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No.707 野毛「海員碑」について

野毛成田山横浜別院から一つのモニュメントが消えました。
海員悼逝の碑です。
新本堂造営のために設置場所が無くなったからでしょう。
light_成田山旧本堂海員碑本堂の脇にこの「海員悼逝の碑」が建ったのは1903年(明治36年)6月のことです。明治維新以来の海難に殉じた多くの船員の霊を慰めるために明治32年、当時の海員倶楽部所属の船員が呼びかけで同じ職の船員たちの拠出によって建立されたものです。題字は伊藤博文の筆によるものだそうです。
横浜都市発展記念館にある絵葉書コレクションには
「横浜野毛山ヨリ市街ヲ望ム」というタイトルでこのモニュメントが写っているものがあります。
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a01_001-16.htm
「備考:正面の塔は1903(明治36)に野毛山不動尊内に建立された海員悼逝碑。碑には国際信号旗がはためいている。悼逝碑の左側に横浜停車場が、画面右奥に指路教会が見える。絵葉書は1907(明治40)〜1918(大正7)年の発行。トンボヤ刊。」
その他
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a13_028_34.htm
「震災で上部に見えている飾りを失う。」
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a13_028_20.htm
■当時の観光ガイドブックより:
「山号を成田山 寺号を延命院と云ふ 成田山新勝寺の末寺で準別格本山である 明治三年南太田の普門院に遥拝所を設けたが同九年高島嘉右衛門氏から敷地の寄附を受け現在の場所に移つた」(『横浜名勝』横浜市銃後奉公会、1939年)
解説:海員悼逝碑(画面右)上部に設置されていた碇の飾りが見えないことから関東大震災以降の撮影か。絵葉書は1918(大正7)〜33(昭和8)年刊。
このようにこの「海員悼逝の碑」は関東大震災で倒壊してその後再建されますが、中が空洞になっていて震災直後は避難場所になっていたという記録も残っています。
light_成田山旧本堂大正期01 light_成田山旧本堂LM方向

ここにある絵葉書には
震災前の上部に設置されていた碇の飾りが見えるところから、震災前に撮影され発行されたものといえるでしょう。
碑の横には国文学者の重野 安繹(しげの やすつぐ)が書いた海員悼逝之碑文が設置されていました。
スクリーンショット 2015-01-13 15.42.41スクリーンショット 2015-01-13 15.42.55

今後、塔の再建予定があるのか?ない場合でも碑文等の保存がされるのか?
確認していないのでわかりません。
すでに取り壊しているので 遅いかもしれませんが、できればこの碑は何らかの形でこの地に残してほしいと希望するものです。
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No.424 琉球バル

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No.706 シルクを知る苦労?!

横浜は幕末明治の国家予算を支えた「シルク」の最大輸出港でした。
このシルク(絹)は「蚕(かいこ)の繭(まゆ)からとった、天然繊維」程度しか知識がなかったので少し<絹>を調べてみました。
(桑は蛾の餌)
桑の実食べたことありますか?酸っぱくて美味しい果実です。この桑の葉に着く<害虫?>がカイコ蛾です。逆にカイコから見れば、桑の葉は大切な餌となります。
桑の実よりカイコによる絹のほうが付加価値がありますから、桑畑はカイコ蛾のために守られてきた近代までの原風景の一つです。
カイコの繭から良質の繊維(糸)が得られることは古代から知られていました。
日本でも
「日本への養蚕技術が伝わったのは紀元前200年くらい、稲作といっしょに中国からの移住者(日本人の祖先のひとつ)が、伝えたといわれています。」
「283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝え」た記録があります。
それでも国内需要は満たされず江戸時代まで中国から大量に輸入されていたそうです。江戸に入ると諸藩が殖産事業として<養蚕>を推奨し技術も向上し良質の絹が生産されるようになり輸出力がついた頃、ペリーが訪れます。
※山下公園前に建っているシルクセンター横には<桑の木>があります。
No.56 2月25日 絹と女と桑畑

