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No.453 「横浜道」を歩く (前編)

昨日No.452で、横浜道が造られた頃の話しを紹介しました。
今日は、現在の「横浜道」をぶらり歩いてみましょう。

横浜道

横浜道は、旧東海道の浅間下(当時は芝生村)から、
関内の吉田橋まで一直線につながっている
開港後最初にできた重要道です。

横浜道散策は東海道筋からスタートします。

(浅間下)
横浜道のスタート地点には、富士山信仰の「浅間神社」が鎮座しています。
周辺にはビルが乱立していますが、かつて海と冨士が良く見えた高台にあります。
このあたりの浅間下は、昔「芝生(しぼう)」村と呼ばれていましたが、
しぼう=死亡の音でもあるのでこの地名は無くなり「浅間下」と呼ばれるようになりました。

交差点の脇に「横浜道」起点の案内看板が設置されています。
ここから県道13号線(新横浜通)を関内方向に。
最初の川と橋があります。

新田間川(あらたまがわ)と新田間橋です。
この周辺には、うなぎの「野田岩」があります。
また、新田間川沿い少し上流に家具のダニエルの工房「家具の病院」があります。
事前に申し込めば見学もできます。私の大切な秋田木工の籐椅子の座面修復をお願いしたことがあります。

(見事な完成度です。今これに座って原稿を書いています)
新田間川を越えると横浜駅西口のビル街に入ります。交通渋滞の激しい岡野の交差点近くには予備校と東急ハンズ(7月で移転のため閉館)があり若い人たちがぐっと増えます。
ここには「吉村家」「横浜家」「山頭火」と人気ラーメン店が立ち並ぶところでもあります。

旧道「横浜道」は、次の帷子川(かたびらがわ)を渡る地点で少し脇道にそれます。
高架橋となっている「平沼橋」脇に小さな「旧平沼橋」があり、
少し前まで、開かずの踏切が設置されていました。
現在は通行不能となっています。

“平沼の踏切”を過ぎると、平沼商店街が戸部の手前石崎川に架かる
「敷島橋」まで続いていましたが 残念ながら
現在は見る影もありません。

それでも 良い店は頑張って残っています。
歴史ある蕎麦の田中屋、角平。お茶の平沼園、和菓子屋の寿々喜
新しいレストランも誕生しています。

三つ目の石崎川と敷島橋を越えると「戸部」に入ってきます。
お肉の「井上富蔵商店」は元々卸で小売りも行っています。


戸部7丁目交差点、市営地下鉄「高島町駅」あたりから京急「戸部駅」までは、かつて栄えた三菱造船関連の工場や機材、下請け企業が密集していたエリアです。
現在も少しその面影が残っています。
お店もかつて造船所関連お土産として人気だった「東京ひよ子 横浜店」が現在もしっかり営業しています。


銘菓ひよ子は、九州福岡のお菓子ですが、東京オリンピック以降関東に進出し 見事東京ブランドとなった珍しいお菓子です。
炭坑や製鉄所など重労働に「甘味」が人気となって福岡の名産となります。
※余談 岩亀横町に和菓子屋「住よし本店」がありました。ここには名物“塩分の効いた”きんつばがあって、造船所に働く人たちの超人気菓子だったそうです。
どこかで復活して欲しいな!甘みを抑えた良い味でした。

戸部7丁目交差点にある 今話題のお店と言えば
「横濱うたげやど根性ホルモン」です。
http://dokohoru.info
地恵地楽のお店と言われるだけあって 地産地消の人気スポットです。


このあたりから
江戸時代に切り通しとなった野毛山のてっぺんまで
少しずつ上り坂になっていきます。
戸部四丁目交差点からみなとみらい方向にのびる
「岩亀横丁」幕末から明治にかけて横浜最大級の遊郭
「岩亀楼」の遊女達の寮があったことからこう呼ばれるようになったそうです。

遊郭が無くなった後は 三菱造船関連の工場街として栄えます。
現在は その名残が少し在る という程度です。
この「岩亀横丁」には「岩亀稲荷」があり
「幕末安政のころ、現在の中区横浜公園のあたりにあった「岩亀楼」という遊廓(ゆうかく)の遊女が、静養のため利用した寮がここにあったことから岩亀横丁と呼ばれるようになったという。この横丁のなかほどに、静養に訪れた遊女がお参りしたといわれる稲荷がある。岩亀稲荷と呼ばれ、例祭が行われるなど、今も大切に守られている。」(横浜市西区HP)


ここには こんな言い伝えが残っています。
幕末の尊皇攘夷の考えから外国人客を拒み、
17歳伝説の岩亀楼のナンバーワン遊女「喜遊」が
最後は喉に刀剣を突きたてて自害したという。
この言い伝えには若干????
そもそも居留地の遊郭に上る時点で、
外国人相手が想定されることは解りきっていたことですから
恐らく 攘夷ではなく 理不尽な要求を拒み自害が妥当な線ではないか?
と推論しています。
後半はまた明日にしておきます。

No.452 横浜道から開港当時を探る

幕末に突然誕生した「横浜開港場」
この開港場は、幹線街道(東海道)との接続がありませんでした。
今回は、民間に下った突貫工事令で完成した
開港のための道「横浜道」を紹介しましょう。

横浜道に埋め込まれている道標

開港前日に開通した「横浜道」を紹介する前に
なぜ 「横浜道」が必要となったのかあたりからヒモ解いていきましょう。
市史編集事業の重責を務められた高村直助先生は
横浜開港場を「帝都の関門」と呼びました。
開港のプロローグはロシアから始まり
ペリーの来航で 日本は開国を迫られます。

静岡県下田港開港から始まり
神奈川湊開港が「日米通商修好条約」で期限を設定して
開港場と決められますが、当時の徳川幕府は
できるだけ 江戸から「開港場」を外したいと目論見ます。

