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「横浜界隈・境界」カテゴリーアーカイブ
【横浜雑景】グランモール公園
みなとみらいの中心部を南北に貫く都市公園グランモールが
整備されて四半世紀の時間が流れたそうです。
今日は、思い出の写真を含めて
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少々古いMMマップですが 。 |
グランモール雑景をランダムに並べてみました。
ランドマークプラザとクイーンズスクエアの中間部分にあたるヨーヨー広場から閉鎖された(る)GENTO YOKOHAMA手前まで、
約700mあります。
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フィルムを探していたら発見。美術館前から山手方向。先に何もありません。 |
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みなとみらい建設開始!の時期ですかね |
かつて ジャックモールというショッピングモールがありました。
暦で語る今日の横浜【9月9日】
●1873年(明治6年)の今日
「日本波止場」が築造されました。
「日本波止場」は開港時から少し場所が変わりました。また「東西波止場」の位置でよく混乱することがありますのでここで整理しておきます。
港が開かれる直前の横浜は約100戸、人口約500人の小さな村でした。
一変したのは、ここが港になったことです。
それも日本初の国際貿易港でした。
開港場の中央に「運上所」ができ上がります。
この運上所をはさんで東側に外国人居留地が広がり、
西側に日本人の居住地が形成されていきます。
ここに東西二つの(まっすぐで)小さな波止場が造られます。
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安政6年 波止場がデフォルメされています |
東西の波止場のうち外国人居留地に近い方は「東波止場」と呼ばれ
外国貿易のために用いられました。
もう一方は「西波止場」と呼ばれ内航船の貨物の積卸しに用いられました。
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明治25年頃、最初はまっすぐな波止場でした。 |
1863年(文久3年)になると、
※1864年(元治元年)説もあり
貿易量の増大に伴い、現在の山下公園中央付近に新たに「東波止場」が建設されフランス波止場と呼ばれるようになります。一方
元の東波止場は、イギリス領事館(現在の横浜開港資料館)が建てられると、イギリス波止場と呼ばれるようになります。
内航船の貨物の積卸しに用いられた西波止場は築造当初「日本波止場」「税関波止場」とも呼ばれていましたが
1873年(明治6年)の今日
より東側に本格的な「日本波止場」が築造されます。
※象の鼻
1867年(慶応3年)には、東波止場が風浪を避けるために湾曲した形に変更されます。その形が象の鼻に似ていることから一般に「象の鼻波止場」「象の鼻」と呼ばれるようになりました。
No.307 11月2日(金)日本波止場に万国橋
●その他の今日の横浜【9月9日】
1881年(明治14年)の今日
3代目杵屋佐吉、横浜で亡くなります。
杵屋佐吉は江戸時代から続く長唄三味線方の名跡で代々長唄佐門会の家元を名乗っています。
(文政3年(1820年)〜明治14年(1881年)9月9日)
「16歳で森田座に出演し、その後も演奏家として活躍した。当時は、作曲家として鬼勝こと二世杵屋勝三郎、杵屋三郎助、杵屋正治郎等の名手が輩出した時代でもあり、三世佐吉関連では「由加利の花」という作品を三世の弟子である杵屋はつ栄が演奏した記録が残っているだけで、他に目立ったものは見当たらない。しかし三味線は名人と言われ、性質は負けず嫌いの仁侠を好む江戸っ子気質であった。
晩年は横浜で門弟の育成に専念し、明治14年(1881年)9月9日、61歳で病歿。」(Wiki)
●1901年(明治34年)の今日
歴史学者、文学博士、東洋史の概念を初めて生んだといわれる那珂 通世(なか みちよ)が東京〜九州間自転車旅行の帰途に、横浜に立ち寄ります。
尾上町の当時日本有数の自転車輸入商「石川商店」で開かれた「那珂通世東京・九州間自転車旅行歓迎会」に出席するためでした。50歳。
●1922年(大正11年)の今日
6代目尾上菊五郎37歳の時、
横浜鶴見(花月園)に行き、4日に来日したアンナ・パブロバの歓迎会を開きます。
6代目尾上菊五郎といえば、初代中村吉右衛門とともに「菊吉時代」を築いた大正・昭和期の名優で、歌舞伎で単に「六代目」というとこの6代目菊五郎のことをさします。
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重ね扇に抱き柏 |
さすが、歌舞伎名跡の芸の広さを感じます。
●1978年(昭和53年)の今日
大通り公園の開園式が挙行されました。
「大通り公園」はいろいろネタがありますので
別仕立てで紹介します。
No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?
