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No.355 12月20日(木)瞑想・ザンギリ・赤い靴

1911年(明治44年)12月20日の今日、
日本民藝運動を起こした思想家、柳宗悦(22才)が横浜税関に行き、
ロダンがフランスから白樺同人達に贈った彫刻三点を受け取に行きますが、
受け取れず仕方なく自宅に戻ります。

開港場象の鼻付近
横浜税関付近
二日後の12月22日

柳宗悦は再度横浜税関を訪れ、
無事に彫刻三点を受け取ります。
柳宗悦が受け取った作品は、
『ロダン夫人』 25.3cm
『巴里ゴロツキの首』 8.8cm
『或る小さき影』 31.5cm
の三点でした。(現在 大原美術館 所蔵だそうです)
light_rodan小さき影 light_rodan小さき影後
何故、ロダンから白樺派のメンバーに
ロダン自ら作品が贈られたのでしょうか?
簡単な調べではわからなかったので 少し突っ込んで調べてみました。
まず、
ロダンと白樺派の時代を簡単に紹介しておきましょう。
フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン
(François-Auguste-René Rodin, 1840年11月12日〜1917年11月17日)は、近代彫刻の黎明期を切り拓いた重要な芸術家の一人です。
『近代彫刻の父』と彫刻史上評価されています。
ロダンといえば「考える人」が有名ですね。

ロダン考えるヒト

彼の作品はあまりに実像的な肉付け表現のため、
直接モデルから石膏取りをしたのではないか、
というスキャンダルに見舞われるほど衝撃を与えます。

ロダン 接吻
ロダン 接吻

彫刻家としての天才的才能を発揮し、多くの作品を残し“建築の付属品”だった彫刻から独立した芸術の領域を築いたことで『近代彫刻の父』と呼ばれました。

日本の同時代芸術としてロダンを紹介したのが文芸雑誌『白樺』です。文芸雑誌『白樺』は、1910年(明治43)4月から、1923年(大正12)8月まで、全160冊を世に送り出します。

白樺
白樺

大正デモクラシーのど真ん中に在り、
武者小路実篤、有島武郎、有島生馬、志賀直哉、柳宗悦らが同人として集結します。
※余談ですが 有島兄弟(武郎・生馬)は横浜税関長の父の下横浜育ちです。
明治以降、福沢諭吉等に代表される啓蒙思想に対する反動として大正時代の教養思想を貫いた“芸術論の集合体”でもありました。
島村抱月の論文紹介に始まる同時代人ロダンの紹介は、
その後の熱狂的な「白樺」によるロダン芸術評価に繋がります。
一方、ロダン自身もアジア、日本からの刺激を自らの作品に溶込ませようとします。
当時の欧州で起ったジャポニスムの流れの中でも、
ロダンの日本への関心は特異だったといわれています。

ダンテの地獄の門
ダンテの地獄の門

『白樺』派のメンバーと交流があった背景には、彼の日本への畏敬の念があり、
メンバーから贈られた「浮世絵」に対する大きな返礼として
ブロンズ3点が贈られました。

森鴎外「花子」のモチーフに描かれています。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/42226_18459.html

柳宗悦が横浜港から運んだロダンのブロンズ3点は、
1912年(明治45)2月に赤坂三会堂で開催された第4回美術展覧会で、
バーナード・リーチのエッチング、
『白樺』の表紙画を描いたハインリヒ・フォーゲラーの作品とともに展示されます。
10日間の会期中入場者であふれ、
「オリジナルの迫力にはじめて接した日本人の印象と驚きは、まさにひとつの事件」となります。
一人の芸術を目指す青年がこの展覧会を訪れます。
北海道旭川から上京し洋画を学んで6年
中原悌二郎
彼はこの出会いによって彫刻への志を深く啓発され日本彫刻界を牽引する作家となります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/中原悌二郎

中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館(休館中)
http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/files/bunkashinko/sculpture_mus/

