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第881話【時折今日の横浜】3月30日4mの背伸び

1934年(昭和9年)3月30日
「横浜税関庁舎(クイーンの塔)竣工(横浜税関百二十年史)」
横浜三塔の一つで三塔の内で、昭和に竣工したのがクイーンと呼ばれる「横浜税関」です。設計は<横浜税関>によると
「吉武東里氏(国会議事堂も設計)と伝えられているが、詳細は不明」としています。
その他の資料の多くは「吉武東里設計、戸田組施工」と表記しています。
何故?本元とデータが違うのか 良く判りません。
(4mの背伸び)
三代目横浜税関建設にはエピソードが残されています。
「関東大震災(大正12年)で税関庁舎も倒壊。その後、財政窮乏の続いた時代に、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」との発言。
1932年(昭和7年)第22代税関長に就任した金子隆三は、この意を受け
失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められます。
この時に、横浜港界隈には“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”という当時の高層建築物が2つランドマークとなっていました。
塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”が完成したそうです。」

だからですかね、たしかに 少し首長に見えます。
竣工データは
SRC造、地上5階+塔屋。敷地面積が6,875m2、延床面積が12,184m2です。

(簡単な横濱税関史)
安政元年、米国との間に「日米和親条約」が結ばれます。
安政五年に「安政五カ国条約」が締結されこの条約ににもとづき、日本(徳川政府)は
1859年(安政六年六月)
開港し関税と外交事務をあつかう部署「神奈川運上所」を設置します。
場所は、現在の神奈川県庁本館のある場所で記念碑が建っています。
1866年(慶応二年)の大火で焼失
1867年(慶応三年三月)再建
18871年(明治4年)組織変更に伴い「神奈川運上所」を「横浜運上所」に改称。
※歴史のif
神奈川県は横浜県となったかもしれませんね。
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

その後、
1872年(明治5年)11月
「横浜役所」における「運上所」を「税関」と統一し関東大震災前までは、日本大通りが横浜港とつながる現在の象の「鼻パーク一角」にありました。
1885年(明治18年)11月
二代目税関庁舎竣工。清水満之助の請負といわれています。<中央に塔を配した煉瓦造2階建ての2代目庁舎><冬の横浜税関>

関東大震災ですべて倒壊、

倒壊した横浜税関

1934年(昭和9年)3月30日
横浜税関現本関庁舎(クイーンの塔)が竣工します。

竣工間もない横浜税関
占領中新港橋から税関

1945年(昭和20年)8月30日
横浜税関本庁舎は接収されアメリカ陸軍第8軍司令部が置かれました。一時期、税関長室をマッカーサーが使用していたこともあるそうです。
税関業務は、仮庁舎で行われ
1953年(昭和28年)11月にようやく接収解除となり 現在の場所に戻ります。

第880話【絵葉書の風景】横濱乗物図鑑(加筆修正)

「車馬交通の最も頻繁なる桜木町通り」

私のお気に入りの絵葉書の一枚です。
改めて見直すとこの<風景>少々 不自然さ感じませんか?
意図して、当時の乗物すべてをここに集めて撮影したとしか思えない構図となっています。
カメラマンは市内の乗物を一同に並べ 一斉に走らせ シャッターを切った!
という感じがします。
市電は止まっているかもしれませんが、自転車を含め動きもあります。

(画像右から)□歩行者
電信柱の横、歩道に女性が歩いているのは判りますか?
□馬車
袋をいっぱい積んだ馬車と車夫
後続の馬車
□人力車
□多数の自転車
□高架に電車
□自動車
□市電(307番)上り線
横切る自転車荷車、大八車を引く人
空(から)のものから満載まで多様な荷車が道路を走っている姿が捉えられています。

■撮影時期の推定
大正13年〜昭和初期あたりと推定できます。
時刻は 左の時計から午後3時50分あたりでしょうか。

■画像左のマールの建築は「神奈川県農工銀行」
明治31年〜昭和19年まで営業

昭和4年

「農工銀行(のうこうぎんこう)とは、日本全国各地に戦前に存在した、特殊銀行の一つ。」で戦後勧業銀行に吸収されました。
こうやって改めて見直すと
まさに 「横濱乗物図鑑」のような風景です。
ここで空に航空機が舞えば パーフェクト、とまでは望まないことにしましょう。