今日は 横浜市磯子区南部に位置する“杉田”エリアを紹介します。
現在の杉田エリアは、京浜急行「杉田」駅とJR根岸線「新杉田」を結ぶ「ぷらむろーど」を中心に商店街が拡がっています。歴史ある時代で表情が変化した
時をさかのぼれば 広大な歴史の舞台「杉田」が浮かびあがってきます。
調べれば調べる程、面白い杉田です。
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杉田妙法寺の蓮(今が見頃です) |
(東西南北)
■東は海。
かつては船で杉田観光に!
■西は笹下川(ささげがわ 大岡川の支流)流域
鎌倉武士の城があった“金沢道”周辺は面白い!
■南は金沢区富岡に隣接する起伏のある丘陵地
梅で有名な杉田の梅林は富岡との境あたりに群生?
■北は中原(屏風ヶ浦)あたり
現在の「杉田エリア」明治期、久良岐郡屏風ヶ浦村の一部でした。
杉田の名は 江戸時代から梅の名所で有名でした。
(意外な?因縁)
杉田(すぎた)といえば?昔を良く知る人は「梅」と答えます。
商店街も「ぷらむろーど」ショッピングビル名も「プララ」と名付けられています。
「梅林小学校」「杉田梅林トンネル公園」といった名称もあります。
かつて広大な「梅林」が杉田にはありました。
「梅林小学校」絶景ポイントでもあります。
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梅林小学校近くの眺望 |
この杉田梅林を創り上げたのがこの地の領主「間宮信繁」という人物です。
天正年間頃16世紀後半の時代です。杉田という土地柄は、起伏が多いため稲作に向いた田畑に恵まれませんでした。漁業が中心の貧しい寒村でしたが
この地を治めた間宮信繁が地域の産業として梅の植林を奨めます。小田原の曾我梅林に習ったといわれています。梅を地域産業として鎌倉時代から梅を育ててきた曽我に習い、「杉田梅」は小田原から移植したのではなく、逆に今 磯子で失われた「杉田梅」が小田原に残っている状況です。
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曾我梅林2013 |
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曾我梅林と冨士 |
数十年後には見事な梅林が育ち、年ごとに梅林が拡がっていきました。
最盛期には三万六千本にも達したそうです。
江戸初期は梅の実が農民を助け、
江戸後期から明治期には「梅の花の名所」として観光地となります。
多くの文人墨客もこの「杉田梅林」を愛でます。
「我等が郷土神奈川県下には由来天恵的に名勝或は史蹟の地として指を屈するの 地洵に多く,従って之れ等各勝地に遊杖せる古今の俳人墨客の数も相当多く,又 それらの人々に依って残された吟詠も決して少なくありません。今茲に編する杉 田金澤両地の内,杉田は往古より杉田梅林として其名高く例へば吟江の 吉野の みか梅の杉田もこれはこれはの句の如く,又「杉田の梅林に遊びて」と題書せる 抱一上人の これはこれはこゝをや梅の吉野山の句の如き,ともに花の吉野と梅 の杉田を対立させてゐるあたり全く梅花の名所として立派に立証し得る事が出来 うると存じます。又金澤は金澤八景として天下に其の名高く,其の昔兼好法師は 此の地の佳景を愛して住み,画聖巨勢金岡は此の地の妙景に絶倒して筆を松に擲 つたと云ふ事であります。又心越禅師は勝景西湖に似たる故を以て,八勝の詩を 賦し,尭恵法師は神異絶妙と,唱へて居ります程の勝れた地区であります。」
(飯田九一「杉田金澤古今俳句集」)
吉野のみか梅の杉田もこれはこれは 夏目吟江
「間宮信繁」の菩提寺杉田妙法寺には
この地を訪れた俳人の句碑が残されています。
門をくぐると直ぐに句碑に出会います。
さびしさは星をのこせるしぐれかな 飛鳥田 麗無公
「また寒き 月のひかりや 梅の花」 松竹庵 梅月
「簾越し居るこゝろして梅のもと」 内野 月朶(げつだ)
■牛頭山妙法寺(ぎゅうとうさん みょうほうじ)
1352年(文和元年)創建。2月〜3月上旬には、名木「照水梅(しだれうめ)」をはじめ多くの梅の木が咲きほこります。
(スパイも医者も登場)
杉田に梅林を奨励した間宮?
