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No.374 1月8日(火)○●■△と横浜

今年、
ブログ軸の一つとして人物を通して横浜を観ていきます。
(2012年でも断片的にトライしていますが)

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渋沢栄一

横浜コンテンツの露出力アップの方向に小説化・映像化があります。
横浜は歴史小説や今の横浜を舞台にした作品が少なすぎませんか?
ロケ現場としての「横浜北署」なんて設定はありますが、しっかり横浜を描写している「ものがたり」がもっと、もっと欲しいのです。
作家の皆さん!横浜に注目してください!

昨日の

No.7 1月7日(月)THE JAPAN PUNCH

を書くにあたり調べていたら、
ワーグマンとベアトはめちゃ面白い対照的な人物像が見えてきました。

今日は例えば「渋沢栄一と横浜」でどのようなコンテンツが引き出せるか簡単ですが引き出してみました。


渋沢栄一関係マイブログ

No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)

No.49 2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す


No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢

No.145 5月24日 BOY七十四(修正版)

No.38 2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語
戦前史の偉大なる経済人

渋沢栄一
http://ja.wikipedia.org/wiki/渋沢栄一
現在の埼玉県深谷市出身なので、埼玉県史、深谷市史には濃厚に登場しますが、横浜関係では戦前の横浜経済との関係で語られているだけです。
ということで、調べ始めました。

(プロローグ)

渋沢自ら、横浜の某所で自己紹介をするとしたら、
「私はね、20代の血気盛んな頃、横浜居留地焼き払い計画を真剣に考えましてね。キッカケは開港で洋銀が大量に流入しこの国の経済をダメにしているという為替問題ですね」なんて挨拶をしたかもしれません。
例えば1910年(明治43年)3月1日(火)に渋沢栄一は横浜商業学校と横浜経済会月次会で演説していますから、こんな切り出し方だったかもしれません。

(大政奉還)

渋沢は、幕末期攘夷派の急先鋒で、外国人を目の敵にしていましたが、攘夷一辺倒から次第に視野を拡げていきます。
このキッカケとなったのが終生、明治になっても仕える最後の将軍となった 徳川慶喜との出会いです。

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晩年の徳川慶喜

渋沢は、慶喜が将軍職になる前に縁あって一橋家に仕えます。
慶喜が第15代将軍を継承し栄一も幕臣として幕府官僚となり、幕命でパリ万博視察のためフランスへ旅立ちます。この渡仏経験が、後の栄一経済観に大きな影響を与えます。
このまま、徳川幕府が続いていたら渋沢栄一は、経済官僚となったでしょう。
パリに滞在中、大政奉還の知らせを受け急遽帰国します。横浜港に戻った栄一は、直ぐに静岡に蟄居した主 徳川慶喜の元に向かいます。
渋沢は、慶喜の許で静岡の経済改革に本領を発揮します。
※同時期に清水次郎長も静岡に生きています。この関係も調べてみると面白いと思います。

(明治の在野に生きる) 

明治維新は、敗者によって維持された政権です。
当時の薩長政権に日本の国を運営する人材は明らかに不足していました。迫り来る諸外国のプレッシャーに的確な対処を行ってきたキーマンの多くが幕末の幕臣たちだったことを、私たちは確認しておく必要があります。
中央政府は次第に、薩長を中心とした官僚制度に組み立てられていく中、在野、民間をリードした政治・経済・教育のトップリーダーは旧幕臣が多くいました。

明治維新、最初の20年は横浜に集まったようなベンチャー平民と、国(藩)を失った武士達が自由に活躍した時代です。

その大舞台となったのが
横浜です。
渋沢も頻繁に横浜を訪れ、また横浜商人と議論をし日本経済システムを改革します。日本初の銀行を設立した功績だけでも渋沢の名は歴史に残ります。
渋沢を「横浜」から描くなら、
生糸の生産・輸出で成功を収めた実業家・原富太郎(三溪:1868〜1939)との交流をベースに、
金融の世界では世界を舞台に日本の貿易金融の要となった「横濱正金銀行」
生活インフラの世界では横浜伊勢山の瓦斯会社からスタートする「東京瓦斯」の設立。
横浜のスプリング・バレー・ブルワリーに関わり、その後サッポロビールを作ります。
その他に、横浜船渠、古河電工など多くの横浜に関係する企業にも関わり企業を育成していきます。
残念ながら、渋沢が育てた企業は一人前になると横浜を去っていきますが、
終生横浜を離れなかった原富太郎とは 実業では
富岡製糸工場を介して、
文化では 茶人として、タゴールや岡倉天心らとの交流を共にしていきます。

No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

No.280 10月6日(土)天心と三渓

No.353 12月18日(火)多文化建築の傑作

原三渓
原三渓は近代三大茶人のひとりです。
「三井の大番頭」益田鈍翁
「電力の鬼」松永耳庵
そして生糸の
原三渓です。
この三大茶人に共通する人物が渋沢です。

(青い目の人形にかけた夢)

1927年(昭和2年)に、日米関係悪化に憂慮し文化交流の一つとしてアメリカ合衆国から日本に贈られた12,739体の「青い目の人形」を仲介者した渋沢栄一は日米関係委員会委員として米国への返礼プロジェクトも手がけます。

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残念ながら第二次世界大戦中に敵性人形としてその多くが焼却処分され国内には数えるほどしか残っていません。
横浜市内の小学校には西前小学校「ポーリン」戸部小学校「メリー・ジェン」本町小学校「ブロッソン」という名の「青い目の人形」が保存されています。
APEC開催記念に「横浜人形の家」で特別企画展「海を渡った人形たち〜青い目の人形が結んだ国際交流〜」が開催されました。
「横浜人形の家」
http://yokohama-doll-museum.com

(余談)
実業家・原富三溪の愛した茶席の菓子は
「草餅」「草求肥」「餅に餡かけ」「栗のあめだき」など素朴なものが中心だったようです。
中でも印象に残る和菓子が「さつまいもの茶巾しぼり」です、
恒例の茶会が開かれる予定だった1937年(昭和12年)8月。
開催直前に長男の善一郎が45歳の若さで急死します。
富太郎は茶会を中止せず 息子の追悼の席を設けます。
この時に出されたのが「さつまいもの茶巾しぼり」だったそうです。

今、横浜で人気の「横浜スイーツ」

ふらんすやまの「野毛山ポテト」とか

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http://www.franceyama.com/yaki_suitepotato.html

かずさ屋の「雅芋」

店じまいしましたね。miyabiimo がありますが
「三渓茶巾」なんて商品開発できないでしょうか。

元に戻して

渋沢栄一はあまりに多方面に活躍した人物なので避けていましたが、今年一年かけてじっくり“漁って”みます。大量は間違いありません。
渋沢は勿論
横浜を舞台にしたら面白い
人物を素人レベルですが
紹介していきます。

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