第876話【時折今日の横浜】3月24日

1985年(昭和60年)3月24日の今日、
三菱銀行人質たてこもり強盗事件が横浜で起こりました。
<毎日新聞>

「本町4丁目の三菱銀行横浜支店に、警察官の制服等を着装して警察官になりすました2人の男が、野毛場外馬券売場から車両で搬送される売上金等を狙って押し入り、同銀行員とガードマンにけん銃を突きつけて脅迫し、人質にして立てこもった事件である。警察本部長以下500余人の警察官を動員し、人質の救出を最重点に犯人の説得工作等の捜査を実施した結果、立てこもりから12時間後に主犯格が自らの頭部をけん銃で打ち抜いて自決。もう一人が説得に応じて非常口扉の施錠を開けたため捜査員が突入して被疑者を逮捕し、目と口にガムテープを張られ後ろ手錠をかけられて金庫室に押し込められていた4人の被害者を救出した。」(加賀町警察)

この事件以前にもう一つの<人質事件>が同じ三菱銀行で起こっていました。
1979年(昭和54年)1月26日
三菱銀行北畠支店(現三菱東京UFJ銀行北畠支店)に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質にした銀行強盗および人質・猟奇殺人事件が起こります。
「三菱銀行人質たてこもり強盗事件」を記憶されている方?
日本の犯罪史に残る銀行強盗事件として
その後の犯罪心理学の授業に良く登場するのが
この三菱銀行北畠支店人質事件です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/三菱銀行人質事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/ストックホルム症候群

この事件から6年後
1985年(昭和60年)3月24日の今日、上記の通り
三菱銀行横浜支店で人質たてこもり強盗事件が起こります。
当時 三菱銀行横浜支店は横浜市中区本町4丁目41、本町三丁目四丁目の交差点の一角にありました。このあたりは、戦前から金融街で多くの銀行、證券、保険関係の本店・支店が建ち並んでいました。絹取引の中心地であった北仲エリアがあったからですが、戦後もしばらく<銀行街>はここに残りました。
上記地図は昭和39年ごろの本町四丁目近辺です。10以上の金融機関がここ本町通りに集中している様子が良くわかります。

その後、三菱銀行横浜支店は1996年(平成8年)に東京銀行と合併し、旧東京銀行横浜支店に移動します。
この人質強盗事件は「元警官の短銃強盗」として6年前の<梅本事件>とは異なった意味合いで大きなニュースとなりました。

「横浜市の三菱銀行横浜支店に二人組短銃強盗が押し入り、行員とガードマンの四人を人質に立てこもった。翌3月25日 約12時間後に犯人の一人が短銃自殺を図り、警官隊が突入、人質を救出、犯人を逮捕した。(毎日新聞)」

自殺を図った犯人は元神奈川県警鶴見署の巡査部長小沢弘(40歳)、その後病院で亡くなります。
もう一人の犯人は小沢の友人で自動車金融会社社員の平尾則人(現行犯逮捕)43歳でした。
二人は警察官の制服等を着装して警察官になりすまし野毛の場外馬券売場から車両で搬送される売上金等を狙って押し入り銀行員とガードマンの計4人を人質に立てこもった事件でした。神奈川県警は警察本部長以下500余人の警察官を動員し説得を中心に人質の救出を行った結果、立てこもりから12時間後に主犯格だった小沢弘が自らの頭部をけん銃で打ち抜いて自殺。もう一人の共犯平尾則人が説得に応じて非常口扉の施錠を開け、捜査員が突入し被疑者を逮捕しました。
目と口にガムテープを張られ後ろ手錠をかけられた状態で金庫室に押し込められていた銀行関係者4人は無事に救出されます。
事件当日、現金輸送車で5億6千万円も現金が野毛から銀行に運び込まれることを調べた上、主犯格の元警官が<在職中の制服・制帽>を使い行員を騙して犯行に及んだことで神奈川県警に動揺が走った事件でした。
この事件は国会でも元警察官の事件として何回か取り上げられ、議論になりましたが
犯行そのものは稚拙で衝動的なものだったためその後の報道から<元警察官>の表記が消えていきます。
冒頭の加賀町警察の事件簿にもこのことは触れられていません。