この名から連想する教科書に出てくる人物といえば
間宮林蔵という“冒険家=隠密”でしょうか?
彼は杉田の間宮氏と遠縁にあたります。
「間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年)〜天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の隠密、探検家である。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。名は倫宗(ともむね)。農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人であった。」(Wikipedia)
常陸国筑波郡上平柳村出身で、先祖は後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏の流れを持つ間宮家の一族で武士から帰農した人物です。
杉田村で間宮から杉田姓を名のった一族の親戚にあたります。
間宮氏の一部は杉田に暮らし
「杉田姓」を名乗った一族がいました。
間宮一族は 近江佐々木氏にルーツがあり遠くは近江の出身です。
鎌倉時代、相摸のもののふの一族として歴史に登場します。
北条氏に仕え、笹下エリアに山城と陣屋を建て 杉田・笹下・田中他 一帯を治めます。
その後 北条氏滅亡で間宮氏は
杉田間宮氏、氷取沢間宮氏、三ツ沢、鶴見、房総下総、三浦、川崎、静岡 等に分かれて居を移していきます。
一方、初期に杉田村に生まれた遠縁の間宮長安という人物が
間宮姓から杉田に氏を変え暮らします。
この杉田氏の子孫が福井若狭藩(酒井家)の藩医となり幕末期江戸で活躍します。
ここに登場したのが
一度は歴史教科書で聞いたことのある「杉田玄白」です。
杉田玄白(1733年〜1817年)
間宮林蔵(1780年〜1844年)
少し前後しますが
二人はほぼ同時代を生きた人物で共に杉田に縁のある人物です。
(杉田のヘソ)
江戸時代まで、杉田・屏風ヶ浦のヘソは笹下にありました。明治初期には現在の「横浜刑務所」あたりに久良岐郡役場と村役場がありました。
その後、堀割川流域の発展に伴い市電の開通などもあり磯子・屏風ヶ浦・杉田地域は海岸線が発展していきます。
市電の終着「杉田駅」ができることで、海岸線に近い杉田は大きく発展していきます。その後に、湘南電気鉄道(後の京浜急行)「杉田駅」が開通します。
湘南電気鉄道の当初の計画では
「屏風ヶ浦駅」が最初に開設する予定でしたが、地元の猛反対に遭い「杉田」が先に開設されます。(よくある歴史の皮肉ですね)
ここで
少しヘソが変わります。
市電「杉田駅」から「聖天橋駅」周辺に繁華街の中心が移り、市電廃止でバス中心となると「京急杉田」を軸に街が拡大していきます。
上大岡からの旧道に沿って開通した“湘南電気鉄道”は昭和初期、日の出町で京浜電気鉄道とつながり、一気に首都圏の重要な動脈となっていきます。
一方、戦後になり念願の桜木町から先に伸びる「根岸線」が開通すると
第一段階で「磯子駅」が開設し駅前が変わります。
その後「大船駅」全通に伴い「新杉田駅」が開設され、「杉田駅・新杉田駅」界隈には独特の賑わいが生まれます。
平成に入り、
シーサイドラインの開通等で、杉田のヘソは少し「新杉田」寄りにシフトしましたが、まだまだ京急杉田周辺のデープさは残っています。
※余談
京急杉田駅横には「お稲荷さん」があります。
この杉田駅稲荷?(というのか不明ですが)には
秘話が隠されているのをご存知ですか?
この秘話は 別のところで紹介することにしましょう。
今日はちょっと長くなりました。おつきあいありがとうございます。
No.457 ザンギリ野毛
野毛界隈。
酔いにまかせて彷徨うと、床屋が多い?!
やたら床屋(理容院)のサインポールが目に入ります。
気のせいか?酔いのせいか?それとも真実か?
ちょっと調べてみました。
野毛界隈で、果たして何店床屋(理容室)はあるのでしょうか?
調査結果をお知らせする前に、横浜の床屋についてのエピソードを少々ご紹介しましょう。
No.80 3月20日 西洋理容発祥の地、横浜
1873年(明治6年)3月20日、
明治天皇は自ら範を示すということで断髪します。
これによって一気に「床屋」(理容室)が時の職業になっていきます。
横浜開港資料館発行「もののはじめ考」(第3版)によると
開港早々1864年(元治元年)横浜ホテルに外国人の理容師が開業した記事が掲載されているそうです。
日本人による理容室開業については中々誰が“はじめて”かどうか判っていません。
諸説あるようです。
少なくとも 開港した横浜港に入港する外国船向けに西洋理髪師を見習った日本人が散髪業を始めたのは自然の成り行きです。
日本人の間に「西洋理髪」が定着していくのは、
No.80 3月20日 西洋理容発祥の地、横浜
で紹介したように、法令で断髪令が施行されてからのことです。
「市史稿」では、
桜木町に「西洋髪苅所」を富岡浅次郎という人物が開業し
「理髪業の嚆矢」とする説に触れています。
この説に従えば???????
