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第864話 野毛界隈入門その1
(プロローグ)
「野毛界隈入門」と題したのは私が<野毛界隈>について入門、体験の記録である。
この野毛の街を語るにはかなり勇気がいる。
この界隈を愛し、この界隈を語ったら止まらない大先輩から若手論客諸氏が手ぐね引いて構えておられるからだ。
私も野毛の近くに暮らし始めて十五年を越え、ぼちぼちこの街のことを調べてみようと思い立ったが大変な作業であることに気がついた。実に奥が深い。
野毛に関しては数多くの研究資料、エッセイが残されている。これらの諸先輩の資料を読み解く作業も楽しい。野毛といえば夜のイメージが強いが近くに暮らすこともあり昼間の野毛散策も多い。坂が多く年寄りには難儀するが、時折街並みの合間から見える野毛の街並みも面白い。夜の野毛はかつてノンベイだった頃の記憶がたくさん残っている。
呑みに行く<野毛界隈>には漠然と宮川町や日ノ出町も含まれていたので、ここでも野毛界隈として広く日ノ出町、宮川町、花咲町をベースに紅葉ヶ丘、宮崎町、老松町も含まれるていることをご了解いただきたい。
界隈は界隈であって、行政区分ではなく、時に範囲が自在に伸縮するところが<界隈性>なのだと思う。
<野毛連山>
野毛界隈は川と海に面し、背後に野毛連山を配する町である。堅く言えば丘の範疇だが、野毛界隈には地名にも野毛山・掃部山・伊勢山(これは皇大神宮の関係だが)・御所山・久保山といった名が残っている。
この山々の連なりを<野毛連山>と仮に命名すると
大岡川を挟んで左岸の野毛連山が、右岸には山手連山が迫っている入江に<吉田新田>が生まれ、居留地が誕生した位置関係が見えてくる。
野毛村から野毛連山を越えると、また深い入江があった。帷子川の入江である。
横道にそれるが、帷子川の入江の向こうにも丘が広がり、海に迫る幸ヶ谷公園から高島山・高島台(高島嘉右衛門)から台町・浅間台とこちらも帷子川の入江を囲むように丘が迫っている。
東海道は江戸日本橋を出発して平らな街道の旅をし、最初の山坂が神奈川宿を過ぎたあたりから始まる。保土ケ谷を過ぎると国境に<権太坂>が待ち受けていた。
明治期にはちょいワルおやじたちが7人東京から横浜・金沢まで観梅(杉田)を兼ねて自転車ツーリングに出かけたという記録がある。このルートも保土ケ谷から山を越え(たぶん引いて越えた)井土ヶ谷にでて杉田に向かったのだろう。
No.53 2月22日 アーティストツーリング
俳人正岡子規に至っては
親友の秋山真之と無謀な徒歩旅行に出かける。酔った勢いで着の身着のまま何の準備も無く「鎌倉に行こう」と下駄履きで出発、へばりながらも戸塚手前でギブアップ。東神奈川まで這々の体で戻り電車で東京に帰ることになる。
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン
<野毛を横浜の中心に>
横浜開港場という立地は、江戸から見てダブルリバー、神奈川宿から3つの山を越えて行くことになる。その中でも一際厳しい<野毛連山>を開港時には突貫工事で真っ直ぐな道を開くことになった。横浜道である。
この野毛連山の頂きに横浜の新しい中心都市を置くことを目論んだ人物がいる。
震災後、横浜の復興計画を立案した牧彦七という人物だ。
牧彦七は「雷親父」「ライオン」とあだ名された土木のスペシャリストで、関東大震災後、上司の後藤新平から誘われ都市計画局長として帝都復興事業に尽力した。
中でもダイナミックな5億円規模の横浜・震災復興都市計画案(通称・牧案)は関係者を驚かせた。
現在のように、東海道本線の「横浜駅」界隈と開港の町JR根岸線「関内駅」界隈(開港場であり関内外エリア)の分断を結ぶ必要性を感じ中間に街を開こう!と考えた。
この計画は見事に地元の反対から夢物語に終わったが、実現していたらこの街はどうなっていったか?創造すると実に面白い。
【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!
