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第870話【絵葉書の風景】<年賀葉書>

2021年2月 一部更新しました。地図の追加、樺太関係の記事追加。内容の一部修正をしました。

2016年12月
年も押し迫ってきました。年賀状の準備の季節です。 今回紹介する<一枚の絵葉書>は年賀状です。
発行年は 宛名欄から 1915年(大正4年)
絵柄は この年の干支にちなんでウサギ達が楽隊を編成
大八車に農産物と果物を積んで賑やかに行進する絵柄です。
発信者は
「堀田忠次郎」「堀田隆治」の二名連名。
両名は
「開港五十年紀念横浜成功名誉鑑」に登場しています。 これを含めたいくつかの資料よれば、
慶応七年横浜萬代町一丁目七番に開業し明治23年に三忠合名会社となりました。ジャガイモ、玉ねぎ、蜜感、農産物、海産物を主に輸出入する会社として登場、一時代を築きます。
この年賀状は、「三忠合名会社」オリジナルの絵葉書で、取引先に送ったものと思われます。
明治25年「三忠合名会社」は北海道小樽にも支店を置き、北日本各地の物産を扱い中でも当時日本国領土だった南樺太との取引も多くあったようです。
この年、1915年(大正4年)の年賀状にはもう一つ意味があったようです。
政界進出の準備だったのでしょうか
9月25日に行われた神奈川県議会議員選挙に
政友会から立候補、262票(次点)で落選しています。
落選で懲りたのか政界への立候補はこれだけしか確認できませんでした。
この時、政友会としてトップ当選したのが「新井清太郎」で352票でした。
前市役所前に創業者の名を拝した「(株)新井清太郎商店」ビルが建っています。
「三忠合名会社」のその後は?ネットで確認した程度ですが、
貿易商”横浜三忠商店”を継承した企業が現在も東京で事業を営んでいます。
株式会社 三忠

<年賀状>
さて、今回のサブテーマである年賀状、年末に出し、正月にまとめて配達される予約配達システム。
古くは江戸期に街道の整備がすすみ「飛脚」制度が充実する中、豊かになった町民・商人の間で「年賀の書状」のやりとりが新年に行われていました。
今日のように<正月>に集中して賀状の配達が行われるようになったのは明治の郵便制度が整備されてからのことです。
<はがき>の登場によって、手軽に多くの人にメッセージを送ることができるようになり、爆発的に<年賀はがき>への利用が増えます。
結果
年末数日に年賀を目的とした郵便の取扱量が急増・集中し流通がパンクします。
そこで制度として<年賀郵便>のルールが決まりました。
基本は<1月1日>の到着に日本人はこだわったのです。郵便のルールは投函されたら順次配達していきますから、人々は元旦に届く年末ギリギリを狙った訳です。当然、配達が間に合わなくなってきます。
1899年(明治32年)に
年賀郵便だけ 暫定的に普通郵便と分離します。
1906(明治39)年
そして、「年賀特別郵便規則」が公布され正式に法制化され現在に至ります。それまで普通郵便は配達期日の指定をすることができなかった訳です。
翌年の
1907年(明治40年)から
「年賀」であることを表記すれば、郵便ポストへの投函も可能となり正月に届くことが制度化されます。
そして
2017年は
年賀状制度110年目を迎えることになりました。
年賀状は以前厳しい減少傾向にあり、正月の風物詩から消えることは無いと思いますが、残念な傾向です。

