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No.220 8月7日 (火)Visit Yokohama MM

ホテルは街の魅力のバロメーターです。
素敵な街には良いホテル・旅館があります。横浜ホテル事情を観察すると、横浜の魅力度が見えてきます。
1997年(平成9年)8月7日の今日、みなとみらいに3番目のホテル「パン パシフィックホテル横浜」が開業しました。現在は「パン パシフィック横浜ベイホテル東急」と経営母体が変わり改称されています。

「パン パシフィックホテル横浜」は、クイーンズスクエア横浜の運営会社である横浜・シティマネジメントが“みなとみらいエリア”3番目のラグジュアリーホテルとして開業しました。東急電鉄グループが海外ホテル経営を行っていたパン パシフィックホテルズの日本進出(逆輸入)旗艦店として、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル、横浜ロイヤルパークホテル(当時横浜ロイヤルパークホテルニッコー)に次ぐ話題の進出となりました。
http://pphy.co.jp
2007年(平成19年)に創業時の横浜シティ・マネジメントから東急ホテルズ傘下の横浜ベイホテル東急ヘ経営権が譲渡され「パン パシフィック 横浜ベイホテル東急」と改称されました。

“パン パシ”のめざすラグジュアリーさは
“personalized care, because we genuinely care”の実現を目指し、全従業員(アソシエイツ)がお客様ひとりひとりに妥協なきおもてなしを施す姿勢から導き出されています。(少しCMっぽくなってしまいましたが)
1997年(平成9年)当時から、ホテルレストランの目玉として
地元横浜市出身の石鍋裕シェフがプロデュースする、『フランス料理 クイーン・アリス』がオープンするということで話題になりました。
また、中国料理は総料理長 脇屋友詞の「トゥーランドット游仙境」の開店という有名料理人のお店がホテルに進出する相乗効果を狙った展開がブームになりました。

みなとみらい地区が1989年以降開発されるに伴い、横浜観光の軸が明治大正時代が薫る山手、山下エリアと新しい都市空間としてのMMエリアが形成されることで横浜の魅力に幅がでてきました。当然、ホテル進出競争も起こり、みなとみらい周辺には90年代から次々とホテルが進出しします。

■ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル
1991年8月20日に開業。
http://www.interconti.co.jp/yokohama/index.html

■横浜ロイヤルパークホテル
1993年9月15日に開業。
http://www.yrph.com

ブリーズベイホテル(1990年9月)、ナビオス(1999年)、ワシントンホテル(2000年)に加え、新横浜にホテルアソシア新横浜(2008年)桜木町駅前にはニューオータニイン(2010年)が開業しましたが、

パークハイアット横浜、W Yokohama(共に2010年開業予定)の中止はリーマンショック以降の経済環境の激変とはいえ横浜ホテル市場にかげりを示す兆候とする関係者も多く、今後の横浜の“ビジット”能力が問われているでしょう。

(余談)
「パン パシ」ホテル正面玄関からのアプローチはわかりやすいのですが、クイーンズスクエア側からホテルに入る際、入口がわかりにくく開業当初一瞬迷いそうになりました。(その後ちょっと改善?されました)

【関連ブログ】
No.200 7月18日(水)無限の境界

No.219 8月6日 (月) チェックメイトキング

横浜港周辺散策に横浜三塔は欠かせません。
キングの神奈川県庁本庁舎
クイーンの横浜税関
ジャックの横浜市開港記念会館
三塔それぞれにドラマチックな物語があります。
今日は三塔の中で引越と再建を繰り返してきた「さまよえる庁舎」神奈川県庁本庁舎の歴史を紹介します。

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現在の本庁舎は4代目です。
関東大震災で焼失した旧(三代目)県庁舎を再建したものです。建築工事費約275万円を費やして1928年(昭和3年)10月31日に完成しました。
ではなぜ?今日8月6日なのか?さまよえる庁舎の歴史を簡単ですが紹介しましょう。

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(野毛山時代)
1859年(安政6年)の開港に際し野毛山に神奈川奉行所(戸部役所)を建てます。マップ①
まだ徳川幕府の時代です。

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直後に、奉行所の出張所(神奈川運上所)を桟橋近くにを建てます。マップ②
(記念碑あり)
1866年(慶応2年)10月に横浜史で最も有名な“歴史を変えた”大火災が起ります。「豚屋火事」→「慶応の大火」と呼ばれ、役所の殆どを焼失します。
急ぎ 初代運上所のはす向かい、現在の横浜地方裁判所と検察庁のある場所に2代目運上所を設置します。マップ③
1868年(慶応4年)4月11日に、神奈川奉行所は「横浜裁判所」と名称変更されます。
※ここで注意しなければならないのがこの裁判所は現在の司法機関ではなく行政機関の名称で、後に司法機関名となったので混乱しがちです。
またまた、幕府は「横浜裁判所」を一ヶ月で「神奈川裁判所」に名称変更します。(1868年5月12日)
さらにそれから3ヶ月後の8月、「神奈川府」に変更します。
1868年10月23日(明治元年9月8日)から明治時代が始まりますが、改元直後の1868年11月5日(明治元年9月21日)に
「神奈川県」となります。現在の神奈川県域になるにはまだ20年以上かかりますが、ほぼこの時期に落ち着きます。