あまりに急階段で高かったので<多い>というときにまとめて<百段>と表現することが ママある。





中からわかりやすい一枚を拡大、下から数えてみた。




第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史
戦前、海軍の大セレモニー観艦式が20回近く行われました。
今回は観艦式を<横浜絵葉書+資料>で整理し戦前の戦争史を振り返ってみます。
観艦式とは1341年に英国で始まった軍事デモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために艦隊出撃の際に観閲したことが始まりです。
明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
この内、横浜で9回(半数)実施されました。
観艦式一覧
当時は第 回という名称では無く多くの場合年号で示しました。
○1868年4月18日(明治元年3月26日)
大阪天保山沖。参加艦艇数7隻
○1890年(明治23年)4月18日
神戸沖。海軍観兵式 参加艦艇数6隻
○1900年(明治33年)4月30日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数19隻
○1903年(明治36年)4月10日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数49隻
■1905年(明治38年)10月23日 横浜沖。凱旋観艦式 (日本海海戦勝利)参加艦艇数168隻
横浜で最初に観艦式が行われたのが日露戦争終結(9月5日)に伴う凱旋観艦式 で「日本海海戦勝利」を祝う形で開催されました。
日露戦争は、第一次世界大戦につながる(近代)総力戦の始まりでした。
日露戦争終結は日本勝利という形でしたが、日露共々厖大な戦費負担と経済疲労に喘いでいて、当時の常識であった<賠償金>を得ることができなかった勝利でした。
国内世論は戦利品のない勝利の不満に沸騰し、暴動が起こり東京で初めて戒厳令(緊急勅令)が出されました。
このような中での戦勝をPRするために「凱旋観艦式」が行なわれました。艦隊の最高責任者(艦隊長官)は東郷平八郎(大将)、英米艦隊も参加しました。
観艦式に参加した艦艇数の多さからも、この観艦式の意味合いがわかります。
○1908年(明治41年)11月18日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数123隻
■1912年(大正元年)11月12日 横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数115隻 航空機2機
7月30日から大正となり初めて行われた観艦式です。ここで航空機が登場します。
○1913年(大正2年)11月10日
横須賀沖。恒例観艦式 参加艦艇数57隻 航空機4機
→1914年6月28日 第一次世界大戦(〜1918年11月11日休戦協定)
1914年8月23日 日本ドイツに宣戦布告
■1915年(大正4年)12月4日
横浜沖。御大礼特別観艦式 (大正天皇即位式)
参加艦艇数 124隻 航空機9機
■1916年(大正5年)10月25日
横浜沖。恒例観艦式 参加艦艇数 84隻 航空機4機
→1918年(大正7年)8月2日 シベリヤ出兵
11月11日第一次世界大戦終結
○1919年(大正8年)7月9日
横須賀沖。御親閲式 (欧州派遣艦隊慰労) 参加艦艇数 26隻
※日本海軍駆逐艦隊が対ドイツ潜水艦のため地中海に派遣された。
1918年12月19日、7隻のドイツ潜水艦が日本海軍第二特務艦隊に引き渡され英米仏が不可能と見ていた日本への曳航に成功し1919年6月18日に横須賀港に到着した。
■1919年(大正8年)10月28日
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 111隻 航空機12機
→1920年(大正9年)1月10日
日本、国際連盟に正式加入。常任理事国となる。(アメリカ不参加)
4月6日 ハバロフスクで日ソ軍事激突。(〜29日)
■1927年(昭和2年)10月30日
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 158隻 航空機83機
→1928年(昭和3年) 張作霖爆死事件。
■1928年(昭和3年)12月4日
横浜沖。御大典記念 参加艦艇数 186隻 航空機132機
御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)※史上最大
○1930年(昭和5年)10月26日
神戸沖。特別大演習観艦式 参加艦艇数164隻 航空機72機
→1931年(昭和6年)9月18日 満州事変勃発
■1933年(昭和8年)8月25日
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数159隻 航空機200機
→3月24日 日本が国際連盟脱退を通告。
→1934年(昭和9年)12月19日 ロンドン軍縮会議決裂。
→1936年(昭和11年)1月15日 ロンドン軍縮会議を脱退。
○1936年(昭和11年)10月29日
神戸沖。特別大演習観艦式 100隻 航空機約100機
→1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件。7月28日支那事変へ。
→1937年(昭和12年)11月6日日独伊の三国防共協定。
→1939年(昭和14年)5月11日ノモハン事件。日ソ軍衝突、日本大敗。
→1939年(昭和14年)9月1日ドイツ軍がポーランド侵攻、第2次世界大戦始まる。
■1940年(昭和15年)10月11日
横浜沖。参加艦艇数 98隻(推定) 航空機527機
紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式
【日本海軍最後の観艦式】
■関連ブログ
戦前観艦式資料
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5064
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=315
【横浜側面史】 観艦式
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5286
第857話【絵葉書の風景】謎解き大日本水産会
ここに「大日本水産会創立二十五年紀念」の絵葉書があります。

水産共進会発行
Pablished by the Fishery Exposition in Commemoretion of the twenty-fifth Anniversary of the Japan Fisherv Society.
