(第686話)明治4年、象の鼻 晴天なり。(後編)

(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。後編です。

(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。


二本の横浜開港のために幕府は二三ヶ月の突貫工事で開港場を整備します。
二本の小さな突堤を開港場の真ん中に造成し、港の体裁を整えますが、冬の北風が強い日は波が強く小舟も着けることができない状態でした。
そもそも貿易港として開港した横浜港ですが、大型船が着岸できず諸外国からはしっかりとした桟橋の設置(港の整備)を望む声が高まります。
慶應4年の春に、ようやく二本の突堤の一本を波受け用に湾曲させ、その形が象の鼻に似ていることからいつの間にか「象の鼻」と呼ばれるようになりました。

lit_岩倉使節団出発 横浜港に本格的な桟橋が完成したのは1894年(明治27年)ですから開港から35年もの時間がかかります。港の整備が遅れた理由は予算でした。
この国には、国内最大の国際港に桟橋を架ける予算がありませんでした。経済破綻した幕末の借金が新政府にも重くのしかかっていたからです。かろうじて国家財政を支えていた貿易は皮肉にも横浜港から輸出されていた「生糸」と「製茶」でした。
新政府は様々な分野に“近代化”が求められていたのです。

明治4年11月12日(1871年12月23日)
晴れ上がった横浜港に、多くの人々が維新後最大の渡航する「岩倉使節団」を見送りに集まりました。
「岩倉使節団」の公式記録を編纂した一行の一人、久米邦武は「回覧実記」に出航の模様を詳細に描いています。

lit_P9260001『此の頃は続いて天気晴れ、寒気も甚だしからず。殊に此の朝は暁の霜盛んにして扶桑を上る日の光も、いと澄みやかに覚えたり。
朝八時を限り一統県庁に集まり十時に打ち立ちて馬車にて波止場に至りて小蒸気船に上る。この時砲台より十九発の砲を轟かして使節を祝し、尋ねて十五発し、米公使「デロング」氏の帰国を祝す。海上に砲煙の氣弾爆の響、しはし動いて静まらず。使節一行及び此の回の郵便船にて米欧の国々へ赴く書生、華士族五十四名、女学生四名も皆上船し、各其部室を定め荷物を居据えるなど一時混雑大方ならず。十二時に至り、出航の砲を一弾してただちに錨を抜き、汽輪の動をはずしけり。港に繁ける軍艦より、水夫皆橋上に羅列し、帽を脱して礼式をなし港上には見送りのため、船を仕立て数里の外まで恋ひ来りぬ。』

「岩倉使節団」一行は使節46名、随員18名、留学生43名総勢107人が上船します。
横浜港の沖で一行を迎えたのが米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ号」で、太平洋上で新年を迎え二十三日間の航海を経て明治5年1月6日「岩倉使節団」はアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに到着します。
「明治4年、象の鼻 晴天なり。」前編でも書いたように一行は20代から30代中心の若きメンバー達ばかりでした。
この旅はアメリカに約8ヶ月、その後大西洋を渡りイギリス4ヶ月、フランス2ヶ月、ベルギー、オランダ、ドイツに3週間、ロシアに2週間を費やしました。
出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に横浜港に帰る長旅でした。

lit_Grand_Hotel1897彼らはまずサンフランシスコ最大のグランドホテルに逗留します。
様々な歓迎式典の中で、
当時のサンフランシスコ随一の資産家、ラルストン(William_Chapman_Ralston)氏の歓迎式典で自宅に100人近い一行が招かれたという記述があります。

lit_William_Chapman_Ralston

ラルストンは、1826年オハイオ生まれの実業家で、ゴールドラッシュの恩恵を最大限に利用した銀行家でもありました。
1864年にカリフォルニア銀行を創設し、
1875年にサンフランシスコ湾で溺死しますが事業の失敗による自殺とも言われています。このたった十年の輝かしいひと時に、日本の使節団が彼と出会ったことになります。
このラルストンという人物、間接的ではありますが日本、そして横浜と深い関係になるとはその時 誰もわかりませんでした。さて その人物は?

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