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No.373 1月7日(月)THE JAPAN PUNCH
現在ジャパンコンテンツの一つ、漫画が世界を席巻していますが、日本最初の“漫画雑誌”「THE JAPAN PUNCH」が一人の英国人によって横浜で発刊されました。
“この時代を冷静に風刺した漫画雑誌”「THE JAPAN PUNCH」は、英国人チャールズ・ワーグマン(CharlesWirgman、1832年(天保3年)8月31日〜1891年(明治24年)2月8日)によって創刊、不定期ではありましたが1862年(文久2年)から1887年(明治20年)の25年間にわたって発刊されました。
人生の多くを横浜で過ごし、横浜で亡くなった彼の生涯を簡単ですが紹介しておきましょう。
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弟の描いたワーグマン |
(ワーグマンの生涯)
ワーグマンの日本に来るまでの生い立ちはほとんど不明です。
ロンドンに生まれ、20歳の時にパリで絵の勉強をしますが、画家ではなく軍人として陸軍大尉まで昇進します。22歳の時に除隊し、「イラストレイテッド・ ロンドン・ニュース」紙の特派員として中国は広東に派遣されます。
当時、日本を訪れた外国人は中国大陸を訪れた後に来日するパターンが多かったようです。特にイギリス・フランス人は、中国侵略に血道をあげていた時代です。
ワーグマンは、広東でアロー号事件、北京侵攻に同行した後、1861年(文久元年)に長崎に来日します。
香港で初代駐日総領事に任命されたサー・ラザフォード・オールコックに随行し、江戸に二ヶ月かけて上京します。
おそらく、オールコックは日本国内を着任前に自分の目で見ておきたかったのでしょう。ワーグマンも多くのスケッチが残されています。
この日本国内を縦断する長旅が終わった時に、ワーグマンの人生を変える大事件に遭遇します。長崎からの旅を終え、仮の英国公使館となった品川の東禅寺に泊まった翌日、水戸浪士による「東禅寺事件」が起ります。
静かな日本の生活を実感してきたワーグマンにとって、
この事件に関する記録が、ワーグマン来日の初仕事になります。
この襲撃事件の時、ワーグマンは床下(縁の下)に隠れ、腹這いになりながら「イギリス民衆の為に、この特筆すべき事件の情景を描写していた」と生き残った書記官が書き記すジャーナリスト魂を発揮します。
開国の混乱期、最も攘夷のテロが多く起った時期にワーグマンは江戸の地を踏む事となったのです。
(ベアトとの出会い)
ほぼ、ワーグナーと同時期の1863年(文久3年)にインド、中国を経て来日した英国人戦場カメラマンがフェリーチェ・ベアトです。
ワーグマンは絵画、ベアトは最新技術の写真で日本文化を克明に記録した“対照的な”二人が出会います。
フェリーチェ・ベアト
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェリーチェ・ベアト
二人は横浜で急速に接近し、「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を設立し、共同経営の下で報道写真と報道絵画のビジネス展開をします。
1863年にワーグマンとベアトは、スイス全権大使アンベールに同行して外国人遊歩区域外の日本を記録に残します。
べアトは、横浜、下関、 鎌倉、金沢村ほか京都や江戸の規制区域内を撮影し、ワーグマンも詳細なスケッチを残します。
No.364 12月29日(土)小国の独立力
写真は銅版画に起こされてワーグマンが特派員だった「イラストレイテッド・ ロンドン・ニュース」紙にも掲載されます。
二人は対照的な人生を歩みます。
ベアトは、中国で取材活動中から「商館」を経営し、日本でも写真家から貿易商・不動産業に転身し「横浜グランドホテル」の共同オーナーを始め賃貸住宅のオーナーにもなるというビジネスマンとして活躍します。
一方のワーグマンは
1862年(文久2年)から始めた「THE JAPAN PUNCH」を不定期ながら発刊し続けながら、日本人女性の小沢カネと結婚し、日本人に西欧絵画の技法を教え続けます。
1865年に「五姓田義松」がワーグマンの許に入門し後に日本を代表する洋画家となります。
翌1866年には近代洋画の開拓者と呼ばれた「高橋由一」が入門します。