(※英文には一部誤植がありますがそのまま転記しました)
発行時期:1906年(明治39年)10月ごろ
発行年確定の根拠は後述します。
絵柄:明治15年(設立時)と23年後の明治38年の輸出水産物金額比較
明治15年235万円
明治38年957万円
背景には 海藻と魚がイラストで描かれています。
海産物に占める<昆布類>の割合が大きかったのでしょうか海藻類(昆布とワカメ)中心ですね。
(見本市)
近年、首都圏では幕張メッセ・東京ビッグサイト・パシフィコ横浜が様々な見本市(Trade Show)開催が競われています。
戦後以上に業界Trade Showが全国各地で開催されました。
その名も
博覧会に加えて共進会・五二会(織物・陶器・銅器・漆器・紙の5品目に雑貨と敷物の2品目を加えた製品産物等の品評会)・実業大会 等々。
ちなみに1879年(明治12年)第一回製茶共進会、第一回糸繭共進会が横浜で開催されました。(正確には調べていませんが横浜初の共進会ではないでしょうか)
No.259 9月15日(土)全国お茶の品評会開催
【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの2
(水産共進会)
共進会は、日本の産業振興を図るため、産物や製品を集めて展覧し、その優劣を品評する会のことで水産共進会は
1882年(明治15年)に設立された「大日本水産会」が主催した共進会です。
この大日本水産会は現在も社団法人として活動を続けています。
http://www.suisankai.or.jp
「大日本水産会は水産業の振興をはかり、経済的、文化的発展を期することを目的として、明治15年(1882年)に設立された、我が国唯一の水産業の総合団体です。」
※水産業に関係する生産者、加工業者、流通業者、小売販売会社など、約400の会員で構成されています。
であれば
創立25年となっているこの絵葉書は明治15年+25年で、明治40年ごろだろう。
明治40年に何か大きな「水産共進会」が開催されてはいないか?
明治40年9月に発行された「大日本水産会報300号」目次に
第2回関西九州府県連合水産共進会とあり、その他の資料からも
「明治40年(1907)、関西・九州の各県を中心に20の府県が参加し、「第二回関西九州府県連合水産共進会」が長崎市で開かれた。」
とありましたから、この創立25年紀念も長崎で行われたのかな?
と推理しました。
どうも腑に落ちない。何か変だと感じ、ここで一旦書くことを休止しました。
理由は、
この絵葉書が入手時<数枚の他の絵葉書>と一緒に袋に入っていたからです。
開港五十年紀念絵葉書2点
東京勧業博覧会
第十回関東区実業大会
そしてこの一枚でした。
この五枚がまとまっているのは偶然か?何かの理由があったのか?
ここで再度、資料を探ってみることにしました。
同封の他の絵葉書に関して調べ始めると
実にお恥ずかしい話、簡単に謎が解けてしまいました。
時系列に並べました。
1906年(明治39年)10月〜
第十回関東区実業大会
1907年3月20日(明治40年)〜
東京勧業博覧会
1909年(明治42年)
開港五十年紀念絵葉書
(同時開催)
第十回関東区実業大会
1906年(明治39年)10月〜
日露戦争が集結した明治38年、国家破産寸前の戦争を米国の仲介で終えた日本は、国民の猛烈な批判を浴びつつも、なんとか勝利宣言し国家財政の立て直しのために産業振興策を打ち始めます。
関東区実業大会は、東京・神奈川・埼玉・群馬・千葉・茨城・栃木・長野の1府7県が参加し、毎年秋に開催され区切りとなる第10回は横浜で開催。
この第十回関東区実業大会と同時開催されたのが
「大日本水産会創立二十五年記念水産共進会」ということが判りこの絵葉書の謎が判明しました。
「大日本水産会」の沿革に記載して欲しい!!
(一連のイベント)
この絵葉書群をいっしょにされていた方は、恐らく数年間の大きなイベントの記憶のために一緒にされていたのかもしれません。この時期は、前述の通り、日露戦争終結後から第一次世界大戦までの戦間期です。
経済も変動が多く、人々の意識もうつろい生活に変化が起こっていきます。
絵葉書の魅力は、統一されたサイズに時代の情報が記載されていることです。
(略年表)
明治15年2月
大日本水産会創立、小松宮彰仁親王を会頭に奉戴。品川弥二郎氏を初代幹事長に選出
明治15年4月
「大日本水産会報告」第1号発刊
明治16年3月
第一回水産博覧会上野で開催
明治19年3月
水産共進会 東京上野公園で開催(第三回?)