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(またまた大火事)
1882年12月(明治15年)に起った大火事で、県庁は焼失します。そこで、横浜町会所(ジャック、現在の開港記念会館の場所)に仮庁舎を建てます。マップ④

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これを機会に施設を大きくする必要もあり、新県庁の候補地を探します。
ここでクイーンが登場します。横浜税関です。
本町1丁目(昔の町名、現在は中区日本大通1丁目)にあった横浜税関に移転計画が立てられます。

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そこで、横浜税関が移転した跡地に新県庁を建設することが決まります。
現在の県庁の場所です。
1883年(明治16年)8月6日の今日
「神奈川県庁が横浜税関跡に移転(横浜税関百二十年史)」

その後、1907年(明治40年)に老朽化と狭隘化が問題となり、建直しが検討されます。
1909年(明治42年)開港50周年の年に新県庁建設のために「横浜公園」に臨時庁舎を建て、引越します。

(三代目庁舎)
1913年(大正2年)5月に、3年半をかけて三代目県庁が完成します。設計は明治の三大建築家といわれた片山東熊(かたやま とうくま)でした。彼は、長州藩騎兵隊出身、 工部大学校同期には今話題の東京駅設計の辰野金吾がいました。片山はジョサイア・コンドルの弟子で赤坂離宮(迎賓館)、奈良、京都国立博物館が代表作品です。

(関東大震災)
1923年(大正12年)の関東大震災でなんとか倒壊を免れましたが、耐震上建直しが決まり、4代目となり現在に続きます。

※三代目庁舎建築を巡っては、かなり面白いエピソードが隠されていますが、これは
No.193 7月11日(水) Hi Come on!
ともからんでいます。改めて(小説仕立てで)紹介しましょう。

No.70 3月10日 310

No.420 3月10日(日)横浜三塔に思う

No.375 1月9日(水)残した大正の財産

No.218 8月5日 (日)夢の夢の夜夢覚め

墓碑や歌碑を巡る旅と言えば江戸や京都のお寺さんが常道ですが、ご当地横浜にも「お寺さん」コンテンツがいろいろあります。
今日は、横浜市保土ケ谷区岩井町にある臨済宗 建長寺派「福聚寺」というお寺に墓誌のある「五返舎半九」をちょっとだけ紹介しましょう。
ちょっとだけというのは、この「五返舎半九」を語り出すといろいろ広がってきます。少しややっこしいところもありますが関心のある方はぜひ「福聚寺」をスタートに“半九”めぐりをどうぞ。

五返舎半九、本名を府川重次郎、屋号が「桔梗屋」と称した幕末の戯作者です。なんで戯作者名の他に屋号があったかと申しますと、彼二足のわらじを履いておりまして、生業が江戸で繁盛したお菓子屋だったそうです。1784年(天明4年)江戸に生まれ
昨日紹介した1858年(安政5年)のコレラパンデミックで8月6日に亡くなっています。
No.217  8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い

五返舎半九(ごへんしゃはんく)とはちょっと変わった名です。
十返舎一九という名を挙げれば“関係あり!”と想像できそうでしょ。
五返舎は、江戸の人気作家『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』で一躍有名になった十返舎一九の弟子の一人です。
師匠「十返舎一九」の十返の半分で五返舎とし、一九の半分で半九と称して命名したそうです。
彼の他にも十字亭三九、九返舎一八といった師匠の名をもじった門人というか弟子がいましたが結構適当な弟子が多かったそうです。
その中で、五返舎半九はまともな方だったようです。
彼は活動の舞台が江戸でしたから何故横浜に墓誌があるのか、正確な資料がないため残された資料で推測するしかありませんが、五返舎半九の子供の一人、娘の“きく”さんが関内の港町(みよざき)遊郭「橋本楼」の橋本家に後妻となり その菩提寺がここ保土ケ谷の「福聚寺」ということから1880年(明治13年)の祥月命日8月5日(二十三回忌)実父の墓も橋本家の墓地の一角に建てたというのが理由のようですから親孝行な話しです。
前述の通り、五返舎半九は“コロリ”で亡くなりますが、当時コレラで亡くなった場合、埋葬制限が厳しくまともな葬式もできなかったのかもしれません。
最後に
彼の作品を少々