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No4 1月4日(水) 昭和の歌姫

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【市電ニュースの風景】1931年 №23

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。

1931年(昭和6年)6月
六、七、八日 神奈川洲崎神社大祭(電車 洲崎神社社 バス 神奈川 下車)
七日 八大學新人水上競技選手権大会(電車元町下車)
=午後一時より元町横濱プールにて=
九日より十三日まで
第八回全神奈川バスケットボール大会(電車及バス 市役所前下車)
=各日午後六時半より横浜公園前YMCA室内体育場にて=
十日 剣道聯合会六月例会(電車弘明寺終点下車)
=午後六時半より横濱高工道場にて  観覧随意=
十一日 高松宮両殿下御帰朝
=『郵船』秩父丸にて午前十一時四號岸壁御着=
(懸賞標語)
注意が最良の安全地帯(当選者 青木文造君)
●洲崎大神(武州神奈川宿青木町御鎮守・洲崎神社)
源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられています。
例大祭は現在6月6日以降の金・土・日曜日ですが
1931年の時は 土日月に渡って行われました。
●元町横濱プール
元町横濱プールは1930年(昭和5年)5月20日に完成、6月1日(日)に開場式が行われました。夜間施設を持っていましたので開場の翌月(7月)には日本初の夜間水上競技会が開催されました。
現在は「元町公園プール」と呼ばれています。
水源は井戸水を使っていたためにかなり冷たかったようです。もちろん現在は<水道>です。
戦後1946年(昭和21年)3月1日に接収され「オリンピックプール」とネーミングされ1952年(昭和27年)に解除、返還されました。
●横浜YMCA
1884年(明治17年)10月18日に横浜海岸教会の青年たちが中心となって設立されました。
横浜は東京・大阪に次いで3番目です。
1916年(大正5年)に現在の常盤町に会館が建ち、横浜で最初の室内体育場を持ちバスケットボール普及に大きく貢献しました。

第868話 【ある日の氷川丸】

山下公園に係留されている氷川丸(ひかわまる)
1930年(昭和5年)竣工。日本郵船の12,000t級貨客船だ。
北太平洋航路で活躍、戦後まで残った貴重な船である。
現在は博物館船として公開され国の重要文化財(歴史資料)に指定されている。
ここに数枚の係留された氷川丸風景を紹介する。 これらの風景の違いがお分かりになるだろうか?
氷川丸は、
1960年(昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ出港し10月1日に横浜・3日に神戸着で最終航海となった後、横浜港に戻ってその後の処置を待つ身の上となった。廃船の計画も出たが、各方面からの熱いリクエストがあり存続が決定。
翌年の1961年(昭和36年)に ユースホステルとして再登場した。この時、船体下部が黄緑色に塗られた。
その後、繋留のために作られた<桟橋>先端に1963年(昭和38年)<白灯台>が設置された。
これに関する顛末は
No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)

No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)


1960年代以降の「氷川丸」も様々な表情を変化させながら現在に至っている。
85年の輝かしい歴史を辿るには
「氷川丸ものがたり」は最新刊だ。

第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所(加筆)

初代横浜駅が開業したのは1872年6月12日(明治5年5月7日)考えてみれば、開港以来十数年で産業革命の象徴を導入したことになる。
わが国の鉄道発祥の駅舎は新橋駅と共にアメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスが設計した。
ここに横浜駅前、鉄道開業後の写真に写る<謎>の建物を発見?