明治20年
大日本水産学校 設立(短命)
明治21年
石巻を会場として水産共進会が開かれ、これが起爆剤となって石巻の水産業が発展
明治22年1月
水産伝習所(東京水産大学→東京海洋大学)の開所式を挙行
明治23年7月
水産功績者の第一回表彰を行う、戦後数年を除き毎年実施
明治25年8月
大日本水産会報告を「大日本水産会報」と改題
明治28年1月
本会幹事長が帝国議会に漁業法案を提出、本法案が漁業諸法制制定の端緒になる
明治30年
水産伝習所、農商務省の水産講習所に組織変更
明治30年3月
遠洋漁業奨励法制定
明治34年4月
漁業法公布
明治36年
神奈川県水産共進会
明治37年2月
対露宣戦布告
明治39年10月14日
第10 回関東区実業大会(から16日)※毎年秋に開催
会議に合わせて大日本水産会の創立25年記念水産共進会と、
横浜港輸出品の改良発展をはかる目的で横浜輸出品品評会が開かれた。
明治39年11月
大日本水産会創立25年記念水産共進会審査報告
明治40年
水産共進会三重県 津で開催
明治40年12月3日
水産共進会本県受賞者 一等古賀辰四郎他
明治40年9月
第2回関西九州府県連合水産共進会(塩)大日本水産会報300号(明治40.9)
明治41年
第二回関西九州府県連合水産共進会
明治42年5月
社団法人許可、漁業模範船「水産丸」を7月に進水
明治44年4月
農商務省設置
大正5年5月
「水産宝典」発行 大日本水産会報を11月に「水産界」と改題
大正12年3月
中央卸売市場法公布
大正12年9月
関東大震災
大正12年10月
朝鮮水産共進会。10月10日から31日にかけて開催。
朝鮮水産共進會総裁 有吉忠一※ 朝鮮政務総監(〜大正13年)
朝鮮水産共進會長 和田純 慶尚南道知事
朝鮮水産共進會協賛會会長 香椎源太郎
朝鮮水産共進會事務総長 小西恭介
朝鮮水産会長 西村保吉
※大正14年、第10代横浜市長に就任、復興事業を推進。
大正15年1月
石垣産業奨励会(現農林水産奨励会)を設立
昭和7年5月
「日本水産動植物図集」完成
昭和7年10月
全国漁業組合大会の開催、漁業法改正、重油対策等を検討
昭和8年5月
「水産デー」を設定、毎年行事を開催
昭和8年12月
東京中央卸売市場竣工
昭和16年12月
対米英宣戦布告
昭和20年5月
三会堂ビル戦災により焼失
昭和20年8月
終戦
昭和20年9月
トルーマン宣言(大陸棚地下資源等)
昭和22年7月
水産振興会議を設置し水産庁の設置、資材確保、金融問題等検討を行う
昭和23年7月
水産庁発足
昭和24年12月
新漁業法制定
昭和26年10月
戦後最初の全国水産大会の開催
以下省略
第855話 1983年(昭和58年)7月21日二俣川
相鉄線「二俣川」駅は 運転免許試験場があることから横浜市民に広く知られています。
ここで相鉄線は<いずみの線>に分かれ「湘南台駅」につながっています。
旭区役所は相鉄線の一つ横浜より「鶴ヶ峰駅」にありますが、乗降客数は圧倒的にここ「二俣川駅」が多く旭区の中心駅となっています。
今日この駅を取り上げたのは
市内二番目のCATV局「横浜ケーブルビジョン株式会社」が
横浜市旭区二俣川2−91に
1983年(昭和58年)7月21日の今日設立されました。
(開局ラッシュ)
1980年から90年代にかけて横浜市内でも
CATV(Common Antenna TeleVision および Community Antenna TeleVision (共同受信)の略)事業が始まり市内15区に渡って7局が開局します。
最初のCATV局は
◆緑区・青葉区。都筑区エリアに
Tokyu Cable TV「株式会社東急ケーブルテレビジョン」1987年10月開局
※現在はイッツコム-テレビ(1983年3月2日設立)
当時:加入31,500円 月額3,150円
◆旭区と泉区の全域・戸塚区の一部エリアに
YCV「横浜ケーブルビジョン株式会社」1988年4月開局
当時:加入21,000円 月額3,150円
◆南区・磯子区・中区の一部エリアに
Bay Wave 「株式会社横浜テレビ局」1992年10月開局
※現在ジェイコムイースト傘下「J:COM横浜」に
当時:加入52,500円 月額3,150円
◆鶴見区・神奈川区・港北区の一部エリアに1993年10月開局
YOUテレビ「YOUテレビ株式会社」
当時:加入26,250円 月額1,260円
◆金沢区全域エリアに1996年4月開局
TOWN TV Kanazawa「株式会社タウンテレビ金沢」
当時:加入52,500円 月額3,650円
◆戸塚区・栄区エリアに1997年7月開局
タウンティ「株式会社タウンテレビ横浜」
当時:加入51,500円 月額3,675円
◆青葉区の一部エリアに1987年12月開局
OCV小田急ケーブルテレビジョン「株式会社小田急情報サービス」
当時:加入52,500円 月額3,150円
★上記料金には有料チャンネルは含まれていません。
局によって視聴できるチャンネル数も微妙に異なっていました。
「横浜ケーブルビジョン株式会社」は
1988年(昭和63年)4月2日
横浜市旭区エリアで営業放送を開始します。
その後戸塚区の一部エリア、保土ケ谷区、西区にエリアを拡大し、現在は横浜市保土ヶ谷区神戸町134 横浜ビジネスパークに本社があります。創業の地旭区にもさちが丘事業所を残し相鉄沿線の拡充拠点となっています。
(二俣川駅)
1926年(大正15年)5月12日開業の二俣川駅
No.695【横浜路線バスの旅】市民に最も利用されている路線は?
