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No.210 7月28日 (土) 小さな巨人

2011年(平成23年)7月28日(木)〜8月2日(火)の6日間国際的な切手の祭典「日本国際切手展PHILANIPPON2011」が横浜で初めて開催されました。

郵便趣味を略して郵趣と言います。日本国内では、かつて鉄道系と双璧の人気カテゴリーでしたが、近年電子化と郵政事業の合理化で郵趣人口は減少しているのが現状です。
しかし
国際的にはいまだ多くのファンを持つ歴史ある趣味の世界です。国際切手展PHILAは、国際郵趣連盟(FIP)の加盟国(87の国及び地域)の切手を海外に普及するため、持ち回りで開催している国際展です。

日本では、1971年、1981年、1991年、2001年と10年おきに東京で開催、今回初めて横浜開催が実現しました。
今回のテーマは「小さな切手が世界をつなぐ」パシフィコ横浜展示場を開場にして6日間行われました。

切手コレクションの展示、世界の切手商マーケット、記念イベント、横浜観光コーナー、臨時郵便局(記念切手の発売、風景印、特別消印)等々。

一般入場者の最大イベントは、54カ国の郵政事業者を「切手パスポート」を持って(入場券に対し1冊)各国の切手を購入しながら特別消印を集めるスタンプラリーです。

一国あたり100円(確か200円もあった)、全て回ると5400円はかかってしまうがつい夢中にさせてしまいます。

今回の目玉はムーミン切手とスタンプ、長い行列ができていました。

開場には特別ポストが設置、指定日の風景印が押印されるサービス。ここで暑中見舞いをまとめて出しました。

(外国郵便といえば)
横浜は幕末から外国商館が各国領事館より一足早く進出し、国際交易を始めた街です。
交易には通信が欠かせません。1860年代すでに電信が実用化されていましたが、安くて確実な郵便による通信は各国が個々に居留地で行っていました。
1871年(明治4年)の3月1日、日本国内に逓信制度が導入されましたが、海外郵便は各国まかせでした。
1875年(明治8年)1月にアメリカの郵便を日本が取り扱うようになり、順次1879年(明治12年)にイギリス郵便局、翌年の1880年(明治13年)にはフランス郵便局が廃止され、外国郵便は完全に日本で取り扱うようになりました。
1875年(明治8年)に外国郵便を日本で初めて開始したところが現在の「横浜港郵便局」です。
ここには「外国郵便創業の局」のプレートが埋め込まれています。

(切手の力)
郵便の持つ趣味のコンテンツ力はいまだ強力なものがありますが現在の日本郵政はまだまだ工夫が足りません。(余地がいっぱいあります)
“お役所仕事?”だった郵便事業にファン重視、地域コンテンツとの連動性に長ける要素を併せればさらに重層的なカテゴリーに成長することは間違いありません。
歴史ある郵趣組織も大切ですが、ぜひ新しい視点で郵趣コンテンツを地域コンテンツと連動させるダイナミックな改革をして欲しいと願う次第です。

郵趣の王様消印コレクション
この本でつい横浜市内の郵便局が気になり始めました
切手は小さなメッセンジャですが、巨人でもあることを実感しました。

No.209 7月27日 (金)浜で起り、浜で終結

横浜が開港の正式調印が安政6年6月2日(1859年)行われ、
外国人居留地が誕生した直後、事件は起りました。
7月27日(1859年8月25日)横浜居留地の波止場近くで“初めて”外国人が日本人に襲撃され、二人が死亡したのです。

このあたり?

開国はしましたが、日本は“安政の大獄”で一種の戒厳令による状態でした。
国内は一発触発、徳川政権は内外部に不満分子を多々抱えていましたが、列強各国も足並みは揃っていません。
まず英仏が江戸に乗り込み外交拠点を求めます。
米国も英仏の動向に注視しながら独自の外交を開始します。

イギリスはアジア外交のベテラン、ラザフォード・オールコックを日本担当にします。
安政6年6月7日(1859年7月6日)に、江戸高輪東禅寺にイギリス総領事館を開き、準備を始めます。
アメリカは既にタウンゼント・ハリスがヘンリー・ヒュースケンとともに
安政3年7月12日(1856年8月21日)に日本へ到着し江戸元麻布善福寺に公使館を開きます。
フランスは、少し遅れて
安政6年8月10日(1859年9月6日)にギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールが初代の在日本フランス領事として赴任し済海寺(港区三田)に領事館を開きます。

一方
ロシアは早くから日本への開国要求を始めていましたが、決定打に欠けていました。
ペリーが開港を突きつけたことにより、ロシア政府はベラルーシ生まれのゴシケーヴィチを
安政5年9月18日(1858年10月24日)シベリア経由で箱館(現函館市)に総領事として着任させます。
他国の領事は横浜・江戸で活動しましたがロシアは函館を中心に外交活動を行います。
このスタンスが後の日露関係に大きく影響していきます。

前置きが長くなりましたが、
安政6年7月27日(1859年8月25日)ロシア海軍の海軍少尉ロマン・モフェトと水兵イワン・ソコロフは1人のコックを連れて食料品を買うために上陸します。
横浜町3丁目青物屋徳三郎方で買物を済ませ、店を出たところを3人は突然襲撃されます。
記録には居留地の繁華街はまだ多くの店が開いていたと書かれていますから夕方だったのでしょう、2人は死亡、まかないコックは重傷を負います。
(武士らしい)犯人は堂々と逃走してしまいます。
これが、開港後(日本史上)初めて外国人に殺傷者がでた重大な外交事件でした。