初代横浜駅前

明治25年に発行された絵地図にも駅前噴水の先、大岡川に面した場所に何か建造物がある。
私はこれは新しい「公衆便所」ではないかと推理した。
撮影時期は、初代横浜駅開業期から
1902年(明治35年)に初代大江橋が架替されるまでの間であることは間違いないだろう。
さらに絞りこめるか、果たして公衆便所なのか
資料を漁ってみた。
まず簡単に横浜公衆便所史から
開港後、欧米人が出会った日本の風習の中で、
庶民が平気でどこでも<立ちション>するという行為には閉口したという。
そこで外国人たちは<公衆便所>の設置を時の行政府に強く要望した。
早速動いたのが横浜町会所、現在の横浜商工会議所だった。
1871年(明治4年)11月に横浜町会所の費用で町内83カ所に小便所を設置。
掲示板を使って設置場所を掲示し
「右之通りに付旅人は別して心得居可申事也」と示した。
この小便所は四斗樽大の桶を地面を掘り下げて埋め込み、板囲いをした程度の簡単なものであったため臭いがきつく外国人にはかなり不評だったようだ。
「主要地区には瓶(かめ)を埋め込み、男女両用に供し、屋形式のやや完全なるものに改造するなど、統廃合の結果、多くは橋詰に設置する事となり、其の数も四十数箇所となった。」
これが写真にある初代横浜駅前広場、大江橋詰に設置された公衆便所ではないか?
<横浜駅前公衆便所>
確証は無いがその他にこの当たりに必要な<建築物>が考えつかない。邏卒所=交番も考えたが、川沿いに建てる必要があるのか?窓がない、川に向かって蓋らしき構造、などなど疑問が残る。
拡大してみると人影が見え”立ちション”に見えないこともない。
写真左側には「大江橋」が架かっている。下流右岸から「大江橋」を見ている。
反対側からの風景でも確認してみたい。

大江橋上流の右岸から「大江橋」を写している。
恐らくこの風景の方が新しいものだろう。電信柱が増えているのが判る。
ちょうど樹木が遮っていて、正確に確認することができないが、角度的には橋詰の<建造物>は無いように見える。
短期間で撤去された可能性もある。

明治二十年代の初代横浜駅周辺。横浜電気鉄道はまだ開通していない。

1872年(明治5年)2月17日の横浜毎日新聞には
「仮名垣魯文、立ち小便で科料(とがりょう)とられる。仮名垣魯文、当港へ来たり、本町辺にて風と立小便為し、邏卒に見咎められ、科料申付けられし由、西洋膝栗毛の趣向を一寸実施に見せたるは面白し。」と時の有名人も”立ちション”で捕まったようだ。
(参考資料:荒井保男『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』2011 中央公論新社)
※番外編
偶然の一致?

桜木町公衆便所遠景
桜木町公衆便所

大江橋近くに2016年までなかなか良いデザインの公衆便所があったが、廃止されてしまった。
位置的にも古地図の位置と合っている(若干大江橋寄りではあるが)!んだけどな。
さらに追いかけてみるか?

第866話 横浜川崎市境合戦 その1

国盗り合戦といえば それは戦国時代に遡ります。
江戸時代は 国替えもありました。%e5%b9%95%e6%9c%ab%e5%9b%bd%e5%9f%9f 近代に入り、明治初期に都道府県が制定され
その後
1889年(明治22年)4月1日以降、市町村制が始まります。
その後、全国市町村は<合併>の二文字に揺れます。
明治期に71,314の町村があったそうです。
明治22年
「明治の大合併」町村数は15,859と約5分の1に減少。
昭和28年〜昭和36年
「昭和の大合併」市町村数は昭和36年で3,472に減少。
<横浜の市域拡大>
横浜を例に取れば、
現在の市域はかつて国を分けた<相模国>と<武蔵国>をまたいでいます。
近世以前の国区分には川や山が重要な要素でしたが、交通網が発達してくると国境が次第に曖昧になってきます。武蔵国と相模国を分けたものは尾根筋、稜線ですがもう一つの視点では<水系>で現在の18の区を分けることもできます。
<隣接市>
横浜市は東が川崎市 西が藤沢市・大和市
南は鎌倉市・逗子市・横須賀市と隣接しています。
これまで横浜市で目いっぱいでしたが、今回は
少し近隣にも視野を広げてみることにします。
お隣、川崎市との市域の歴史、ほとんど知りませんでした。
プロローグに川崎の市域拡大を紹介しておきます。
■川崎市の変遷
大きく6次に渡って市域が拡大されました。%e5%b7%9d%e5%b4%8e%e5%b8%82%e5%b8%82%e5%9f%9f%e6%8b%a1%e5%a4%a7
1924年(大正13年)7月1日[合体し市制開始]
橘樹郡川崎町、大師町、御幸村が合体し川崎市発足
1927年(昭和2年)4月1日[第1次市域拡張]
橘樹郡田島町 編入
1933年(昭和8年)8月1日[第2次市域拡張]
橘樹郡中原町 編入
1937年(昭和12年)4月1日[第3次市域拡張]
橘樹郡高津町、日吉村(鹿島田・小倉・南加瀬)編入
1937年(昭和12年)6月1日[第4次市域拡張]
橘樹郡橘村 編入
1938年(昭和13年)10月1日[第5次市域拡張]
橘樹郡稲田町、生田村、向丘村、宮前村 編入
1939年(昭和14年)4月1日[第6次市域拡張]
都筑郡柿生村、岡上村 編入
別添の市域拡大図から分かる通り、川崎市は市となった当初実に不安定な市域を擁していました。橘樹郡田島町が川崎市に編入されたのが昭和2年。これが一つのターニングポイントです。