雲母坂くもと見る時しぐれけり

扇もてまねくも見えつたび人の
あとやさきなる熊谷の土手

むらさ紀は江戸の土なり秋茄子
※彼は茄子が大好物だったそうです。

ぬば玉の夢の夢の夜夢覚めて
獏の尿とも悟りてしかな

(余談)
また彼の子供、孫は「府川一則」(初代から三代)を名乗り、画家・彫金家・七宝家等で名を残しました。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hukawa_k.html

臨済宗 建長寺派「福聚寺」
http://www.fukujuji.or.jp

最後に、谷中墓地や青山墓地のような霊園は別にして、一軒のお寺さんを巡るときは静かにそして“お賽銭”のひとつも用意して参るのがマナーというものです。できれば一声断ってからめざすお墓に向かったほうが良いでしょう。

No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い

1890年(明治23年)8月4日の今日
「横浜に虎列刺病流行の徴あるを以て、神奈川県庁内に検疫本部を置かる(十月二十七日、検疫本部を廃せらる)」(横浜沿革誌)から開国時代の検疫奮闘について簡単に紹介しましょう。E8-99-8E-E5-88-97-E5-88-BA-E7-97-8508-03■パンデミック(世界的大流行)
19世紀は産業革命の時代ですが、伝染病の時代でもありました。産業革命以降「世界の工場」と呼ばれたイギリスの時代「パクス・ブリタニカ」でもありました。文明のボーダレス化は疫病の伝染をもたらします。
インドに古くから存在した経口感染症の一つコレラは、19世紀になり世界史に登場します。これまでに7回の世界的流行 (コレラ・パンデミック) が発生します。
第一回が1817年頃に起ります。日本にも伝染しますが、「海禁施策」と人の移動制限が厳しい江戸時代のため皮肉にもコレラ・パンデミックは起りませんでした。日本にコレラ・パンデミックが直接的に起ったのが1840年頃に起った第三回目からです。
(安政コレラ)
世界に広がったコレラはその後集中的に発生します。原因が特定できなかったからです。1858年(安政5年)大阪に始まり、東海道を江戸に向かったコレラは「安政コレラ」と呼ばれています。
この頃、時代は黒船来航、開国騒動が起っていたこともあり人々の不安が不必要に拡大します。三日でころりと死に至る病い「三日コロリ」日本のコレラ・パンデミックの始まりです。E8-99-8E-E5-88-97-E5-88-BA-E7-97-85438

1859年9月18日(安政6年8月24日)神奈川宿でコレラらしき病人が十数人死亡します。この時すでにコレラは江戸を始め全国に伝染していました。その後、コレラは波状的に日本で猛威をふるいます。
徳川幕府から明治新政府になった明治維新以降、防疫上は最悪の時期となります。
関所の撤廃、外国との交易、都市の急膨張がパンデミックを決定づけます。横浜はこの条件にジャストフィットします。
簡単に横浜コレラ・パンデミックを追います。
1877年(明治10年)9月上海で大流行していたコレラが横浜に上陸し700人近い死亡者がでます。
1886年(明治15年)6月3日に始まったコレラ発症は8月16日までに1,600近い死者を出します。
そして冒頭にある「「横浜に虎列刺病流行の徴あるを以て、神奈川県庁内に検疫本部を置」いた
1890年(明治23年)8月4日の大流行が横浜を襲います。
この間、人々は手をこまねいていた訳ではなく、1884年にドイツでコッホがコレラ菌を発見し、防疫方法が暫時進化していきます。この大流行が、横浜及び日本のコレラ・パンデミック最後となります。
この時、疫病対策に全力をあげた病院が横浜万治病院で、伝染病撲滅の金字塔となっています。
その後小規模の伝染が起りますが「三日コロリ」と人々を恐怖に陥れることは無くなりました。blog-E8-99-8E-E5-88-97-E5-88-BA-E7-97-85

検疫本部を置いた1890年(明治23年)9月に母国に向けて出港した悲劇の船が土耳其国軍艦エルトゲロル号です。乗務員もコレラに一部感染してしまいます。
No.159 6月7日(木) 強い日土友好の原点

(森鴎外と三橋信方)
三橋信方、明治時代の外交官で1906年(明治39年)に横浜市長となり在任中1910年(明治43年)6月25日に亡くなるまで務めました。彼が横浜開港五十周年に際しハマのマーク、そして横浜市歌を森鴎外に制作依頼します。
この話しが何故コレラと関係があるのか?
ドラマの詳細なストーリーは別な機会にご紹介しますが、彼が市長となる20年前の1887年(明治20年)31歳の時、神奈川県書記官だった三橋信方は横浜水道事務所管理(責任者)となり上下水道の整備に重要な役割を果たします。外交官時代ヨーロッパでコレラ、ペストの恐ろしさを実感していた彼は、安心できる水の確保に尽力します。
野毛山のパーマー像記念碑にも三橋信方の名が書かれています。
No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人