現在駅ビルの建て替えが始まっています。
将来 相鉄線の東急東横線との接続が計画され、二俣川が拠点駅となっていきます。
湘南台から日吉・渋谷までの連結で、大きく変わっていく可能性を秘めています。
※慶應義塾の湘南台、日吉、三田を!
文教大学の湘南、旗の台、越谷、石川台を結んでくれ!
って要望が強かったんですかね??
最近何かと話題のギリシアですが、
日本とギリシャの間にはいくつかの姉妹都市があります。その中で、姉妹提携のある横浜の街が大倉山商店街です。
1988年(昭和63)7月21日の今日、「エーゲ海フェスティバル」が開催され姉妹提携が行われました。
第853話 7月20日 京急仲木戸
1941年(昭和16年)7月20日(日)
「海の日」の起源となった「海の記念日」が制定され、横浜でヨット大会が開催されました。
幻の東京オリンピックにも関係したこのレースの話ではありません。
安政6年の話です。まずは京急「仲木戸駅」から始まります。
京急「仲木戸駅」を降り、海に向かって少し歩くと国道15号線に出ます。
この道をさらに真っ直ぐ進むと「村雨橋」その先に「瑞穂橋」があります。
この2つの橋は、横浜戦後史にその名を残す「戦車」の橋でした。
今回はこの橋を越えず 手前で右に曲がるとしばらくして運河沿いの景色が見えます。
ゴルフ練習場のフェンスを左手に見ながらさらに進むと“古い石積み”を観察することができます。
奥に高層マンションが見え、手前に倉庫群がありこの建物を大きく周り込むように進むと「神奈川台場」の遺構が一部残された「神奈川台場公園」があります。
(神奈川台場公園)
横浜の歴史好きなら一度は訪れたことのある場所です。昨日の「第852話 7月19日京浜急行線権現山」で少し触れた神奈川台場は幸ヶ谷から土砂を削りだし埋立て、石は真鶴から運んだと言われている江戸末期の遺構です。
ここは
勝海舟が基本設計を行い伊予松山藩が築造した船舶警備用の施設です。
台場といえば品川の「お台場」が有名で、全国にも数多くの幕府と各藩により築かれた「台場」が残り“指定文化財”“国の史跡”等に指定されています。
その点、この神奈川台場は開港場沖を監視するという重要な役割を担いますが、間もなく歴史からその姿を消してしまいます。 この神奈川台場は他の台場には見られない“船溜まり”を持つ構造を持っていて、「蝙蝠台場(こうもりだいば)」とも呼ばれた歴史的にも貴重な歴史遺構でしたが、近代化のうねりに飲み込まれてしまいました。
ペリーが江戸湾に姿を現したことで、幕府は江戸湾の警備をいくつかの藩に命じます。この「台場」のある神奈川宿一帯は“坂の上の雲”で一躍注目された伊予松山藩が担当することになります。(因みに横浜開港場は越前松平藩が担当)
「万延元年(1860年)に藩財政1年分にあたる7万両と、延べ30万の人員を投入しわずか1年で完成させました。設計は西洋通の勝海舟に一任したと言われています。この台場は軍事施設でありましたが、明治以降は諸外国の外交団が来日した際や、国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用され、国際都市横浜の発展を支える重要な役割を果たしてきたと言えます。
明治32年(1899年)に台場は廃止され、大正10年(1921年)頃より徐々に埋め立てられ、現在ではJR東高島貨物駅構内にごくわずかに石垣を残すのみとなり、かつての景観はありませんが、現在の横浜市はこの台場が基礎となっており、貴重な史跡となっています。(伊予萬翠荘)」
「隠岐守(伊予藩)は海防の事には頗る熱心であった丈けに、幕府に砲台を築く事を願ひ、最初は神奈川宿の猟師町と並木町との二ケ所に設ける考へであったが、段々調査して見ると相当の砲台を築くならば、近距離に二ヶ所も設くる必要は無いと云ふので猟師町の方だけに築造する事にした。
当時品川砲台は頗る不評判であったので,折角築造するならば効力の充分なものをとの評議であった。(横濱市報1938年)」
と説明されています。
<品川台場>が不評だった!という記述には1938年当時、東京と神奈川で開港紛争が起こっていましたので100%丸呑みにはできませんが、<神奈川台場>のデザイン性からもかなり実効性を求めたことが判ります。
そして台場の設計が勝海舟に依頼され、安政6年5月に実測後の<縄張り・杭打ち>を佐藤政養が担当し
この年の7月20日の今日
工事が始まります。工期は当時としては極めて短期間の約一年で完成、万延元年6月に竣工しました。
横浜開港の幕開けに欠かせない<神奈川台場>近年再調査と保全が進められています。まだ多くの遺構がJR貨物の「高島駅」構内に埋もれています。
今後、遺構が再出現する可能性もあり楽しみです。
現在は台場に隣接して<コットンハーバー>のマンションが建っていますが、この一帯は浅野造船所でもあったため、造船所も遺構も残されています。