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(生糸と絹?)
一時期、日本の貿易を支えた「生糸(きいと)」
「絹」とは違うもの?同じもの?
蚕が自分の口から吐き出したタンパク質の糸で作った蛹(さなぎ)の保護容器が繭(マユ)です。カイコはまず卵から「孵化」し睡眠と脱皮を繰り返して4回目に成長が止まり繭作りが始まります。繭が完成すると幼虫は自ら蛹(さなぎ)化し眠りに入りますが、このタイミングを狙って採糸が始まります。
一個の繭から一本約800m〜1,200m近くの糸が取れるそうです。一本だけでは細すぎますので数個の繭から数本の糸を合わせ出来上がったものが<生糸>です。
☆生糸(きいと)
いわゆる蚕の繭からとった糸で、数本を合わせたもの。撚りも加えず、精練しないものを指し最高級品となります。
この「生糸」、取り出しただけの状態では<糸>の外部にセシリン(タンパク質)が付着していて染色や加工には不便なので精錬して使用されることが一般的ですが、高級シルクはこのセリシンを活かした風合いの繊維として利用されます。
「【セリシン】は、絹になるフィブロインを取り囲むタンパク質。人間と共通した18種類のアミノ酸(タンパク質を構成する物質)で構成され、その中でも重要なうるおい成分であるアミノ酸【セリン】を多く含んでいます。絹のなめらかな肌触りと快適な着心地には、この【セリシン】が大きくかかわっていると考えられます。」
http://www.seiren.com/products/medical/serisin/serisin.html
※セリシンは化粧品等にも使われています。

☆練糸(ねりいと)
生糸を精練してセシリン(タンパク質)を取り除いたものです。
絹練糸とか「絹糸」ともいわれます。
■絹糸の太さ(繊度)は、デニール(d)という単位で表します。1デニールは糸長450mで0.05gで基準はg数/糸長900mで表記します。

☆玉糸(たまいと)
普通1匹の蚕は1個の繭を作りますが、中には2匹以上の蚕が合わせて1個の繭を作ることがあり一種の格落ち品となります。これを玉繭といい、その糸を玉糸といいます。つまり糸を取り出すときに2本の糸がもつれ合うことがあるので節の多い糸となってしまい節糸とも呼ばれました。

☆絹紡糸(けんぼうし)
繭から「生糸」をとる際に出てくる色々なくず繊維を副蚕糸といい、これを原料として紡績した糸を絹紡糸といいます。

☆絹紡紬糸(けんぼうちゅうし)
この絹紡糸を作る時に出る「くず繊維」から紡績をした糸を絹紡紬糸といいます。
ビス糸とも呼ばれるものです。

☆紬糸(つむぎいと)
くず繭からとった真綿(まわた)を手で紡いだものです。

以上これらを「絹」と総称しますが、
「生糸」がいかに上質の絹糸であるかがお分かりになると思います。
※生糸品質を維持するために作られた機関「生糸検査所」は現在の「第二合同庁舎」にあたります。

(養蚕の工程)
蚕卵が孵化して幼虫になるにはどのような工程を経るのでしょうか?
蚕は産卵から50〜60日前後(羽化から約2週間)で一生を終わります。
●産卵・孵化→カイコは蚕卵紙(さんらんし)に蚕の卵を産み付けます。
●蟻蚕→孵化したての蟻(アリ)のように見える幼虫が誕生します。
●掃立→蟻蚕を孵化していない卵を痛めないように羽箒でそっと掃いて、飼育のために整えたカイコが落ち着く場所(蚕座)に移す作業を行います。
●給素→カイコに<桑の葉>を与えます。
●眠起蚕→睡眠と脱皮と食餌を繰り返します。
●営繭(えいけん)→カイコが繭を作ります。
●収繭(しゅうけん)→蔟(まぶし)の中から繭を取り出す作業です。
●座操(製糸)→座って糸を操て製品化する作業です。
light_20150112130556座操製糸 明治半ばから大正にかけ、器械製糸生産に移行します。
※日本が世界有数の高品質<生糸>を生産できた背景には、養蚕業の周辺技術がありました。日本の紙漉き技術で良質の蚕卵紙(さんらんし)が生産され、養蚕を下支えしました。
light_20150112130533給素

