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「横浜の道」カテゴリーアーカイブ
C58汽車道を走る
1980年(昭和55年)6月13日〜15日の三日間
「横浜港開港120周年・横浜商工会議所創立100周年記念」イベントにC58が走りました。その頃はまだ横濱に暮らしていなかったので写真も当時の雰囲気もわかりませんがネット上でも熱烈な写真記事が掲載されています。
山口線から横浜にC58を運び 汽車道を東横浜駅から山下埠頭駅まで走行!!
C58は過去に横浜機関区に所属していたことがあり久しぶりの里帰りとなりました。
このルートが現在「山下臨港線プロムナード」となって、歩行専用ルートとなっています。
使用車両はC58-1+スハ43系4両で、一日3往復
東横浜 山下埠頭 東横浜
09:57 → 10:09 10:30 → 10:42
12:30 → 12:42 13:00 → 13:12
14:30 → 14:42 15:02 → 15:14
<写真>
■横浜にC58が走った日。
http://rail.hobidas.com/blog/natori09/sp/archives/2008/05/c58.html
■横浜港開港120周年1980年6月13日
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/174/
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/175/
「山下臨港線プロムナード」
No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=557
「開港の道」山下臨港線プロムナードの終着地点となっているのが
「港の見える丘公園」です。
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=486
【市電ニュースの風景】№22
目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。
1931年(昭和6年)5月・6月
五月
29日 ’Sturdy’号にて Edward Miles Lone sailor crosses Pacific
Edward Miles 氏香港から到着、出発は7月14日で、9月9日にハワイ到着。
三十、三十一日 保土ケ谷家政女学校記念展覧会(電車及バス保土ケ谷終点下車)
三十一日 高工對高商 定期野球戦(電車花園橋下車)
=午前九時半開場 午後二時半試合開始ー横濱公園球場にて=
=六月二日第二回戦挙行ー時間及場所は総て前同様=
31日 花月園少女歌劇団 解散。
31日 神奈川区の浅間神社の復興成りその遷宮祭が行われた
六月一日 浅間神社大祭ー新社殿竣成(電車浅間下 下車)
一、二、三日 厳島神社(弁天社)大祭(電車及バス羽衣町一丁目下車)
一日より五日まで 第十二回開港記念祝賀バザー(横浜公園及日本大通にて)
二日 第二回商工祭(十時公園音楽堂にて)広告仮装大行列挙行
一日より十日まで 最近欧州各国ポスター展示会(電車及バス本町一丁目下車)
=日本大通商工奨励館にて開催ー観覧随意=
四日 むし歯予防デー 映画と満談の会(伊勢佐木町又楽館にてー入場無料)
懸賞標語
満員の電車の次に空が来る (当選者 鈴木 哲次郎 君)
※アラビア数字は別の年表から同時期の出来事を追記したものです。
【キーワード】
■Edward Milesの単独横断
史上4番目に<単独航海世界一周>の成功者で米国NY出身です。
米国のアーカイブには登場しますが日本では検索しましたが皆無でした。
※ちなみに1962年(昭和37年)堀江謙一が日本初の太平洋単独横断に成功し世界一周は1974年に成功、世界ランキング36番目です。37番目も38番目も日本人でした。
36番目
Kenichi Horie – Japan
“Mermaid III” – 1973/1974 – First Japanes
37番目
Hiroshi Aoki – Japan
“Ahodori II” – 1971/1974
Smallest yacht co circumnavigate – 20’8″
38番目
Ryusuke Ushijima – Japan
“Cingitsune” – 1973/1974
■保土ケ谷家政女学校
1912年(大正元年)10月 程谷町立女子実業補習学校
1927年(昭和2年)4月 横浜市立程谷家政女学校※
1928年(昭和3年)4月 横浜市立保土ケ谷家政女学校
1935年(昭和10年)4月 公立青年学校神奈川県横浜市保土ケ谷家政女学校
1936年(昭和11年)4月 横浜市立高等家政女学校
1942年(昭和17年)3月 廃止
※保土ケ谷に30年間存在した女学校で横浜市立高等女学校(現在の桜ヶ丘高校)の家政学校として併設される形で開校。
■三十一日 高工對高商 定期野球戦(電車花園橋下車)
1929年(昭和4年)以来休止していた定期戦が復活した試合です。
■花月園少女歌劇団