(これ以降 短めに)
アジア外交のベテラン、オールコックは直ちに幕府に抗議し賠償を求めよ!とロシアに直言します。
ロシアの外交姿勢は決まらず、結局具体的行動に出ません。
結局賠償を求めず、丁重な埋葬と“永久管理”を要求し幕府も了承します。
幕府側もロシア側も事態の大きさに気がつかず、解決を現場任せにします。
この態度が英米仏の外交団に不信感を起こさせると同時に、外国勢力排除勢力「攘夷派」を勢いづけさせます。
ここから、生まれる結果は“攘夷派による「血のテロル」”でした。
 ■安政6年10月11日(1859年11月5日)
  フランス領事館従僕殺害事件
 ■安政7年1月7日(1860年1月29日)
  イギリス公使館日本人通訳殺害事件
 ■安政7年1月8日(1860年1月30日)
  フランス公使館放火事件
 ■安政7年2月5日(1860年2月26日)
  オランダ船長殺害事件
 ■文久元年5月28日(1861年7月5日)
  第一次東禅寺事件

ワーグマン画による第一次東禅寺事件

まだまだ続きます。数々の殺傷事件が起る中、
 文久2年8月21日 (1862年9月14日)
  有名な神奈川「生麦事件」が起ります。
徳川幕府は、各藩の攘夷派を抑えられず、外交関係は最悪になり、
倒幕
大政奉還
そして明治維新を迎えることになります。

(意外な結末)
幕末に起った数々の大事件の一つに「水戸天狗党の乱」があります。
元治元年(1864年)に水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)が挙兵し一種の内乱になります。62人の挙兵から始まった尊皇攘夷派は数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がります。
※小説にもなり茨城では研究会が幾つも続いています。
しかし、水戸藩も混乱しリーダーシップを欠く天狗党は挙兵の名目を半ば見失い、決起は水戸藩の内部抗争の色彩を濃くします。
幕府は追討令を出し天狗党は逃走集団に変貌します。
逃走ルートは
那珂港→大宮→大沢→大子(元治元年11月1日)→川原→越堀→高久→矢板→小林→鹿沼→大柿→葛生→梁田→太田→本庄→吉井→下仁田→本宿→平賀→望月→和田→下諏訪→松島→上穂→片桐→駒場→清内路→馬篭→大井→御嵩→鵜沼→天王→損斐→日当→長嶺→大川原→秩父→中島→法慶寺→薮田-今庄→新保(12月11日)→敦賀(降伏)
という長距離、時間は一ヶ月に及びます。
最終的には天狗党員828名は加賀藩に投降して武装解除されます。
その中に、水戸出身の小林幸八という人物がいました。
ことの天狗党の乱に関する顛末を取り調べ中、
小林幸八は過去の事件にまで言及します。
ロシアの異人を居留地の波止場近くで襲撃したことを自供します。
幕府は彼を横浜に送致し死刑、最初の「異人斬り」は意外な結末を迎えることになります。
亡くなったロシア軍人二人は山手外国人墓地(ロシア22区19)に、
犯人の小林幸八は梟首(きょうしゅ)刑になりますが
明治になってから靖国神社に祀られています。


No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

No.19 1月19日で紹介した五島慶太の夢の補遺版です。
1956(昭和31年)7月25日、城南地区開発マスタープランである
 「多摩川西南新都市計画」が決定し発表されました。

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五島慶太「私の履歴書」より

1956年(昭和31年)は東急電鉄にとっても、
五島慶太にとっても重要なターニングポイントとなります。
この年から3年後の1959年(昭和34年)に亡くなった五島慶太にとってこの1956年は、最後の夢実現への命を削った一年だったのかもしれません。
横浜市の都市形成を考える上で、
五島慶太の「田園都市構想」は欠かせない計画で現在も東急Gが継続しているプランです。
1953年に五島が発表した「城西南地区開発趣意書」
http://ja.wikisource.org/wiki/城西南地区開発趣意書
については簡単にこのブログ開始直後に紹介しています。
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢

ご参照ください。

この「城西南地区開発趣意書」は各方面に衝撃を与えました。
民間発の交通インフラと都市計画を一括して推進する方法は昭和初期から(実験的に)推進されてきましたが、五島のプランは規模が違いました。
川崎から横浜東部を
「8つのブロック」に区分し開発していくものでした。
交通インフラの中心は戦前の基本方式だった鉄道から自動車を基幹にした「高速道路計画」(ターンパイク構想)でした。
ところが、建設省と構想が重なる部分がかなり生じ修正を余儀なくされます。
そこで、
8つのブロック計画を4つに集約し、
交通インフラを国道246号線、
鉄道を「田園都市線」に軌道修正したものが
「多摩川西南新都市計画」です。

(4つのブロック)
■第1ブロック
川崎市土橋・馬絹・宮崎・有馬・梶ヶ谷・野川・菅生・上作延・長尾・末長・新作・千年
第2ブロック
横浜市港北区元石川町・荏田町など
第3ブロック
横浜市港北区東方町・池辺町・佐江戸町など
第4ブロック
横浜市港北区恩田町・長津田町など