 
パーマー像

同じく、軍医 森林太郎はドイツに留学し、コレラを含む公衆衛生の研究を行い日本に戻ります。森は特に下水道整備の重要性を説きます。
森と三橋との交友関係は日記などに若干触れられている程度ですが、“水”を通して二人の同じ「安全都市」への思いが横浜市歌 作詞依頼に結びついたことは想像にかたくありません。
No.89 3月29日 ペスト第一号もYOKOHAMA

No.216 8月3日 (金)この道は金港に続く

通称「京濱國道」現在の国道15号が
1925年(大正14年)8月3日の今日、
六郷橋から生麦までの区間の改修工事が完成しました。
今日は、国道15号の横浜区間の紹介をしましょう。


(歴史)

1885年(明治18年)に国道整備が行われ、旧東海道の日本橋 – 神奈川を経由し横浜港(開港広場前交差点)に至る幹線を「明治1號國道」と呼びました。
その後関東大震災後、復興改修が行われ、「明治1號國道」の日本橋 – 神奈川間が通称「京濱國道」となり、昭和に入り第一京浜、国道15号となりました。まさに東京と横浜を結ぶ“開港の道”が国道15号線です。

青木町交差点

(路線巡り)
国道15号の横浜区間スタートは西区の青木町交差点です。
【青木橋】ここは国道一号(第二京浜)との分岐点でもあります。

①青木橋、橋の上にバス停があります。(橋上バス停ありそうで少ないんですよ。普通は橋のたもとに設置します)
ここから神奈川新町まで神社仏閣が点在します。
②州崎神社
③慶雲寺 フランス領事館跡 記念碑 亀の像があります。
④熊野神社 神奈川郷の総鎮守8月17日が例大祭です。
⑤笠のぎ稲荷神社 明治2年に遷座。この神社に土団子を供えれば病が治るそうです。
⑥出田町 なんと読む!?正しくは「いずたちょう」です。
横浜鉄工所の出田孝之氏の姓から命名されたもの。
国道表示「でたまちふとう」は明らかに誤記。は一般化されています。
→このあたりは再 追っかけ!中(2013年5月)
 このふ頭を利用する業界では読みやすいということで
 「いでた」とか「でたまち」と呼ばれていました。
 その呼び名が使われるようになった  らしい???  

(東急東横線 青線部分は地下になり遊歩道に変身)

【新子安近辺】

①大口商店街最南端 相応寺 門前に子育地蔵が並ぶことで有名
②国道一号と県道111号が交差(特にどうってことありません)

③オルトヨコハマ 「駅前庭園都市」といわれています?
④子安「子供の遊び場」 横浜市が昭和30年代に整備した公園
No.215  8月2日 (木)継続は力なり

⑤遍照院 門前が線路です。

⑥キリンビアビレッジ(無料休憩スポット)
または生麦地区センター
⑦生麦事件の碑 
以前より少し移動しています

【鶴見駅付近】

①花月園跡地
現在競輪場になっていますが広大な緑地が広がっています。
②国道駅
昭和レトロで再評価。人気の駅になっています。

③旧東海道
国道駅は旧東海道にも面しています。
④魚河岸通り
ここには魚問屋街があり、特に貝類の専門店があります。(水曜日定休日多し)
⑤総持寺 ご存知、石原裕次郎の墓があります。映画にも使われています。
⑥鶴見名物よねまんじゅう  駅周辺の和菓子屋さんで販売しています。「御菓子司 清月」がおすすめ。
⑦鶴見区役所(無料休憩スポット)
⑧ヨコハマビエンナーレ
 鶴見川沿いの遊歩道にアート作品が設置されています。
⑨鶴見神社  古来、杉山大明神(杉山神社)といわれた。
⑩鶴見橋 1925年(大正14年)8月3日改修完成
⑪響橋(めがね橋) かながわの橋100選の一つ

【鶴見市場付近】

①市境(ゴム通り入口)横濱護謨製造(現ヨコハマゴム)工場から命名
②自由の女神? ラブホテルのオブジェですが地域のランドマークになっている。

③鶴見市場駅 かつては京浜工業地帯の工場群に勤める人たちで賑わった駅です。
④熊野神社
 http://753.jp  クリック注意!ちょっと音がうるさいかも
もともと市場小学校があった場所で記念碑があります。
⑤鶴見スポーツセンター(無料休憩スポット)
⑥森永橋 地元企業の名がついた橋です。
⑦第二京浜 国道一号(昭和に造られました)
夜霧の第二国道と歌われた曲で有名に
⑧tvk鉄塔(三ツ池公園) この地域のランドマークになっています。