夏は少し汗ばみますが、秋口にでも一度散策されてはいかがでしょう。
※コットンハーバー行きのバスがあります。
京急仲木戸からは徒歩20分くらい
No.202 7月20日 (金) 港をヨットが舞った日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=405
今日は元「海の日」です。
第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い
京浜急行神奈川駅は京急線の中で一番“狭い”ホームのある駅です。(感覚です。実際測っていません)
開業は1905年(明治38年)12月24日、歴史ある駅です。
今日は駅そのもののエピソードは別の機会に譲ります。
神奈川駅のある一帯は明治期に鉄道を敷設する際、丘陵の一角を大きく削りました。
神奈川駅を挟んで両側が繋がっていました。東京に向かって右側(東側)の駅際にある小高い丘が「幸ケ谷公園(権現山)」、反対側の西側が高島台にあたります。
今日は横浜の歴史を一気に戦国時代へと時間を戻しましょう。
時は16世紀初め、永正7年(1510年)7月19日の今日は、9日間も壮絶な権現山(ごんげんやま)の戦いが終わった日です。
「権現山の戦い」とは、上杉連合軍がここ権現山を居城とした上田勢と支援した北条氏を破った戦いです。
江戸時代に本格的に整備された東海道ですが、それ以前から東海道は太田道灌の開いた江戸と西国を結ぶ重要な道でした。東京駅から東海道線に乗ると品川近辺の御殿山を過ぎると、平坦な道が続きます。
神奈川県に入り最初の丘陵がここ<神奈川>です。
中世から、権現山は街道の要衝にあたり、戦略的に重要な場所でした。
当時武蔵の国一帯は上杉一族の勢力下にありました。その南端にあたる城が権現山城で扇谷上杉朝良家臣<上田蔵人政盛>が城主として一帯を治めていました。ここに、波乱が起こります。伊豆にあった北条早雲が、鎌倉まで勢力を伸ばし、さらには武蔵の国へと侵攻します。
この時、早雲は権現山城主であった上田 政盛に、上杉傘下から我が北条の仲間になれというメッセージに呼応し兵を挙げます。
この権現山の戦いに関しては上田 政盛が早雲の策略に乗って主君<上杉>を“裏切る”といった表現が多いようです。
「伊勢宗瑞(北条早雲)の調略に応じて相模国境に近い武蔵国権現山城で挙兵した。」
「まず扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を寝返らせ、修築したばかりの相模国<ママ>権現山城に据えた。」(文中相模国→武蔵国)
「早雲は永正4年(1507)、越後の守護代長尾為景(ながおためかげ、1489〜1543・上杉謙信の父)と守護上杉房能の戦いに乗じて、扇谷上杉氏家臣の権現山城主上田政盛(うえだまさもり、生没不詳)を寝返らせます。」
資料を読むと事態はそれほど単純では無く、関東上杉家の<内紛>が<上杉家>に反旗を翻す要因と考えるのが妥当と思われます。元々、権現山城主 上田政盛は扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣でした。ところが、同じ上杉家の<山内上杉家>によって領地だった神奈川湊を奪われてしまいます。ここに<山内上杉家>に対する反感(恨み)が生まれ、新たなる勢力となってきた北条早雲に与します。
ただ悲劇なのは、この反旗によって仲違いした扇谷上杉家の上杉朝良と山内上杉家の上杉憲房が連合で上田政盛の挙兵した権現山城を圧倒的陣容で包囲し壮絶な戦いが行われ、早雲の援軍が到着する前に陥落します。
※一説では上田政盛は生き残り、後に扇谷上杉家家臣として復活したという説もあります。
この権現山の戦いをキッカケに関東全域をめぐって伊勢氏(後の北条氏)と上杉氏との同盟関係が完全に破綻、戦国時代の覇権争いが激化していくことになります。
(神奈川台場)
この権現山の戦いの舞台となった場所は現在幸ヶ谷公園となっています。ただ戦いのあった当時よりかなり<低く>なっています。
ペリー来航後、急遽神奈川台場を構築するにあたり、埋立て用の土砂がこの権現山の山頂部分を削って使用されたため低くなり<台形>に変わっています。
※余談
この権現山の戦い、2万の上杉勢に対し2000の将兵で迎え撃った上田政盛陣営は圧倒的大軍の前に惨敗しますが、そこに
「19日上杉勢がなだれのごとく城内に乱入した時、城中より「我こそ神奈河の住人間宮の某」と叫びつつ上杉に突入した勇ましい武士がいた。神奈河(今は神奈川と書く)住民間宮とは信冬もしくは子の彦四郎信盛と伝えられている。」
この間宮は討ち死にせず戦のあと笹下に居を構え、北条政権下磯子一帯の領主となります。この間宮家が杉田家となり産業の少ないこの地で梅林などの殖産に務めました。
No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=406