その後、1965年(昭和40年)に東京都が「多摩ニュータウン」計画を決定し「多摩」名は有名になりますが
1966年(昭和41年)完成の田園都市線「たまプラーザ」駅名には、五島の夢がこめられた(執念?)の駅名といえるでしょう。(息子の五島昇命名)

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(ここから大胆な私見となります)
ところが、東急の田園都市計画は、大きなハードルが立ちはだかります。
1963年(昭和38年)に横浜市長となった飛鳥田一雄(市長時代1963年〜1978年)は、東急の田園都市計画に消極的態度を示します。
この消極策が横浜北部と横浜南部を都市構造として分断する結果を招きます。
磯子出身が影響したかどうかわかりませんが、飛鳥田時代の横浜北部は置き去りにされていたといっても過言ではないでしょう。
都市計画のコンサルに西武の堤義明が入っていたことも関係があるかもしれません。
いわゆる「7つの丘」が地勢的に
横浜を南北に分断する結果となります。
その後、青葉区出身の市長が二代続くことで北部と南部の連結、さらには東西のアクセス改善も進みますが、いまだ多くの課題が山積しています。

高齢化、空室率10%超えの横浜市の街づくり、再生をどうするのか?
五島なら何と言うか?聞いてみたいところです。

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私の履歴書第一巻 最初の登場が「五島慶太」

1956(昭和31年)「多摩川西南新都市計画」が発表された年、日経新聞で新シリーズ「私の履歴書」が始まります。その第一回が東急会長の五島慶太でした。
最後に、
「若い女と馬鹿話をしていると、仕事の話や世間の苦労からまぬかれて頭の中が「空」になってくる。そうすると夜熟睡ができるので、またあすへの活力がでてくるのである。これが私の健康法である。三昧ということが、女でも、碁、将棋、スポーツなんでもよい。三昧になるーーすなわち「空」になるということが必要である。」
(私の履歴書 第一巻第一部)

今日のおすすめブログ
■私個人は「戦後の曲がり角1980年代の日本」をライフワークに資料を集め、読み込んでいますが横浜は(周囲も観ず働いていたので?)空白なんです。
このサイトは 記録としても記憶としても大切な資料です。
制作者に敬意を表します。
http://hama80s.exblog.jp/

No.208 7月26日 (木)ザ・みなとの劇場

1874年(明治7年)7月26日(土)の今日、
住吉町1丁目9番地に完成した最新設備を誇る“港座(湊座)”劇場の杮落し公演が行われました。

港座
煙突のある建物の隣が港座。煙突はガス会社から電気会社に、現在は東電の変電所
現在の港座位置
横浜公園の隣。現在は雑居ビルが建っています。

かつて芝居小屋は街の賑わいのシンボルでした。
人・モノ・情報、そしてお金が集まった横浜界隈は日本有数の賑わい空間でした。

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明治25年赤い場所が大型の施設 縦にベルト上に建っています

その中心地が関内、関外エリアです。
横浜界隈には下田座、羽衣座、喜楽座、蔦座、賑座、相生座他 大小合わせて20以上の劇場がありました。
その多くが伊勢佐木界隈に集中していましたが、これに対しビジネス街のど真ん中に最新の設備を誇る劇場を建てたのが“豪商”高島嘉右衛門です。

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ガス会社、鉄道、学校創設など、日本初と日本一が大好きな高島嘉右衛門が、一世一代の投資をして彼我公園脇に日本で初めて近代技術“ガス灯”を装備した劇場「港座」を建てました。

ガス灯は、街路を照らすだけではなく劇場のような集客空間の夜間ビジネスの最新モデルとなりました。
劇場「港座」は明治33年にその幕を閉じますが、往時を懐かしむ記事がでたように横浜経済のピークを象徴するものでした。

横浜の芝居
横浜の芝居に関する貴重な資料です

「我市の盛時に於て故団十郎は三度来りて我港に妙技を振えり、高島屋血達磨一世一代の大入りは東京に見ずして却って我市港座に之を見たりき、娯楽場の盛衰は実に一市の活力に伴うもの、今日人口往時に幾倍し而も一劇場の見る可き無し」(横浜貿易新報 1916年1月号)

(超一流尽し)
とにかく最新、日本一にこだわった高島嘉右衛門は、芝居小屋「港座」の杮落しに当世一流のメンバーを集め興行を行いました。
公演は“大芝翫”と呼ばれた名優4代目が率いる成駒屋「中村翫雀一座」を招聘します。当時この一座に公演をさせるということは実に大変なことで、全国の芝居ファンを仰天させました。

四代目中村翫雀
四代目中村翫雀

座主高島の“わがまま”はこれだけではなく、「中村翫雀一座」にオリジナル作品「近世開港魁」7幕15場の上演までさせてしまいます。
この芝居の作家には「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」で不動の人気戯作者となった仮名垣魯文、狂言作者の三代目 瀬川如皐を起用し、杮落しは大盛況でした。

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観光の魅力は“名所旧跡”もありますが、街にライブな芝居見物ついでに観光というコンテンツも重要要素でしょう。