■横浜市の市域拡大
1889年(明治22年)4月1日【市制施行】
1901年(明治34年)【第1次市域拡張】
1911年(明治44年)【第2次市域拡張】
1927年(昭和2年)【第3次市域拡張】
1936年(昭和11年)【第4次市域拡張】
1937年(昭和12年)【第5次市域拡張】
神奈川区に、橘樹郡日吉村から大字駒ケ橋(下田町)、駒林(日吉本町)、箕輪(箕輪町)および矢上、南加瀬の各一部(いずれも日吉町)を編入(日吉村の他地区は、川崎市へ編入。)
1939年(昭和14年)【第6次市域拡張】

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=359

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=526

<水利が市域の鍵>
市域拡大の背景には<水利権>が欠かせません。
水を巡る横浜・川崎の話を何回かに分けて紹介していきます。

第865話 【絵葉書の風景】<開戦前夜の伊勢佐木?>

%e3%82%a4%e3%82%bb%e3%82%b6%e3%82%ad2016%e5%b9%b411%e6%9c%8817%e6%97%a514%e6%99%8212%e5%88%8602%e7%a7%92[横濱名勝]伊勢佐木町通りの夜景
Night view of the Isezaki street,amuzement centre,
..(The famous place of Yokohama)

■撮影場所
横濱最大の繁華街だったイセザキの夜景。
一番手前の伊勢ビルからオデヲンまでがベタに写っている。
カメラの位置は 松屋屋上かと考えたがもう少し手前馬車道入口あたりから
望遠で撮影されたものと思われる。
下の風景、中央奥のビルから撮られたのではないか?

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■撮影時期
昭和8年〜10年頃か
時刻は 不明
横浜市が震災復興事業が正式に完了し、伊勢佐木が戦前最も輝いていた時期。

■絵葉書の風景
遠くにオデヲン。さらに奥にはネオンサインで「レートクレーム」がはっきり見える。
「レートクレーム」は東京に本社を置いた平尾賛平商店の看板商品で1954年(昭和29年)に廃業するまで「レート」ブランドで国内を始め、中国大陸でも事業を拡げた。
mukuretoru1938autumn cqoywwjueaahg8j
ちなみに「レート」ブランドの最大ライバルは「クラブ」ブランド。
「東のレート、西のクラブ」と言われ化粧品メーカーの2大ブランドだった。
オデヲンの屋上にはビクターの看板が見える。
この日本ビクター蓄音機株式会社(現在のJVC)は横浜に縁の深い企業だ。

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

<入口左手>
高級果実万太(MANTAFRUITS)
柳屋小間物店 小間物とキリ
玉木屋洋服店
名物●●→博雅亭(名物 シューマイ)ではないか?
有隣堂では「古本市」が開催されている
かすかに天賞堂
(サロン)店名不明

<入口右手>
伊勢ビルには
大きな地球儀を模した球体に<キネマ石鹸><キネマ黒砂糖石鹸>の看板が見える。
その下には「キリンビアホール」の看板が。
●●新聞→読売新聞か?