不便だが良港としてペリーの評価も高かった「横浜」を
開港場と決め
1859年7月1日(安政6年6月2日)未完成の状態で開港します。
開港場の整備は残り百日を切った約三ヶ月の短期間に行われます。
※アメリカは当初7月4日(独立記念日)を開港日にしたかった
日本政府と列強五カ国の間に結ばれた「安政の五カ国条約」の
重要な目的は「通商」=交易です。

通商に必須なのが「ロジスティクス(物流)」の確保です。

外国人を囲い込むために長崎の出島をイメージして管理しようとした幕府でしたが、
軍事・外交上も江戸への幹線道の整備が必要となります。
江戸時代の横浜村エリアの街道への動線は「井土ケ谷」経由保土ケ谷宿でした。

安政6年の開港場

「開港場」と「東海道」を直結する道
「よこはまみち」の造成に踏み切ります。

開通当初は 重要な街道として多くの利用者で賑わいました。
東海道神奈川宿、その先の“江戸”への近道でした。
「絹の道」としても重要道でした。

ところが 埋立で状況が激変します。
明治に入り海岸が次々と埋め立てられます。
明治横浜の最初の大変化は
海岸線に鉄道が通り一般道も平行して整備されたことです。

(よこはまみち)
現在の浅間下交差点から、関内駅前吉田橋までが
「よこはまみち」です。
一時期 横浜開港史から忘れ去られていた道です。
「横浜道」の大半が横浜市西区を通っていることもあり
西区が「横浜道」の道標を埋込み整備しましたが?
今ひとつ 地味な存在になっています。

横浜道の名残は殆ど残っていません。
野毛の切り通し周辺の「石積み」
戸部近くの「岩亀稲荷」
浅間神社付近の細道 位でしょうか。
新田間川
帷子川
石崎川
大岡川
四つの川(橋)を渡り
野毛の切り通しを抜けると目の前に
「開港場」が目の前に拡がります。
東海道筋から開港場を目指した人々は野毛から眺める
洋館が並び 沖には船が多く停泊している
新しい街に ワクワクしたことでしょう。

この『道』無くして 開港場は成立しませんでした。
改めて「横浜道」に光を!!!!

野毛村切通シヨリ横濱入口吉田野毛本町〜


明日は 現在の「横浜道」を歩きながら
開港の名残と 現在の散策スポットを紹介します。

No.450 【横浜かわとみちの物語】プロローグ

人は道でつながり
道は人をいざなう
彼方と此処をつなぐ「みち」には
道、路、径、途 と幾つか表現がありそれぞれに味わいがあります。

横浜の「みち」を歩いてみました。
「みち」の無い街はありません。
暮らしにつながる無数の「みち」の中でも
名称がついている道も多くあります。
ざくっと 横浜の“歴史みち”を図式化してみました。

江戸時代に整備された東海道を軸に
多くの道が枝葉のように分かれています。
上記図の他にも「馬車道」「水道道」「鎌倉街道」「根岸疎開道路」「ガス山通」「海軍道路」「〜せせらぎ緑道」「三十六米道路」「浜銀通」「音楽通」…
数多くの愛称のある道が点在しています。


(歴史道を簡単に紹介しましょう)
■現在国道246号線となっている
矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)は、
古代の「足柄道」を江戸時代に東海道の脇街道(バイパス?)として整備した街道です。
別称 大山街道です。(複数ありますので注意)
江戸時代に始まった“観光”=講ルートでもありました。
残念ながら古道の面影は殆どありません。

■中原街道(なかはらかいどう)は
江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)から平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿)をつなぐ脇街道です。
中原の名は、終着点の神奈川県平塚市御殿の地名に残る徳川将軍家別荘「中原御殿」からきています。

■東海道(とうかいどう)
江戸時代の主要陸上交通路として整備された五街道の一つです。
日光街道・奥州街道 ・中山道・甲州街道 
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は
浮世絵や和歌・俳句の題材に用いられ“観光街道”でもありました。
産業街道としては“中山道”が主要道として活用されました。

■八王子道(はちおうじどう)
神奈川宿から延びる「絹の道」の一つです。
現在の国道16号線が最も重なる道筋です。

■神奈川道(かながわみち)
長津田から恩田川沿いを通り、
東海道神奈川宿に向かう道を「神奈川道」と呼びました。
古くは“鎌倉街道”の一つとして、開港後は“絹の道”として栄えました。
※神奈川道も一つではなく幾つか「神奈川道」があったようです。
 泉区にも大和市の上和田から“鎌倉上の道”に合流する年貢を運んだ道を
 「神奈川道」と呼びました。

■金沢道(かなざわみち)
程ヶ谷宿(現 保土ケ谷)から金沢の六浦陣屋まで上大岡、能見堂跡、金沢文庫と続く道です。
平安時代から使われた「道」で、鎌倉時代に整備されました。

■相州道(そうしゅうみち)
程ヶ谷宿(現 保土ケ谷)から、桜ヶ丘の尾根筋を通り
二俣川を経て厚木の方へ通じる道です。
※相州道は神奈川宿から

■稲毛道(いなげみち)
神奈川宿から鶴見川の大綱橋で渡るまで、東急東横線と並走し溝の口で矢倉沢往還につながります。
歴史街道歩きルートとしては、横浜市内で最も“魅惑的”な道の一つです。

■横浜道(よこはまみち)
幕末横浜開港にともない、
東海道と横浜港を結ぶために現在の横浜市西区浅間下から中区吉田町間に造られた街道です。開港前はかなり不便なエリアだった「横浜村」と「東海道芝生村」を三ヶ月の突貫工事で開通させたかなり強引な“道”です。
開港前日にやっと開通したという逸話が残っています。
現在は全く当時を偲ぶ面影はありませんが、明治期に築かれた石積みの壁が残っています。
かなりドラマチックな「道」であったと想像できます。
次回以降、横浜の「みち」
そして横浜の「かわ」について
小さな物語を紹介していきます。

【バス旅】横浜18区路線バスの旅(日曜版)