代表作は
中原悌二郎 《若きカフカス人》
神奈川県立近代美術館/葉山館 展示品

現在彫刻の世界で「中原悌二郎賞」といえば、最も権威ある賞といわれていますが、この「中原悌二郎賞」受賞者作品を横浜で発見できます。
横浜港にロダンの作品が届いて100年、横浜にもここから始まる彫刻の息吹が繋がっています。

最上壽之
1981年第12回中原悌二郎賞優秀賞
代表作「モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨー」(1994年)

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【横浜雑景】グランモール公園

山本 正道
Masamichi Yamamoto

1978年第9回中原悌二郎賞優秀賞
2000年第31回中原悌二郎賞受賞
1979年横浜市山下公園に「赤い靴」設置

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木村 賢太郎
Kentaro Kimura
1974年 第5回中原悌二郎賞優秀賞
1989年 横浜山下公園に「ZANGIRI」設置

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朝倉響子
1982年第13回「ニケ」で中原悌二朗賞優秀賞受賞。
『ニケとニコラ』 関内ホール前

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No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボン!

澄川喜一
横浜市芸術文化振興財団理事長
1980年第11回中原悌二郎優秀賞受賞
澄川さんの作品は意外なところで出会えます。大岡川の「道慶橋」の親柱と、一つ上流の「一本橋」のデザインを担当しています。

導慶橋
道慶橋
一本橋
一本橋

一色邦彦
1973年「ひびき」により第4回中原悌二郎賞優秀賞受賞
横浜市港北区綱島に多くの作品が設置されています。
http://www.tsunashima.com/comm/museum.html

横浜で「ロダン」に出会うには、
大通公園関内駅寄りに「瞑想」という題で彼の作品が設置されています。

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現在
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リニューアル前、背景の階段のようなモニュメントが無くなりました。

柳原 義達
1974年第五回 中原悌二郎賞大賞「道標・鳩」
市立中央図書館 前に 「鳩」像があります。
写真は あえて 掲載しません。どうぞ 実物をご覧下さい。

No.347 12月12日(水)横浜自立の原点

今年も残すところ20日になりました。
1日1話、今日という日から“横浜”をモザイクのように紡いできました。
最初は断片的でしたが、この作業を通じてステンドグラスの模様のように新しい“横濱”が像を結び始めました。350話近い断片を改めて見直していくうちに触れておきたいテーマが幾つか確認できました。今日はその一つ、東京開港について紹介します。
1940年(昭和15年)12月12日(木)「東京開港」を進める政府と東京市に対し、横浜市は鶴見区・中区・磯子区・保土ケ谷区・戸塚区の各区で東京開港反対の“区民大会”を開催しました。


(錦の御旗“帝都の関門”)
この区民大会は、東京開港反対のごく一部の出来事でした。横浜は「東京開港」に対し“帝都の関門”を御旗に猛烈な反対運動を展開します。
幕末以来、首都圏の国際港として発展して来た「横浜市」にとって、東京開港は“死活問題”です。しかし、東京開港は粛々と進行し1941年(昭和16年)5月20日東京港が開港します。
そこには時代の渦に翻弄され「帝都の関門」だった“よこはま”が自立、脱皮する瞬間でもありました。
(私は東京開港が横浜自立の第一歩だと考えています)