■私の勝手な推測
もしこの事件が無かったら
「東京三菱銀行横浜支店」は現在旧東京銀行横浜支店の場所ではなくこの事件のあった本町4丁目になったのではないか?
本当のところはわかりません。
ただ、この三菱銀行は歴史的建造物で、売却後の保全をどうするかいろいろ議論があった建造物です。
現在も繰り返し議論されている歴史的文脈をどう残すか?
この銀行、表向きの理由は<手狭・保全コスト>だったような記憶もありますが、ファサードの一部がマンションの一角に残されています。

※東京三菱銀行横浜支店
1934年(昭和9年) 旧川崎第百銀行横浜支店として建てられました。
設計者はストロングビル・日本興亜ビル(旧川崎銀行横浜支店)も設計した矢部又吉です。

第875話【時折今日の横浜】3月21日

1953年(昭和28年)の今日
「横浜市戦没者慰霊塔」の竣工式が行われ戦没者追悼式が開催されました。
この慰霊塔をご存知ですか?現在の三ツ沢公園の一角に建っています。
<三ツ沢公園>
「横浜市戦没者慰霊塔」の建つ横浜を代表する公園の一つ<三ツ沢公園>をまず紹介しましょう。
三ツ沢公園(みつざわこうえん)は面積300,055m2の「新横浜公園※」に次ぐ規模を持つ運動公園です。
※「日産スタジアム」のある横浜市最大の都市型運動公園

三ツ沢公園一帯は、県道を挟んで大きく北東側と南西側の2つのエリアに分かれています。南西側には陸上競技場、三ツ沢球技場、テニスコート、軟式野球場、野外活動センターなどが設置されています。
北東側には横浜市唯一の馬術練習場、テニスコート、子供の遊び場
そして今回紹介する「横浜市戦没者慰霊塔」を含む公園施設があります。

1949年(昭和24年)10月に、第4回国民体育大会(東京国体)のバレーボール会場として使用されることをキッカケに整備され、現在まで陸上競技場、補助競技場、球技場、テニスコート、軟式野球場、馬術練習場など多彩なスポーツ施設が設置され市内最大級の運動公園となっています。
※「公園」規模では最も広いのが<こどもの国>です。

三ツ沢公園は
1955年(昭和30年)に開催された第10回国民体育大会のメイン会場となり競技場の改修、更衣所、管理棟、ラグビー場などが建設が行われます。
1964年(昭和39年)には新しく東京オリンピックのサッカー会場(現在ニッパツ三ツ沢球技場)として整備され使用されました。

<横浜市戦没者慰霊塔>
今日の本題、「横浜市戦没者慰霊塔」を紹介します。
三ツ沢公園北東側に足を踏み入れるとスポーツを楽しむ人々のにぎわいが一転静けさに包まれます。公園奥に一際高い横浜市戦没者慰霊塔が見えてきます。
この慰霊塔は
1953年(昭和28年)3月21日に建立されました。
平成になって付けられた塔の説明板には

「恒久の平和を願って
戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の御霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は、先の大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は、新生日本が将来にむかって発展する姿を表しています。市民の皆様と共に諸霊の御冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピースメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と発展に貢献していきたいと思います。
平成7年11月1日  横浜市長 高秀秀信」