(余談)
“大芝翫”と呼ばれた名優4代目「中村翫雀」の系譜が「中村鴈治郎」「坂田藤十郎」と続く成駒屋。現在の五代目「中村翫雀」は「坂田藤十郎」と「扇千景」の子で 48年ぶりに上方歌舞伎の名跡を継ぎます。
弟が「三代目扇雀」で1995年(平成七年)10月に五代目中村翫雀・三代目中村扇雀のダブル襲名披露を行いました。(全くの余談でした)
No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演

No18 1月18日(水) 三度あることは四度ある

No.206 7月24日 (火)新港埠頭にヘンリー航海王子

昨日に続き新港埠頭が舞台です。
日本ポルトガル修好通商条約150周を記念して、ポルトガル海軍の帆船サグレス号(1,940トン)が2010年(平成22年)7月24日(土)の今日、横浜港新港埠頭に初入港し一般公開されました。

汽船の時代ですが、海に帆船は似合います。
近年多くの帆船が横浜港を訪れていますがポルトガル帆船の横浜寄港は初めてです。
「N.R.P Sagres」
 ポルトガル海軍所有の1961年(昭和36年)に就役した大型練習帆船で、過去2回日本に寄港経験があります。
総員139名、帆に描かれたヘンリー航海王子ゆかりのキリスト騎士団の「十字紋章」がひときわ印象的です。

船名のサグレスとは、ポルトガル南端に位置するアルガルベ地方ヴィラ・ド・ビスポに属する町の名で、大航海時代の原点となったヘンリー航海王子が航海学校を設立したサグレス岬に由来しています。
N.R.P SagresのN.R.Pは「ポルトガル共和国海軍」の略です。

 

日本とポルトガルの歴史といえば16世紀、日本を訪れたフランシスコ・ザビエル(スペイン人ですがポルトガル王ジョアン3世の依頼でアジアに)に始まり、鹿児島県(種子島)や大阪(堺市)など西日本の長い交流が続いています。
江戸時代は他国と同様に国交も無く幕末の開国後の1860年に日葡和親条約、日葡修好通商条約が調印され二国の交流が再開します。
その後、細く長い交流が継続し、
修好通商条約150周記念を記念して2010年の今日、横浜に寄港したものです。

ポルトガルの帆船サグレス号が横浜港に初入港、一般公開も
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1007240016/
帆船サグレス(SAGRES)が横浜に初入港/神奈川新聞(カナロコ)
http://www.youtube.com/watch?v=lP8IWnafAf4
ポルトガル海軍練習帆船「サグレス」横浜入港
http://www.youtube.com/watch?v=AD-1pynL5F4

※(神奈川県では)逗子市がナザレ市と2004年7月国際友好都市締結
この「帆船サグレス号が横浜港に初入港」をキッカケにポルトガルと横浜の関係を探ってみましたが、中々見つかりません。

ポルトガルは隣国スペインと同様にサッカー王国です。
サッカー繋がりで調べてみました。
ありました。ちょっと意外な関係が。
サッカーJリーグに過去外国人選手は何人くらい活躍したと思いますか?
ざくっと調べたところ過去現在含め約1,400人全国のチームで活躍しています。
その中で、ポルトガル出身のJリーガーといえば?
たった3人しかいません。
意外でした。
ポルトガルから独立したサッカー大国ブラジルはといえば、なんと800人を超える選手が日本で活躍しています。
外国人Jリーガーの過半数がブラジルサッカー出身だったのです。
ポルトガル出身のJリーガーは3選手で
20世紀の偉大なサッカー選手100人の一人で“欧州のマラドーナ”と言われたポルトガル代表のフットレ選手と若きフェレイラ選手の2人が
1998年リーグで横浜フリューゲルスに所属していました。
もう一人はミゲル選手でサンフレッチェ広島(2000年)に所属していました。

1998年リーグといえば、横浜フリューゲルス最後の年、特別な一年でした。
残念ながら天皇杯優勝メンバーとして残ることはありませんでしたが、横浜フリューゲルスに欠かせないメンバーであったことは間違いありません。
欧州のマラドーナ、フットレ選手は最後の現役時代を横浜で過ごし16試合3得点の存在感を示しました。

No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年

ポルトガル共和国
Portuguese Republic
面積:92,207.4 平方キロメートル(日本の約4分の1)
人口:1,055 万 5,853 人(2011 年 6 月 30 日現在)

 

No.205 7月23日 (月)駅を降りたら、国際港

1872年(明治5年)に初めて横浜と品川間の鉄道が開通し2012年で140周年を迎えました。開通から半世紀のちの1920年(大正9年)7月23日の今日、
東京駅と「横浜港駅」間が開通しました。
“横浜港〜サンフランシスコ間航路”に接続するための臨港線が開通したことはあまり知られていません。
今日は現在赤レンガパークに保全されている
「横浜港駅」を中心に横浜鉄道史の断片をご紹介します。

横浜港駅(2002)

(新しい埠頭の誕生)
明治の中頃、幕末の開港以来横浜港には西波止場・東波止場がありましたが、船舶の大型化に対応できず、沖に停泊し艀(はしけ)と使って荷物の運搬を行う状態が続いていました。
特に大型貨客船の接岸は、横浜港の重要な課題でした。
そこで新しい埠頭「新港埠頭」を増設する工事が1899年(明治32年)に始まり1914年(大正3年)に完成します。