横浜18区路線バスの旅第二弾!【北回り編】<追記版>
「路線バスを使い横浜18区を走り抜ける」日曜版(休日ダイヤ)
さらに短縮コースも探しました。

18区路線バス踏破日曜版
緑ラインが今回の修正ルート

(前回)No.449 横浜18区路線バスの旅
前回は平日実験的にチャレンジしました。

今回は、さらに距離と時間を短縮しました。
また「休日ダイヤ」でチャレンジしてみました。

このチャレンジは
一般的な バス遊びとしてはハードすぎますが、
バスを気軽に使って市内ツアーをする際の課題が明確になったツアーでした。
(課題点)
バスは現状“地元の人が良く判っていること”を前提にしています。
同名のバス停が離れて設置されていることもあり
<バス停探し>に苦労しました。
全く初めて【それぞれの】地域路線バスを利用する人にとって
バスは まだまだハードルが高いかも知れません。

■料金設定
[区間均一]と[距離別]
市内の多くが210円均一(前乗り前払い中降り)
■乗車方法
[前乗り前払い]と[中乗り前払い]
●バス停が判りにくい場所が かなりありました。
特に<交差点>でのバス停は 位置が探しにくい。
→これに関しては バス亭設置の限界もありますが
乗りにくい、戸惑いました。
同じ名前のバス停が路線毎に別な場所に設置されているケースがまだ残っています。

●それぞれの駅前のバスロータリーにあるバス乗り場案内板のデザイン(フォーム)
キャッチサインに工夫が欲しい
→案内板に【バスインフォ】の統一サインかなにかできませんかね!

●時々 車内(バス停案内)放送にポカがあった!!
実際運行と案内放送がズレたケースが数回、
窓外を確認していないと降り損ねる可能性がありました。

事前にスマホ等で時刻表をダウンロードしておくと便利ですが、
市営バスは 停留所にバス時刻表をダウンロードできるQRコードが付いています。これで、休憩のタイミング等を図れたので行動がぐっと気楽になりました。

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横浜18区路線バスの旅(日曜版)記録

以下のデータは2015年(平成27年)9月30日時点です。

【北回り】
■①横浜駅西口6:56発38系統 鶴見駅西口行き
通過区[西区][神奈川区][鶴見区]
内路(うつろ)7:22着
■②内路(うつろ)7:36発41系統 川向町折返場行き
通過区[港北区][都筑区]
東方町8:02着
■③東方町8:18発41系統 中山駅北口行き
通過区[緑区]
中山駅北口8:41着(トイレ)
■④中山駅北口8:53発90系統 青葉台駅行き
通過区[青葉区]
青葉台営業所前9:02着
■⑤青葉台営業所前9:10発65系統 若葉台中央行き
通過区[旭区]
若葉台近隣公園前9:25着
■⑥若葉台近隣公園前9:32発相鉄バス三ツ境駅
通過区[瀬谷区]
三ツ境駅北口9:50着
■⑦三ツ境駅10:00発戸17系統 戸塚駅東口行き
通過区[泉区][戸塚区]
戸塚駅東口10:45頃着
■⑧戸塚駅東口11:07発江ノ電バス 見晴橋行き
通過区[栄区]
見晴橋11:25着
(徒歩400m)
■⑨小菅ケ谷橋11:31発神奈中138系統港南台駅前行き
通過区[港南区]
横浜女子短期大学前11:45着
(昼食)

■⑩横浜女子短期大学前12:19発45系統洋光台駅前行き
通過区 [磯子区]
南公園前 12:28着
■⑪南公園前 12:44発107系統さわの里小学校行き
通過区[磯子区]
随縁寺前12:52着
(徒歩200m)
■⑫京急富岡住宅西口13:20発京急富岡駅行き
通過区[金沢区]
京急富岡駅13:33着
(徒歩)駅またぎ
■⑬富岡13:44発京急4系統磯子行き
通過区[金沢区][磯子区]
磯子車庫前13:58着
■⑭磯子車庫前14:05発市営113系統桜木町駅前行き
通過区[磯子区]
滝頭14:18着
■⑮滝頭14:38発市営68系統横浜駅西口行き
通過区[中区][南区]
浅間下15:08着
■⑯浅間下15:14発市営87系統横浜駅西口行き
通過区[保土ケ谷区]
横浜駅西口15:41着
全行程 1,950円(市営一日乗車券使用)
    16路線 9時間 昼食時間約35分
ポイント:保土ケ谷区をどのタイミングで通過するか?
三沢上町交差点は[保土ケ谷区]
今回、日曜ダイヤの関係で最終ルートに組み込みました。

その後大きくダイヤ改正が行われていますので、再挑戦してみます。
さらには【南回り】ルートにも。南回りはザクッと時刻表を見た感じ、かなり苦戦しそうです。ではまた。

No.449 横浜18区路線バスの旅

【チャレンジ18区】
路線バスを使い 横浜18区を走り抜ける

横浜全区バス路線踏破マップ
横浜全区バス路線踏破マップ
踏破マップ

【ルール】
①移動には必ず路線バスを使うこと。
②一筆書きであること。(同じ路線は使用しない)
③300m程度の徒歩移動は可(駅の反対側への移動等)
④最短を目指すこと。

(スタート)
桜木町駅[中区]8系統 6:33発
横浜駅改札口前[西区]

BBP6030004

横浜駅西口 59系統 6:50発
[神奈川区][鶴見区※注①][港北区]
※注①
 一瞬鶴見区を通過するルートを選びました。
 この一瞬通過ルートはこのゲームのポイントに
 なりますが、下調べ不足でした。