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高橋由一作品、鮭の絵が有名です |
また1874年には明治浮世絵の三傑の一人「小林清親」が入門しようと尋ねた記録があります。
しかし、明治初期、西欧画を排除する時代に入ります。「THE JAPAN PUNCH」も運営が厳しくなり、洋画の発表の場も失われていく中で、ワーグマンは画家・アーティストとして生きようともがきますが、筆折れ
1887年(明治19年)に当時人気急上昇のジョルジュ・ビゴーへの(バトンタッチの)挨拶を含めた最終号を発刊します。
イギリスに発表の場を求め帰国し、弟ブレイクとロンドンで展覧会を開いた後、再び来日(帰国?)しますが病に倒れ、長い闘病生活の後1891年(明治24年)58歳で亡くなります。
彼は横浜外国人墓地(イギリス16区9)に葬られ、毎年命日の2月8日には「ポンチ・ハナ祭り」(ワーグマン祭)がワーグマンの墓前にて開かれ、現在まで彼の人生が偲ばれています。
(余談)
この時期に流行した「ポンチ絵」はワーグマンの「THE JAPAN PUNCH」からきています。
このコラムを書こうと思ったのは、先日実家を整理していたら、古いダンボール箱の中から、よれよれの紙が出てきたからです。
そっと開いてみると、これがなんと
「THE JAPAN PUNCH」1875年OCT版だったのです。彼の代表作はありませんでしたが、実物の迫力に感動し、このネタに触れてみました。
19世紀後半、写真の時代が到来する中、
ワーグマンとベアト。二人の英国人の対照的な人生を、機会があれば掘り下げてみたいテーマです。
No.372 1月6日(日)横浜ランドマークタワー
今日は「ランドマークタワーの見える風景」と題して紹介していきたいと考え、写真を探していましたが、
言い訳がましいのですが、あまり掘り出しものがありませんでした。
地元には“見慣れて”しまった!
あまりに定番ですが、Yokohama Landmark Towerの風景を紹介しましょう。
(ランドマークタワー)
正式には「横浜ランドマークタワー」
http://www.yokohama-landmark.jp/page/
三菱造船の跡地に始まった「みなとみらい計画」の中核ビルとして建設された超高層ビルです。
No.37 2月6日 都市デザインの実践場
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
(建設計画の頃)
当時実施された「YES89」横浜博覧会が終了した後、1990年3月20日に着工され、1993年7月16日に開業しました。
工事が始まると、次第に高くなっていく姿が地元の「観光資源」にもなりよく出かけたものです。
高さは296.33mあり、現在(2013年)超高層ビルとしては日本一の高さを誇ります。
残念ながら2014年に大阪にトップの座を譲ります。
ただ、“横浜市民”として言い訳をいわせてもらえば
当初は高さ300mの超高層ビルとなる計画でした。
みなとみらい地区が東京国際空港の標準出発経路(SID)と重なったために高度制限が発生し、296.3mとなったという理由があります。4mがなぜいけないのか?
不思議といえば不思議です。
単純に高さで競えば(現在)東京スカイツリー(634m)、東京タワー(332.6m)、明石海峡大橋(298.3m)に次ぐ4番目の高さです。
アメリカの建築家、ヒュー・スタビンス(Hugh Stubbins)よる基本設計に基づき、三菱地所が実施設計を行いました。彼は日本の鳥居をモチーフにデザインしたという話しもあり、じっくり眺めてみると
見えない事も無い?!
この「横浜ランドマークタワー」が着工しはじめた頃、私事ですが横浜に転入してきました。たまたま 「横浜ランドマークタワー」が見える位置に住居がありましたのでこの頃の写真が 下手ですが残っています。
記録感覚で残したものです。
以降時折、撮影の脇役に「横浜ランドマークタワー」が入ってきますが、当然の風景になっていることに
今回テーマにしてみて気がつきました。
地元こそ、もっと「横浜ランドマークタワー」を横浜のランドマークとして再評価しなければなーーー。
「横浜ランドマークタワー」の紹介したいネタも
結構あることにも改めて思い出しました。
超高層ビル建設現場のエピソード、太郎と花子の物語とか
トイレの話しとか
??知りたい?