京浜急行に「花月園駅」があります。少し前には競輪場があったので花月園というとギャンブル!というイメージを持つ方も多いでしょう。ここはかつて東洋一の遊園地でした。
No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)
この「花月園」の花形だったのが「花月園少女歌劇団」
当時、関西の「宝塚」に匹敵する人気だったそうです。
時代の流れに運営が追いつかず解散の憂き目に合います。
■又楽館(ゆうらくかん )
又楽館は横浜の人気劇場 映画館の一つでした。
場所は長者町6丁目57番地で明治45年※に開業。洋風4階建て2、430人収容の常設活動写真館で横浜有数の規模を誇りました。建物の設計は矢部又吉です。
(大正元年〜 後にオデオン座と合併)「市民とオルガン P29」
※明治45年は7月30日から大正元年となるため 正確な月日が不明な場合明治/大正併記としておきます。
1915年(大正4年)6月4日
時折断片的な史実がつながり始めることがあります。
点が線に線がある形になっていく時に背中がゾクゾクッとします。
これまで900話位の史実をさがす横浜ブログを書いていますが、ゾクゾクッとすることは中々ありません。
今日のネタは調べている過程で少しゾクッとしました。
三人の詩人が横浜で出会った様子を<小説>のように書いてみました。
1915年(大正4年)6月4日(金)
当時藤棚の山頂にあった<神奈川一中>に通っていた熊田 精華(17歳)は、学校で知り合いになった一歳年上の北村 初雄(18歳)の自宅を初めて訪ねました。
中区住吉町に暮らしていた熊田 精華の自宅から 南太田にあった北村 初雄の家まで約2.3キロ、開通したばかりの路面電車に乗ったかどうかわかりませんが徒歩でも40分位の距離は熊田にとって通学路より平坦で楽だったに違いありません。
※神奈川一中は現在の希望が丘高校 北村の住む南太田は、”久良岐郡太田村”として古くからの村でした。
開港後急速に宅地化し、1913年(大正2年)10月1日から11月19日まで「神奈川県横浜市勧業共進会」が近くで開催され、その後共進町となっていきます。
熊田が訪れた北村 初雄の父 北村七郎は日本大通りに竣工したばかりの三井物産横浜支店長でしたので、丘の上の洋館に暮らしていたかもしれません。
一方の熊田 精華の自宅は海岸にほど近い入船通りで父熊田源太は耳鼻科の開業医でした。

この二人を結びつけたのが<詩>でした。すでに露風詩会に参加していた 北村 初雄に熊田が強く影響されたのかもしれません。
北村 初雄は中学時代から詩人三木露風に師事し「未来」に属し露風門下生で三木と同じ歳で兄のような存在の<柳沢健>と横浜で出会います。
北村は1917年(大正6年)7月に中学卒業記念詩集として『吾歳と春』を刊行、<推薦文(序文)>を三木露風が贈り<詩人>としてデビューします。彼は“父の意向で”神奈川一中卒業後 東京高商(現在の一橋大)に進み卒業時(大正9年)にも卒業記念詩集「正午の果実」を刊行します。若さを前面に出した詩風は当時の萩原朔太郎と対比され詩壇に登場します。
残念なことに北村は25歳の若さで結核に罹り夭逝します。
彼が残した詩集は4冊しかありません。
中学卒業記念のデビュー作『吾歳と春』、大学の卒業記念詩集『正午の果実』、死後に発刊された遺稿詩集『樹』
そして1918年(大正7年)11月に柳澤健と 熊田精華と三人で出した共同詩集『海港』の4冊でした。
詩集『海港』に寄せた
北村 初雄21歳の作 「印度洋」から
心地よい朝の日光を浴びて、
Laughter(ラフター)と云う遊戯を行なってゆく、
輪を圍んだ子供達が笑って居る、
空に投げられた手布(はんけち)が地に落ちる迄。
僕は將棋の駒の王様といふ風に、
細長い顔を四角張らせて、身動きもせず、
この庭の薔薇の葉の間から見透かされる、
青い海をば みつめて居る、
其處には確(きっ)と嬉しさうに泳いで居るに違いない、
竹麥魚(はうぼう)や■(かさご)や帯魚(たちのうを)や鯛の群れ。
※■は旧字で表示
栂(とが)の角(かど)ばった葉が日光(ひ)に映えて、
僕を全(すっか)り愉快に.ならせる、彼(あ)の子供達の笑ひ聲。
僕は黙って其れを聞き分けてゆく、
風を孕んだ帆の滑車(せみ)の軋りや櫓の音から。
「初雄さん、遊ばない?」此時、
芝生づたひに走り寄って来る、
真白な真白な可愛い子。
僕はその手を取ながら、静かに尋ねる、
「君のお父様は船乗だってね?」
「ああ僕のお父様は大きな汽船の船長だったの、
だけれどお父様が汽船に乗って、
印度洋を渡って居られるときにね、
お酒を澤山頂いて直ぐにお風呂に入って、
脳充血と云ふ病気に罹って死んで仕舞ったの。」
子供の眼に這入る青筒(ブリュファンネル)の大きな汽船たち、
其は青い空の上に、大きな雲と成って懸って居る。
ああ、巨(おおき)い海洋(うみ)! 巨い海洋!
そうだ、僕が一橋を卒業して、
里昂(リヨン)の会社(みせ)にでも勤務(つとめ)る様に成ったなら、
僕は印度洋を渡って行かう、
そうして、汽船が船長の水葬された所を通過(とほ)るとき、
僕は帽子を脱って挨拶しよう!