何故ここに戦没者慰霊塔が建ったのか?
横浜市では
「本公園の前身は、昭和14年創建の神奈川県護国神社外苑を昭和17、18年に防空緑地整備事業として整備したものです。
空襲で護国神社は焼失しましたが、残された土地は市に譲渡され、それに国有地の無償貸付や周辺の民有地などの取得をあわせて用地を確保、公園として整備を始めました。」
と説明されています。
<護国神社>
護国神社は、
1939年(昭和14年)に内務省によって制定された東京を除く府県一社を原則とする<指定護国神社>(昭和14年内務省告示第142號)によって全国に建てられました。
建立単位が陸軍連隊区という軍の区分をベースにしたため、中には複数社が作られた県もありました。また、明治期に多く建てられた招魂社・忠魂碑等が護国神社となっていったケースも多くありました。
戦争が終わるまでの6年間で51社が指定されます。
ところが、全国1道2府43県の中で、神奈川、宮崎、熊本の3県の縣護國神社が未着手、または造営中のまま終戦を迎えることになります。
その一つ、神奈川縣護國神社は1942年(昭和17年)7月27日に許可が下り、社殿造営が開始されますが、ほぼ完成間近のタイミングに横浜大空襲があり焼失してしまいます。
その後、
この地一帯が三ツ沢公園となりその一部<外苑>に「横浜市戦没者慰霊塔」が建つことになります。
一方、護国神社の無かった宮崎、熊本の2県では戦後継続して新社殿建設が行われ、
宮崎が1955年(昭和30年)に竣工、
熊本が1957年(昭和32年)に竣工します。
<唯一護国神社のない県>
1953年(昭和28年)
神奈川県は戦後いち早く<神奈川方式>と呼ばれる”多宗教”の「戦没者慰霊堂」が横浜市港南区最戸に建てられ戦没者慰霊の役割を担うことになります。
結果、全国で唯一<護国神社>の無い県となりました。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f153/p2926.html
また、横浜市としては
<横浜大空襲>を含めた戦争犠牲者を悼む「横浜市 平和祈念碑」が
中区の大通公園中程に建立されています。
1992年(平成4年)5月29日建立。
建立者は「横浜戦災遺族会」
彫刻家の横田七郎の作品で台座正面には「平和記念碑 横浜市長 高秀秀信」とあります。毎年5月29日、大空襲の犠牲者を悼む平和祈念碑の内部が公開されます。
戦争の記憶を心に留めるためにも、
時にはこれらの慰霊碑を訪れることをお勧めします。
(三ツ沢公園関連ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

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No.309 11月4日(日)名実共に記念館

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(3月21日関連過去ブログ)
No.81 3月21日 猛女養成学校出身

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第874話【よこはまモノクローム】

■「猥雑な裏通り」<猥雑>という言葉
いかがわしく感じることがあるのは
猥に褻がつながることがあるからだ。
私は「猥雑」さに安堵感を持つ。
猥雑とは日常と非日常の隙間に似ている。
実は最近の横浜中華街には失望感がある。
奇麗すぎる。
この街は 裏通りが 心地よい。

■ホテルから結婚式場へここはかつて「オリエントホテル横濱開洋亭」だった。
現在、「横浜 伊勢山ヒルズ」という結婚式場に。
ここに建つ際に<景観>が問題なったという話は聞かない。

■呉越同舟
尾根歩きの時 良く
移動通信の中継局に出会う
尾根は通信条件が良い。
もう一つ、市街地では中々中継塔を建てるのが難しなっていることもある。
画像は
KDDIとDocomoだった。
デザインが違うのは 何故だろう。

■今も
二十年前にもあって、今もあり。
いたずら書きは永遠!?

■鉄道道
野毛には不思議な道がある。
かつて湘南電気鉄道が桜木町駅に向かう用地だった名残の三叉路だ。
地図を眺めると
二本の並行した独特のカーブが鉄の香りを漂わせている。

■食の力
正確なデータは知らないが
横浜中華街は世界最大の料理の街だろう。
入れ替わりも激しい。
これが中華街のエネルギーに違いない。

■観覧車
昨年、LEDに仕様変更された<大観覧車「コスモクロック21」>
久しぶりに裏側から観た。
この場所は夏場に通ることが多く、木の茂みに遮られこの姿をあまり意識していなかった。
賛否はあるようだが、このエリアで記憶される観覧車は休日賑わう「よこはまコスモワールド」の中心施設である。
全高112.5メートルの観覧車は
ランドマークタワー展望フロアとともに 街を俯瞰する最高の空間になっている。
たまには見上げる経験も良いものだ。