横浜港のある東京湾は、船舶の航行が集中するポイントにあたります。
船舶通航信号所として
1986年(昭和61年)7月19日(金)「横浜港シンボルタワー」が完成しました。
第850話 7月16日 能見台からブラ散歩
京浜急行「能見台(のうけんだい)駅」からスタートするぶらり歩き、好きなコースの一つです。
市内の駅としては立ち寄ることの多い駅です。

過去四・五回のぶらり歩きをまとめてみました。
駅の改札を出て駅前から反対側に回りこむように高架橋を越え、少し混みいった住宅街を抜けると緑の多い別世界に入り込んだような<坂道>にでます。
県立循環器呼吸器病センター入口
県立循環器呼吸器病センターがあり、この坂道を少し登り切ると大きく視界が開けます。
駅前から坂道を上り視界が開ける場所、他にも多くありますが
この坂を下っていく気分が私は好きです。地図を看ないと判りませんが、越えた丘の下を<横浜横須賀道路支線>が走っていて、並木出口となっています。
坂を下りて行く途中左手に不自然な公園、ゴルフコースと間違えそうな「長浜・花夢スポーツ広場」があり、
この公園が高速道路の保全施設だということに気がつくには少し時間が必要でした。
元の道にもどり暫く行くと、右手に今日紹介したい「横浜検疫所」と少し下った先にかつて細菌検査所のあった「長浜ホール」があります。
「細菌検査所」は、野口英世が一時期勤務した施設で日本の検疫制度を最初に支えた検疫施設です。
1979年(昭和54年)7月16日の今日、
横浜検疫所で「検疫制度100年記念式典」が開催されました。
開港後、海外との交易で<コレラ>も輸入してしまった日本にとって伝染病対策が急務でした。
No.2178月4日(土)わがひのもとの虎列刺との戦い
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=390
No.89 3月29日ペスト第一号もYOKOHAMA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=528
1879年(明治12年)
虎列刺病伝染予防規則が公布され三浦郡長浦(横須賀市長浦)に「長浦消毒所」が設置されます。
これがわが国最初の<検疫所>です。
その後、日清戦争で横須賀軍港が拡張され
1895年(明治28年)長浜に移転し「長濱検疫所」が設置され現在に至っています。
野口英世がこの「長濱検疫所」に採用され勤務したのが
1899年(明治32年)のことです。
この時「長浜検疫所」の細菌検査室だった施設が現在保全され横浜市の市民施設となり、隣接して「長浜ホール」が誕生しました。
一方、この細菌検査室一帯に近い国の「横浜検疫所」は現在も重要な検疫作業を行っています。
(海岸線観察)
この「長浜ホール」一帯から富岡の先までかつて海岸線であった境目を散策することができます。横浜市内では貴重な地域資産といっても過言ではないと私は感じます。
長浜から富岡にかけてかつての海岸線が昭和40年代まで残されていました。
横浜市内で唯一残されていた海岸線が一気に住宅地となっていきます。開発の際、かつての<海岸線>を意識した開発が行われた?のかどうか判りませんが、
エッジを散策しながら<旧海岸線>を散策することができます。
何度か歩いていますが、古い地図を片手に歩くとワクワクしてきます。
(能見台西側)
1982年(昭和57年)に「能見台駅」は「谷津坂駅」から改称されます。
お年寄りの方には「谷津坂駅」の名を懐かしく感じる方も多いようです。この「能見台駅」の名は、駅西側エリアの大規模な宅地開発に伴い変更されました。
「能見台」の名は、近くにかつて17世紀に「能見堂」という風光明媚な地蔵院があったことに因んでいます。
江戸時代にここから金沢八景巡りがスタートするポイントにあたり、多くの江戸庶民が訪れた場所でした。
海に面した丘陵のエッジに位置する「能見堂」あたりは鎌倉時代から「金沢古道」があり、程ケ谷から金沢に抜ける要所でもありました。 鎌倉時代から江戸、そして近代化に伴い、このエリアは人里離れていたこともあり軍事産業の中心地となります。
戦後、多くの工場が撤退又は産業転換し戦後の高度成長を支えます。そして昭和30年台後半から、まとまった住宅地として開発が進み現在に至ります。
鎌倉時代から現在まで、この「能見台」周辺だけでも濃密な歴史が刻まれています。
(米軍「小柴貯油施設」は?)
「長浜ホール」に隣接する広大な緑地があります。米軍が接収し「小柴貯油施設」として利用していた敷地です。ここは返還されたはずですが いまだ原野!?のままになっています。整備するには<不都合>でもあるのではないか?と疑ってしまいますがどうなっているのでしょうかね。 この「小柴貯油施設」一帯の丘も<水際線>を知る重要なポイントなのでなんとか活かして欲しいですね。
第849話 横浜・新橋、横浜が先?