この59系統は、綱島街道尾根ルート系です。
浦島から菊名まで分水嶺を走ります。

BB-E7-B6-B1-E5-B3-B6-E8-A1-97-E9-81-93

港北区総合庁舎前 7:25着 7:26発

BBP6030012

[都筑区]
途中 工業地帯「新羽」エリアを通るルートなので
8時出社系の企業が多く、めちゃ混みでした。
外国人も多かったです。

BBP6030027

東方町 7:52着
実はこの後に7:31発
中山駅北口行がありましたが
時刻表確認時間が無かったので乗り継ぎに
[緑区]
中山駅北口  7:57着 トイレ

BBP6030042
中山駅

中山駅北口 90系統 8:08発
☆注意 横浜市営バス「一日乗車券」は横浜市営のみ使えます。
 90系統の場合、東急と共同運行ですので東急バスでは使えません。
[青葉]
青葉台営業所前 8:17着 若葉台方面はとにかくバス運行本数多数

BBP6030047
BBP6030048
BBP6030051

[旭区]
若葉台中央 8:40頃着 23系統 65系統 55系統
  ※作戦タイム

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若葉台中央 神奈中116系統 8:57発
三ツ境駅北口 9:25着

BBP6030077
BBP6030090
BBP6030096


[瀬谷区]
 トイレ探しに時間を食う!
 しかたないので軽食を食う!!
三ツ境駅 戸17系統 10:15発
[戸塚区][泉区]
戸塚駅東口 10:55頃着 11:08発

BBP6030136
BBP6030137

江ノ電バス 大船行 11:25頃
 乗車方法が異なります
[栄区]
笠間十字路 11:30頃 神奈中バス15系統

BBP6030143

本郷車庫前 11:45頃着
 昼食と周辺散策

BBP6030153
BBP6030162

本郷車庫前 12:36発 12:40頃着
長倉町にて
 以前から気になっていた
 かながわの橋百選の一つ
 横浜最古の橋「昇龍橋」へ!
 散策プロムナードに整備されていた!?ようですが
 かなり 荒れています。

BBP6030187
BBP6030189
展望台は崩壊
BBP6030195
BBP6030196
BBP6030207

 「昇龍橋」美しい!期待を裏切ってません。
 良い形の石橋ですね。

BBP6030224
BBP6030230
BBP6030231
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BBP6030237


 「昇龍橋」はバス停一つ手前の「八軒谷戸」にあります。
 ただ「八軒谷戸」からですと いたち川に降りるのが難しいので
 「長倉町」からワイルドに川辺を歩いていくのが
 発見の感動が一入!!!!
 長倉町の近くに昔良く行った「上郷森の家」があるので
 立ち寄りたかった!!が
 本日は スルーしました。
[金沢区]
金沢八景駅前に 13:30頃着

BBP6030247

 金沢八景でピンポイントで行っておきたいところ?

 瀬戸橋と、「明治憲法起草の地」あたり再確認に決定

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BBP6030278

No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
姫小島水門

BBP6030264

金沢八景をぶらり散策して
「州崎」から京急バス4系統に乗ります。
ここからは
 18区を踏破するための小技を使います。
(無理矢理バス路線)
[磯子区]
磯子車庫前下車
 ここから「港南区」を通過するには
 「打越」か「上大岡」へ向かうしかありません。
どちらも本数がほとんどありません。
 今後の課題です。
 1時間に1本の上大岡着
[港南区]
(小休止)
上大岡駅から弘明寺まで神奈中 港61系統

BBP6030338
弘明寺でデュークによりあんぱんを七種類購入

[南区]
 港61系統は横浜駅東口行なのでこれで一気に帰りたい!
どうしても「保土ケ谷区」を経由するには、保土ケ谷駅東口経由がベストなので
弘明寺から横浜市営9系統で
[保土ケ谷区]
 「保土ケ谷駅東口」

BBP6030342
BBP6030344
ふらんすやまの保土ケ谷支店もあります

ここで106系統に乗換えて
 「桜木町駅」にて終了です。

BBDSC_0057

最後はかなり乱暴ルートになってしまいました。
逆コースだとどうなるか?いずれチャレンジします。
土日ですとダイヤが変わりますからまた違った組み立てになるでしょう。

(振返りと課題)
要領を心得ると 結構楽しいバス巡りです。
市営の「一日乗車券」600円はフルに使いました。
これでかなりコストダウンに繋がりました。
神奈中は無理としても相鉄バスの「一日乗車券」は作って欲しい!!!
「東急バス1日乗車券」は500円で販売しています。
今回は使っていませんが、使い方によっては
 かなりメリットがあります。

☆今回の18区踏破のポイントは
 金沢区と保土ケ谷区をどう走るか?でした。
 もう少し工夫路線があると思います。

BBP6030106
BBP6030112


(精算)
横浜市営「一日乗車券」600円
神奈中バス 他1400円
合計 2,000円
15回。11路線 約11時間の旅でした。

続編もあります。
【バス旅】横浜18区路線バスの旅(日曜版)

【バス旅】横浜18区路線バスの旅(日曜版)

No.442−2 「路男」君の愉しみ(2)

最近「ローカルバスの旅」系のテレビ番組が多いようです。
実際見ていないので構成までコメントできませんが、
超人気番組ではなさそうですね。
にも関わらず なんで似たような番組が…
直ぐに疑う私の悪い癖です。
国交省のキャンペーンですかね?

と前フリをしたのは
私は昔から 路線バス大好きの「バス男」君系でもあります。
鉄道趣味系「乗り鉄」に相当します。
通勤以外でぶらっとバスを楽しむ“輩”はかなり少数派です。
理由の一つに
バスの利用が結構面倒だということ。
まず 道路事情に依存しますから 運行時間が読めないという不確実性を愉しめるかどうか?
また 運転手(全国殆どワンマン化)から
冷たい視線を受ける場合がある!
日常乗り馴れた乗客しか相手にされていないような感じが多々あるのです。
※近年行き先を尋ねることは激減しましたが、乗り方に戸惑ったときの面倒くさそうな運転手の態度にぶち切れそうになるときが マダあります。
かなり改善されましたが。