■カタカナ作品
ランドマークタワーとクイーンズスクエアを繋ぐ回廊に
一度観たら忘れないオブジェが建っている。
「モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨー」
最上 壽之の作品。
1981年に第12回中原悌二郎賞の優秀賞を受賞した作家で、
ドンドンドンドン
ボクノムコウニ ボクガイル
ワクワクワクワク
といったカタカナタイトルが特徴だ。

■黄昏の街
モノクローム写真に魅せられた最近、
黄昏時の街中を撮るのが楽しくなっています。
中でも、パチンコ店の外観は面白い。

■大通公園
運河の街だったこの街の吉田川が今、緑深き公園通りになっている。

■2つの路地
偶然撮った二つの路地。その奥の風景のために押したシャッター。

■大繁忙期。
今日は例年に比べて 好調だそうです。

■冬入道
季節を告げなかったら、真夏の風景に見える。
その意味で季節のない街に生きているが異常続きだ。
この異変が 糸魚川の大火となってしまったのだろう。

■野毛を支える!!!
ことばは面白い。ことばは使う人に関係なく光っていいる。
■誰もいないビル
まだまだ変化し続けるみなとみらい。
このビルのイルミネーションは竣工間近だからできたのだろう。
■師走
紅葉坂を下ると、根岸線の橋梁の奥にみなとみらいのビル群が並ぶ。
■横浜水道境川水路橋
相模川寒川取水堰から引地川・境川を越え、小雀浄水場へと水を運んでいる。知らないと鉄道橋のように見える。まるで水の高速道のようなものだ。
相模川から取水した水は 横須賀と横浜南部の水源となっている。
■送電線の世界も奥が深い。■ここどこ?
いつも歩いている道すがら。改めてその風景に驚くことがある。

第872話【市境を歩く】川崎市境1

市境の基本は
・川筋
・尾根筋
・道路筋
※横浜市境を歩くと横浜が見えます!
今回は川崎・横浜 市境その1

ポイント1
<川崎市下麻生3丁目>
<青葉区寺家町> ●川筋
鶴見川の市境はごく一部です。
横浜市域の北部を流れ東京湾に至る<鶴見川>は一級河川ですが、市域を分ける”境川”となっているのはごく一部に限られています。
何故、暴れ川鶴見川が市域を分けないのか?
一方で、横浜市域の西部は二級河川<境川>によって多くの部分で分かれています。
このエリアを流れる鶴見川上流は恩田川との合流点までを「谷本川(やもとがわ)」とも呼ばれています。

ポイント2
<川崎市麻生区早野>
<青葉区寺家町> ●「寺家橋」
横浜市の西北部に広がる寺家(じけ)は、都市部に貴重な里山が維持管理されているエリアです。寺家エリアの多くは「東京都町田市」と接しています。(別レポートで紹介します)
このエリアは寺家ふるさと村(じけふるさとむら)と呼ばれていますが、
鶴見川に架かる寺家橋は「じげはし」と知って、少し驚きでした。

ポイント3
鶴見川「河内橋」(かわちはし)付近
横浜あおば霊苑 ●尾根筋
短い<川筋区間>に終わりを告げ、長い尾根筋市境ルートに入ります。
横浜市市域と川崎市域の境目の多くが<尾根筋>です。途中、一部を除いて港北区の日吉エリアあたりまで尾根歩きが可能です。
横浜と川崎の<境>がどのような自然条件で決定したのか、地理学的にも面白いルートと言えるでしょう。

ポイント4
●尾根筋
★★★ ここは ちょっとマニアックですが、おすすめです。
横浜市境ルートで最も”ケモノミチ”のような尾根筋ポイントがここです。
横浜の市境には南部に公田や朝比奈エリアがありますが、
この道も負けず劣らず ハイキングコースになりそうな<縦走>体験ができます。