簡単に養蚕・絹の生産工程を追いかけてみました。
さらに細かい工程や専門用語がありますが、一部省略しております。
このシルクを使った<捺染>技術が横浜に育ちました。ここから横浜スカーフが誕生し花型輸出製品として活躍します。横浜周辺の川辺には<捺染工場>が集中し一時期は川が染料で染まるほどだったそうです。

横浜捺染の話も近々紹介します。

No.705 【横浜育ち?】サンマー&坦坦

横浜名物の一つにサンマー麺があります。寒い日のサンマー麺は心底温まります。
サンマーは漢字で「生馬麺」「生碼麺」と書きます。どちらがそもそも「サンマー麺」を表したのか?定説はありませんが、横浜市中区の中華料理店から戦後まもなく現在のスタイルが発祥したと云われています。
サンマー麺は<横浜生まれ>のグルメアイテムの一つです。
一方、担々麺の美味しい店も多いのも横浜ならではの特徴です。
日本の担々麺のルーツは?
http://ja.wikipedia.org/wiki/担担麺
「日本の担担麺は、麻婆豆腐と同様に、四川省出身の料理人陳建民が日本人向けに改良した作り方を紹介して広まったと言われる。」
中華といえば<中華街>ですが、私の記憶では中華街の多くのお店で<担々麺>が表メニューとなったのはここ20年以内の現象ではないかと思います。
1980年代、中華街の担々麺は板場料理から常連の<裏メニュー>そして90年代に登場した比較的新しい<和製中華?>ではないでしょうか?

<サンマーミエン>
「生馬麺」は広東語の読み方で「生=サン 馬=マー」と呼び広東料理の仲間ですが、
元々は「新鮮でしゃきしゃきした」具を“載せ”た麺を表したようです。
一方「生碼麺」は、
同じく広東語で「サンマーミエン」と発音しますが、「碼」の意味は長さの単位、数字の番号、部屋番号を表したり、港の<埠頭>を指す意味で使われているそうです。
「横浜の多くの埠頭で働く労働者が好んで食べたところから、この字が使われるようになった」と言う説もあり横浜港の<へそ>大さん橋ふ頭に「生碼麺」は似合う?料理かもしれませんね。

(サンマー麺の定義)
サンマー麺には厳格な<定義>がないところが魅力かもしれません。
基本条件:
ベースが醤油味であること。最近では、塩味のサンマー麺もありますから拡張していますね。
具は「肉」と「しゃきしゃきもやし」、「白菜程度+ちょっとした具」
これらを「あんかけで綴じた」麺
ということです。

「かながわサンマー麺の会」
http://www.sannma-men.com

サンマー麺発祥の店にも諸説あるそうですが、
有名なのが 伊勢佐木の「玉泉亭」です。
「戦後当店先代が考案し「生碼麺」と命名。由来は「生」(野菜)「碼」(具を載せた)麺という意味から付けられたと云われる。(現店主が先代より聞いた話として)戦前、中華街の「聘珍樓」にもメニューに「生碼麺」サンマーメンがあったが当時のレシピも残っておらず、価格が「柳麺」ラーメンの倍以上であることから、今日のサンマー麺とは別物だった可能性もあると云われている。」
と大店「聘珍樓」とは一線を画していますが、真偽の程はわかりません。

「大沢屋」
「創業は1953年。多くの常連客に愛され続けて60有余年のサンマー麺の店。 あっさりとしてコクと旨味のある醤油スープは、何度食べても飽きない味です。「安く美味しく」をモットーにこれからも腕を振るいます。 皆様のご来店お待ちしております。」