「僕は貴君(あなた)の可愛いお子様のお友達で、
姓なら北村、名ならば初雄と申します。」
薔薇の花の揺(ゆす)れが止まった。海は凪いで居る。
子供の眼からは曇りが去った。
僕は自分が話し始めるお伽噺の世界に引込まれて、
青い潮流や人魚のむれや薄紫の貝殻の中で、
印度洋と子供の顔とをじつと見較べる。
●実に素直な 青春詩という感じです。
ここで北村の兄弟子で共同詩集を出した柳澤健について触れておきます。
柳澤健は福島県会津若松市に旧会津藩士の長男として生まれ、一高、東京帝国大学仏法科を経て逓信省の官僚になります。詩人三木露風門下には大学時代に参加し、横浜郵便局長心得在職中に北村と出会うことになります。
1918年(大正7年)11月に
互いに親交を深めた三人 北村 初雄、柳澤 健、そして熊田 精華は最初にして最後の詩集を刊行します。
柳澤健はこの詩集を出した翌年の
1919年(大正8年)4月に逓信省を辞職し大阪朝日新聞社に入社、その後外務省に勤務。フランス、イタリア、メキシコ、ポルトガルなどに駐在し退官後は日本ペンクラブの創設や評論家として活躍すると同時に詩人としても多くの作品を発表しました。
1953年(昭和28年)5月29日没。
エピローグ
熊田 精華は第一中学校を卒業後上智大学哲学科へと進み詩人として活動し、昭和19年には長野県飯山高女で教職につきます。
この間に、一つ年上の山名 文夫と親交を深め、終生の親友となります。
熊田 精華 <七月>
アンナベルリイの午后(ひる)の寝顔に
風が落す淡紅色(ときいろ)の花・
身軽に逃げる小魚(こうを)の後をおひまわして居る私の手・
可愛い猫・一羽の鸚鵡(あうむ)・
それに沢山の糖菓(キャンディ)と
チョコレェトとをのせて居る、
合歓(ねむ)の葉かげの白いボオト。
緑色の「コロンビア」と
形姿(かたち)のいい「エンプレスオブエイシア」・
桟橋のカッフェの卓子(テイブル)では、
帽子をまげたアメリカ人と陶器(せともの)の様な支那人との
切れめの多いのろい会話・
間のびな音をひびかせるNYKの汽艇(ランチ)の笛。
川口の石崖(いしがけ)・警視所の屋根・
広い芝生をのぞいている、
海軍病院の病室(へや)の窓に一つ置かれたアマリリスの花・
旗竿(ポール)をとりまく木椅子の群・
ユニオンジャックをゆるがす風・
RとFを組みあはせた仏蘭西(フランス)領事館の門の金具が、
まぶしい程にうつる水。
ボオトの中にはいま醒(お)きたアンナベルリイの
可愛い瞳(め)・ふりかかる髪をはらひながら
陽にむけておくる優しい微笑(えみ)・
私の両手に音たてる櫂(かい)・
海鳥(みづどり)たちのゆるいはばたき、
その時に山をこぼれて来るクライストチャーチの鐘の響。
水先案内(パイロット)の船の小さな旗と、
グランドホテルの日徐(ひよけ)の影をよりあはせては
踊らす波・海堡の口にならんで居る赤い燈台と白い燈台・
帆(カンバス)の上にもたれる雲・示午球の柱・
碧い海・鸚鵡(おうむ)の声が長く引く、
GO AHEADにおどろく猫。
(七月が二人の前に笑ひ、喜びあふれた、
おお、その時。
世界を両手にささへながら、
私たちは二人は幸福でした。
私たちは二人は幸福でした。
眼には涙があったけれど。
・・・・・・ )
(詩集『海港』から)
熊田 精華には10歳以上離れた年の弟<五郎>がいてとても可愛がります。
親友の山名 文夫に弟を紹介し、弟<五郎>はデザインの道に入り、後に
世界の熊田千佳慕としてアートの世界に大きな足跡を残します。
1981年(昭和56年)のこの日、熊田 千佳慕が70歳でイタリア・ボローニャ国際絵本原画展に出品
(以上、ここには若干私の想像も含まれています。
セミフィクションとしてご理解ください)
(その他の6月4日)
1983年(昭和58年)6月4日
県内で最初の緩衝緑地,金沢緑地がオープン[横浜の埋立]
1983年(昭和58年)6月4日
金沢産業振興センター完成(36)[横浜市会の百年]
1983年(昭和58年)6月4日
都市計画道路「新横浜・元石川線」開通(36)[横浜市会の百年]
1870年(明治3年)6月4日
山手公園が居留地の外国人によって整備されます。
No.120 4月29日 庭球が似合う街
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=496No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園
1990年(平成2年)6月4日に開園した桜の名所として名高い横浜市鶴見区の三ツ池公園の中に「コリア庭園」を紹介します。
【市電ニュースの風景】1931年 №20
目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。1931年(昭和6年)5月
十四・五・六日 伊勢山皇大神宮大祭(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂下車)
十五日 『郵船』浅間丸入港(ホノルルより午前中四号岸壁へ)
十五日 弘法大師誕生会ならびに詠歌大会(電車及バス本町一丁目下車)
=午前十一時より本町開港記念会館にてー入場無料=
十五日より十八日まで
第四回掃部山バザー(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂又は雪見橋下車)
=マネキン劇場支那獅子舞其他余興沢山=
十六日 名古屋高商對横濱高商野球戦(午后三時横濱公園球場にて)
十六日 基督教婦人講演会 入場無料(午后二時尾上町指路教会にて)
十六・七日 神奈川金毘羅神社大祭(電車及バス 青木橋下車)
十六・七日 横濱専門学校記念祭(電車 六角橋終点より約四町)
=中等学校陸上競技会、音楽会、野球試合、提灯行列等ー入場無料=
18日シボレー大キャラバン隊(20数台)到着、元横濱駅裏広場で展覧
懸賞標語
「おつと危い左右(当選者 松本藤四郎君)」
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。
[キーワード]
■伊勢山皇大神宮
横浜の総鎮守「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後現在の場所に遷座されてものです。現在の位置する場所からほど近い戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神社を明治初年に国費を以て創建したもので、開港場の総鎮守として明治から今日まで多くの参拝者が訪れます。
No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮
■『郵船』浅間丸
「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸。主に横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し多くの日本人と訪日外国人を運びました。
ロサンゼルスオリンピックに出場した西竹一男
ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス
ヘレン・ケラー
交換船・海軍徴用船となった後
1944年(昭和19年)2月24日に魚雷を受けて損傷しますが沈没は免れます。修復後マニラから高雄へ向けて航行中魚雷が命中し沈没。
■掃部山(かもんやま)
別の機会に詳しく紹介します。
■尾上町指路教会
指路教会は最初の横浜居住地39番から、現在地、太田町、住吉町を経て1892年(明治25年)再び現在地に戻り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。初代指路教会は
設計:サルダ 1892年(明治25年)竣工
関東大震災で倒壊。現在の建物は大正15年竹中工務店の設計により再建されました。横浜市認定歴史的建造物です。
■神奈川金毘羅神社
大綱金刀比羅神社
「横浜の金刀比羅(こんぴら)さん、大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社であります。」
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座、街道の安泰と袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願した神社です。
■横濱専門学校
神奈川大学の前身の校名。(戦前の歩み)
1928年(昭和3年)
米田吉盛が横浜市中区桜木町に「横浜学院」を開設
現在の西区桜木町6丁目34番地にあった「桜木会館」の1階と2階を借り学校を開校。
同年12月
横浜学院、中区西戸部町富士塚に移転。1929年(昭和4年)
専門学校令により「横濱専門学校」(法学科、商業理財科)を開設
1930年(昭和5年)
六角橋校地(現在の横浜キャンパス(横浜市神奈川区六角橋)へ移転
1939年(昭和14年)
工学系の3学科(機械、電気、工業経営)を新設
1945年(昭和20年)
GHQによって一時的に六角橋校地が接収
大倉山の大倉精神文化研究所と三ツ沢の県立第二横浜中学校(現横浜翠嵐高校)にて授業を再開。
【横浜の国道】133開港の道物語
目下横浜市内の国道を巡っています。横浜市内の国道は
1号、15号、16号、133号、246号、357号、466号があります。
かなり昔ですが自動車では市内全て走破しました。通過しただけですが。
さらに自転車では246号・357号の一部を除いて全て踏破しました。357号は厳密に言うと自転車では走行できない専用道が含まれているからです。466号は第三京浜なので自動車のみです。
246は自転車走行には適さない!道ですね。
今日はこの中から「国道133号」を紹介します。
(国道133号)
全国数ある『国道』の中で、横浜市内に起点と終点のある超短い国道が133号線です。
総延長は1.4 kmで、歩いても2〜30分
「国道133号」一般国道の路線を指定する政令に基づく起点が横浜港なんです。
横浜港といっても横浜市内における横浜港といったら?
「大さん橋」です。
「国道133号」はこの大さん橋に入る交差点「開港広場前」が起点になります。
そして終点ですが、住所では横浜市中区桜木町一丁目(桜木町一丁目交差点)にあたります。
「開港広場前」から「桜木町一丁目交差点(JR根岸線鉄橋下)」までが国道133号線。
全国ランキングでもベスト5に入る短い国道の一つです。
国道174号(0.187km)
国道130号(0.482km)
国道198号(0.6km)
国道177号(0.7 km)
国道133号(1.4 km)
これらの短い国道に共通するのが、港から基幹(主要)国道まで繋がっているということです。港国道(みなとこくどう)と呼ばれています。
「国道133号」の歴史は古く、
1876年(明治9年)6月8日に出された太政官達第60号「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム」という<お達し>から始まります。
■國道
一等 東京ヨリ各開港場ニ達スルモノ
二等 東京ヨリ伊勢ノ宗廟及各府各鎭臺ニ達スルモノ
三等 東京ヨリ各縣廳ニ達スルモノ及各府各鎭臺ヲ拘聯スルモノ
□縣道
一等 各縣ヲ接續シ及各鎭臺ヨリ各分營ニ達スルモノ
二等 各府縣本廳ヨリ其支廳ニ達スルモノ
三等 著名ノ區ヨリ都府ニ達シ或ハ其區ニ往還スヘキ便宜ノ海港等ニ達スルモノ
◯里道
一等 彼此ノ數區ヲ貫通シ或ハ甲區ヨリ乙區ニ達スルモノ
二等 用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該區人民ノ協議ニ依テ、別段ニ設クルモノ
三等 神社佛閣及田畑耕耘ノ爲ニ設クルモノ
「國道」は一等から三等に分けられ、
一等は幅七間 二等は幅六間 三等は幅五間と決められました。
※一間は約1.818m
現在の「国道133号」は、かつて「一等 東京ヨリ各開港場ニ達スルモノ」にあたりました。
といっても当時は<道路>より<鉄道>の時代でした。本格的に道路整備が始まったのが1885年(明治18年)のことです。
1885年(明治18年)1月6日 太政官布達第壹號
「今般國道ノ等級ヲ廢シ其幅員ハ道敷四間以上並木敷濕抜敷ヲ合セテ三間以上總テ七間ヨリ狹少ナラサムモノトス 但國道路線ハ内務卿ヨリ告示スヘシ」
1885年(明治18年)2月24日 内務省告示第六號
1月6日の太政官布達第壹號を受けて「國道表」が作られ、明確な路線が確定します。
その中で第一号が
「壹號 東京ヨリ横濱ニ達スル路線」
日本橋・品川・川崎・神奈川・横濱 となり国道整備が始まりました。
現在の道路整備の骨格となったのが大正8年に公布された
「法律第五十八號」最初の(道路法)です。
例えば
第二條
左ニ掲クルモノハ道路ノ附屬物トシ道路ニ關スル本法ノ規定ニ從フ但シ命令ヲ以テ特別ノ定ヲ爲スコトヲ得
一 道路ヲ接續スル橋梁及渡船場
二 道路ニ附屬スル溝、竝木、支壁、柵、道路元標、里程標及道路標識
三 道路ノ接スル道路修理用材料ノ常置場
四 前各號ノ外命令ヲ以テ道路ノ附屬物ト定メタルモノ
道路に関係する「橋梁及渡船場」「溝、竝木、支壁、柵、道路元標、里程標及道路標識」「道路修理用材料ノ常置場」等も道路法の下で管理されると明記されます。
区分も
國道、 府縣道 、郡道、市道 、町村道の5つに分けられます。明治の「里道」がより細かく市道 、町村道に分けられることになりました。
国道1号線は
一號 東京市ヨリ神宮ニ達スル路線
經過地
横濱市 神奈川縣足柄下郡箱根町 靜岡縣田方郡三島町 靜岡市 濱松市 豐橋市 岡崎市(八丁橋經由) 名古屋市 四日市市 三重縣三重郡日永村 津市(宇治山田市宮川町通經由)
となり現在の東海道(国道1号)に近くなります。
その後
「三十六號 東京市ヨリ横濱港ニ達スル路線」(現在の国道15号と国道133号)
国道の名称は戦前戦後で何回か変更になりますが、
1965年(昭和40年)4月1日
道路法改正により一般国道133号として現在に至ります。
現在の「国道133号」を紹介しましょう。
(ルート133)
開港広場: 起点となった開港広場はペリーが上陸し、日米交渉が行われた場所です。税関桟橋(大さん橋)の入口でもあります。
「国道133号」はある意味開国の道ですね!