ポイント5
●尾根筋 かなりブッシュを掻き分けないと前に進めない道でした。
草刈りの予定でもあるのか、白いビニルテープが市境に張られていました。
地面の市境道標は
まるでヘンゼルとグレーテルの<パンくず>ような感じでした。

ポイント6
●尾根から道路へ ここは川崎市と横浜市にまたがって開発された住宅地。
川崎側 虹が丘
横浜側 すすき野
1970年代〜1980年代に開発・分譲され、両市で土地区画整理事業が進められました。
横浜市青葉区すすき野は、
鉄町、黒須田町、元石川町から新設されたエリアです。
最寄駅は東急田園都市線あざみ野駅または小田急線柿生駅で、エリア中央に東急SCがあります。

ポイント7
●市境の奇妙 このポイントには不思議な段差がありました。
市境にある「すすき野二丁目北公園」(すすき野二丁目8−5)
面積5,000m2
公開1984年1月25日(S59年)
公園横に隣接して 広い道路があります。
この道路には車止めがあり車両は侵入できません。
これは良くある道路使用のスタイルですが
一般道とつながる交差点に段差がありました。

(川崎2につづく)

第871話 【絵葉書の風景】大山公爵夫人

神奈川高等女学校展覧会 松屋鶴屋の裾模様実演説明
正面 大山公爵夫人
来観者18,000人 昭和四年十一月二・三日
●撮影場所:松屋鶴屋
●撮影時期:1929年(昭和4年)11月2日〜3日
この絵葉書のように描かれた風景が明確に示されていることは珍しい。
絵葉書を<記録メディア>として利用した典型事例の一つといえるでしょう。
ここに登場する「神奈川高等女学校」
現在、沢渡にある神奈川学園高等学校の前身と考えられます。
昭和初期の<神奈川高等女学校>は少々紛らわしいので推定に苦労します。

<神奈川高等女学校>か<神奈川県高等女学校>か?
<神奈川高等女学校>は
1914年(大正3年)に「横浜実科女学校」として創設されます。
創設の地は南吉田にあった<リンネル工場>跡地の仮校舎だったそうです。
1915年(大正4年)に「横浜実科高等女学校」となり
1921年(大正10年)から「神奈川高等女学校」と改名します。
戦後の新学制で「神奈川高等学校」
その後「神奈川学園高等学校」として現在に至ります。
http://www.kanagawa-kgs.ac.jp
http://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa18.html
ここで勘違いし易いのが<神奈川県高等女学校>
1900年(明治33年)10月10日に創立。
翌年に神奈川県立高等女学校となり
1930年(昭和5年)4月1日には
「神奈川県立横浜第一高等女学校」となり「第一高女」と呼ばれました。
絵葉書発行の昭和四年の時点では
「神奈川高等女学校」(沢渡)
「神奈川県立高等女学校」(平沼)
の二校が近くにあり間違いやすかったと思います。
ちなみに平沼の第一高女は
1900年(明治33年)10月10日創立  神奈川県高等女学校
1901年(明治34年)5月7日  神奈川県立高等女学校
1930年(昭和5年)4月1日  神奈川県立横浜第一高等女学校
1948年(昭和23年)4月1日  神奈川県立横浜第一女子高等学校
1950年(昭和25年)4月1日  神奈川県立横浜平沼高等学校
もう一つ
似た女学校がありました。
程谷町立実科高等女学校
1926年(大正15年)11月30日認可
校名 程谷町立実科高等女学校
1927年(昭和2年5月)横浜市立実科高等女学校
1934年(昭和9年4月)横浜市立高等女学校
1945年(昭和20年4月)横浜市立第一高等女学校
1948年(昭和23年4月)横浜市立桜丘高等学校

(会場)松屋鶴屋      <昭和7年>
この神奈川高等女学校展覧会が開催された松屋鶴屋は
昭和4年時点で推測すると
伊勢佐木通り入口の「鶴屋(呉服店)」と思われます。
翌年の昭和五年に「松屋(呉服店)」に名称変更されました。
ここが現在の< MATSUYA GINZA>です。
No.30 1921年1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=593

横濱デパート物語(MATSUYA編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5499
この絵葉書の主題にあたる
大山公爵夫人
私にとって 劇的出会いでした。
詳細は資料ツッコミ中につき別で紹介します!