(バス停)
全国バス停探しをしている訳ではありませんが、鉄道に比べてバス停は個性的(バラバラ)です。掲示している情報のデザインも千差万別です。

横浜市内でも、電子掲示から従来のプレート表記まで何種類かあります。
時刻表やルート案内も共通表示のバス停と、バス会社独自のものが混在しています。
 バス停の時刻表表記 字が小さい!年寄りにはかなり負担。
 バス停の表記で<次の停留所>表記が小さい場合が多い。
 同じ場所で、会社毎にバス停があり微妙に位置が異なる。(激減してはいますが)
 
(バスターミナルの不便さ)
全く初めて訪れるバスターミナルの判りにくさはバス利用の“宿命”です。
横浜駅は西口も東口も予め乗り場を確認してから移動しないと大変です。
横浜駅西口は バスターミナルが二カ所に別れています。
横浜駅東口は 乗り場案内が判りにくい。ので昼間は係員がいます。
判りにくさNo.1は「桜木町駅」バス乗り場だと思います。

飛び地のような探しにくいバス停

(乗車方法・料金)※大人の場合
横浜市内は「前乗り前払い後降り」しかも210円均一料金です。
川崎市内は、200円均一「前乗り前払い後降り」
神戸市内は、200円均一「前乗り前払い後降り」
京都市内は220円でバス・バス乗継というのがあります。大人350円

全国的には「後乗り後払い前降り」が圧倒的に多いのですが、
均一料金や先払いに慣れているとつい間違って車内でトラブルになることもあります。

(整理券)
最近「乗車カード」「ICカード」を利用できる路線が都市部では増えましたが、まだまだ整理券方式の路線が主流のようです。
この整理券、最近はバーコード読み取り式になってきました。
(その前にIC化したほうが合理的と思うのですが)

(他社乗入れ)
横浜市民としては、この課題が一番です。
一つの路線に複数の営業会社が走っていることが多く、しかも微妙にルートが異なるため、思わず乗り間違いを起こすことがあります。何時も乗り馴れている(常連客)には普通の出来事のようですが、初めて利用する者にとっては戸惑うことがあります。しかも、バスルート案内は運行会社毎なので、立体的な複数社を使った乗換のための下調べが難しいのです。「駅探」ならぬ「バス探」はできないのでしょうか?
http://www.kanagawabus.or.jp
各社のバス時刻をまとめて調べるには最適ですが、乗り継ぎ調査はできません。
一昨年、バス路線マップが発行されましたが、売れ行きが悪く新版は“おそらく”出ないでしょう。私のような「バス男」君系には必需品なんですが。


横浜市内を運行するバス会社は12社あります。
●横浜市営バス
●神奈中バス
●東急バス
●江ノ電バス
●相鉄バス
●京浜急行バス
●小田急バス
●川崎鶴見臨港バス
●川崎市営バス
 溝25系統 溝口駅前〜高田
●フジエクスプレスバス
 桜木町〜本牧循環
●大新東
 金01・02系統 金沢文庫駅〜レイディアントシティ
●横浜交通開発
 61 系統・117系統 他 横浜市営バスルートの管理(運行)受託路線

同じ名のバス停があります。最初間違いか?と思いましたが実際にあります。
二カ所に「滝頭」

基本、最初にも触れましたが
ローカル路線バスを“ぶらり”乗ることがレアケースなのです。
横浜市内でも「バス乗継」割引が「ICカード」等で可能になると嬉しいです。
同日に二回違う路線を乗り継ぐと420円が350円になるとか。
一日乗車券は現在も発行されていますが、市営バスだけです。
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kyoutuu/ichinichi.html#bus1
エリア内フリーチケットは
☆横浜1DAYきっぷ(京急電鉄)
京急線フリー区間、市営地下鉄・市営バスフリー区間、みなとみらい線フリー区間を組み合わせた一日乗車券
http://www.keikyu-ensen.com/otoku/otoku_yokohama.jsp

☆みなとぶらりチケット
http://www.yokohama-bus.jp/burari/index.html

バスネタブログ
No.339-2 12月4日(火)越すに越されぬ国境(くにざかい)

No.168 6月16日(土) 6月のカナチュウ

No.198 7月16日(月) 最後で最後の

No.92 4月1日 横浜市交通局ブルーライン大人200円

No.367 1月1日(火)この駅「日ノ出町駅」

No.443 岸辺のアル闘い

今日は、川崎が舞台です。
勿論横浜に深く関係のある話しです。
「有吉堤」と「アミガサ事件」を知っている横浜市民は
少ないのではないでしょうか?
隣接市川崎から横浜まで駆け抜けたアミガサ事件の人たちの足跡をトレースしてみます。今日は多摩川編。

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ガス橋

(川辺に生きる)
川は大地の恵みを下流へ
そして海に運ぶ役割を担っています。
人類は川辺に集落を作り暮らしを始めました。
一方で、川は人々に自然の力を見せつけてきました。
川辺の歴史は、水害との闘いの歴史でもあります。
江戸東京の城南、神奈川の北部を流れる多摩川の歴史から、大正初期に起った事件を紹介します。

武蔵国橘樹郡地図
武蔵国橘樹郡

(右岸と左岸)
多摩川は東京都と神奈川県の県境を流れる一級河川です。現在は穏やかな流れですが、昭和の時代まで水害の絶えない暴れ川でもありました。
※山田太一「岸辺のアルバム」
http://ja.wikipedia.org/wiki/岸辺のアルバム

江戸は川の街です。利根川と多摩川によって作られた平野に育った街です。
江戸時代に入り、多摩川の豊かな水源を利用した“灌漑用水路”の整備が始まり水稲生産農家が増加し江戸の近郊農業が飛躍的な発展を遂げます。
多摩川右岸(橘樹郡=神奈川)には「二ヶ領用水」、左岸(荏原郡=東京)には「六郷用水」が整備され広大な農地が誕生します。