歴史的な建造物を抜けていきます。
起点の標識は開港資料館の前に建っています。
(日本大通・本町通)
次の「開港資料館前」交差点の信号を左に曲がり「日本大通り」に入ります。
右手に神奈川県庁本館が建っています。ここから横浜三塔が見えます。<横浜三塔の見える国道>ですね。右手に日本最初の外国郵便を取り扱った「港郵便局」
この「港郵便局前」交差点を右に曲がり本町通りに入ります。次の信号で「開港記念会館」となり、さらに本町通りを進むと左右に銀行が立ち並び、横浜の中心街であった(?)ことを感じます。
※「日本大通」「日本大通り」二種類の表記が使われていますね。
(馬車道)
「国道133号」は<本町通>と重なり馬車道駅のある交差点で左に曲がりますが、この道はかつてはみなとみらいに向かう道がありませんでしたので道なりに桜木町方向に曲がっていました。
この馬車道交差点界隈も横浜開港史の原点となる施設が集中していた<北仲エリア>に沿って日本最初の鉄道駅「初代横浜駅」に向かいます。
(弁天橋)
弁天橋は1871年(明治4年)に吉田橋など開港に伴う関内外を結ぶ橋として架けられました。最初は木造の<桁橋>でした。
1873年(明治5年)橋台と橋脚がレンガ巻の鉄筋コンクリート製、上部に木造のアーチ構造の橋に掛け替えられます。四隅の橋柱にはガス灯が設けられていました。
1908年(明治42年)9月にプレートガーダー橋に架け替えられ
1923年(大正12年)の関東大震災で被災しましたが落橋は免れ、
1928年(昭和3年)10月に復旧工事が完了しました。
1976年(昭和51年)鋼材の腐食により鋼床板鋼鈑桁3連ガーダー橋に架け替えられ現在に至ります。
(初代横浜駅)
明治5年5月7日〜大正4年8月15日まで初代横浜駅として開設、営業していました。
(国道16号)
「国道133号」の終点は、桜木町駅前の国道16号線との合流点です。現在の位置で根岸線高架線の真下にあたります。
横浜史を巡る<国道133号>のウォーキングは如何ですか?
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
ここにある一枚の絵葉書には、弁天橋に大きなモニュメント(ゲート)が建てられ、日米の国旗が飾られています。上にはWELCOM 下には
「BANKERS & MERCHANTS YOKOHAMA」という看板が掛かっています。
横浜の商工会こぞって歓迎 という感じでしょうか。
位置的には、初代横浜駅側から 関内方向を向いていると思われます。 時期は 1908年(明治41年)10月
米国大西洋艦隊が世界一周の途中で横浜に来航する際、横浜の歓迎模様を記念絵葉書にしたものです。
米国大西洋艦隊は16隻の軍艦で構成され、白く塗られていたことから「白船」Great White Fleetと呼ばれました。
米国大西洋艦隊の日本来航「白船艦隊」については別項で紹介します。
ここではその当時の横浜を中心に紹介しましょう。
開港50周年を翌年(1909年)に控えた横浜市では、全体的にお祭りムードでしかも当時の“険悪になった日米関係”を吹き飛ばすウェルカム感覚だったのかもしれません。市長は開口50周年を担当した三橋信方、ハマ市章や市歌を制定しました。
1908年(明治41年)崎陽軒が(初代)横浜駅構内の営業許可を得た年でもあります。また「横浜鉄道(後の横浜線)」もようやく(9月23日)開業し、横浜市内のインフラも少しずつ整備されてきた時期にあたります。
(弁天橋)
かながわの橋100選に選ばれている弁天橋、初代横浜駅から関内に渡る“玄関の橋”として多くの人が利用してきました。現在の橋は1976年(昭和51年)3月に竣工しました。
弁天橋が最初に大岡川に架かったのは1871年(明治4年)のことです。弁天橋は早期に整備された横浜港に向かう<港國道>の一つ「國道第一号」が通る横浜最初の国道に架かる橋です。現在は国道133号線となっています。
初代は木造の桁橋でした。
1873年(明治6年)にレンガを巻いた鉄筋コンクリート製の橋台と橋脚の上に木造のアーチ橋が掛け替えられます。この時に歩道も設けられ四隅の橋柱にはガス灯がありました。
そして、「白船来航」に合わせた?のか開港50周年記念事業だったのか調べていませんが1908年(明治41年)9月にしっかりとした“プレートガーダー橋”に架け替えられました。
この絵葉書は その竣工記念の意味合いもあるのかもしれません。
その後の弁天橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災しますが倒壊することはなく多くの人命を救うことになります。
1928年(昭和3年)10月に復旧工事が完了します。
(ウェルカム弁天通)
明治初期にこの弁天橋が架かることで、市民の多く利用した「吉田橋」に対し、横浜駅を中心にした表玄関として本町通り・弁天通りが栄えます。関内の横軸として<本町通り>が交通のメインストリートとなり、<弁天通り>は関内のショッピングストリートとなっていきます。
明治・大正・昭和前半、この通りは<ウェルカム弁天通り>と呼ばれ、横浜関内の銀座通り的な商店街として賑わいます。ここでも庶民の伊勢佐木、来訪者の弁天通りといった役割分担が出来上がっていました。
いまでこそ 関内の横軸は あまり違いが無くなってしまいましたが、昭和期まで関内の横軸線の各通りには個性がありました。