新港埠頭

「新港埠頭」は大岡川の河口沖合に生まれた人工島です。
現在の地図を見てもこの島を幾つかの橋が結んでいることが良くわかります。

「新港埠頭」は大きく二本の突堤に11隻の船を横付けできる岸壁を持つものでした。
そこに日本最大の物流拠点が誕生しました。

(日本最大の物流拠点)
東京港が本格的な国際港として稼働する戦後(開港は1941年(昭和16年))まで、
横浜は首都圏の唯一の国際物流拠点でした。
「新港埠頭」誕生と同時に、Yokohama Red Brick Warehouse「新港埠頭保税倉庫」(赤レンガ倉庫)が誕生します。
岸壁と保税倉庫に加え陸路の物流に鉄道が整備されました。

そこで「新港埠頭」の増設と同時に、臨港鉄道も併せて整備されました。
1920年(大正9年)7月20日に「横浜港駅」が開設し
23日に「東京駅と横浜港駅」間鉄道が開通することになります。

特に日米航路の出発地だった横浜港駅は、
物流だけではなく「旅客者」が乗降する駅でもありました。
日本郵船の日米航路定期船に合わせ乗船客や見送りの人々がこの車両を利用しました。
終点の横浜港駅を降り、その足で外国航路に乗船する。
ロマンチックな光景を想像することができます。
東京と国際港を結ぶ臨港鉄道は飛行機にその首位の座を渡すまで、
成田空港駅のように“港”に欠かせないものでした。
この臨港鉄道
1960年(昭和35年)8月27日、氷川丸出航に合わせて運行された旅客車両を持って運行を終了します。その後、桜木町から横浜港区間は貨物路線としても役割を終え、廃線となりました。
1997年(平成9年)路線の一部を整備し「汽車道」として一般に公開され現在に至っています。

汽車道

「横浜港駅」もこの歴史を伝える近代史資産として赤レンガパークに残されています。
かつて臨港線だった貨物線は現在も桜木町から一部地下化し京浜地区の物流を担っていますが、さらに有効活用を願う声も大きくなっています。

(横浜は鉄道の原点都市)
今年7月10日に「原鉄道模型博物館」もオープンしたこともあります。横浜の魅力コンテンツに「鉄道」は欠かせません。
横浜駅は一つの駅に乗り入れている鉄道事業者数日本最多の駅です。
2001年に開催された現代アート展「第一回横浜トリエンナーレ」では鉄道をモチーフにした作品も登場しました。

オノ・ヨーコ「貨物車2001」
汽車道にはナウイン駅をモチーフにした「横浜サーラ」
当時の解像度が低くてすみません

アーティストが開場の歴史的文脈を感じ取った証といえるでしょう。

東急東横線の桜木町〜横浜間の架橋の活用も含め、
鉄道の150周年(2022年)までに横浜の魅力づくりに加えて欲しいコンテンツです。

(新港埠頭関連ブログ)

No.241 8月28日(火)駅を降りたら、国際港 復活(その2)
3月2日 みらいと歴史をつなぐ道

No.335 11月30日(金)午後1時46分41秒
新港埠頭に停泊していたドイツ船ウッカーマルク号が突然爆発

No.103 4月12日 「新港埠頭保税倉庫」から「赤レンガ」へ

No.307 11月2日(金)日本波止場に万国橋

No.266 9月22日 (土)ハマの赤レンガ
1888年(明治21年)9月22日(土)の今日、横浜区相生町68番地に横浜煉化製造会社が創業

No.204 7月22日 (日)一生を世界一周に賭けた男

1872年(明治5年6月17日)7月22日(月)の今日、
高島嘉右衛門は横浜港から一人の(破天荒な)スイス人を見送りました。
その名はヤコブ・カデルリー(1827〜1874)、ちょうど46歳の誕生日にサンフランシスコ行きの太平洋郵船会社の定期航路でアメリカに向けて旅立った“外国語教師”でした。

太平洋郵船会社 造船所

ヤコブ・カデルリーは日本を旅立つ直前まで高島嘉右衛門が創った市学校の外国語教師(ドイツ語とフランス語)を半年契約で担当していました。
高島学校の経営が上手くいっていたら、カデルリーの出発はもう少し伸びたかもしれませんが、契約切れをキッカケにやり残した世界一周の旅に出発したのでした。

幕末から明治に多くの外国人が超高額の給料で日本政府に雇われました。
俗に「お雇い外国人」と呼ばれた人たちです。
法律のグイド・フルベッキ、芸術のアーネスト・フェノロサ、医学のエルウィン・ベルツを初め約2,700人もの外国人が政府と契約し日本の近代化のための人材育成を担いました。

これらの「お雇い外国人」、中にはいろいろな“外国人”もいたようで、
高島嘉右衛門が見送ったカデルリーは、かなり破天荒な人生を歩んだ人物でした。
『スイス歴史百科事典』には彼のプロフィールがあります。