(余談)

この区間の国道15号線はサイクリングに向いています(ほぼフラット)。
国道一号線は避けた方が良いかもしれません。
かなりアップダウンがあります。

No.215 8月2日 (木)継続は力なり(資料追加)

横浜から始まった「子供の遊び場」づくりの活動
「横浜市健民少年団30周年記念大会」と
「第25回日本健民少年団連合全国大会」が一緒に横浜で
1980年(昭和55年)8月2日から三日間開催されました。

健民少年団マーク
マークの形の指定方法が凄い?!しっかりマニュアルがあります。

「健民少年団」という名称は初耳の人も多い地味な活動組織です。
終戦後戦後復興の中で健全な子供達の育成の場が殆ど無い環境を打開するために
1950年(昭和25年)に当時の横浜市体育課が「子供の遊び場」設置運動を展開しました。
いわゆる(公園法で)事業整備していく“児童公園”では間に合わない現実に対し、
街の中に30坪なり50坪なりの空き地を市民から提供を依頼し、そこへ市が遊具としてブランコや滑り台その他の「遊び場器具」を設備することで健康な環境を与え社会悪から彼らを守ろうというものでした。
第一号が1950年(昭和25年)6月磯子にオープンし、
10年で152個所の「子供の遊び場」が設置されるという、
当時全国から注目された活動でした。
このプランは、単純に「子供の遊び場」を提供するだけではなく、「横浜市健民体育指導員」制度を作り、地域の人々による広がりを持つことになりました。
その後、健民体育指導員は「体育指導委員」制度に拡充され現在のスポーツ指導員に発展してきました。
一方、
「子供の遊び場」づくりの活動は横浜発で全国に広がり
1954年(昭和29年)3月27日〜29日、
横浜フライヤージムで「第一回日本健民少年団全国大会」が行われ新潟〜宮崎までの25都市445名参加しします。

かまぼこの形をしたドーム体育館

(フライヤージム)
No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー

翌年には、鶴見総持寺を会場にして33都市710名が参加し、ピーク時には70もの都市が参加しますが、時代とともに同質の青少年育成活動が増え、規模は縮小し、現在11都市の団体間で活動が継続しています。
■全国の健民少年団
 横浜市健民少年団
 新発田市健民少年団
 新潟市健民少年団
 村上市健民少年団
 大垣市健民少年団
 彦根市健民少年団
 小田原市健民少年団
 秦野市カヌー健民少年団
 守口市少年団
 豊橋市健民少年団
 安城市健民少年団

現在まで途絶えることなく(2012年は第56回大会が新潟県村上市で8月3日〜5日に開催)継続している点は大いに評価できます。
http://kenmin.kids-site.net/index_a.html

正直、この「健民少年団」の活動を知り、もったいないなと感じました。
横浜発60年の歴史を活かしながら、リフレッシュし今こそ
「子供の遊び場」について発信していく世情ではないでしょうか。

ちょっと管理が間に合わないようです。

★健民活動の必要(HPより)
現代の都市生活は人間の健康のために多くの悪い影響を与える要素を持っている。
 都市生活が肉体的、精神的に打撃を与えて、神経質、腺病質、狂燥性等の傾向に堕り易く、知らず知らずのうちに健康が破壊されている。また健康という事は単に肉体が丈夫だというだけを考えるべきでは無く、精神的なものや時代の風潮を共に考えなければならない。
 一般的な都市生活の様式は働く生活も余暇生活も人間の健康問題は余り考慮されずに営まれており、病気になった時だけ身体の事を心配する程度である。健康生活の確保、更に健康や体力の増進を中心に考えられた生活の営みと、これの市民的な運動が必要になる。これが健民運動である。

コンセプトを もう少しわかりやすく、シンプルにすることが重要だと感じました。
現在も市内に「健民少年団」の施設があることに気がつきました。

さあ?どこでしょうか?

(余談)
 8月2日はカレーうどんの日です。
私のお気に入り カレーうどんは
関内「おおぎ」


平沼「田中屋」
ぜひお試しあれ。

No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事

横浜は花火大会です。2014年は8月5日19時スタートでした。
1874年(明治7年)8月1日(土)の今日、
横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、
吉田新田埋立用土砂確保のため中村川から根岸までの堀割工事が完成しました。

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中村川から根岸までの堀割工事が完成し、「堀割川」と命名されました。
「堀割川」
正式名称は二級河川「大岡川小派川 堀割川」です。