再度 縦軸と横軸を活かしたまちづくりを編んでみる時期でしょう。
当時発行された「米国大西洋艦隊(白船艦隊)」歓迎の絵葉書
【ミニミニ今日の横浜】3月7日
1978年(昭和53年)の今日
「首都高速道路横浜市道1号横羽線・2号三ツ沢線が開通。」
横浜駅西口出入口(金港JCT)から神奈川区の三ツ沢(第三京浜との接続)が開通しました。これによって首都高速神奈川2号三ツ沢線が全線開通します。
広い意味での「狩場インターチェンジ」の機能が完成し、
首都高速道路、保土ヶ谷バイパス、第三京浜道路、横浜新道に接続します。この時点では「横浜横須賀道路」は未完成です。
2号三ツ沢線 金港JCT〜三ツ沢JCT間 2.3Kmの短い区間ですが、この2号線の開通で、横浜の道路網の重要な区間がつながったことになります。
<関連年表>
1959年(昭和34年)10月28日
国道1号横浜新道の全線が開通します。
1965年(昭和40年)12月19日
第三京浜が全線開通します。
1968年(昭和43年)7月5日
第三京浜と横浜新道との連絡路が開通します。
1972年(昭和47年)8月7日
横羽線、金港JCTまで開通します。
1973年(昭和48年)4月17日
保土ヶ谷バイパスが開通し、新保土ヶ谷インターチェンジの一部が供用開始となります。
1974年(昭和49年)9月25日
新保土ヶ谷インターチェンジ〜狩場インターチェンジ間が開通し、新保土ヶ谷インターチェンジが全面通行可能となります。
1978年(昭和53年)3月7日
横羽線・2号三ツ沢線が開通し横浜新道・第三京浜と接続しました。
同時に横羽線・1号の金港JCT〜横浜公園出入口区間が開通します。
1979年(昭和54年)12月6日
有料道路「横浜横須賀道路」日野IC〜朝比奈IC間が開通します。
1984年(昭和59年)2月2日
横羽線が横浜公園出入口〜石川町JCT開通で、全線開通。
1985年(昭和60年)4月1日
横浜新道と首都高速神奈川2号三ツ沢線とを連絡する「三ツ沢ジャンクション」を新設。
1993年(平成5年)3月1日
首都高速神奈川2号三ツ沢線三ツ沢ジャンクション改良
(3月7日関連年表)
No.67 3月7日 教育会館にて夜露死苦!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=552
下記の
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=578
では、荒廃する子供達の姿が浮き彫りにされました。
金属バット事件から校内暴力へと拡大していく時代です。
あなたにとって 80年代はどんな時代だったでしょうか?
その他
1948年(昭和23年)の今日
新警察法の公布に伴い、自治体警察として「横浜市警察」が発足します。市内各警察署は例えば「横浜市加賀町警察署」と名乗ることになります。
同時期に消防組織も自治消防組織となり1948年(昭和23年)の今日、横浜市消防本部が設置されます。
※加賀町警察といえば横浜最初の警察署です。
No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=422
No.701 運河の街誕生(序章)
江戸時代の日本は、同時代の世界経済史上からもユニークな経済体制だったといわれています。
幾つか理由が挙げられますがその一つが17世紀から2世紀半もの間、戦争(領土拡張も)が無かったことです。緩やかに成長しながら循環型社会が出来上がったことで日本を比較的安定した経済状態を維持することができました。
この近世経済の中核を担ったのが<米(こめ)>でした。
江戸時代の経済は絶妙な「石高制」が支えたのです。
ここに<戦国時代>に進化した利水・治水技術の革新と普及が土地活用の変化を起こします。
耕作地の改善と増加、<稲作>への転換により米の増収が可能となる河口部の干拓事業を全国の諸藩は積極的に推進します。
(河口干拓)
現在のような河口域の青田風景は近世に出来上がります。
それまで河口域は豊富な水があることにはまちがいありませんが、一度大雨となると田畑は根こそぎ流されるハイリスクな場所となっていました。
中世から近世にかけて日本の農業とりわけ稲作は、谷あいの筋に作られ<谷戸田><谷池田>と呼ばれるエリアに集中します。
江戸時代に入り、河口部、湖沼部の開墾事業が<官><民>で盛んに行われるようになります。特に民間の事業者は開墾事業(干拓・埋立て)をすることで新たな土地の所有権や、名字帯刀などの名誉も受けられたため積極的に事業申請が行われます。
この頃、江戸に港都横浜誕生の恩人が登場します。
千住中村の音無川流域の湿原の干拓事業に成功し、木材・石材の販売や新田の農業経営に才能を発揮した江戸の木材・石材問屋「吉田 勘兵衛良信」です。
彼は、江戸での事業を果敢に進めますが、幕府に申請した目標千石に至りませんでした。
そこで勘兵衛は関東近在の候補地から久良岐郡戸部村近くの大岡川河口に広がる深い入海に着目します。
十七世紀中頃の話です。
この頃、多くの事業家達が江戸近辺の候補地探しを実施していました。簡略図をみても明らかなように、江戸時代に河口は「帷子川」「大岡川」の二つありました。勘兵衛は何故「大岡川」河口を選んだのでしょうか?