建設のエピソード、ビル内、展望ルーム「スカイガーデン」については 別の日に譲ります。
(余談)
全日本タワー協議会
http://www.japantowers.jp/home/index.html
全日本タワー協議会は、全国20のタワーで運営されていますが、
この「横浜ランドマークタワー」と「東京スカイツリー」
いわき市の「いわきマリンタワー」
http://www.iwakicity-park.or.jp/misaki/
は入っていません。
No.371 1月5日(土)ノゲ的 (加筆修正)
今日は野毛。
この街は、読むより行くに限ります。
私はまだ野毛を語るには“飲み”が足りないかもしれませんが、
今日は野毛を紹介します。
(アジア人白神義夫さん)
神奈川新聞の名物記者、白神義夫さん。
彼は中華街と野毛のことを良く語っていました。
特に野毛の大通りを「税務署通り」と呼んでいた時代の話には
熱い語りが止まりませんでした。
「野毛は悔恨の街である」と語り、本にも書いています。
野毛は“変わりつつ、変わらない”人気の定番商品のセオリーみたいな街です。
常連にも、ビギナーにも懐かしさと新鮮さを見つける事ができる街、
「野毛はデラシネの屋台から始まった」と白神さんは語る。
「そこには、米軍さんの匂いもあったけど、変わり身の早い日本という国への反権力の煙が漂っていた…。」
(書く命家 平岡正明)
横濱文芸復興「野毛的」を読み返すと、
この街が持っている磁力というか粘着力みたいなものが感じられます。
東京は本郷湯島に生まれた彼が、
横濱に反東京の拠点を見いだしたのが「野毛」の磁力で、90年代に積極的にこの街と関わり、野毛の発信力となりました。
偶然とは恐ろしいもので、
私が初めて“野毛”に近づいたのが高校時代、日ノ出町の「山手英学院」夏期講習に通っていた頃の拉麺屋でした。
→現在も場外馬券場の隣のビルで営業していたことに感動しました。
(2014年末現在 残念ですが閉店して新しいお店になっています)
大学生時代、一冊の本を持ってセンターグリルの階段を登ったのが、野毛の街に侵入した初めての経験でした。
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ランチでは無く現在お気に入りのオムライスです。 |
空いていた窓際の席に陣取り、大盛りのランチを注文し、
伊勢佐木の有隣堂で購入した本を開く。
何時もはカバーをかけない方ですが、今日は
この本の表紙に圧倒され「カバーをお願いします」と言ってしまった
「山口百恵は菩薩である」
知る人ぞ知る、「野毛的」の平岡作品である。
残念ながら、平岡さんは一度パーティの席で遠目にお会いしただけでした。
今、彼は亡くなられましたが、
生まれた街が変わりゆく新しいランドマークを何と評したでしょうか
平岡さん。
(女流)
今の野毛を語るには二人の「女流」を欠かせません。
女流作家 山崎洋子さん
女流落語家 荻野アンナさん
土日の野毛にも、夕暮れの野毛にも
女性の姿が多くなりました。
ここにも
“変わりつつ、変わらない”野毛の磁力が働いているように感じます。
(コンテンツ塊)
野毛を本質を語る前段だけでも数十冊の本ができる街。
野毛はコンテンツの塊です。
開港時から現代まで、エッセイにしたいネタを
私流のタイトルを付けるなら
「松平陣屋事件貼」
(越前松平藩と長谷川伸)
「野毛別宅物語」
(野毛別荘史)
「時の野毛山」
(時鐘と十全病院)
「老松小学校の悪童」
No.86 3月26日 老松小学校の悪童
「野毛で錦絵に会う」
(高橋誠一郎の横濱)
「税務所通物語」
(そこのけ闇市)
「美空ひばりと福島通人」
「山本周五郎 逃げる」
世の“物書き”は野毛でもう少し惑わして欲しいものです。
「暮らしの場に思いをよせ、
人々のふれあいが始まるとそこは「界隈」になる」
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※野毛の床屋について書きました。
No.422 妙蓮寺と野毛
1968年(昭和43年)〜翌年にかけて
横浜を舞台にした人気テレビドラマ「三人家族」について紹介しています。
※世代がわかりますね。
No9 1月9日(月) 野毛カストリ横町立退き騒動
戦後間もなくの話しです。「櫻川」がまだ“川”だったころ
野毛桜木町駅近くにカストリ横町がありました。
No.424 琉球バル
No.370 1月4日(金)【横浜の河川】鶴見川 輪下り絶景
昨日が横浜の自転車史みたいな感じで展開しましたので、
しり取りではありませんが、
私のサイクリング案内から
鶴見川下りを紹介しましょう。
横浜市内で最も長いサイクリングロードは鶴見川です。