第870話【絵葉書の風景】<年賀葉書>

2021年2月 一部更新しました。地図の追加、樺太関係の記事追加。内容の一部修正をしました。

2016年12月
年も押し迫ってきました。年賀状の準備の季節です。 今回紹介する<一枚の絵葉書>は年賀状です。
発行年は 宛名欄から 1915年(大正4年)
絵柄は この年の干支にちなんでウサギ達が楽隊を編成
大八車に農産物と果物を積んで賑やかに行進する絵柄です。
発信者は
「堀田忠次郎」「堀田隆治」の二名連名。
両名は
「開港五十年紀念横浜成功名誉鑑」に登場しています。 これを含めたいくつかの資料よれば、
慶応七年横浜萬代町一丁目七番に開業し明治23年に三忠合名会社となりました。ジャガイモ、玉ねぎ、蜜感、農産物、海産物を主に輸出入する会社として登場、一時代を築きます。
この年賀状は、「三忠合名会社」オリジナルの絵葉書で、取引先に送ったものと思われます。
明治25年「三忠合名会社」は北海道小樽にも支店を置き、北日本各地の物産を扱い中でも当時日本国領土だった南樺太との取引も多くあったようです。
この年、1915年(大正4年)の年賀状にはもう一つ意味があったようです。
政界進出の準備だったのでしょうか
9月25日に行われた神奈川県議会議員選挙に
政友会から立候補、262票(次点)で落選しています。
落選で懲りたのか政界への立候補はこれだけしか確認できませんでした。
この時、政友会としてトップ当選したのが「新井清太郎」で352票でした。
前市役所前に創業者の名を拝した「(株)新井清太郎商店」ビルが建っています。
「三忠合名会社」のその後は?ネットで確認した程度ですが、
貿易商”横浜三忠商店”を継承した企業が現在も東京で事業を営んでいます。
株式会社 三忠

<年賀状>
さて、今回のサブテーマである年賀状、年末に出し、正月にまとめて配達される予約配達システム。
古くは江戸期に街道の整備がすすみ「飛脚」制度が充実する中、豊かになった町民・商人の間で「年賀の書状」のやりとりが新年に行われていました。
今日のように<正月>に集中して賀状の配達が行われるようになったのは明治の郵便制度が整備されてからのことです。
<はがき>の登場によって、手軽に多くの人にメッセージを送ることができるようになり、爆発的に<年賀はがき>への利用が増えます。
結果
年末数日に年賀を目的とした郵便の取扱量が急増・集中し流通がパンクします。
そこで制度として<年賀郵便>のルールが決まりました。
基本は<1月1日>の到着に日本人はこだわったのです。郵便のルールは投函されたら順次配達していきますから、人々は元旦に届く年末ギリギリを狙った訳です。当然、配達が間に合わなくなってきます。
1899年(明治32年)に
年賀郵便だけ 暫定的に普通郵便と分離します。
1906(明治39)年
そして、「年賀特別郵便規則」が公布され正式に法制化され現在に至ります。それまで普通郵便は配達期日の指定をすることができなかった訳です。
翌年の
1907年(明治40年)から
「年賀」であることを表記すれば、郵便ポストへの投函も可能となり正月に届くことが制度化されます。
そして
2017年は
年賀状制度110年目を迎えることになりました。
年賀状は以前厳しい減少傾向にあり、正月の風物詩から消えることは無いと思いますが、残念な傾向です。