詳細な理由は資料が無いため判りませんが、この大岡川河口地を選択したことが後に都市横浜を育てた大きな要因となっていきます。仮説がありますが、いずれまとまった時点で紹介します。
(干拓事業)
1656年(明暦2年7月17日)に干拓事業を開始し釣鐘形の入り海を挫折を含め11年の歳月をかけて完成させます。
大岡川入海に誕生した新田は約35万坪、横浜近辺の干拓事業の中では一番早い<大普請>となりました。
横浜の歴史で必ず習う「吉田新田」が開拓されることで、<横浜開港>が現実のものとなります。干拓前の入海状態では、国際港を支える<開港場>の形成は難しく日本側も欧米列強側も<横浜港>議論にはならなかったに違いありません。
もし?帷子川河口が先に<干拓>されていたら、その後の横浜史が大きく変わったことは間違いないでしょう。
ここに歴史の<イフ>の面白さが広がっていきます。
大岡川河口域の<入海>と帷子川河口域<入海>=袖ヶ浦を比較すると
農業経営に適した新田事業候補地として考えた時
帷子川河口域<袖ヶ浦>干拓は非現実的でした。
神奈川宿(湊)に近い帷子川河口域芝生村近辺は、東海道筋にあたり帷子川を使った水運経済が盛んだったことで干拓する理由がありませんでした。
一方の大岡川河口域の<入海>は、江戸中期には河口域の半分が遠浅で船の利用が難しくなっていたようです。
しかも<入海>全体をまとめて干拓するスケールメリットがある点も
勘兵衛はこの地に着目した点でしょう。
これに対して帷子川河口域<袖ヶ浦>の干拓事業は、江戸後期に沿岸部が徐々に部分的に進められます。事業の直接のきっかけが宝暦の「富士山噴火」でした。神奈川県一円に大量の火山灰が降り落ち、上流の支川に流れ込み入江に沈殿するようになります。
川を使っていた帷子川河口域の人たちは必要に迫られて河岸の整備(埋め立て)を幕府に申請します。一方で、河口でこれまで水運事業をすすめてきた勢力とは、入海の利用を巡って係争の記録も残っています。
帷子川河口域は挑戦しつつも失敗、挫折を繰り返し新田を開拓していきました。
(帷子川河口域の新田史)
1707年(宝永4年)
宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火が起こります。
徳川吉宗の新田開発推奨により尾張屋新田・藤江新田・宝暦新田など帷子川河口の岸沿いに「塩除け堤」を築き小さな新田開拓が行われます。
1761年(宝暦11年)
検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)
検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
→開発者の尾張屋九平次、その子武平治に引き継がれますが、頓挫し開発権は藤江、平沼両氏に譲ることになります。
1780年(安永9年11月)
検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)
検地を受け藤江新田となる。
→藤江新田を手掛けた藤江茂右衛門も挫折。残りの権利を岡野勘四郎に譲ります。
(岡野・平沼)
1830年(天保年間)
程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な干拓事業を開始します。
1833年(天保4年)
岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)
検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)
検地を受け弘化新田となる。
1864年(元治元年)
さらに検地を受け岡野新田拡大。
しかし、完全に帷子川河口埋め立てが完了したのは大正時代でした。
(大岡川河口新田史)
1656年(明暦2年)
吉田勘兵衛、江戸幕府から、新田開発の許可を得た。
1656年9月5日(明暦2年7月17日)
吉田新田 鍬入れ式
1657年6月21日(明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで
大雨で潮除堤が崩壊
1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を再開 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島
1667年(寛文7年)
吉田新田 完成
1669年(寛文9年)
功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)
公式の検地、新田村となった。
1804年〜文化年間
横浜新田完成
1850年代
太田屋新田事業着工、完成
1859年11月10日(安政6年)
太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年7月1日(安政6年6月2日)
横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)
野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟が竣工。桜川の誕生。
(まとめ)
吉田勘兵衛が、江戸で成功し新たな事業として大岡川河口干拓に着手。
農業事業として干拓を考えたため事業リスクはありましたが一気に<入海>全体の干拓事業を構想したおかげで まとまった港の後背地が誕生します。
宝暦の富士山噴火で入江に大量の灰が流れ込み帷子川河口域の埋立てが促進されます。沿岸の人たちが必要に応じて順次埋立てを進めていきます。
なかなか全域の埋め立てには至りませんが、入江の埋立て全体の骨格が形成されていきます。この入江のエッジが開港場の要となった<横浜道>筋となります。