 流域全長は2,700m、水深約3mで川幅20〜30mあります。

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■支川(しせん)と派川(はせん)
川には本川に流れ込む支川(しせん)と、本川の水量を分岐させるための派川(はせん)があります。
堀割川、中村川は、大岡川の「派川(はせん)」です。
※因みに本川の右岸側に合流する支川を「右支川」、左岸側に合流する支川を「左支川」と呼び、本川に直接合流する支川を「一次支川」、一次支川に合流する支川を「二次支川」と、次数を増やして区別します。
派川(はせん)の場合このような「○次派川」という区分はありませんが、堀割川は“派川”中村川の“二次派川”「大岡川小派川 堀割川」と呼ばれています。

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(堀割川の歴史)
堀割川は、1870年(明治3年)から掘削が始まり、1874年(明治7年)まで4年の時間が必要でした。
当時の神奈川県知事の“井関盛艮”が工事請負人を募ったところ、吉田新田を開拓した“吉田勘兵衛”の子孫がこれに応じ、現在の中村橋付近の丘陵に切り通しを行い、中村川から根岸湾までの運河を開削しました。
この掘削により生じた土砂を使って埋め立てた場所が、吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町です。
この人工運河工事は困難を極めました。切り通し工事と埋立てという大工事、堀割川の中程に建設しようとした“滝頭波止場工事”は波浪により倒壊するなど吉田家の財力を大幅に超えるものとなってしまいました。
最終的には国が肩代わりするなどして完成しますが、大岡川の水害低減だけではなく、産業運河、堀割川河川沿いの産業道路(国道16号線)は横浜港と磯子地域発展に大きな役割を果たしました。
吉田家の功績は150年の現在も活き続けています。

(被災を乗り越えて)
1923年(大正12年)9月1日に起った関東大震災で河岸が被災しましたが
1926年(大正15年)から1928年(昭和3年)にかけて復興工事が行われ現在の堀割川の姿となりました。
一部に石積み護岸や物揚場、橋の親柱など、明治の面影を残しているところも見ることができます。堀割川はまさに近代遺産です。

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平成22年度の土木学会選奨土木遺産に認定されました。

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毎年8月には「堀割川の日」を設け、地域の住民の手で、堀割川の魅力づくり活動が地道に行われています。

(関連ブログ)
大岡川はさすが横浜開港場の中核となった「川」です。ここでも多く取上げています。
7月10日(火)もう一つの大岡川

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

No.435 大岡川物語(1)

【番外編】(ざくっと横浜その1)村は川に沿って生まれる

No.378 1月12日(土)川辺の横浜

No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん
(余談)
1940年(昭和15)に堀割川河口の飛行場から大日本航空(現在の日航とは関係ありません)、横浜〜サイパン・パラオ間水上飛行艇による定期航路が開設されました。

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右タンクのある鳳町に日航のターミナルと水上飛行場がありました

国際空港にふさわしい近代的なターミナルビル、全長26メートル、主翼の長さ40メートルの大型飛行艇が12機納まる大格納庫などが建ち並び、大日航横浜支所が置かれたそうです。
終戦でこの水上飛行基地は米軍に接収、
解体され
1958年(昭和33年)まで米軍の小型飛行場が設けられ使用されたそうです。

No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本

1895年(明治28年)7月31日(水)の今日、
京都岡崎公園で終了した第4回内国勧業博覧会で
横浜の梶野仁之助が自転車製造で有功賞を受賞しました。


今日は自転車をテーマにしました。
最近自転車ブームですが、私たちが乗る自転車の構造デザイン、百年前にはほぼ完成していました。
すばらしいことです。ちょうど日本の幕末明治の頃が自転車構造の転換期にあたります。

幕末明治の頃、初期自転車デザインは実用的ではありませんでした。実用性のある三輪自転車がごく一部で使用されていましたが、構造が複雑で高価だったため普及しません。
今日のような実用的な交通手段に生まれ変わるのが20世紀の時代に入る頃でした。


当時、最先端技術情報が集まった「横浜」でいち早く自転車に関心を持ち
英米の最先端自転車の輸入ビジネスを始めた“先駆者達”がいました。

1894年(明治27年)創業の貿易商石川 賢治、石川商会(後の丸石自転車→現在丸石サイクル)を弁天通に創業。
(後に尾上町移転)

1896年(明治29年)創業の根津商店 根津 酒造蔵(相生町)
1903年(明治36年)石川商会から独立し相生町で英国製自転車の輸入を始めた 金輪社の松浦 精一郎(後に尾上町移転)
ゴムタイヤの米国製自転車をいち早く輸入し成功した喬盛館の高木壽次(真砂町)
彼らは、輸入商として画期的な移動手段となった「自転車」を輸入した先見性のあった人物です。