美容院
パーマネントウェーブ
フィンガーウェーブ
(都屋)の洋傘
写真部

高島屋●● ストア
戦後横浜駅に進出する前、伊勢佐木に店舗を持っていた。
洋食・すしの看板(三好野食堂か?)
野澤屋百貨店
寿百貨店
ジャズ●●
→オデヲンに近いので 喜楽座か?

といった風景の読取りができたが、詳細判読は難しい。

戦災で多くを失い戦後は長い接収を受け、現在の横浜駅西口開発と共に
イセザキはその中心地としての賑わいを失う。
市電を失った後、イセザキの商店主達が再結集しモール化など新しい商店街づくりに奔走。
現在のイセザキがある。

第864話 野毛界隈入門その1

(プロローグ)
「野毛界隈入門」と題したのは私が<野毛界隈>について入門、体験の記録である。light_p6281170 light_p6281209 この野毛の街を語るにはかなり勇気がいる。
この界隈を愛し、この界隈を語ったら止まらない大先輩から若手論客諸氏が手ぐね引いて構えておられるからだ。
私も野毛の近くに暮らし始めて十五年を越え、ぼちぼちこの街のことを調べてみようと思い立ったが大変な作業であることに気がついた。実に奥が深い。
野毛に関しては数多くの研究資料、エッセイが残されている。これらの諸先輩の資料を読み解く作業も楽しい。野毛といえば夜のイメージが強いが近くに暮らすこともあり昼間の野毛散策も多い。坂が多く年寄りには難儀するが、時折街並みの合間から見える野毛の街並みも面白い。夜の野毛はかつてノンベイだった頃の記憶がたくさん残っている。
呑みに行く<野毛界隈>には漠然と宮川町や日ノ出町も含まれていたので、ここでも野毛界隈として広く日ノ出町、宮川町、花咲町をベースに紅葉ヶ丘、宮崎町、老松町も含まれるていることをご了解いただきたい。
界隈は界隈であって、行政区分ではなく、時に範囲が自在に伸縮するところが<界隈性>なのだと思う。

<野毛連山>
野毛界隈は川と海に面し、背後に野毛連山を配する町である。堅く言えば丘の範疇だが、野毛界隈には地名にも野毛山・掃部山・伊勢山(これは皇大神宮の関係だが)・御所山・久保山といった名が残っている。light_%e9%87%8e%e6%af%9b%e5%b1%b12943
この山々の連なりを<野毛連山>と仮に命名すると
大岡川を挟んで左岸の野毛連山が、右岸には山手連山が迫っている入江に<吉田新田>が生まれ、居留地が誕生した位置関係が見えてくる。
野毛村から野毛連山を越えると、また深い入江があった。帷子川の入江である。
横道にそれるが、帷子川の入江の向こうにも丘が広がり、海に迫る幸ヶ谷公園から高島山・高島台(高島嘉右衛門)から台町・浅間台とこちらも帷子川の入江を囲むように丘が迫っている。
東海道は江戸日本橋を出発して平らな街道の旅をし、最初の山坂が神奈川宿を過ぎたあたりから始まる。保土ケ谷を過ぎると国境に<権太坂>が待ち受けていた。
明治期にはちょいワルおやじたちが7人東京から横浜・金沢まで観梅(杉田)を兼ねて自転車ツーリングに出かけたという記録がある。このルートも保土ケ谷から山を越え(たぶん引いて越えた)井土ヶ谷にでて杉田に向かったのだろう。
No.53 2月22日 アーティストツーリング
俳人正岡子規に至っては
親友の秋山真之と無謀な徒歩旅行に出かける。酔った勢いで着の身着のまま何の準備も無く「鎌倉に行こう」と下駄履きで出発、へばりながらも戸塚手前でギブアップ。東神奈川まで這々の体で戻り電車で東京に帰ることになる。
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン

<野毛を横浜の中心に>
横浜開港場という立地は、江戸から見てダブルリバー、神奈川宿から3つの山を越えて行くことになる。その中でも一際厳しい<野毛連山>を開港時には突貫工事で真っ直ぐな道を開くことになった。横浜道である。
この野毛連山の頂きに横浜の新しい中心都市を置くことを目論んだ人物がいる。
震災後、横浜の復興計画を立案した牧彦七という人物だ。
牧彦七は「雷親父」「ライオン」とあだ名された土木のスペシャリストで、関東大震災後、上司の後藤新平から誘われ都市計画局長として帝都復興事業に尽力した。
中でもダイナミックな5億円規模の横浜・震災復興都市計画案(通称・牧案)は関係者を驚かせた。
現在のように、東海道本線の「横浜駅」界隈と開港の町JR根岸線「関内駅」界隈(開港場であり関内外エリア)の分断を結ぶ必要性を感じ中間に街を開こう!と考えた。
この計画は見事に地元の反対から夢物語に終わったが、実現していたらこの街はどうなっていったか?創造すると実に面白い。

【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!

元町にあった有名な風景。
「百段坂」と呼ばれる急坂がかつてあった。関東大震災で崩れ、復活することは無かった今では幻の坂である。
百段坂とは 俗称ではないか?
あまりに急階段で高かったので<多い>というときにまとめて<百段>と表現することが ママある。
地元の方から 「実は101段あったんだ」と聞いた。 だったら 数えてみよう!light_201312%e7%99%be%e6%ae%b5%e5%9d%82-1 light_20150509200315_001 light_img184 light_%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e7%b7%a8201419013 light_%e7%99%be%e6%ae%b5%e5%85%83%e7%94%ba
中からわかりやすい一枚を拡大、下から数えてみた。
93段くらいから樹木に邪魔されて正確なカウントとはいかなかったが等分であるとすると確かに確かに「101段」あるぞ!
 
お粗末さまでした。

第862話 【絵葉書の風景】番外編<子守という仕事>

【傘を差す子守女】
この風景を紹介するにあたり、かなりの時間を要しました。14463223_1300541403323294_2839478932620437198_n少女が二人、和傘を差しながら歩く姿として紹介すればそれだけのことなんですが、この風景を絵葉書にした<意図>は何だったのか?
写真家は外国人なのか?日本人なのか?
絵葉書には画像しか無く、何時の時代の何処の風景か推測するには情報が少なすぎます。傍証から撮影時期は大正初期と推察できましたが確証はありません。
少なくとも この風景から想像できるのは
この二人の少女は<子守>を仕事として働いているだろうということです。
服装から、季節は寒い時期で秋から初冬と思われます。
手前の少女は「叶田」と書かれた傘を差していますが、屋号でしょうか。
◆児童労働としての子守
子守が労働であった時代があります。現代の<ベビーシッター>ではなく、10歳前後の少女が労働として子供を子守することが江戸時代から普通に行われてきました。
子守の労働歌としては「竹田の子守唄」が有名です。
 守りもいやがる 盆から先にゃ
 雪もちらつくし 子も泣くし
 盆がきたとて なにうれしかろ
 帷子(かたびら)はなし 帯はなし
 この子よう泣く 守りをばいじる
 守りも一日 やせるやら
 はよもいきたや この在所(ざいしょ)越えて
 むこうに見えるは 親のうち
統計的に見ると
大正9年の国勢調査によればたとえば12歳から14歳までの年齢層で男女の有業率(職についている率)はそれぞれ30.6% 28.8%に達していました。
昭和13年神奈川県中郡成瀬村における農家児童の労働時間分析では
女子の子守は
尋常5年 36.25(時間.分) 総労働時間78.23(時間.分)
尋常6年 7.24(時間.分) 総労働時間72.43(時間.分)
高小1年 8.10(時間.分) 総労働時間96.17(時間.分)
高小2年 0.56(時間.分) 総労働時間114.50(時間.分)
といった数字が出ています。
◆では「児童労働」は問題だったのか?
子守奉公という児童労働が一般化したのが江戸時代後期で、明治以降も前述の数字も出ているように、子守労働が女子児童の大きな役目でした。
では、この幼児労働が過酷な労働であったかのかどうか?
これに関しては資料を読み漁った結果、子守が<女工哀史>的なステレオタイプな労働像として良いのかも検討が必要だということに帰結しました。
事実、竹田の子守唄の背景にあるような被差別部落における<子守労働>もあります。現在の<子供の権利>という視点でも問題点を多く含んでいますが、地域の役割分担と通過儀礼的な役割も担っていた側面もありました。確かに就学年齢の女子がこの時期に<子守労働>を強いられることで義務教育が維持できない現実が起こってきます。地域によっては女子就学率が極端に下がっています。
ここには「子守学校」という女子の就学奨励も過渡的なものながら女子就学向上に大きな役割を果たした試みもありました。
※一部では男子も子守労働に多くの時間を割いている地域もあります。
◆ジェンダー・バイアス
現代の視点で、この時代の子守労働を論じるのは無理があるように思えます。
女子が子守・家事、男子が農作業等を担う近代までの農村部においては、地域の役割分担として、子どもたちが年齢に応じて様々な労働に就いていたからです。
戦前絵葉書には子守をしている子供が登場するものも多くあります。日常の風景だったようです。
一枚の絵葉書から少し大風呂敷を拡げてしまいました。