東京開港は、横浜港開港から80年の時が過ぎていました。それまで、東京の港湾機能は充実していましたが、国際港ではありませんでした。
“税関”が無かったのです。
状況が大きく変化したのは大正末期に起った「関東大震災」です。311同様、災害は歴史を大きく変化させます。
震災によって東京と横浜は都市機能を失います。
政府は首都機能の回復のため“帝都東京復興”を優先しますが、皮肉にもそのための資材が“横浜港”経由では捌ききれず停滞します。
外国船(主にアメリカから)届いた救援、援助物資や災害復興用の資材・建築材などを芝浦桟橋に降ろすことが許されなかったのです。“東京税関”が無いため通関できなかったからです。
(それこそ特例で実行すれば良かったのですが、昭和初期の日本は短命内閣が続く今に似ていて“決めることができない”時代に突入)
1923年(大正12年)9月2日に22代山本権兵衛内閣(128日)以下(157日)(597日)(2日※)(446日)(805日)(652日)(244日)(156日)(11日※)(774日)(611日)(331日)(123日)(581日)(238日)(140日)(189日)(93日)(1,009日)(260日)1945年(昭和20年)8月17日42代鈴木貫太郎内閣総辞職(133日)まで、20代内閣が変わります。<※総理大臣死亡による臨時首相>
(余談ですが、大政翼賛会政府は長続きしません。大連立も短命に終わります)

(横浜がネックだ)
さらに、横浜港に届いた物資は、鉄道で運搬されましたが汐留駅でスタックし東京に出入りする捌ききれない貨物が山積み状態になっていきます。
大正以降、東京にも国際港をという経済界の強い要望が高まっていました。
1938年(昭和13年)しびれを切らした東京市は5月に「東京開港促進協議会」を設立します。翌年の1939年(昭和14年)12月には東京府本会議で東京開港促進に関する建議」を採択し政府に圧力をかけます。
東京開港に舵を切ったのが35代平沼騏一郎内閣(1939年1月5日
〜1939年8月30日)、その後 阿部信行内閣(140日)、米内光政内閣(189日)と短命内閣が続きます。横浜復興どころではありませんでした。※横浜市長だった平沼亮三と騏一郎は全く関係がありません。

(復興費用が無い)
復興にはスピードと資金が必要です。震災後、横浜市はいち早く政府に復興支援を陳情します。その時の内務大臣が大胆な首都復興プランを描いていた後藤新平でした。帝都復興が中心になっていましたが、横浜にも僅かながら復興予算がつくことになります。震源に近い被災地小田原は復興予算皆無でした。
横浜復興計画の陣頭指揮にあたったのが有吉忠一市長。
ちょっと癖のある市長でしたが、その行動力、決断力は評価できます。
インフラ整備等の基本復興計画は1929年(昭和4年)約5年で完了し、いち早く次の港都横浜再生計画推進体制に入りますが、この復興予算、横浜市は(政府内務省の強引な指導もあり)アメリカから借金することになります。
その額、米貨公債で約2,000万ドルにも及びます。ところが、この米貨公債で横浜市は財政破綻寸前にまで追い込まれてしまいます。
※東京は英国から(ポンドを)借金します。

(為替リスク)
1929年(昭和4年)に始まった世界経済不況、世界恐慌で大幅な円安に陥ります。1$=2円が1$=5円の円安となりアメリカに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、明治以来の輸出の柱が危機的状況に陥ります。
当然、生糸輸出の中心地だった「横浜」の打撃は深刻でした。
横浜の通常予算は年1,000万円ぐらいでしたが、米貨公債返済額4,000万円が1億円に膨れ上がる計算ですから、税収は激減するは、借金は増えるは、身動きできない財政状態に陥ります。
そこに、東京開港問題が起って来た訳ですから、横浜も“必死”です。「百万市民の死活問題」として市、市会、経済界、市民のレベルまでかなり一致団結して反対運動を繰り広げます。
(政府は何をしているんだ!!)そう思うでしょう。市の借金も「日本の借金」ですよね。なぜ、市単位で外国から借金するのか?
これって戦後も行われていて、横浜市も戦後かなり外国から借金しています。とはいえ、震災復興という国家にとっても一大事に、横浜の借金地獄が起ったのか?当時の金融政策の影が落ちていますがここらあたりは別の機会としましょう。<金本位復活の罠にはまった日本>