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二ヶ領用水

豊かな水田は、川の氾濫と隣り合わせの危険も抱えていました。
何年かに一度起る大水害が川筋を変え、田畑を土砂で塗りつぶし再び田畑を整備するという繰り返しでした。
※余談ですが 私が生まれ育った世田谷区玉堤は「六郷用水」が流れていました。
 小学校の頃に 多摩川の水量が激減した時期があり 歩いて多摩川を渡った記憶があります。
江戸城に近い多摩川左岸は、江戸時代重点的に土手の整備が行われましたが、右岸の川崎側は整備が遅れました。
明治に入り、右岸と左岸の差は尚一層明確になっていきます。
川崎側の橘樹郡御幸村(川崎市幸区の全域 中原区一部)

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現在の地図でも蛇行が微妙ですね。

(繰返す水害)
現在の川崎市幸区一帯は水害の歴史と共にありました。
明治維新以降
 何度も請願書を県庁は勿論
 政府・貴衆両院に提出し
 同時に新堤築造を出願しますが
 行政府は動きません。
そこに歴史に残る大災害が起こります。
1907年(明治40年)豪雨による大洪水が全国的に発生
 多摩川も氾濫
1910年(明治43年)豪雨による大洪水が全国的に発生
 多摩川も氾濫
 この年の「臨時治水調査会」で
 多摩川は第2期河川に指定されます。
 これは事実上棚上げを意味しました。
1913年(大正2年)豪雨による大洪水が多摩川で発生
 御幸村他“右岸”流域の人々は治水の請願書を出しますが
 進展しません。
1914年(大正3年)ようやく神奈川県は“左岸”の東京都と協議に入ります。
 何故?東京都と協議が必要かというと 
 “左岸”地域は、“右岸”の堤防工事が進むと 左岸に被害が及ぶ“危険”があるというものでした。両方まとめて工事するには 予算が無い!
 では県費で築堤申請を国に出すと、左岸側の強い抵抗に合うという
 繰り返しでした。
 最終的に許可を出す「内務省」(戦前は公共事業も管轄していました)も
 申請を却下!します。

同年1914年(大正3年)の8月9月に、再び大洪水が起ります。
 
明治に入っても
 一般市民のデモや抗議のための集団行動は禁止されていました。

(決起)
地域住民はついに実力行使を決定します。
御幸村など4村の住民数百人の一団が早期築堤を求め県庁に陳情行動に出ます。
9月15日(火)
 小倉・鹿島田・町田・江ヶ崎・北加瀬など関係地域の代表が集まります。
 関係村民が大挙して神奈川県庁に迫る以外方法がないという結論に達します。
 ●9月16日(水)午前2時に出発する事
 ●服装は羽織を使わず、
  草鞋を履き目印としてアミガサを冠る事
 ●県庁への進路は各字(あざ)の随意とすれども
  成るべく警官の目を避けて目的地に達するようにする事
を決定し 散会します。

9月16日(水)未明
各村の陳情部隊は、月明かりを頼りに県庁に向かって出発します。
「九月十六日午前一時八幡社ニ集合スル」

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※現在 川崎市平間にある「八幡神社」境内にプレートがあります。

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住民はアミガサをそれぞれに着用し結集します。

「二時十分鹿島田を経て小倉に至り,更に同志九十人と会す.末吉橋に至るや濁流滔々と渦を巻き,川口は溢れて渡る事を得ない.止むを得ず鶴見橋に迂回せんとしたが,此処は警官防備線の中心地なるを以て果して成功するかは疑はしい.種々協議の末,一同生命を賭しても此の末吉橋を渡らん事に決着した.
 其処で一同衣服を頭に結び付けて胸に達する濁流を押切り,親子兄弟互に助け合ひ相励しつゝ進み,幾度か濁流に押流されんとしては踏みしめ踏みしめ,漸くにして彼岸に達する事を得た.半月雲間に現れ,必死の一行を照らすに其の凄惨なる状態,叫び合ひ嶋咽する声と共に此世のものとも思はれなかつた.
 渡るに要せし時間約一時間半,先着順に仕度を整へて飯田道横町を過るに前後の間隔次第に拡がり,終に互に見失つて了つた.此時引返して来た鹿島田部隊五十余名は飯田橋横丁に於て同志二十余名が警戒の巡査に捕はれたる事を報じたのである.此処に於て又も進路を協議して居るうちに三百名の同勢が程ケ谷方面に向ひつゝある事を知らす者があり,之に勢を得て進み漸く迫付く事を得た.
 今や同勢五百有余,群がる警官も物かはと,或は神奈川台下,或は平治の鉄道踏切と到る所警官の垣を突破して潮の如く県庁に殺到した.」

すごい表現ですね。
これは川崎市御幸尋常高等小学校発行の資料の一文です。
このルートを歩いてきました。

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二日に分けています
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古市場商店街で発酵食品の専門店「片山本店」発見
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鹿島田は新川崎と相乗効果で大変貌
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アミガサチームは恐らくこの「杉山神社」に参ったことでしょう
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末吉橋から鶴見川を

飯田道横町を過るに前後の間隔次第に拡がり,終に互に見失つて了つた.此時引返して来た鹿島田部隊五十余名は飯田橋横丁に於て同志二十余名が警戒の巡査に捕はれたる事を報じた」

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飯田町は神奈川区の滝野川流域の町です。飯田橋は未確認
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この事態に終止符を打った人物が
アミガサ事件後に就任した県知事(後の横浜市長)
有吉 忠一でした。
彼は 就任二ヶ月で“築堤”を決断します。
内務省の反対を押し切った築堤は現在も「有吉堤」として残っています。

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?
(余談)

アミガサ事件に決起した「八幡神社」前を通る県道111号線は
多摩川を渡る際「ガス橋」で東京と結ばれます。

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1936年(昭和11年)東京ガスが鶴見製造所で製造したガスを東京に供給するために作られました。
このガス橋近くに多摩川を挟んで互いに水害から逃れるために、反目し合った悲しい歴史があるのも皮肉な巡り合わせといえます。
現在のガス橋は、1960年(昭和35年)に車両用の橋梁として新設されたものです。かながわの橋100選にも選ばれています。

 