上流は青葉区鉄町の寺家ふるさと村をかすめて、
都筑区、港北区、鶴見区を横切る約30キロのロングサイクリングが堪能できます。
私は、恩田川の合流地点近くの「落合橋」下から河口までツーリングを楽しみました。
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右側鶴見川、左側恩田川 |
これまで、大岡川、中村川、堀割川、柏尾川(一部)、帷子川(一部)、今井川(一部)を走破しましたが、市内では鶴見川サイクリングコースに勝るものはありません。
落合橋から河口まで約20キロあります。河口までなだらかな下りですから、逆に河口から「上り」狙いも面白いでしょう。
(橋オタクポイント)
橋には施工プレートが付いています。
(ナビゲーション)
鶴見川は(有名な)距離ポストが設置されています。鶴見川流域をバクの形に“見立てた”想像力に敬服。古代ギリシア人みたいです。
(左岸か右岸か)
川の走りは、右岸・左岸の選択も大切なポイントです。予め地図を見ておくか、景色を見回して都度選択していくか?共に楽しいです。
(脇道に逸れる愉しみ)
まじめなサイクリングも良いですが、できれば適度な寄り道をするのが楽しみを倍増させてくれます。
■崎陽軒売店
現在「環状北線」工事中のため、アクセスが難しくなっていますが、第三京浜インターチェンジ近くから崎陽軒工場前に出ましょう。
崎陽軒の売店があります。(珍しくない!)と思うでしょ。
実はこの売店でしか買えない(ちょっと前は、現在未確認)
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昔は携帯ストラップもあったんですが、キーホルダーのみ |
を売っているんです。
ここでお弁当や飲料を購入するのも良いのでは。
私は、ここでお弁当を買ってみる事にしました。
さあ崎陽軒売店を後に。
お弁当はどこで?
私は綱島の「大綱橋」近くでお弁当をいただきました。
鶴見川下りの時は、昨年の初夏でしたので、爽やかな風の吹く木陰を選びました。
■IKEAにも立ち寄れます
(ちょっと離れていますが)
■面白風景
ビルが橋を食べている
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実は水道橋が水道施設に直接架かっています |
川があれば「橋」がある。
(橋オタクポイント)
橋のデザインはかなり個性的です。
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森永製菓の森永です。 |
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通学路みたいです |
下流域では一部「川崎市幸区」と隣接しているエリアがあります。
下流域に入ってくると川幅が広がり目の前に拡がる景色も変わってきます。
(工夫ポイント)
季節に関係なく、水筒は持参しましょう。
チタン水筒がおすすめです。(ちょっと値段は張りますが)軽量で保温力が抜群です。夏は氷ひとかけらで「ギン冷え」数時間。
冬場も同じです。
(ガイド)
マップ、ガイドブックは用意しましょう。
私は“昔のガイドブック”を敢えて持参しました。
(激変風景)
現在、生麦と第三京浜を結ぶ「環状北線」工事が進んでいます。
http://www.yokokan-kita.com
移り行く風景を楽しむのも一興です。
■送電線技術に感服
鶴見川は 鉄塔ウォッチのベストポイントです。
送電鉄塔に関しては下記推奨ブログがあります。
http://blog.livedoor.jp/sawdensen/
(フィニッシュ)
残念ながら 鶴見川は河口まで自転車では行けません。
河口付近は工場敷地のため立ち入りができないからです。
ただ、迂回すればしっかり河口の絶景を堪能できます。
横浜市高齢者保養研修施設『ふれーゆ』
「ふれーゆ」まで自転車で行けます。
http://yfure-yu.com
高齢者保養研修施設とありますが、誰でも入場できます。実際子供からオトナまで幅広く利用されています。
サイクリングの途中に“入浴”“温泉プール”も最高です。冬場は湯冷めに気をつけてください。
リバーサイドアートも楽しめます。
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作品は?実際に出かけて観てみましょう!他にも多数川辺にアート作品が。 |
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ヒントこの橋あたりから散策してみては? |
※このルートに「国道駅」も入っていますがディープな物語は別建てで!!