一方、自ら「自転車」を造ろうと試みた日本人も全国に多数いました。
その中で、日本最初の自転車企業を創設したのが梶野 甚之助です。


日本の自転車史には必ず登場する梶野は神奈川県津久井の出身で、横浜に来て時計商を営む中で機械に魅了されていきます。ごく一部の遊興用に輸入された自転車を見て、自作を試みます。1879年(明治12年)には蓬萊町に自転車工場をオープン、その後本格的な工場を高島町5丁目に開設します。
梶野の国産自転車は、その後国内で評判になります。

国内工業技術の発表の場となった「内国勧業博覧会」に第三回から最後の五回まで出品し、第四回では有功賞を受賞します。
1891年(明治24年)には初の海外、中国に輸出します。
1897年(明治30年)に大日本自転車製造株式会社を設立、日本最初の自転車製造企業が誕生します。
最盛期の明治40年頃には職人40名で梶野ブランド「金日本号」「銀日本号」を販売し海外にも支店を持つまでに発展しました。
その後、宮田工業(本社茅ヶ崎)を含め現在の日本を代表する自転車メーカーが誕生します。(自転車部門は㈱ミヤタサイクルに)

(余談)
日本で自転車製造に着手した人物は福島県の鈴木三元という人物で、1876年(明治9年)一人乗り三輪車「大河」を開発しました。横浜の石川商会は1910年(明治43年)英国製自転車トライアンフの不正コピー警告の広告を掲載したことで話題になったそうです。

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

<20140730加筆修正>

No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心

1931年(昭和6年)の今日
神奈川県史跡名勝天然記念物が県内の歴史資産に対し指定されました。関東大震災からようやく復興の兆しが見え始めていましたが、一方で満州事変が起った年でもあり、国内外に時代のうねりが押し寄せている年でもありました。神奈川県史跡名勝天然記念物として指定された主な内容は、横浜市では三ツ沢貝塚、小机城址、アメリカ使節応接所跡生麦事件旧跡、汽車開設当時の横浜駅跡、藍謝堂跡等でした。これらの指定史跡の中で「三ツ沢貝塚」に注目しました。
※他の小机城址、アメリカ使節応接所跡生麦事件旧跡、汽車開設当時の横浜駅跡、藍謝堂跡棟は、別の機会に紹介できると思います。

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「三ツ沢貝塚」
三ツ沢の丘にある神奈川県立横浜翠嵐高等学校脇に横浜市地域史跡「三ツ沢貝塚」を記した看板が建っています。1905年(明治38年)、このあたりで貝塚の発掘調査が行われ、多くの貝と同時に土器、住居跡、人骨が出土しました。ここには発掘者として一人のスコットランド人医師の学究魂が宿っています。

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横浜の古代、海岸線はかなり内陸に入り込んでいたことがわかります。

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大森貝塚を横浜から汽車に乗っていたモースが発見したことは有名ですが、この「三ツ沢貝塚」は、スコットランド人の医師Neil Gordon Munro(ニール・ゴードン・マンロー)が医師業のかたわら、人類学研究の一貫としてこの場所に注目し発掘調査を行いました。

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マンローは、たまたまインド航路の船医として来日し、日本の風土に魅せられ横浜山手にあったゼネラルホスピタル(山手病院)で医師として働くことになります。
医者であると同時に、考古学にも深い造詣のあったマンローは日本文化、北方の少数民俗アイヌ文化に関心を寄せていきます。

三ツ沢を発掘した1905年(明治38年)日本に帰化、帰化日本名「満郎」として1933年北海道に渡り、平取町二風谷(にぶたに)にマンロー邸を建てて医療活動を行いながらアイヌ文化を研究し保存に尽力します。
アイヌ民具などのコレクションの他、イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残したことは貴重な資料となっています。

(執念のアイヌのルーツ探し)
スコッツ魂“頑固さ”が光るニール・ゴードン・マンローはアイヌ民族の北方移動説を証明するために、本土の同時代遺蹟(貝塚)の発掘を考えます。この「三ツ沢貝塚」発掘では、彼の仮説の一部を補完する土器や人骨が見つかり、当時の人類学、考古学会に衝撃を与えました。

29歳で日本に来た彼は1942年(昭和17年)4月11日に78歳でその生涯を終え軽井沢町軽井沢会外国人墓地に眠っています。
Neil Gordon Munro (1863〜1942) was a Scottish physician and anthropologist. Resident in Japan for almost fifty years, he was notable as one of the first Westerners to study the Ainu people of Hokkaido. Educated in Edinburgh, he traveled in India and Japan before settling in Yokohama as director of the General Hospital in 1893. From 1930 until his death he lived among the Ainu in Nibutani village in Hokkaido. Film footage he took of the local people survives. Between 1909 and 1914 he sent more than 2,000 objects to the Royal Scottish Museum in Edinburgh.