桜木町=野毛界隈に理髪業が多いのも?
野毛界隈に理髪業が目立つ理由は、
「場外馬券場」があるからでしょう。
縁起かつぎや、負け癖を切る!という理由から競馬人は床屋が好きだとか?
だから野毛界隈に「理髪店」が多いんですね。
(野毛界隈の理髪店)
完全ではないかもしれませんが
野毛界隈に理髪店は12店ありました。
以前営業していた店を1店知っていますので
13店も集中していたことになります。
範囲は JR線より内陸、大岡川、京急、紅葉坂に挟まれたエリアを
野毛界隈としました。
価格もバラバラです。
ここにさらに「美容院」が最近次々と開店しています。
野毛は現在 整髪激戦区となっているようです。
(余談 理容室は何時休み?)
理容業はを独占禁止法の例外業種に指定され、理髪店の業界団体である全国理容生活衛生同業組合連合会が、1996年ごろまで都道府県単位で定休日や営業時間などの基準を決めていました。最近は拘束されること無く自由な営業形態になっています。横浜は火曜日定休が多いのでは?
No.449 横浜18区路線バスの旅
【チャレンジ18区】
路線バスを使い 横浜18区を走り抜ける
踏破マップ |
【ルール】
①移動には必ず路線バスを使うこと。
②一筆書きであること。(同じ路線は使用しない)
③300m程度の徒歩移動は可(駅の反対側への移動等)
④最短を目指すこと。
(スタート)
桜木町駅[中区]8系統 6:33発
横浜駅改札口前[西区]
横浜駅西口 59系統 6:50発
[神奈川区][鶴見区※注①][港北区]
※注①
一瞬鶴見区を通過するルートを選びました。
この一瞬通過ルートはこのゲームのポイントに
なりますが、下調べ不足でした。
この59系統は、綱島街道尾根ルート系です。
浦島から菊名まで分水嶺を走ります。
港北区総合庁舎前 7:25着 7:26発
[都筑区]
途中 工業地帯「新羽」エリアを通るルートなので
8時出社系の企業が多く、めちゃ混みでした。
外国人も多かったです。
東方町 7:52着
実はこの後に7:31発
中山駅北口行がありましたが
時刻表確認時間が無かったので乗り継ぎに
[緑区]
中山駅北口 7:57着 トイレ
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中山駅 |
中山駅北口 90系統 8:08発
☆注意 横浜市営バス「一日乗車券」は横浜市営のみ使えます。
90系統の場合、東急と共同運行ですので東急バスでは使えません。
[青葉]
青葉台営業所前 8:17着 若葉台方面はとにかくバス運行本数多数
[旭区]
若葉台中央 8:40頃着 23系統 65系統 55系統
※作戦タイム
若葉台中央 神奈中116系統 8:57発
三ツ境駅北口 9:25着
[瀬谷区]
トイレ探しに時間を食う!
しかたないので軽食を食う!!
三ツ境駅 戸17系統 10:15発
[戸塚区][泉区]
戸塚駅東口 10:55頃着 11:08発
江ノ電バス 大船行 11:25頃
乗車方法が異なります
[栄区]
笠間十字路 11:30頃 神奈中バス15系統
本郷車庫前 11:45頃着
昼食と周辺散策
本郷車庫前 12:36発 12:40頃着
長倉町にて
以前から気になっていた
かながわの橋百選の一つ
横浜最古の橋「昇龍橋」へ!
散策プロムナードに整備されていた!?ようですが
かなり 荒れています。
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展望台は崩壊 |
「昇龍橋」美しい!期待を裏切ってません。
良い形の石橋ですね。
「昇龍橋」はバス停一つ手前の「八軒谷戸」にあります。
ただ「八軒谷戸」からですと いたち川に降りるのが難しいので
「長倉町」からワイルドに川辺を歩いていくのが
発見の感動が一入!!!!