(中華の粋)
サンマー麺、担々麺は日本で生まれた中華料理の一つですが、中華料理の奥深さはどこの国においてもその国にある美味しい食材を<料理メニュー>する食への誘い力にあります。近年「中華料理」「中国料理」と区別されて表現されるようになってきました。ある定義では「中華料理」は「日本向けに味付けや調理法が工夫された料理」、「中国料理」は「中国本来の料理」といわれるようになってきました。
私は「中華料理」の包容力が好きです。「中国本来の料理」=中国料理という表現も中国の多様性を狭めているように思います。「広東」「四川」「北京」「江蘇」「浙江」「湖南」等々 地域の味を持っています。また世界各国で華僑の先人たちがアレンジしてきた美味しい料理も数多くあります。
と 難しく考えるより 美味しい味を楽しむことができる<横浜中華料理>のメニューがさらに広がると良いですね。

No.704 《横浜本》「幕末日本探訪記」

横浜に関係する書籍から外国人が記録した“ある日の横浜を知る一冊”を紹介しましょう。
タイトルは「幕末日本探訪記」
light_201501060026この本は世界的プラントハンター ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)の日本探訪記の訳本です。彼は、1812年9月16日(文化9年)スコットランドに生まれ、エディンバラ王立植物園で園芸を修めた後、ロンドン園芸協会で温室を担当していました。比較的貧しい家に育った彼にとって、ロンドン園芸協会の職はかなり恵まれたものでしたが、彼の非凡な才能は30歳を過ぎて大きく開花します。
1840年代、フォーチュンが30代の頃、英国の富裕層は限りなき欲望の果てに新しいお茶の贅
を求めていました。“新種のお茶”であれば貴族たちは目の色を変え欲しがる贅沢品となっていました。当時、英国から独立したばかりの“アメリカ”でもお茶の人気は高まるばかり、このお茶ブームが後に開国する日本(横浜)を左右する貿易品となります。
<新しいお茶がほしい!>
大英帝国の東アジア貿易を担っていた「東インド会社」からフォーチュンは中国の<お茶の木>ハントを依頼されます。輸入しないで自国生産するためでした。
背景にはアヘン戦争(1840年〜1842年)があります。この忌まわしき戦争の要因は、大英帝国による茶、陶磁器、絹等の輸入超過解消でした。欲しいものを入手する代わりに<インド産麻薬>を中国に売ることで帳尻を合わせようとしたのです。→三角貿易
アヘン戦争終結後の<南京条約>によって無理やりこじ開けられた中国は外国人(英国人)の国国内往来が自由になります。これをきっかけに彼は中国に派遣されることになります。お茶を輸入するより自国の植民地で作るためのプラントハントでした。
中国に派遣されたロバート・フォーチュンは<郷に従う>優れた才能がありました。中国語を素早く習得し、中国人の服装で茶の産地をくまなく調査し多くの品種を(プラントハント)採取しインドに移植するというミッションを見事にこなします。
中国からインドに移植された<お茶>で現在も世界のお茶市場で人気ブランドとなっているのがダージリンです。このダージリンの登場で中国茶の人気が急落し、お茶市場は中国からインドに移ります。
<新しい花を求めて>
お茶だけではなく珍しい花、新しい花の品種も欧州市場で人気でした。菊、蘭、ユリなど東洋を代表する観賞植物を英国にもたらしたのもフォーチュンでした。
Fortune’s Double Yellowというバラの品種をご存知ですか?
この品種は彼が発見したものです。
http://www.paulbardenroses.com/teas/fortunes.html
http://www.helpmefind.com/rose/l.php?l=2.2808
またFortunella japonica、和名をキンカン。
Fortunellaはプラントハンター「フォーチュン」がこの品種をヨーロッパに紹介したことで献名されました。
<開国とともに>
前置きが長くなりましたが、
世界的プラントハンター ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)は、
1860年10月(万延元年)開国した日本を二度訪れています。このときの記録が「江戸と北京ー幕末日本探訪記」(A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China)として発刊されます。当時、開港(開国)から明治初期には多くの外国人が訪日し<日本滞在記>を著していますが「江戸と北京ー幕末日本探訪記」は、プラントハンターという職業柄かなり異なった視点で<日本>を見つめている点が興味深いところです。