【番外編】横浜サウンド特集リンク集

横浜市内のオリジナルサウンドショップを集めてみました。
★ハマ楽器
http://www.hama-gakki.co.jp
〒231-0045
神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2丁目8-7
※関連
No.109 4月18日 品川の名人濱に死す

ハマ楽器本社は 元「新富亭」という横浜でも大型劇場だったそうです。


☆株式会社 横浜日本屋楽器
http://www.yngakki.co.jp/
1958年(昭和33年)創業
横浜市神奈川区反町1-6-7
Tel:045-322-6388
オンラインショップ
http://onlinestore.yngakki.co.jp

★ピアノ修理工房 有限会社クラビアハウス
http://www.klavierhaus.co.jp
横浜市保土ヶ谷区上菅田町417
045-382-8322 

★セントラル楽器
東白楽にある管楽器専門店で、日本国中からお客様が来られるそうです。
 〒221-0822 
 横浜市神奈川区西神奈川1-15-2 
 TEL 045-324-3111(代) 
 FAX 045-324-4025 
http://central-gakki.jp

★ノナカ
http://www.nonaka.com
No.272 9月28日(金)横浜の中の世界のノナカ

☆横浜ジャム音楽学院
1978年(昭和53年)に開設され2001年(平成13年)現在の桜木町に移転
〒231-0063
横浜市中区花咲町2-62-8 ジャムビル
http://www.yokohama-jam.com


☆横浜音楽院
http://www.yokohama-music.co.jp
〒220-0004
横浜市西区北幸1-2-13 横浜西共同ビル
 株式会社 横浜アオバ楽器
インターネット上の仮想資料館が面白い!
※ビクトロンの歴史
※オルガン・コンクールの歴史

☆GRINNING DOG® studio (グリニング・ドッグ工房)
Custom Pickupの製作&PickupのRewind, Rebuildなど
Pickupに関するあらゆる作業のプロショップ
http://greens.st.wakwak.ne.jp/904354/menu2.html
横浜市南区白妙町1丁目1番地
TEL/FAX: 045-251-6433(9:30〜19:00)

☆elmore
ギター&ベースに関する
製作・修理・改造・点検・コンポーネント・販売
http://elmore.boo.jp/profile.html
〒231-0846
横浜市中区大和町2丁目32番地
TEL / FAX 045-625-6517

No.422 【舞台の横浜】妙蓮寺と野毛

1968年(昭和43年)横浜を舞台にした人気テレビドラマ「三人家族」が放映されました。
高視聴率となったこのドラマは、いろいろな意味で横浜を知るには興味深い作品です。

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ドラマ3人家族

三人家族のシーンとテーマからどうぞ
http://www.youtube.com/watch?v=u6EZ4o107ns
http://www.youtube.com/watch?v=LVdZQmllvJ8
(やっぱり著作権でクレームがつきましたか…)ビジネス的に30秒とかイントロだけでも許諾していただけると 逆にDVDの購入に結びつくとおもいますが。

https://www.youtube.com/watch?v=mNHP-qstGYI

https://www.youtube.com/watch?v=tH2XWh6XlhM

まず上映された時代
団塊世代の先輩世代、高度成長の入口の時代です。

1968年(昭和43年)横浜市の人口が200万人を突破した都市です。
首都圏では急速にベッドタウン化が進みつつありました。
さらに、
「ブルーライトヨコハマ」と「伊勢佐木町ブルース」のダブルヒット

そしてこのドラマをはじめ
横浜が全国に音楽と映像でPRされ続けた年でもあります。

(正確には1968年1月に「伊勢佐木町ブルース」12月25日に「ブルーライトヨコハマ」がリリースされました)
「ブルーライトヨコハマ」
「伊勢佐木町ブルース」

テレビドラマ「三人家族」
山田太一が「これが当たらなかったら職がえだ」と背水の陣で臨んだ作品だったそうです。

おそらく山田太一自身、十分に調査・ロケハンをしたに違いありません。
ここに登場する家族、横浜の風景の多くは山田太一が指定したものでしょう。
「早春スケッチブック」でも脚本には詳細な情景指定をしています。

No.421 ふぞろいの隣人たち?
簡単な概要を紹介しましょう。

TBS系列日産火曜劇場 木下恵介アワー というシリーズ作品の
「おやじ太鼓」の後に放映されました。
放送期間は
1968年(昭和43年)10月15日〜1969年(昭和44年)4月15日

まさに「ブルーライトヨコハマ」リリースとシンクロしています。
放送時間は21:00〜21:30で全26回でした。
制作は松竹をバックに「木下恵介プロダクション」
(妙蓮寺と野毛)
横浜を舞台に独特な対比構造を構成しています。
急激に変化する戦後の日本、郊外化する横浜

そこに象徴的な二つの地域

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旧東横線とその後の新線

妙蓮寺の一軒家に暮らす「柴田家」男三人家族
野毛の新築マンションに暮らす「稲葉家」女三人家族
現在のスピードでは<じれったい恋愛>をベースにした家族物語です。
柴田家長男 雄一(竹脇無我)
東急東横線「妙蓮寺駅」から横浜駅経由で新橋駅で乗り換え<西新橋(田村町)>にある商社に通うビジネスマンの設定(三井物産か?)。
社内ではテレックス担当の通信部員ですが花形の営業職を希望しています。

稲葉家長女 敬子(栗原小巻)
国鉄「桜木町駅」から「新橋駅」乗り換えで<霞が関ビルディング>の旅行代理店(たぶん日本交通公社)に通うOLの設定。
当時はビジネスガールと言ったかもしれません(渡航時に問題となり変更されましたが)。

霞が関ビルディングは放映された1968年(昭和43年)の4月12日にオープンしたばかりの当時はじめての高層ビルとしてこれまた話題になりました。

<商社と旅行代理店><一戸建てと新築マンション>
<家庭用電話がまだないがテレビはある家庭>
<全てが洋風(死語?)スタイルの家庭>
あえてステレオタイプな対称軸の設定で構成しています。