長倉町の近くに昔良く行った「上郷森の家」があるので
立ち寄りたかった!!が
本日は スルーしました。
[金沢区]
金沢八景駅前に 13:30頃着
金沢八景でピンポイントで行っておきたいところ?
瀬戸橋と、「明治憲法起草の地」あたり再確認に決定
No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
姫小島水門
金沢八景をぶらり散策して
「州崎」から京急バス4系統に乗ります。
ここからは
18区を踏破するための小技を使います。
(無理矢理バス路線)
[磯子区]
磯子車庫前下車
ここから「港南区」を通過するには
「打越」か「上大岡」へ向かうしかありません。
どちらも本数がほとんどありません。
今後の課題です。
1時間に1本の上大岡着
[港南区]
(小休止)
上大岡駅から弘明寺まで神奈中 港61系統
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弘明寺でデュークによりあんぱんを七種類購入 |
[南区]
港61系統は横浜駅東口行なのでこれで一気に帰りたい!
どうしても「保土ケ谷区」を経由するには、保土ケ谷駅東口経由がベストなので
弘明寺から横浜市営9系統で
[保土ケ谷区]
「保土ケ谷駅東口」
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ふらんすやまの保土ケ谷支店もあります |
ここで106系統に乗換えて
「桜木町駅」にて終了です。
最後はかなり乱暴ルートになってしまいました。
逆コースだとどうなるか?いずれチャレンジします。
土日ですとダイヤが変わりますからまた違った組み立てになるでしょう。
(振返りと課題)
要領を心得ると 結構楽しいバス巡りです。
市営の「一日乗車券」600円はフルに使いました。
これでかなりコストダウンに繋がりました。
神奈中は無理としても相鉄バスの「一日乗車券」は作って欲しい!!!
「東急バス1日乗車券」は500円で販売しています。
今回は使っていませんが、使い方によっては
かなりメリットがあります。
☆今回の18区踏破のポイントは
金沢区と保土ケ谷区をどう走るか?でした。
もう少し工夫路線があると思います。
(精算)
横浜市営「一日乗車券」600円
神奈中バス 他1400円
合計 2,000円
15回。11路線 約11時間の旅でした。
続編もあります。
【バス旅】横浜18区路線バスの旅(日曜版)
No.442 「路男」君の愉しみ(更新)
私もちょっとだけ鉄分系ですが
今日は新しいジャンルの“提案”をしたいと思います?!
「路男」君です。引かないでくださいね。
私は「路男」君です。→これが路上観察のきっかけ。今は路上観察者!!と呼んでます。
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路(道)を歩くのが好きです。特に横浜の「路歩き」が好きです。
どこへ行っても自宅近所でも、観光地でなくても、
路から見える魅力は飽きることがありません。
何故「路男」?
みちを表す漢字は「途」「道」「路」「径」などいろいろあります。
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国道も脇道に入りながら楽しめます |
その中で人が歩く「みち」を楽しむにはこの「路」がぴったりだという理由で「路男」としました。「道」と「路」両者の違いは辞書的には
多くの解釈がありましたがここでは紹介しません。
(興味のある方はどうぞ)
(路男の旅)
これまでの徒歩旅行の最長距離は
勿来海岸から柏駅前まで三泊四日の徒歩旅行
のべ130キロくらいだと思います。何故“柏”かといえば
単純にギブアップしただけです。
茅ヶ崎から箱根湯本まで往復(一泊二日)
一日30キロ程度なら良くあります。
昔から
一日十里40キロ位とか 一時間4キロが目安ですが 歩くに徹した場合です。
ただ、最近は年のせいか寄り道が好きなので
ゆっくり歩くことが多くなりました。
去年は中距離級ですと
◎長津田駅から県境を北上し多摩川学園駅まで
(自転車も最高)
自転車利用も楽しくなってきました。
その分歩くチャンスは減りましたが
他の都市に出かけると 時間があれば歩いています。
韓国の大邸(テグ)に仕事で行った時には
一日自由時間があったので
朝七時から夜7時まで十二時間街中を歩き
相棒と地元の人から奇異の目で見られました。
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この看板 著作権侵害でしょう!でも人気あるんです。 |
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韓国も旧商店街と新しいショッピングセンターの課題が山積みです |
※因みに韓国語は話せませんがなんとかなりました。
(本題に)
路をただ歩いていることが楽しい訳ではありません。
楽しむポイントがいろいろあります。
発見、体験、冒険、推理
【発見】いろいろな発見をするのが路男君(路上観察)の醍醐味です。#路上観察
道標、記念碑、神社仏閣の発見
マニアックな発見
交差点→T字路、三叉路、四叉路(十字路)、五叉路、六叉路〜
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ダブル五叉路 |
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藤棚六叉路 |
道路標識→国道県道標識
路地裏→迷宮への招待
すかしブロック→昭和の残骸探し?