関連ブログ
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No.402 JIMAE TABI

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(日中比較)
この本はタイトル通り、「江戸と北京ー幕末日本探訪記」(A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China)日本と中国を訪れた記録の全訳ですが“中国滞在記”の占める割合は少なく主に日本訪問記となっています。
フォーチュンは、日本を訪問する前の1840年代から50年代に中国を長期間中国に滞在していました。ちょうど列強が中国を舞台に植民地化を進めていた時期です。
フォーチュンにとっても外国との交易のなかった未知の国日本には特に別の感情が働いていたのかもしれませんが、この本の中では中国は簡潔に、日本は驚き“発見”のニュアンスが感じられます。

(フォーチュンの横浜)
簡単にフォーチュンの横浜記の一部を紹介しましょう。
フォーチュンは長崎に上陸した後、数日を過ごし「風光明媚の長崎に別れを告げて」「江戸に近い神奈川港に出発」します。
江戸湾を目指した多くの外国人が<富士山>に出会いこの美しさに様々な形容を残していますがフォーチュンは意外とさっぱりした「内陸50〜60マイルの地点にそびえ立つ富士山は、日本人にとって、無二の崇高な山である。山の北面は雲におおわれていたが、南側に鮮やかな緑の線が見えた」とそっけない表現でした。
フォーチュンの視点は、山よりも<森>にあり、森よりも<樹木>に向いていました。

■貿易港としての横浜
彼が横浜沖(神奈川沖)に到着したのは1860年10月30日(万延元年9月17日庚申丁未)です。彼は、日本政府と各国との攻防が修好通商貿易で明記された<神奈川湊>と開港場の<横浜>を往復しながら広く周辺地域にも足を伸ばします。
<横浜開港場>は開港直後に堀川が作られ出島のようになります。この出島を<囚人扱い>とする外国人も多かったようですが、彼は「われわれ外国人を攘夷党の危害から守ってくれる、何物にも勝る適切な計らいだったと言える。」と評価しています。
また神奈川湊ではなく横浜となった開港も
「もし神奈川に決定されたとなると、この海岸は港として不適切なので、天候の状態によって、船はしばしばはるか沖合に停泊しなければならないだろう、というのである。そこで概括すると、横浜は彼らの貿易に適した場所ということができる。言うまでもなく、彼らは日本に商売をするために来たのだから。」と現実的な評価を下しています。
開港後1年余しか時間が経っていない時点で、横浜開港場の位置づけを科学者(植物学者)の視点で冷静に分析しています。実際一時的にせよ“外国人商人”は開港場に居を構え、建前にこだわる“各国政府関係者”は神奈川宿と江戸に拠点を置いて活動していました。

1860年10月30日(万延元年9月17日)フォーチュン日本到着。
1861年7月5日(文久元年5月28日)第一次東禅寺事件<イギリス公使館襲撃>
1862年6月26日(文久2年5月29日)第二次東禅寺事件<イギリス公使館襲撃>
1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦事件<イギリス人殺傷>
これら外国人殺傷事件が起こる前、日本滞在中のフォーチュンは「横浜」「神奈川」「江戸」「江戸近郊」「瀬戸内」「長崎」「湘南・鎌倉」と精力的に旅行し、プラントハントをしながらこの国を満喫します。
彼の記述から面白い事実も知ることが出来ました。
「開港場」から「神奈川」に移動する際、船を使っている記述がありました。当時重要な東海道都の連絡路であった<横浜道>を通行するだけではなかったことには少し驚きも感じました。
確かに、外交官たちは神奈川湊の寺に公館を設置していましたから、民間外国人の暮らす開港場と神奈川は移動が自由だったといっても不思議はないでしょう。

幕末明治期の外国人日本論には偏見も多く見られますが、フォーチュンの日本分析には「外国人襲撃事件」の起こる中でも冷静で的確な観察と分析が行われている点で興味ある一冊といえるでしょう。

「江戸と北京ー幕末日本探訪記」三宅馨 訳 講談社学術文庫