※もうひとつ 杉山神社巡りも鶴見川流域スポットの一つです。
No.369 1月3日(木)自転車乗ってますか?
今日のテーマは自転車。
横浜に自転車が似合います。でも谷戸の多い横浜では坂道も覚悟しなければなりません。
私は、水辺サイクリングを楽しんでいます。鶴見川、大岡川、柏尾川、そして海辺サイクリングです。
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マイちゃり |
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大岡川 |
今、自転車を手軽に借りて横浜を走る「横浜コミュニティサイクル」(通称ベイバイクbaybike)が人気です。レンタサイクルなんて言いません。ベイバイクする!です。
自転車といえば、神奈川県津久井出身の梶野 甚之助が設立した高島町の「自転車製造所」をまず紹介しておきましょう。「明治成功名誉鑑」(明治43年)等の資料によりますと
梶野 甚之助は1856年(安政3年)に津久井郡太井村に生まれ、8歳で丁稚見習いとして醤油醸造業に従事します。
1871年(明治4年)には奉公先の醤油樽を使って見よう見まねで木製の自転車を作ったそうです。
1877年(明治10年)21歳の時に当時最先端技術に触れることが出来た燈台局に就職します。
1879年(明治12年)蓬莱町4-8に工場を設け、自転車製造を創業します。
米国ヴァンタイン社をベースに純正国産品を製造し、「金日本号」「銀日本号」のブランド名で逆に中国・米国に輸出するまでに至った技術者・企業家です。
諸説ありますが、ここが日本最初の自転車製造企業(メーカー)といわれています。
会社は、1888年(明治21年)高島町5丁目10番に移転します。
この頃が、梶野自転車製造、絶頂期に入ります。
1890年(明治23年)には第3回内国勧業博覧会・東京に自転車を出品し第4回内国勧業博覧会では有功賞を受賞ます。
新聞広告等にも積極的に出稿し販売も順調に伸びますが、次第に部品供給力・価格力に押されていきます。
(関連プログ)
No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本
「明治成功名誉鑑」(明治43年)には、自転車関係の成功者が他に3名紹介されています。
真砂町1丁目3番
高木 壽次「喬盛館」(明治26年創業)
「クリヴランド号」の輸入特約店
相生町1丁目3番
根津 酒造蔵「根津自転車店」(明治29年創業)
英国製“ストレート”自転車の輸入特約店
尾上町4丁目
松浦 精一郎「キンリン社」(明治36年創業)
英国モノポール社特約店
明治42年には大手自転車メーカーとなった丸石商会(現在の丸石自転車)も尾上町に横浜支店を出します。
これら 横浜生まれの自転車企業は残念ながら全国展開した大手メーカーに駆逐されていきますが、1874年(明治7年)6月1日に野毛で生まれた『河本商店』は現在も“まちの自転車店”で健在です。
じてんしゃ102かわもと
http://jitensha-102.com
私の自転車も、ここで購入・メンテナンスしています。
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鶴見川、大岡川初め横浜市内を走り回っています |
自転車店はホームドクターが必要です。
自転車購入は、点検・修理が可能な店にしましょう。
今年もサイクリングイヤーでいきます。
No.368 1月2日(水)横浜入門書
今日は、良く聞かれる質問から。
横浜を始めて勉強する参考書はありますか?
私は横浜に住民票を移してちょうど二十五年になります。
最初の五年は、正直ほとんど横浜の事を知りませんでしたし、現在ほど興味もありませんでした。職場が主に東京でしたから、横浜は余暇のひと時を過ごす空間でした。
キッカケは1995年(平成7年)の阪神淡路大震災でした。その詳しい経緯は別にして、18の区がある横浜の多面性に驚いたところから始まりました。
初めて本格的に横浜の事を調べ始めた時に、参考になるものが中々ありませんでした。それこそ、図書館で市史でも読めば詳しくなるのでしょうが、手軽な入門書?は無いのか。それも単に歴史だけじゃない、横浜の様々な『顔』がわかるには?