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横浜市内でも20種類くらい発見しました |
石積み→横浜は傾斜地が多いので石積みも多数発見できます。
橋→奥が深い。これだけで世界が拡がります。
(閉店した)(昔ながらの)商店の看板
【体験】
何はともあれ食べる!
【冒険】
裏路地に入り込むのも、渋い店に入ってみるのも
ちょっと勇気が。でも意外な発見が
【推理】
歩いている「道」と「地図」を比較しながらの時代を推理するのも愉しみの一つです。
ということで、今は路上観察として横浜の街を 徘徊しています。
No.436 北仲のお稲荷さん
北仲の「帝蚕倉庫」脇に1990年代、お稲荷さんがあったことを
急に思い出しました。
探したら写真が出てきました。
今は再開発で移動していますが、
2004年位まではあったような??????
ビル関係者に聞けば済む話しですが
些細なことが気になる私としては
真夜中に資料探しとあいなりました。
今日は些細な北仲稲荷?の話しです。
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曖昧な記憶ですが最初は赤い塀も無かった?ような |
明治頃の北仲に関しては
No.428 Y校創設地はどこだ?
でちょっと触れましたが
古地図には神社らしき記号がありませんでした。
位置的には
みなとみらい線の出口あたりだったか?
ということで
昔(1990年代中心)の地図を引っ張り出してきました。
このあたりも 激変!しています。
おそらく、上記マップの海員会館上部のL時ビルのあたりか?
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航空写真ではそれらしき???木立が???気のせい? |
1992年時点汽車道の架橋が無い!?
本町六丁目のさくらぎビルに中華料理店?があった記憶もありますね。
今日は何の結論も出なかった話しです。お粗末でした。
No.435 【横浜の河川】大岡川物語(1)
大岡川、横浜開港史を語るには欠かせない川です。
多くのエピソードが満載です。
熱狂的なファンの多い「大岡川」を今日は断片的ですが
紹介しましょう。
横浜市内を流れる河川水系は大きく4つに分けることが出来ます。
1.鶴見川水系(一級河川)
市内唯一の一級河川です。→鶴見川については
4月に紹介します。
No.370 1月4日(金)鶴見川 輪下り絶景
2.帷子川水系(二級河川)源流は旭区若葉台近辺から
No.433 帷子川物語(1)
No.434 帷子川物語(2)
3.大岡川水系(二級河川)源流は磯子区氷取沢町円海山近辺
今日の主人公です。
4.境川水系 (二級河川)源流は町田市相原町近辺
横浜市境を流れ、支流の柏尾川は戸塚の歴史と共に歩んできました。
→境川も4月中に紹介します。左馬神社もありますから…。
(大岡川は不思議な川です)
下図をご覧下さい。
大岡川水路模式図を作ってみました。
シンメトリー(左右対称)でしかも
分水路が同じような位置にあるって
見事ですね。
ということで
この川沿いに自転車で走破してみました。
途中、笹下川から分水路沿いに山越えがキツかったですが
概ね川筋は勾配もゆったりとしていて最高です。
川沿いの道も(とぎれとぎれですが)整備されています。
走行時期にもよりますが
上大岡あたりから水量が一気に減少します。
分水路の効果が出ているのでしょう。
大岡川に架かる橋、ざくっと数えてみました。
アバウト100、小さな支流を入れると140位あります。
このツーリングで橋物語も面白いなと思いました。
歴史的に価値のある橋も架かっています。
※浦舟水道橋
1893年に西之橋として仮設された日本最古のピン結合プラットトラス橋です。
横浜市認定歴史的建造物にも選定された価値ある近代産業資産です。
(分水路)
大岡川には分水路が上流と下流に合わせて二つあります。
下流の堀割川は歴史ある分水路です。
流域全長は2.7kmあり、
明治初期に吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫が家運をかけて挑み完成させたものです。
「1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募った。吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行った。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定された」(Wikipedia)
堀割川の役割は、説明にもありますが、
・水運用の水路確保→本牧鼻迂回
・吉田新田埋立用土砂確保→埋地七ケ町へ
という二つの目的がありました。
磯子、岡村エリアの人々にとって
開港場と磯子の地域を船で結ぶことが悲願でした。
陸路では山越え
海路では 波の荒い本牧沖を回らなくてはならず
内水路が必要でした。
(車の無い時代、水運が最も大量の荷物を早く運ぶことができました)
本来なら、公共事業として 国なり県が行う事業ですが、
この「堀割川」プロジェクトは
「神奈川県知事・井関盛良が堀割の埋立工事を自費負担で行う者が
