横浜の八幡神社の一つにリストアップされています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/八幡宮
中村八幡宮(横浜市南区八幡町)
杉田八幡宮(横浜市磯子区)
根岸八幡神社(横浜市磯子区根岸)
舞岡八幡宮(横浜市戸塚区舞岡町)
八幡社(横浜市青葉区)
※横浜市内にはざっと数えても36もの八幡神社がありますから、選ばれた理由を知りたいところです。この中村八幡宮は、横浜橋商店街を抜け三吉演芸場を過ぎ「三吉橋」を渡り寂れてしまった「三吉橋商店街」の途中にあります。
ここに、1876年(明治9年)8月から1年間だけ作られたきわめて珍しい内務省地理寮水準点(BENCH MARK)が残されています。
日本近代測量の重要な遺産ですが、現在数えるほどしか残存していません。
なかでも当時の位置に残っているものは文化財に指定されるほど貴重なものです。
(BENCH MARK)
横浜は日本で最初に近代測量が行われ五千分の一地図を完成させた街です。
明治新政府が近代国家となっていく上で正確な「地図」が必要となり明治7年(1874年)1月、内務省に地理寮(後の地理局、現在の国土地理院)を設置しました。
てはじめに開港5港(横浜・神戸・新潟・函館・長崎) と東京・大阪・京都など主要都市の市街図作成に力を注ぎました。
測量の基本は三角点を使った「三角測量」ですが、高低差の正確な測量には三角点に加えて標高の位置情報が必要となります。
当時、恒久的な建築物や石組み、または標石等に
「不」の字に似た記号を刻み、計測点とし横棒部分が標高ラインを示しました。
この記号“水準点”が内務省地理寮水準点(高低几号標)で、英語ではBENCH MARKといいます。
この頃、政府は欧米列強各国のスタンダードモデルを急いで取り入れた時代でした。
このBENCH MARKは導入期に1年だけ採用されたイギリス式の測量技術の貴重な遺産です。
なぜ日本語で「几号」というか面白いエピソードが残っています。
記号から机を連想し、机と同じ意味の「几」の字を当て「几号(きごう)水準点」もしくは不の字から「不号水準点」と呼ばれました。
(余談)
港湾用語で、船に積み下ろしをする積荷を一時的に保管して荷捌きをする簡単な小屋(保税倉庫)を上屋(うわや)と呼び作業を「上屋業務」といいます。開港時、外国人(英語系)がこの建物を見てWare houseと呼び、日本語の「上屋」の造語ができたと言われています。
(貴重な「不」の字に似た記号)
測量の行われた横浜にはこの内務省地理寮水準点が幾つか残っています。
震災、空襲、接収という三大苦を経ても現存しているのは大変なことなんですが、一部のマニアにしか知られていないのは残念です。
■中村八幡宮以外の横浜「不号水準点」
(本牧山妙香寺)
横浜市中区妙香寺台8
北緯:35度26分01秒、東経:139度39分02秒
→未調査(すみません)
(山谷庚申塔)
横浜市南区山谷110
北緯:35度25分47秒、東経:139度37分31秒
(伊勢山皇大神宮)
横浜市西区宮崎町64
北緯:35度27分00秒、東経:139度37分36秒
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設置当時から移動されています |
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覗き込まないと見えません |
■観光コンテンツ
寺社は重要な観光コンテンツです。
その歴史軸、カテゴリー軸(祭祀)、由緒軸等だけでは「京都」に「鎌倉」にかないません。
横浜の観光コンテンツ構築にはそこに別なサブカテゴリーをセットすることで確実なものになっていきます。
まだまだひろがる「横浜コンテンツ」
番外編 幕末明治の年号って苦労します。
明治5年11月9日(1872年12月9日)
突然、本当に唐突に
日本国内の暦が変わるという達しが出ます。
本年(明治5年)12月3日を明治6年1月1日とします。
この日以降日本はグレゴリオ暦、西暦を使いますってことに。
有余は一ヶ月しかありません。暦は生活に密接に関わっていましたから、混乱したでしょうね。
なんたって一ヶ月早く正月が来てしまう訳ですから。
何故急に布告したか?
政府の財政難を乗り越える苦肉の策で
一ヶ月分公務員の給与をカットする算段だったそうで、乱暴と云えば乱暴な話しです。
一方この暦改変をビジネスチャンスにしたのが
福沢諭吉で、慶應義塾出版局から『改暦弁』を出し10万部という当時でも大ベストセラーになったそうです。
幕末から明治にかけて暦は天保暦(旧暦)が使われていました。西暦と合致させるには結構面倒で、時々資料を読んでいると内容が西暦天保暦混在、混乱していることがありややっこしくなります。
西暦年と和暦年は一致しません。
例えば安政4年は1857年と58年にまたがっていますから単純に一致しません。
また時に閏月というのがあります。旧暦にもルールがあるんですが、閏月設定法が複雑なんです。
というわけで 手っ取り早いのが一覧表ってわけで、私は
1850年から1973年まで対応表を作り都度照らし合わせています。