当時はネットも“パソコン通信”の横浜フォーラムがありましたが、ネットにありがちな「オタク縄張り」みたいな入りにくい世界でした。
本日明らかにする 本邦初公開?というほと大げさではありませんが、
私の最初の横浜虎の巻を紹介します。
「港都横浜そのうつりかわり」川口正英 著 ブックス二宮発行
残念ながら絶版の入手困難本ですが、改訂版を出してもかなり反響があると思います。
川口正英氏は横浜市瀬谷の旧家の出身で、
元横浜市会議長、市会議員を長らく務めた方が横浜の概略をまとめあげた著作です。
※息子さんの正寿さんも現在、瀬谷区から市会議員として活躍されています。
この本を手にした時、まず奥付けの著者経歴をチェックして
議員さんの本は基本的に面白くないし、族議員のPR本の類ではないか?と思いましたが、どっこい ものすごい本です。半端じゃありません。
発行は1983年(昭和58年)ですが、当時横浜検定があったらこの本が教科書になっても不思議ではありません。
また私家版の市政要覧としても読み応えのある一冊です。
歴史から、当時の横浜市の事業、課題が的確にまとめてあります。
(1)開港とそれに関わる種々相
(ここでは開港から昭和までの概略をまとめてあります)
(2)横浜港と貿易編
(3)下水道と河川事業編
(4)横浜水道編
(5)道路編
(6)清掃編
(7)教育編
(8)消防編
(9)公園編
(10)農業編
(11)横浜中央卸売市場編
(12)交通機関編
(13)開発関係編
※どうやら当時の横浜市の組織別にまとめているようです。
今、この本を読めといっても多少無理があります。
実は無料で横浜市の概要をつかむことが出来る冊子があります。
「横浜市暮らしのガイド」
http://www.city.yokohama.lg.jp/shimin/koho/lifeguide/
PDF版もあります。
新たに転入してきた新市民には配布されているようですが、一般市民は自ら配布場所に出向いて入手する必要があります。(またはダウンロード)
冒頭の
■私たちが住む「横浜市」って?
は横浜の基本中の基本がまとめてあります。
横浜初学者には「わたしたちの横浜」を推薦しています。
小学校児童のための社会科副読本の年度版で、市販されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/koho/
次にもうワンランク上の横浜を学ぶには
「横浜市立中学生用副読本 わかるヨコハマ」がおすすめです。
ここでは、
「横浜市立小学校用副読本 わたしたちの横浜」を紹介しましょう。
2009年に開港150年を記念して編纂された横浜市立小学校の「横浜の時間」に使われる副読本です。
歴史から、横浜の現在まで横浜市全般の基礎知識をコンパクトに判りやすくまとめてあるのが最大の特徴です。
ちょっと自慢ネタもまぶされています。
No.367 1月1日(火)この駅「日ノ出町駅」
あけましておめでとうございます。
今年2013年(平成25年)1月1日から一年、
よろしくお願いします。
正月だからまず何から始めようか?