あれば許可するから申し出るようにと布達します。
長者町に暮らす九代目・吉田勘兵衛が志願し予算は23万5000円、米国人から借金して計画します。(『磯子の史話』より)」
関連資料を見る限り、どうやら「吉田家」は無理してこの事業に参入せざるを得なかったようです。
堀割川造成計画は、山を切り崩し 水路も同時に作りつつ埋立を行ってしまおう
という壮大な計画でした。
一方上流の<大岡川分水路>は
1981年(昭和56年)に大岡川の洪水を防ぐために作られた人工河川です。
延長は3.64kmあり磯子湾に繋がっています。
日野川と笹下川、二つの川から水位が上昇すると自然に分流される構造になっています。
改めて見学!というほどでもありませんが
河川工事の凄さを実感できる構造を観ることができます。
No.433 【横浜の河川】帷子川物語(1)
かたびらの衣纏てカッパ住む
帷子川(かたびらがわ)は、様々な歴史物語と共に歩んできました。
カッパ伝説も残っています。水運、工場、街道…
一話では語り尽くせませんが
今日は、帷子川の一断片を紹介しましょう。
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河口付近です |
帷子川は、横浜市内を流れる8つの水系の一つです。
この帷子(かたびら)の名は難読地名の一つですが、
歴史を感じさせる名ですね。
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今回紹介する周辺位置図 |
帷子の語源は音からきた「からひら」→片平が有力です。
「片方が山で、片方が田畑であったため、昔『かたひら』と呼ばれていた。その地を流れていたので『かたびらかわ』と呼んだのが名の由来だとされている」(Wiki)
江戸時代の頃から「帷子」の漢字が使われてきたそうです。
この帷子とは?
麻や苧麻(からむし)で織った布で仕立てた単衣(ひとえ)のことを江戸時代の頃から「かたびら」と言うようになりました。
古来、装束をつけるときに汗とりとして着たものをさし、材質は生絹(すずし)・練り絹(ねりぎぬ)または麻糸で織った布でした。
色は白が正式なものだったそうですが紅帷子も用いられていました。
古来「辻が花」の柄は帷子(かたびら)に紅を基調にした草花文様を染め出したものです。
※縫い締め絞りによる「辻が花染」とは異なります。
このように
帷子の名は、染め布のことを指しますが
明治以降「帷子川」は横浜を代表する地場産業「捺染」を育てた川でした。
→横浜捺染(別テーマで特集します)
横浜には8つの水系があります。
No.378 1月12日(土)川辺の横浜
さらに大きく分けると4つのグループに分けることが出来ます。
図のように
帷子川は、ちょうど横浜市域の真ん中を横断するように流れています。
江戸時代中期まで、帷子川は重要な水運の川として活躍し町が開けました。
特に河口付近(現在の天王町)は、当時深い入江となって、江戸に向けた物流拠点として栄えたそうです。
ところが
江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起った
富士山の宝永大噴火で、川と町の様子が一変します。
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現在の予想図です。 |
新井白石が「折りたく柴の記」に
「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」
と江戸の宝永大噴火の様子を記述しているように、大量の火山灰が神奈川一帯にも降り注ぎました。
この噴火による降灰で、帷子川河口付近に灰が溜まり港の機能を失うことになります。
これをきっかけに、江戸後期に帷子川の入江が整備され芝生(しぼう)村に新しい港ができ、明治まで干拓・埋立が進みます。
開港時、この芝生村が開港場と東海道を結ぶ拠点となります。
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江戸後半の帷子川流域 かなり河口が変化しています。 |
かなり“暴れ川”だった帷子川も次第におとなしくなっていきますが、横浜で最後まで
大暴れした川でもあります。
平成に入り 二度の氾濫を起こしました。横浜駅西口(平成16年10月9日)周辺の浸水を記憶されている方も多いと思います。
帷子川のもう一つの特徴が
河口付近の複雑な水路です。
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河口付近拡大図 |
帷子川本流に支流が
新田間川(あらたまがわ)
石崎川(いしざきがわ)
幸川(さいわいがわ)
と図のように複雑に分かれています。
この水路は江戸時代に原型が出来上がり
明治になり埋立整備が進み現在の流れに固定されました。
それぞれの川には全く異なった風景を見ることができます。
梅も桜も散ってしまいましたが、初夏に散策してはいかがでしょう。
洪水ハザードマップ
http://www.city.yokohama.jp/me/shobo/kikikanri/hmap/
No.432 老松を追い本町に迫る!