カデルリー,ヤーコプ
1827年7月22日にリムパハ(Limpach)で生まれ、1874年12月31日にマルセイユで死去。
家系はおそらくミュルヒ(Mulchi)2の出身。村の学校を終えた後、農家の下働きとして働き、その後、ナポリのスイス軍に入隊。物覚えが速く、語学の才能もあり、ナポリで家庭教師の職に付くことになつた。クリミヤ戦争(1854-56)ではフランス軍本部で働き、1856年にサンクトペテルブルクに行き、それから、ワルシャワで家庭教師になる。1860年にイギリス、スコットランド、アイルランドを旅行し、1861年から1868年までシベリアを旅行する。
スヴェルトロフスクで鉱山学校に通い、ウラルの鉱山を見学してまわる。1868年から1872年にかけて中国と日本を調査(erkunden)する。1872年から1874年までアメリカとカナダに滞在する。ニューフアンドランド島、グリーンランド、アイスランド経由での帰国は発病のために中止する。マルセイユで12年間の世界旅行の記録をまとめ始めるが、まもなく死去。旅行の講演記録や鉱山の鑑定書が伝わっている。

日本(開成学校)で最初にドイツ語を教えた外国人教師となっていますが、彼の回想記には一切登場しません。
日本での仕事は彼の本来やりたかった仕事ではなかったようです。
生来の旅人だったのかもしれません。
日本国内旅行を最初に申請した外国人とも言われています。
カデルリーは47年の人生で日本に約2年半しか滞在していません。生まれ故郷のスイスで子供時代を過ごし、まずヨーロッパを放浪?します。ロシアからシベリア大陸を横断し中国に入り、その後日本にたどりつきます。

日本で見つけた仕事がたまたま「お雇い外国人」だったようです。
ただ、カデルリーの作成したドイツ語文法入門書「カデルリー文典」は、当時高い評価を得ました。

ただ、初等教育しか受けていなかったカデルリーに対し、他の(学歴ある)「お雇い外国人」には不評だったようで、オランダ人フルベッキ、ドイツ人教師(語学ではなく専門科目担当)には酷評され続けます。
学校では週五日7時間しっかり授業を行い、その後の日本ドイツ学を背負う逸材も育てていますから、教育者としては優れていたのではないでしょうか。
(教え子の記録からも良き教師像が浮かび上がってきます)
このカデルリーを支援したのが、シーベル・ブレンワルト商会の創始者でスイス総領事だったカスバー・ブレンワルドで、公私にわたって面倒をみていました。
二人は山手の射撃場にでかけたり、音楽会を楽しんだりした日記が残っています。
彼が日本を出国するきっかけとなったのは、支援者ブレンワルトとの訣別だといわれています。その証拠として、これまで頻繁に登場していたブレンワルトの日記にカデルリーの名が突然無くなります。
1872年(明治5年6月17日)7月22日(月)横浜港を出発するときにも、見送りにブレンワルトの姿はありませんでした。
寂しい別れだったのかもしれません。

(カデルリーの雇用期間)
政府の外国語教師
1870年1月24日(明治2年12月23日)〜1872年1月6日(明治4年11月26日)
高島学校(1872年1月9日開校)
1872年(明治5年1月)〜1872年(明治5年6月)

「お雇い外国人」は3年契約が一般的でしたが、フルベッキやドイツ人の「お雇い外国人」からは敵視されます。理由は彼のドイツ語が下手だということなんですが、確かにスイス人にとってネイティブではなかったかもしれません。
当時の政治的情勢も影響したかもしれません。
ドイツとスイスは高島嘉右衛門のガス灯会社を巡って覇権争いをしドイツを蹴落とした経緯もあり、緊張関係にありました。新興国プロシアと中立の小国という国際関係や、権力闘争の影響も「お雇い外国人」の仕事に大きく影をおとしていたことは間違いないようです。
とはいえ、カデルリーという人物。
あるときは、鉱物学者、語学教師、軍人、旅行家、移民斡旋業、地質調査業 等々奇々怪々の人生を歩んだ人物でした。謎も多く現在研究が進んでいるようです。日本時代の新しい顔が登場する日も近いかもしれません。

No.169 6月17日(日)私は武器を売らない

No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」

No.203 7月21日 (土)エーゲ海に捧ぐ

最近何かと話題のギリシアですが、
日本とギリシャの間にはいくつかの姉妹都市があります。
その中で、姉妹提携のある横浜の街が大倉山商店街です。
1988年(昭和63)7月21日の今日、
「エーゲ海フェスティバル」が開催され姉妹提携が行われました。

初めて訪れる人は 意外と見逃してしまいますが…

大倉山の名は、ここに建つ大倉山記念館に由来します。
1932年(昭和7年)に完成した大倉精神文化研究所本館(現大倉山記念館)は、ギリシャで最初に栄えたクレタやミケーネ文明の建物に模したプレ・ヘレニック様式の建物として、市の文化財に指定されてます。一帯の広大な緑地は近隣市民の憩いの空間として利用されています。


横浜市大倉山記念館
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜市大倉山記念館

 

1978年(昭和53年)に港北区役所が大倉山に移転する計画をきっかけに商店街整備が進み、大倉山駅東口通りが「レモンロード」(84年)、
西口通りが「エルムー通り(Ermou Street)」(88年)と命名され整備が進みました。

東口通り「レモンロード」に一足遅れた西口商店街は、84年に横浜市に寄付された大倉山記念館の白を基調にしたエーゲ海のイメージを前面に打ち出すことになり、商店街には白いファサードやギリシア風の店舗が多く建っています。