番外編「大岡川運河論」

最近齢も高齢者の仲間入りなので昔良く口出しては嫌われた
そもそもロンを”少し”展開させていただきます。
大岡川を考える時 何故「運河」がキーワードとなるの?
このあたりを 共有する 議論なり コンセプトワークが必要ではないか?
これが 今回の<そもそも>です。
「運河」うんが
「運輸・灌漑(かんがい)・排水・給水等のために、人工的に造った川。(wikipedia)」
「運河とは水利、灌漑、排水、給水、船舶の航行などのために、陸地を掘って造られた人工的な水路のことです。ヨーロッパではローマ時代から主要な交通 施設でした。
しかし、戦後になって鉄道などの新しい交通体系が発達し、運河は人々の生活から離れ、水たまりとなったり、埋め立てられて道路になったり、放置されて汚れていったのです。
しかし、人工的に造られた運河は波もなく、深さもある程度一定で、安全性の高い水路なのです。近年、ようやく水辺環境の見直しと共に運河の持つ魅力を再認識する動きが出てきました。
人々の知恵と工夫次第で、運河は魅力的に生まれ変わる力を秘めた水辺環境と言えるのです。」
http://www.thr.mlit.go.jp/karyuu/mizu-no-dokutsu/02.html
こう定義されています。
私は大岡川を模式図化してみました。大岡川って不思議な<シンメトリー>なんです。
源流の笹下川は鎌倉武士が築いた領地で、江戸を経て明治・大正・昭和に沿って流れ、平成のみなとみらいエリアに注いでいますね。

江戸時代から 笹下川下流域を
水利、灌漑、排水、給水、船舶の航行などのために(陸地を掘って)造られた人工的な水路が現在の「大岡川」「中村川」「堀川」そして「堀割川」です。
私は総称して
「大岡川運河群」と呼んでも良いのではないか?と考えています。
さらに中流域の「大岡川分水路」も運河です。
都市河川には「運河の思想」が必要です。
歴史と生活文化をも取り込んだ「大岡川運河論」を進めたいですね。

さらに枠組みを広げれば 自然というが
<完全な自然>など無く、人手(人工)との調和を議論しないと、原則論的な神学論争になってしまいます。