初日の出ということで、今年は京浜急行「日ノ出町駅」からのんびり始めます。
プロローグ
(湘南と東京を結ぶ駅)
「日ノ出町駅」は1931年(昭和6年)12月26日 に「湘南電気鉄道」と「京浜電気鉄道」が結ばれ誕生した駅です。
前年の1930年(昭和4年)2月に「京浜電気鉄道」の高輪駅と横浜駅間が開通し、同年4月に「湘南電気鉄道」が黄金町駅と浦賀駅の間を結んでいました。
No.88 3月28日 京浜湘南電鉄連結地点
当初「湘南電気鉄道」は黄金町駅から大岡川に沿って「国鉄桜木町駅」まで延伸する予定でした。その名残が現在も日の出町、野毛の道筋として残っています。
「京浜電気鉄道」「湘南電気鉄道」軌間規格が異なる二社の決定的違いを乗り越えた開拓精神が、現在の京浜急行を誕生させることになります。
(トンネルを抜けて)
横浜駅から京浜急行下り線に乗り、戸部駅を過ぎると連なる三つのトンネルがあります。
御所山トンネル、上原トンネル、野毛山トンネルです。
横浜市西区南部の丘陵地帯を一気にくりぬいたトンネルを抜けると、崖にへばりつくように「日ノ出町駅」が出現します。
日ノ出町はカーブした駅で、しかも道路(県道)の上にプラットフォームがあるかなり無理をして造った駅のなごりが今も残っています。
二社の規格を揃え1933年(昭和8年)4月1日に品川と浦賀間の直通運転が実現し横浜市内南西部の重要な首都交通路線となります。
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この駅の象徴、昔から残っているタイル模様の三浦半島。 |
1964年(昭和39年)に国鉄根岸線が桜木町駅から磯子駅まで延伸するまで、日ノ出町駅は伊勢佐木町界隈に出かける最寄り駅でした。
※昔、日ノ出町駅前には山手英学院という予備校がありました。駅前という便利さもあり横浜市内有数の独立系予備校でした。山手英学院は、港南台に「山手学院(中・高】」を作り、日ノ出町の英学院は有隣堂の経営を経て廃校となりました。
この頃、予備校に通う生徒の食欲を満たした小さなラーメン店が「いろは」で、一時期ご主人が体調を崩し閉店していましたが、現在場外馬券売場「WINS横浜」横で復活しています。
(ぶらり散歩には最適)
京急日ノ出町駅はふだん目的が無い限りあまり降りない駅ですが、ぶらり降り立つにはかなり魅惑的な街です。
簡単に日ノ出町駅前ぶらり観光情報を紹介しましょう。
■聖俗アダルトからキッズまで
今、日ノ出町駅前は再開発計画がようやく実を結び、大改装中です。
駅前の「不二家」も無くなりました。現在整地が終了し、基礎工事が始まったところです。(2013年1月)
この街は、ストリップ劇場「浜劇」、アダルト専門映画館「横浜光音座」、場外馬券売場「WINS横浜」などがありその先には、福富町・野毛界隈が拡がるオトナの街です。
一方で、伊勢山皇大神宮、横浜市立中央図書館、野毛山公園、野毛山動物園、大岡川河畔などもあり聖俗混合の不思議な(本来の街?)味わいがある界隈です。
■記念碑
日ノ出町界隈には、美空ひばり、長谷川伸の記念碑があり昭和という時代を感じることができます。
1948年(昭和23年)5月に美空ひばりが横浜国際劇場会館一周年記念特別興行で前座として笠置シヅ子の「セコハン娘」を歌い大喝采を浴びます。この劇場支配人福島博との出会いから、横浜国際劇場の客員としてデビューし後に準専属となり大スターの道がここから始まります。
この横浜国際劇場は現在JRA場外馬券売場となっています。
一方の長谷川伸は昭和前期に活躍した日本の小説家、劇作家です。この日の出町で生まれました。
「股旅物」というジャンルを築き、彼の作品中の「仁義」を切るシーンは実家が没落して若い頃に横浜ドックで働いていた頃に覚えたものをモデルにしたというエピソードがあります。
彼の文学的評価は昭和の大衆小説に輝くものですが、もう一方で新鷹会という文学学校を主宰し村上元三、山手樹一郎、山岡荘八、戸川幸夫、平岩弓枝、池波正太郎、西村京太郎らを育てたことは特筆に値します。
※日本丸ドックの一角にも長谷川伸文学碑があります。
■アートの実験エリア
湘南電気鉄道「黄金町駅」から京浜電気鉄道「日ノ出町駅」の高架線周辺をアートで新しい街づくりを行っているゾーンがあります。
黄金町エリアマネジメントセンターが運営しています。
http://www.koganecho.net/
名称は「黄金町」ですが日ノ出町駅の方が最寄り駅です。
詳しく紹介したいところですが、別の機会にします。HP等で確認の上、イベントやショップに行ってみると良いでしょう。
■100円ワンコインバスなら日ノ出町
みなとみらい100円バスの赤レンガ倉庫行は、始発が日ノ出町駅前です。