ペリーが来航し、一気に横浜開港へと歴史が展開します。
二つの大きな入江が、それぞれの自然条件とここに関わる人々の情熱が重なり合うことで、横浜が<開港場>として誕生することができたのです。
※斎藤司先生の講演を元に構成させていただきました。
No.699 【横浜 失われた風景】ある総菜店
1990年代、戸部駅近辺に事務所があって良く買った総菜店があります。
当時は写真なんて考えていなかったので記録はありませんが、魚のフライがめちゃくちゃ美味しいお店でした。
コンビニでライスだけ購入して総菜はここで揃えるランチに凝った時期もありました。
この店の名は「たかさご亭」。国道一号線沿いにある知るヒトぞ知るお店でした。
横浜の総菜店として紹介したことがあります。
この時お店の名は伏せて欲しいとの要望があり「店名は秘密」としました。
<横浜18区のほん「横浜の食材」>
国道一号線を戸部駅あたりから保土ケ谷駅方向に走ると左手に、セットバックせず拡張工事から取り残されているような“一見 立ち退き反対のような”建物が2軒あって、その一つが総菜店「高砂亭」看板は「たかさご亭」とひらがなになっていました。
一方反対側にはこれまた取り残されたように「理容店」と「酒屋」が営業中で、他に数軒閉店した店舗が並んでいました。時系列ははっきり記憶していませんが
理容店・酒屋が閉まった後も「たかさご亭」は営業していて、コロッケを買いました。
お店には 時折 笑顔がすてきなおばあちゃんがいらして立ち話をしたものです。
このあたりの国道1号線拡幅工事のための土地買収が始まったのがバブルの直前で、以来四半世紀遅々として進んでいないのが現状です。京急戸部駅の拡幅に対応した工事が終了してるので、そろそろ最終工事に入るかな?という状況ですね。
元々 このあたりは1928年(昭和3年)9月に扇田町となり戦後の1966年(昭和41年)に西区中央となったエリアです。扇田のなごりは石崎川に架かる「扇田橋」くらいですね。
おばあちゃんの話では「たかさご亭」は戦後まもなく義理のお兄さんが開店したお店が始まりだとか。区役所があり市電「扇田駅」近くということもあり商売は順調だったようです。
先日、閉店した「たかさご亭」前を通ったら閉店の張り紙に多くの方の書込みがありました。心温まるメッセージですね。
もったいないので記念に撮っておきました。
人づての話では、国道拡幅計画に対し、反対ではないがお店を移転して営業するつもりは無いので、ぎりぎりまで営業したいという意向があったようで、計画進行が遅れることにともなってこの店の命も長らえたというところのようです。また一つ 横浜から時代の記憶が消えていきました。
No.697 【一枚の横浜絵葉書】昔の絵葉書風景を読む。
戦前の絵葉書の役割は現在の絵葉書とは少し異なります。<観光>に加えて<ニュース性>のある絵葉書が多く発行されています。
今回は一枚の読み解きにくい<風景>を探索します。
「Yokohamashi Zenkei 横浜市全景」
<港>や<水際>の無い横浜の全景絵葉書です。あまりに場所がわかりにくい<風景>ですね。ランドマークが良く判らない風景です。横浜全景なのに港がありません。港の無い「横浜」は市域拡張後の横浜では普通ですが、「横浜市全景」をタイトルにしているところから開港場周辺であるとは疑いがないでしょう。ということは、戦前の<組絵葉書>の可能性があります。
港の風景と住宅街の風景を対比させているかもしれません。
が、この絵葉書に写し出されている情景のみで“すこし”読み解いてみましょう。
(ヒントとなるものを探す)
「横浜市全景」という表現からこの風景が1889年(明治22年)から1927年(昭和2年)の市域拡大前の時期ではないかと推理しました。さらに1923年(大正12年)の関東大震災以前ではないかとも推理できそうです。
次に遠景から、地平線に稜線があり、この風景の撮影ポイントもある程度の高いところからと思われます。初期の横浜の特徴を良く顕している<山手側>か<野毛山側>であることは間違いないでしょう。
では、山手側・野毛側?どちらでしょうかと推理してみます。その前に、
ここで一点考えておかなければならない“要素”が「逆版」です。一応逆版画像も紹介しておきます。
<トーンを変えています>
昔の写真や絵葉書には時折この<逆版>がありますので注意しなければなりませんが、今回は参考程度に留めておきます。
稜線の高さが一定に見えるように視界が開け、さらには開港場の洋館などがあまり見えない場所はどこか?
その前に、この風景に写っている<ポイント>を探します。
画像を右下から左上に向け対角線状にかなり広い道路が走っています。
※電信柱から十四・五連の大きさを読み取ることができます。
この通りに沿って、商家の家が連なっています。
ここに通りと川筋を私の推測で引いてみました。
遠景に教会・仏閣が見えます。さらに目を凝らしてみると 左上ゾーンには和風の甍が無いことがわかりますので、もしかしたら元町方向かも?しれません。
稜線の上には建物らしき影もあります。
さらに基本的な風景情報としてこの<光景>は朝焼け?夕焼け?
これらの情報をもう少し織り込んで さらなる謎解きを続けます。
(今回はここまで)
さらに探索を続けます。
この情景は、震災で崩れた「百段坂」上からの開港場風景です。目前に堀川端がはっきり見えています。今回の謎解き風景には道路が一切見えておりません。おそらくもう少し低い位置からの風景と推理できます。
<百段坂>階段中腹としても目前に広がる風景には少し違和感を感じます。では上記画面左端のあたりから見たらどうでしょうか?そうすると<遠景>の建物がかなりマッチするように思えます。
(20150120)時点での中間報告です。