グーグルのストリートビューでも楽しめます。
 1988年(昭和63)7月21日には、アテネ市の代表を招いて姉妹提携の正式調印も行われました。
 小説「エーゲ海に捧ぐ」の作家であり画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・映画監督と多彩な才能の芸術家 池田満寿夫さんとバイオリニストの佐藤陽子さんも式典を訪れました。
 (こみみにはさんだ話:熱海に活動拠点を持っていた池田さんが亡くなられた時、彼の作品を横浜に寄付し美術館を作りたいという話しがありましたが横浜市は断って長野にもっていかれたそうです。)
 
 大倉山商店街
 ■エルム通商店街
http://www.ookurayama.net/pc/index.htm
 ■レモンロード商店街

■オリーブ通商店街
 大倉山駅からエルム通商店街を抜けるとオリーブ通商店街が続きます。
大倉山は「梅林」も有名です。ここの梅を使った梅酒“梅の薫”は地元の特産品を使った市民共同開発商品として1991年に大倉山公園(梅林)開園60周年を記念し企画されました。


港北区・神奈川区民は安く購入できるところが良いですね。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kohoku/sinkou/umesyu.html

(関連ブログ)
No.160 6月8日(金) 親王殿下のニッポン

No6 1月6日(金) 天然スケートリンク開場

この街に今、大きな問題が起っています。相鉄線と東急線を結ぶ新線に「大倉山駅」が無いことで、取り残される危機感です。駅の乗降客数が生命線の商店街にとって、新線の開通は重大関心事のようです。


それにしても、首都圏の鉄道網はまさに「蜘蛛の巣」状態です。
横浜もこの10年でまたまた大きく変わりそうです。
便利になることは良いことですが、長ーーい駅構内を上下左右に歩いて乗り継ぐ蟻の巣アクセスは“高齢者”には辛いものがあります。
少子高齢化が始まっている割に、都市鉄道網を利用するには“若さ”が必要になっているのは良いことなのかどうか。複雑な感じです。

No.202 7月20日 (金) 港をヨットが舞った日

今日は元「海の日」です。
1941年(昭和16年)7月20日(日)
「海の日」の起源となった「海の記念日」が制定され、横浜でヨット大会が開催されました。

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ヨットレース(直接記事とは関係がありません)

(海の日誕生)
海の日、その起源は横浜が舞台です。
1876年(明治9年)7月20日(木)に明治天皇が奥羽・北海道巡幸に使用した御召艦「明治丸」が横浜に帰港した日です。

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1941年(昭和16年)7月20日(日)を「海の記念日」とします。
 ※この日7月20日が「海の記念日」となった背景には制定に尽力した時の逓信大臣の思惑もあったようですが、横浜にとっては幸運なことでした。 <20日午前に到着の予定が、天候不順で20日深夜になりました。もしかすると、7月21日になっていたかもしれません。天皇御一行は、急遽行在所となった伊勢山離宮でお休みになり翌朝東京に戻ります>
1996年(平成8年)「国民の祝日に関する法律」により、”海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う日”として7月20日が国民の祝日「海の日」となります。
2003年(平成15年)の祝日法改正(ハッピーマンデー制度)により、7月の第3月曜日となり現在に至ります。

(明治丸)
御召艦となった「明治丸」は、英国に発注しグラスゴーのネピア造船所で建造され横浜に回航されました。
当時の工部卿(殖産興業を支えた工部省の大臣)伊藤博文が名付けたもので、当時重要課題の一つ、灯台建設に伴う巡視活動や、領有権調査等に活躍しました。
巡幸船にも何度か使用され、引退後練習船として多くの海洋訓練生を育てました。
「明治丸」は東京海洋大学越中島キャンパスに保存されています。

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東京海洋大学校内

重要文化財「明治丸」
http://www.e.kaiyodai.ac.jp/facilities/meiji/index.htm

(幻の東京オリンピック)
1940年(昭和15年)に東京で夏季オリンピックが開催される予定で様々な準備が進められていました。
アジア初のオリンピックとして注目されていましたが、日中戦争の影響等の理由により日本政府が開催権を返上します。
オリンピック開催決定にともない、横浜市はヨット競技の誘致に成功し、ヨット競技開催の準備を進めます。
1937年(昭和12年)には、東京オリンピック(昭和15年)に備えて設計コンペが開かれます。
中区新山下町にオリンピック用の仮ヨットハーバーが9月に落成し、横浜ヨット港(ヨットハーバー)建設が計画されます。
オリンピックは中止となってしまいますが、
横浜ヨット港建設は継続し、

新山下ヨットハーバー幻のオリンピック開催予定の翌年1941年(昭和16年)に竣工し、
「海の記念日」制定に合わせて
7月20日に海洋競技大会が開催されることになります。
blogS1607020この時に、ヨット競技の開催に尽力したのが横浜ヨットクラブ(YYC)です。
(横浜の海洋スポーツ)
ヨットの歴史は横浜海洋スポーツの歴史でもあります。
横浜のヨットクラブの歴史を簡単に紹介します。
1886年(明治19年)横浜在留の外国人有志によって、横浜アマチュア・ローイング・クラブ(YARC)が設立され、横浜港内で海洋スポーツの組織が誕生します。
(日本最古のヨット・クラブといわれています)