昭和の怪僧今東光が1898年(明治31年)生まれた日(3月26日)をネタに昨年のブログテーマ「老松小学校の悪童」にしましたが、
今東光が通った老松小学校について今回改めて調べてみたら
ちょっと面白かったので紹介します。
明治以降、学校制度、学校名がめまぐるしく変わります。横浜の中でも典型的な小学校変遷史を紹介します。まず「老松小学校」の歴史から
1873年(明治6年)4月3日 敬業学
※第一大学区第七中学区第九番小学校「敬業学」
野毛大聖院を仮校舎として誕生します。
1874年(明治7年)10月 敬業自彊学舎
※自彊学舎と合併
1875年(明治8年)6月29日 敬業自彊学校
※宮川町106号地に新校舎新築し移転
1876年(明治9年)7月神奈川県師範学校野毛坂上級修文館の建物に移転。
(現在の横浜市中央図書館の位置)
1878年(明治11年)3月 老松学校
1892年(明治25年)4月1日 尋常高等老松小学校
※学区は老松町、宮川町、野毛町、福島町、宮崎町、月岡町、花咲町
1898年(明治31年)1月 校舎を新築
1898年(明治31年)4月1日 幼稚園を併設
1923年(大正12年)4月1日 老松尋常小学校
1923年(大正12年)9月1日 関東大震災で校舎倒壊、11月まで野外で授業。
1923年(大正13年)3月10日 十全病院跡地に仮校舎完成。
1927年(昭和2年)4月1日 老松尋常高等小学校
1927年(昭和2年)7月旧老松小学校跡に横浜市立図書館竣工
1941年(昭和16年)4月1日 老松国民学校
1944年(昭和19年)9月20日校舎を「横浜市役所」として使用
※老松国民学校は本町小学校に移転し二つの教室を借り開校
(殆どの児童は疎開)
1947年(昭和22年)4月1日 老松小学校
1947年(昭和22年)5月1日
※本町小学校へ統合し現在に至る
そして、市役所に使用した跡地に「老松中学校」ができます。
ここで素朴な疑問が出てきました。
現在中区花咲町の高島嘉右衛門が創設した瓦斯工場跡地にある「本町小学校」はどうして「ほんちょう」なんだろう?
それまで全く気にしていませんでしたが、
本町小学校は 北仲通六丁目七十四番地に
No.428 Y校創設地はどこだ?
横浜商業学校(現Y校)の移転した校舎と「横浜小学校」を改築し
「横浜第一高等小学校」として設立されました。
その後
「横浜市尋常高等本町小学校」→「本町尋常高等小学校」
となり、関東大震災を契機に
1927年(昭和2年)現在の場所に移転しそのまま
「ほんちょう」の名を使用し現在に至っているという次第です。
どちらかといえば地元の老松小学校の名が残らず
本町の名が残ったのは何故でしょう?
No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題
五代目市庁舎(1944年〜1950年)
第二次世界大戦下、空襲を避けるため
野毛山にあった旧老松国民学校(現老松中学校)に疎開し開庁。
鉄筋コンクリート造3階建て。
市議会会議場はすぐ近くの横浜市図書館内に設置
※(推理)
勝手な推理ですが、老松国民学校は1929年(昭和4年)に鉄筋コンクリート造3階建て1,279坪の規模の最新校舎を有していました。
戦火が激しくなる中、「老松」の児童は1944年(昭和19年)8月箱根に集団疎開します。市役所移転が9月20日ですから ほとんど学校の機能を失っていた状態でした。
市庁舎移転には適していたという訳です。
実は 本町小学校も同じ日に箱根へ疎開しその後北足柄村に移動しています。
学校機能が回復したのは 終戦後のことです。
戦後、老松の名は「中学校」に残り
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老松中側から野毛坂を臨む |
小学校は「本町」に老松小学校と吉田小学校が吸収合併され現在に至ります。