横浜の出来事を年表からピックアップしました。
【人名を検索したらハマってしまいました】
●1905年(明治38年)の今日
第26代大統領セオドア・ルーズベルトの長女アリス・ロングワース・ルーズベルト(21歳)がアジア歴訪の帰りに「ミネソタ号」で再度横浜港に立ち寄ります。
「アリス・ロングワース・ルーズベルト」
彼女の絵本が発刊されています |
この名から検索で導き出された情報はあらぬ方向に発展し、簡単な紹介では済まなくなってしまいました。
→改めて もう少し整理し 紹介しますが、今日はアウトラインだけ。
アリスの訪日は、歴史的に極めて皮肉な出来事となります。
最初にアリスが日本を訪れたのは
日露戦争で連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破り戦勝気分に浸っていた最中の
1905年(明治38年)7月でした。
横須賀にある戦艦 三笠 |
大量の戦費を使い、かろうじて勝利した日本は、戦勝をキッカケにアメリカの仲裁に応じようとしていました。
アリスの訪日は、外務大臣小村寿太郎が、セオドア・ルーズベルト大統領に面会するため横浜港を発ち、ニューヨークに到着した時とほぼ同時期でした。
米国大統領の娘アリスはあくまで外交儀礼上の存在で、主な目的は日本皇室との面会でしたが、米国にとって真の狙いは陸軍長官ウィリアム・タフト率いるアメリカ合衆国フィリピン訪問団による「桂・タフト協定」の成立でした。
米国訪問団の表向きの目的は1898年(明治31年)に起った米西戦争によってスペインからアメリカ合衆国にその支配権が移ったフィリピン国情の視察の途中訪問でした。
この訪日中の7月に取り交わされた「桂・タフト協定」の内容は非公式で日本側には残っていません。
●日本は、
アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
●極東の平和は、
日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
●アメリカは、
日本の韓国における指導的地位を認める。
乱暴に表現すれば
フィリピンはアメリカのものだから手出しするな
英国(日英同盟)に続き米国も日本の安全を保障する
朝鮮半島の支配は黙認する
だからここでロシアをあまり追い込まないようにロシアからは賠償金は取らない(ポーツマス条約)という結果に落ち着きます。
※日露戦争は、日本とロシアの戦争ですが戦場は朝鮮半島と中国大陸です。
ところが
アリスにとって
行きの訪日7月から帰りの訪日10月までの4ヶ月で
世界の状況は一変します。
日本は日露戦争に勝利したものの、ロシアからは賠償金を受け取ることができないままアメリカの仲裁を呑み、アリス訪日の前9月には大暴動(日比谷焼打事件他)が起り桂内閣は退陣に追い込まれます。帰りも「朝野をもって歓迎」を受けたとありますが、行きとはかなり状況が一変していました。
(セオドア・ルーズベルト)
父のセオドア・ルーズベルトは、日本が明治政府になった頃は、極めて親日家でした。
アメリカ人初の柔道茶帯取得者でもある彼は、ハーバード大学の同窓生だった金子堅太郎とは友人として日本を贔屓にしていましたが日露戦争後日本脅威論者として対日強硬派になります。
排日移民法、グレート・ホワイト・フリートによる対日牽制を行います。
アメリカがハワイを併合しようとした際、日本は巡洋艦浪速と金剛がホノルルに入り、アメリカの軍事力行使を牽制し、ハワイ併合を遅らしたという経緯があります。
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
ハワイを巡る日米緊張関係は、第二次世界大戦(真珠湾攻撃)開始の半世紀前から始まっていたことになります。
皮肉にもルーズベルトはポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され1906年のノーベル平和賞を受賞します。
※1898年(明治31年)の米西戦争でアメリカ陸軍第1師団第2旅団長としてマニラを占領した軍人がアーサー・マッカーサーで、ダグラス・マッカーサーの父親です。
その時のフィリピン民政長官となったのが前述のタフトで、アーサー・マッカーサーとは水と油、そりが合わずことごとく対立しアーサーが本国に戻ることで決着します。その後、彼は日露戦争観戦武官として東京に赴任し、自らの副官として呼び寄せたのが次男のダグラス・マッカーサー陸軍中尉でした。
1905年(明治38年)10月29日にダグラス・マッカーサーは横浜に上陸し、11月1日に父親と横浜を発ちアジア歴訪に向かいますが、数日過ごした最初の“横浜”はどのように映ったのでしょうか。
その後、1906年6月末に再度訪日し約三週間横浜と東京に滞在します。
話しはそれてしまいましたが、
日露戦争時にダグラス・マッカーサーは父の戦ったフィリピンと、ロシアに勝った日本に出会っていたことは第二次世界大戦時の彼にとって大きな影響を与えたことは間違いありません。
No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド
No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男
No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)
●1906年(明治39年)の今日
「二代目市川左團次(25歳)横浜の喜楽座で開かれた横浜孤児院慈善演芸会に出演する。7日まで続け、以後は通常興行に入る。」
二代目市川左団次、屋号は高島屋
9月に二代目市川左團次を襲名したばかりの興行となります。小山内薫と意気投合し自由劇場を立ち上げ、史上初の歌舞伎海外公演をソ連で行うなど、歌舞伎界に新風を吹き込んだ中興の祖です。
●1937年(昭和12年)の今日
「中区紅葉坂に市教育会館が完成した」
※教育会館って歴史あるんですね。
No.67 3月7日 教育会館にて夜露死苦!
●1985年(昭和60年)の今日
「区名選定委員会、戸塚区分区新区名を市長に報告、A区=栄区、B区=泉区」
栄区と泉区の名前が決まり翌年の1986年(昭和61年)に誕生します。
●1889年(明治22年)の今日
嘉以古樓が相生町三丁目に新築落成します。
嘉以古樓は関内の料亭として倉橋春助が1877年(明治10年)に開業した老舗。
1903年(明治36年)10月3日権利を畠山政吉が得て「割烹料理店 八百政」として開店します。
訪米する尾崎行雄の送別会、市長になる前の若き三橋信方の講演会、市会議員、財界人の会合場所として賑わいました。
●1890年(明治23年)の今日
イギリス人で、ロンドン軽気球会社の支配人
パーシバル・スペンサー(SPENCER, Percival Green 1864年〜1913年)が来日します。
来る10月12日より横浜を手始めに関西・東京で実施する軽気球による飛行ショー開催のために横浜に到着しました。
No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で
●1918年(大正7年)の今日
山下町に在日フランス商業会議所が設立されます。
「シャムブル・デ・コムメルス・フランセイズ・ドウ・ジャポン」
http://www.ccifj.or.jp/jp/
他にもいろいろありましたが
今日は ここまで。