内容に関して詳細な情報は下記のサイトに掲載されています。
http://syowa40stvdrama.com/kinoshitatv_ipn/page043.html
※一部閉鎖されていますが この情報で十分に「三人家族」の概要を知ることができます
ここでは地元ならではの切口で補足しておきます。
妙蓮寺の一軒家に暮らす「柴田家」男三人家族は
1968年は戦後23年の時間が流れています。
長男の年齢設定が26歳なので
恐らく、出征前に結婚し 戦中に長男が生まれたのでしょう。
※妙蓮寺は疎開先だったかもしれません。弟がお祭りに参加するなど、
地元(地域)とのコミュニティがしっかり形成されています。
*余談 妙蓮寺とは妙仙寺と蓮光寺が合併してできたお寺です。
 1908年(明治41年)に「横浜線」建設のために移転を迫られ蓮光寺と合併します。
 ところが、1926年(大正15年)に今度は東急が転地を申し出るが
 再度移転することを嫌った妙蓮寺側が門前を駅にすること選択します。
 駅前が門前となります。

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一方、
野毛の新築マンションに暮らす「稲葉家」女三人家族は
父親が13年前に(海外へ)蒸発した設定になっています。
女性家族が自立していく姿が背景にあります。
野毛のロケに使われたマンションは現在もあります。(ということは築40年)
マンションの予測はできていますがここでは内緒にしておきます。
<2017年1月位置も再度確認してきました>

桜木町はもう過去ネタになってきましたが、東急東横線の終着駅でしたね。
二人のデートにも程よい距離でした。
このドラマに映された横浜
昭和30年代から昭和40年代前半の良き時代の一断片だったようです。
港の“やくざ映画”イメージからも脱却しつつある横浜でもありました。
ドラマには時折ピンキーとキラーズの流行曲が流れたり、崎陽軒のシウマイが登場したりします。

横浜はこの蜜のような時代から 急激な人口爆発都市となっていきます。
横浜の商店街もこの時の“賑わい”残照から脱却しなければいけないのですが
No.337 12月2日(日)日本最大級の人口爆発都市 

No.334 11月29日(木)歌の横浜 

No.409 二国五郡物語

横浜の古代中世に昨日No.408で触れた流れで、今日はその後、
七世紀後半から八世紀にかけての横浜をざくっと紹介しましょう。
街歩きにちょこっと役立つ程度です。

現在の横浜市域は、古代国家の時代
二つの国(今の県みたいなもの)
その下の五つの群に分かれていました。
(二つの国)
二つの国は
武藏国(むさしのくに)
相模国(さがみのくに)
この二つの国境は、おおよそ現在の藤沢市と横浜市の市境を流れる境川で分かれていました。

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(五つの群)
武藏国(むさしのくに)の
都筑郡(つづきぐん)
久良郡(くらきぐん)
橘樹郡(たちばなぐん)

相模国(さがみのくに)の
高座郡(たかくらぐん)「太加久良」
鎌倉郡(かまくらぐん)

(郡域の変化)
一気に時代を明治に飛ばします。
明治初期も、江戸時代の地域割を維持しながら郡制を敷きますが
ちょっと古代と異なっています。

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久良郡(くらきぐん)→16世紀ごろから久良岐郡に
橘樹郡(たちばなぐん)→エリアの拡大
古代の郡域は鶴見川を境に分かれていましたが、中世には
星川・仏向・程ヶ谷(保土ヶ谷)他が橘樹郡になっています。
この辺は簡単にしておきます。

(横浜市域は都筑郡・久良郡)
現在の横浜市域に古代の都筑郡・久良郡がほぼ入ってしまいます。
その他の橘樹郡・高座郡・鎌倉郡は、明治以降の市域拡大で
その一部を編入してきました。
古代の分け方で言えば、横浜は異なる地域の混成エリアともいえるでしょう。
余談ですが
横浜で一番新しい区が都筑区と青葉区ですが、「都筑」の名が候補に挙がった時は、新しい住民(居住年数20年未満)が殆どだったこのエリアの住民には“つづき”の名になじみがありませんでした。歴史を記憶する「地名」を残すことは大切だと私は思います。
この都筑、時折「都築」と誤記が起ります。明治時代にも「都筑」ではなく「都築」と表記している文献があるくらいですから 間違いやすい地名といえるかもしれません。
「つづき」「つずき」の違いです。
間違えないようにしたいものです。

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和名類聚抄

(郡の下に郷)
古代
国の下に郡、
郡の下には郷がありました。
都筑郡には
餘部(あまるべ)
店屋(まちや)
驛家(うまや)
立野(たての)
針斫(はざく)※石偏に斤(文字化けの場合)
高幡(たかはた)
幡谷(はたのや)

久良郡には
鮎浦(ふくら)→六浦庄
大井(おおい)
服田(はとだ)
星川(ほしかわ)
郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ)
諸岡(もろおか)
洲名(すな)
良崎(よしはし)
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/news/news21-4.html

現在に残る地名が幾つかあります。
逆に 殆ど無くなってしまいました。
立野(たての)
針斫(はざく)→八朔
星川(ほしかわ)
諸岡(もろおか)

このように
七世紀後半から八世紀にかけて古代国家が領地を明確にしていきながら成立していきます。領地には管理(支配)する役所と寺社が設置されていきます。
武藏国の国府は、多磨郡(現在の府中市)
相摸国の国府は、大住郡(現在の平塚市)→平安時代に現在の大磯に移ります。
 ※国府の湊(津)で国府津(こうづ)の名が残っています。

一方、役所と共に寺社が設置されますが
武藏国(むさしのくに)→氷川神社
相模国(さがみのくに)→寒川神社
以下郡にも役所と寺社が創られていきます。
横浜で郡の役所と共に建立された寺といえば「弘明寺」です。
次回は
この弘明寺の近現代を紹介しましょう。

驛(うまや)の食卓
古代の地名から命名かどうかオーナーには確認してませんが、
美味い横浜ビールは「驛の食卓」です。
http://www.umaya.com