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【市電ニュースの風景】1931年 №23

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。

1931年(昭和6年)6月
六、七、八日 神奈川洲崎神社大祭(電車 洲崎神社社 バス 神奈川 下車)
七日 八大學新人水上競技選手権大会(電車元町下車)
=午後一時より元町横濱プールにて=
九日より十三日まで
第八回全神奈川バスケットボール大会(電車及バス 市役所前下車)
=各日午後六時半より横浜公園前YMCA室内体育場にて=
十日 剣道聯合会六月例会(電車弘明寺終点下車)
=午後六時半より横濱高工道場にて  観覧随意=
十一日 高松宮両殿下御帰朝
=『郵船』秩父丸にて午前十一時四號岸壁御着=
(懸賞標語)
注意が最良の安全地帯(当選者 青木文造君)
●洲崎大神(武州神奈川宿青木町御鎮守・洲崎神社)
源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられています。
例大祭は現在6月6日以降の金・土・日曜日ですが
1931年の時は 土日月に渡って行われました。
●元町横濱プール
元町横濱プールは1930年(昭和5年)5月20日に完成、6月1日(日)に開場式が行われました。夜間施設を持っていましたので開場の翌月(7月)には日本初の夜間水上競技会が開催されました。
現在は「元町公園プール」と呼ばれています。
水源は井戸水を使っていたためにかなり冷たかったようです。もちろん現在は<水道>です。
戦後1946年(昭和21年)3月1日に接収され「オリンピックプール」とネーミングされ1952年(昭和27年)に解除、返還されました。
●横浜YMCA
1884年(明治17年)10月18日に横浜海岸教会の青年たちが中心となって設立されました。
横浜は東京・大阪に次いで3番目です。
1916年(大正5年)に現在の常盤町に会館が建ち、横浜で最初の室内体育場を持ちバスケットボール普及に大きく貢献しました。

第865話 【絵葉書の風景】<開戦前夜の伊勢佐木?>

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Night view of the Isezaki street,amuzement centre,
..(The famous place of Yokohama)

■撮影場所
横濱最大の繁華街だったイセザキの夜景。
一番手前の伊勢ビルからオデヲンまでがベタに写っている。
カメラの位置は 松屋屋上かと考えたがもう少し手前馬車道入口あたりから
望遠で撮影されたものと思われる。
下の風景、中央奥のビルから撮られたのではないか?

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■撮影時期
昭和8年〜10年頃か
時刻は 不明
横浜市が震災復興事業が正式に完了し、伊勢佐木が戦前最も輝いていた時期。

■絵葉書の風景
遠くにオデヲン。さらに奥にはネオンサインで「レートクレーム」がはっきり見える。
「レートクレーム」は東京に本社を置いた平尾賛平商店の看板商品で1954年(昭和29年)に廃業するまで「レート」ブランドで国内を始め、中国大陸でも事業を拡げた。
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ちなみに「レート」ブランドの最大ライバルは「クラブ」ブランド。
「東のレート、西のクラブ」と言われ化粧品メーカーの2大ブランドだった。
オデヲンの屋上にはビクターの看板が見える。
この日本ビクター蓄音機株式会社(現在のJVC)は横浜に縁の深い企業だ。

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

<入口左手>
高級果実万太(MANTAFRUITS)
柳屋小間物店 小間物とキリ
玉木屋洋服店
名物●●→博雅亭(名物 シューマイ)ではないか?
有隣堂では「古本市」が開催されている
かすかに天賞堂
(サロン)店名不明

<入口右手>
伊勢ビルには
大きな地球儀を模した球体に<キネマ石鹸><キネマ黒砂糖石鹸>の看板が見える。
その下には「キリンビアホール」の看板が。
●●新聞→読売新聞か?

美容院
パーマネントウェーブ
フィンガーウェーブ
(都屋)の洋傘
写真部

高島屋●● ストア
戦後横浜駅に進出する前、伊勢佐木に店舗を持っていた。
洋食・すしの看板(三好野食堂か?)
野澤屋百貨店
寿百貨店
ジャズ●●
→オデヲンに近いので 喜楽座か?

といった風景の読取りができたが、詳細判読は難しい。

戦災で多くを失い戦後は長い接収を受け、現在の横浜駅西口開発と共に
イセザキはその中心地としての賑わいを失う。
市電を失った後、イセザキの商店主達が再結集しモール化など新しい商店街づくりに奔走。
現在のイセザキがある。