その後、YARCから横浜セーリング・クラブ(YSC)が独立します。
1896年(明治29年)にYSCは横浜ヨットクラブ(YYC)と改称しフランス波止場近くを拠点に活動します。
前述の横浜ヨット港(ヨットハーバー)完成後は、ここを母港に1968年(昭和43年)まで活動し、1973年(昭和48年)社団法人 横浜ヨット協会となります。

http://yyc.or.jp
団体名:社団法人 横浜ヨット協会
所在地:神奈川県横浜市磯子区磯子1-5-16
社団法人横浜ヨット協会は1886年(明治19年)10月9日(土)に、その前身の母体であるYokohama Amateur Rowing Clubより派生し、当時横浜在留の外国人有志により設立されて以来100有余年の歴史を誇る日本最古のヨット・クラブです。

(余談)

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海の日にあわせて、みなとみらいにある「帆船日本丸」の総帆展帆(年12回実施)が行われます。

No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント

横浜港のある東京湾は、船舶の航行が集中するポイントにあたります。
船舶通航信号所として
1986年(昭和61年)7月19日(金)「横浜港シンボルタワー」が完成しました。

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「横浜港シンボルタワー」のある本牧埠頭D突堤は、横浜港と東京湾との境界に位置します。
横浜港に入出航する船舶の管制を行う役割と、東京湾を航行する船舶へ海上交通情報を提供する航路標識としての役割を担っています。
この「横浜港シンボルタワー」は、航路管制標識と同時に市民公園として一般公開されています。
市内都市部と隔絶された独特の空間です。
タワーは高さ58.5m(アンテナ部含む)で、4階部分地上36.5mの高さに展望台が設置され横浜港湾の様子を眺める事ができます。
入場無料です。
エレベーターもありますが約140段の階段を歩いて登るのも一興です。

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また、散策を楽しむことができる緑地公園は多目的広場として、フリーマーケット、コンサート、ショーなど各種イベントを行うことができます。
※売店もあります。

■横浜港シンボルタワー
http://www.y-stower.com/
利用時間は
開場は9:30で季節により閉場時間が変わります。
【11月1日 〜  2月28日】〜16:00
【3月1日 〜  7月20日】〜17:30
【7月21日 〜  8月31日】〜20:00
【9月1日 〜10月31日】〜17:30
※シンボルタワー展望室は閉場時間の30分前で入場制限
公園及び駐車場には閉場時間の40分前に閉まります。
休業日は
年末年始(12月30日 〜 1月3日)と5月、9月、1月の第2火曜日(国民祝日の場合はその翌日)です。

●横浜港シンボルタワーへのアクセス方法
横浜市営バス26系統「横浜港シンボルタワー」行き終点です。
主な路線は、
横浜駅 – 桜木町駅 – 大さん橋 – 山下ふ頭入口 – 小港橋 – 本牧ふ頭入口 – 海づり桟橋
26系統はシンボルタワーの営業時間にあわせて運行しいるので、営業時間外は、ひとつ手前の停留所『海づり桟橋』発着です。休業日も終日『海づり桟橋』発着です。

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タワーの位置(D突堤)とロイヤルウイング航路

●もう一つの楽しみ方
横浜大桟橋からロイヤルウイングに乗船すると海側からシンボルタワーが見えます。
http://www.royalwing.co.jp/cruise/course/index.shtml

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タワーがコンテナヤードに囲まれているのが良くわかります

(余談1)
26系統は利用客が少ないため 横浜市交通局が撤退検討路線として検討されたそうです。
港湾施設なのでスカイウォークのように閉鎖なんてことにはならないでしょうが、このシンボルタワー広場活用アイデアみんなで考えてみましょうポイントの一つです!
良い場所なんですがね。

(海釣り公園)が手前にありますが、ここは殆ど自動車、自転車利用客です。

(余談2)
横浜市内の幾つかの施設では商用撮影等が有料の場所がありますが、ここシンボルタワーも有料です。
映画撮影、その他これに類する動画撮影をする場合1日  20,000円、広告写真等のスチール写真撮影は1日  10,000円かかります。
(観光用の撮影は関係ありませんが、
 何を商用写真というか難しい時代に不適合だと思います)

(豆知識)
横浜港に文字が表示される港内航行信号塔が数カ所設置されていますが、横浜港に入る最初の信号がこの横浜港シンボルタワーです。道路の信号は三色表示ですが、港の場合は【文字(アルファベット)】で、国際標準です。知っておくとちょっと自慢できます。

【Iの文字の点滅】→ 入航してよい。
総トン数500トン以上は出航禁止。
【Oの文字の点滅】→ 出航してよい。
総トン数500トン以上は入航禁止。
【Fの文字の点滅】→ 総トン数15,000トン未満の船は入出航してよい。
【Xの文字及びIの文字の交互点滅】→まもなくIの点滅に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。
【Xの文字及びOの文字の交互点滅】→まもなくOの点滅に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。
【Xの文字及びFの文字の交互点滅】→まもなくFの点滅に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。

【Xの文字の点滅】→まもなくXの点灯に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。
【Xの文字の点灯】→ 指示された船以外は入出航禁止。

※横浜港で身近な航行信号は山下公園脇に建っています!!!探してみましょう!!