日本鉄道事始め、この辺に詳しい方には当たり前のことですが
日本最初の駅「横浜」「新橋」は全く同じファサード(顔)を持っていました。


設計は共にアメリカ人建築家リチャード・ブリジェンス、設計者が同じなんだから同じでもおかしく無いけれども、普通<格>をつけてしまうのが近代日本の定番。ところが「横浜」「新橋」は本当にうりふたつ。
横浜駅には<噴水><ガス灯>が写っています。
鉄道の歴史をざくっと
1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)
「横浜」「品川」間の鉄道路線が開通し、横浜駅(初代)が開業。
品川駅は「木造平屋2棟、現在の位置よりやや横浜方、海に面したのどかな駅」だったそうです。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Shinagawa_Station_in_early_Meiji_era.jpg
1872年10月14日(明治5年9月12日)
四ヶ月後に「横浜駅」と「新橋駅」が開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日からなので営業は1872年10月15日ってことです。
この間を<仮営業>と呼んでいますが、個人的には前述の1872年6月12日からしっかり<営業>しているのでこの日を鉄道の発祥の日にして欲しいところです。
さらに!さらに ここがポイント!
手元の資料だけですが
リチャード・ブリジェンス設計の「横浜駅舎」「新橋駅舎」
1872年6月12日開業が「横浜駅舎」
1872年10月14日開業が「新橋駅舎」
ってことは リチャード・ブリジェンス設計の横浜駅は新橋(汐留)より古い、最初ってことですね。
まあ どうでもいいことですが この辺はっきりしておきたいところです。

第848話 1935年(昭和10年)7月15日瑞穂駅開業
1935年(昭和10年)7月15日
「新外国貿易地帯貨物専門取扱駅(瑞穂駅)が新設開業する。(商工会議所百年)」
横浜港は発展とともに次々と<桟橋・埠頭>が増設されてきました。
初期貿易港横浜は1894年<開港場>の中央に鉄桟橋が整備され最初の国際港となります。
その後 国内外の交易や人の往来が急増する中、
桟橋の拡張に加え新たな<埠頭>が次々と建設されていきます。
「大桟橋」1894年
「新港ふ頭」 1917年
「山内ふ頭」 1932年
「高島ふ頭」 1930年1号さん橋完成
「瑞穂ふ頭」 1945年
「山下ふ頭」 1963年
「出田町ふ頭」1963年
No.447 いずたとばななの物語
「本牧ふ頭」 1970年
「大黒ふ頭」 1990年2期埋立完成
「南本牧ふ頭」1990年着工
これらの<ふ頭>造成には鉄道網が欠かせませんでした。横浜港最初の本格的な桟橋となった税関桟橋とも呼ばれた大桟橋にも当初、直結の線路が設置されました。その後の「新港ふ頭」「山内ふ頭」「高島ふ頭」なども鉄道線の敷設と一緒に開発が進みます。
上記の通り、貨物支線の瑞穂線は貨物線「入江駅」から分岐し瑞穂ふ頭に入る路線です。
この「瑞穂駅」はふ頭が完成する前、工事中の1935年(昭和10年)に開設されます。
(幻のふ頭)
この中で幻(まぼろし)といっては少しオーバーですが、
1925年(大正14年)に着工し、終戦の年の1945年(昭和20年)にようやく完成した「瑞穂ふ頭」は完成したにもかかわらず未だ日本船が着岸することがない幻のふ頭です。
この瑞穂駅のある「瑞穂ふ頭」は、
1945年(昭和20年)9月にいち早く米軍によってが接収され、日本側の利用が一切禁止されます。
1947年(昭和22年)8月15日
瑞穂支線に限り、日本側の使用が許可されますが、実質は米軍用の貨物を国鉄が取り扱うようになっただけでした。
1958年(昭和33年)には瑞穂支線が米軍専用線となり線路は残りましたが駅は廃止されます。
(ノースピア)
この「瑞穂ふ頭」は、米軍が接収して以来 通称「ノース・ピア」と呼ばれてきました。
1980年代まで国内で発行されていた英文マップには大さん橋がSouth Pierと表記されていました。
瑞穂埠頭が 北埠頭(North Pier)
大桟橋が 南埠頭(South Pier)
新港埠頭が 中央埠頭(Center pier)
(返還)
この一帯、返還の動きがありますが、完全には返還されていません。
2000年(平成12年)3月31日に「神奈川ミルクプラント」が返還され、陸側と埠頭を結ぶ瑞穂橋及び埠頭外周の港湾道路は2009年3月31日に返還されました。
ここには横浜港内でも存在感のある風力発電所「ハマウィング」が設置されています。
※2009年3月31日以前は瑞穂橋から写真撮影も禁止でしたが、現在は橋までなら撮影していても中止されません。奥にある米軍施設の入口にカメラを向けると<警備員>にお決まりのように制止されます。
(過去の7月15日ブログ)
No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=410
1878年(明治11年)7月15日(月)の今日、
箱根宮ノ下に日本初のリゾートホテル「富士屋ホテル」が開業しました。
富士屋ホテルは創業時、深く横浜と関わっていました。
※ここで 箱根富士屋ホテルと横浜の関係を紹介しています。