※「三ツ沢貝塚」は、神奈川区沢渡(さわたり)・三ツ沢東町・三ツ沢南町にかけての台地に分布する縄文時代後期から弥生時代前期にかけての貝塚である。標高30mのこの台地は、東西に細長く、南北を谷に挟まれているが、縄文海進の頃にはこの台地の直ぐそばまで海が迫っていたとされる。
 この貝塚は、1905年に横浜居留のイギリス人医師ニール・ゴードン・マンローにより発掘調査が行われ、貝塚の他、竪穴式住居跡や墓地などを含む大きな集落があったことが判明した。
 集落の規模は、県立翠嵐高校あたりから松ヶ丘にかけての東西約600メートル、南北は三ツ沢東町の北斜面から沢渡の南斜面にかけての、広いところで300メートルを超えるものとされている。

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 貝塚からは、土器・土器片・土錘(土のおもり)・土偶(土で人を形どったもの)・打製石斧・磨製石斧・石棒・石皿・石鏃(やじり)・骨角器(ヤス・つり針)などの他、多種類の貝や魚・鳥類・シカ・イノシシなどの骨も発見された。
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/mb06/06img/MAIY_10s.pdf#search=’三ツ沢貝塚’

No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子

No.211 7月29日 (日)株式会社横浜国際平和会議場

1990年代、首都圏にコンベンション競争時代が到来します。
国際会議等に対応するコンベンション施設が続々完成します。
東京、千葉
そして神奈川では…
1991年(平成3年)7月29日の今日、
横浜みなとみらいに通称“パシフィコ横浜”
「会議センター」と「ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル」が完成しました。
運営会社の正式名称は「株式会社横浜国際平和会議場」です。

観覧車からパシフィコ

(コンベンション獲得競争時代)
国際見本市というと現在ではかなり“古くさい”という感じがしますが、1980年代まで、首都圏のコンベンション施設といえば「はるみ」でした。
当時、代表的なイベントといえば「東京モーターショー」。
「東京国際見本市会場」(東京都中央区)で第6回から第27回まで開催され独占状態でしたが、第27回1987年(昭和62年)10月29日〜11月9日から幕張メッセ(千葉市美浜区)に会場を“奪われます”。
※2012年はビッグサイトになりました。

コンベンション施設 競争の時代が始まります。
1989年(平成元年)10月、千葉県美浜区に「幕張メッセ」が開業。
1991年(平成3年)7月、横浜市西区みなとみらいに「横浜国際平和会議場」(パシフィコ横浜)10月に展示ホールが竣工。
http://www.pacifico.co.jp/

展示ホール内
展示ホール海側 穴場ですよ!

1994年(平成6年)4月、パシフィコに「国立大ホール」が完成。
1996年4月(平成8年)、東京都江東区有明に「東京国際展示場」(ビッグサイト)
1997年(平成9年)1月、旧東京都庁舎の跡地に「東京国際フォーラム」が開場します。

(苦戦を乗り越えて)
横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)は、1991年(平成3年)に開業以来、幕張メッセと有明ビッグサイトと顧客獲得競争を繰り広げてきましたが開業当初はかなり苦戦します。
バブル崩壊という時代背景もありましたが、幕張、有明との熾烈な獲得競争に
“おとなしい?”パシフィコは後塵を拝してきました。
2000年に入り、2002 FIFAワールドカップのメインプレスセンターとなったあたりからバランスの取れたコンベンション施設として評価を得るようになります。
国際会議対応能力は日本一の水準、ホール、展示場、ホテルなどがコンパクトにまとまっている点で、他の施設との差別化につながっています。

多角的なアクセスが可能 そこが魅力

アフリカ開発会議(2008年)アジア太平洋経済協力首脳会議(APEC)(2010年)といった大型国際会議にも対応能力を発揮しました。
多くのプログラムが東京、千葉との獲得競争中心でしたが、
2010年、パシフィコで第一回が開催されたCP+(カメラ&フォトイメージングショー)はリーマンショック後の“横浜発”大型見本市として注目されました。

(アフターコンベンション)
「パシフィコ横浜」の最大の強みは立地性とアフターコンベンションでしょう。
最寄り駅「みなとみらい駅」から五分以内、海からのアプローチ「シーバス」はかつての晴海を思い起こします。
アフターコンベンションでは
みなとみらいはもちろん、野毛界隈、
中華街、元町そして横浜港を配し魅力アップに繋がっています。

(地域貢献)
「パシフィコ横浜」は、地域貢献にも力を入れています。
みなとみらいエリアの住民交流への支援、社会貢献等を積極的に実施し一定の効果を得ています。

(余談)
311の時には、臨時帰宅難民避難所として機能し、多くの帰宅難民が宿泊しました。
県市の職員もかなり利用したそうです。