(横浜モラトリアム)
港湾関係、特に貿易関係に絶対的権力を持っていた大蔵省が、横浜市に妥協案(懐柔案)を提示します。借金チャラにしてあげます、だから東京開港を認めなさい。と当時の大蔵大臣「河田 烈(かわだ いさお)」がもちかけます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/河田烈
実は東京開港に大反対していた横浜市長「青木周三」に代わり同い年で帝大・内務官僚出身の半井清が市長になったことも大きかったようです。
※第12代横浜市長「青木周三」も歴代市長研究として興味ある人物です。青木周三は、鉄道畑で横浜市電気局(現交通局)初代局長、助役、鉄道省次官となり請われて“人選一任を条件に就任”した横浜独立中興の祖?ではないかと思っています。→調べたい(掘り起したい)人物の一人です。

市長は同意、市会議長も説得に応じて
東京開港に横浜が同意します。ただし、東京港は横浜税関の下に置き、原則として満州国・中華民国及び関東洲との就航船に限るという条件付きでした。
ようやく横浜市は借金地獄から開放され、横浜独自の産業育成に取りかかりますが、戦争に突入し頓挫することになります。
No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶

No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

No.335 11月30日(金)午後1時46分41秒

ジャーナリズムの力は“今”を追いかけるだけではありません。
過去を紡いで歴史に真実の光をあてることも大切な仕事です。
今日は1942年(昭和17年)11月30日午後1時46分41秒に起った
爆発“事件”を追いかけたジャーナリズム魂の一端をご紹介しましょう。

(事件の概要)
1942年(昭和17年)11月30日
新港埠頭に停泊していたドイツ船ウッカーマルク号が突然爆発し、他の船舶も連鎖爆発し多くの死者と被害が出ます。
爆発は46分間に5回起ります。
第一回が午後1時46分41秒
第二回が午後1時48分9秒で最大の爆発でした。
新港埠頭には、タンカーのウッカーマルク号の他、
仮装巡洋艦10号「THOR(トール)号」
第三海運丸(中村汽船所有の海軍徴用船)
ロイテン号(オーストラリア船籍の客船)
の3隻が停泊していました。

本文図を加工したものです

爆発の被害は半径2キロメートルにも及び、破片がニューグランドホテル前や伊勢佐木町にまで飛散し、爆音は遠く東京でも窓ガラスが振動するほど大きなものでした。

本文より引用

犠牲者はドイツ兵61、中国人36、日本人5の102名で、生き残ったドイツ兵は終戦まで箱根・芦之湯温泉の貸切状態の旅館で暮らし、敗戦後GHQによりドイツに送還されます。
この爆発は戦時下ということもあり、スパイ説を含め様々な情報が飛び交いますが「極秘扱い」となり歴史から姿を消します。

(時代背景)
時代は日本が1937年(昭和12年)日中戦争(支那事変)を開始し、1939年(昭和14年)9月にドイツ軍がポーランドへ侵攻し、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で第二次世界大戦が拡大していた
1942年(昭和17年)の爆発事件でした。
日本は日独伊三国同盟を結び、ドイツとは同盟関係にあり国内には3,200近いドイツ人が滞在していました。この数字は現在の在留資格のあるドイツ人が 5,303 人(2011年度)ですからかなりの数であったことが判ります。

(発掘)
この爆発事件は当時多くの市民の記憶に残りますが、戦時下の情報統制の結果、戦後も記憶の奥底にしまい込まれていました。
1991年(平成3年)7月、神奈川新聞社「石川美邦(いしかわみくに)」記者が横浜税関の倉庫資料の中から古いガラス乾板の写真に出会います。断片的には1942年(昭和17年)に新港埠頭でドイツ船の爆発があった史実は記録されていますが、
「爆発の全貌」
「爆発の原因」
「犠牲者の行方」という三つのテーマを
関係者探し、インタビュー、実査等を重ね三年半の取材から明らかにしていきます。

(事件から事故へ)
情報管制により消えた爆発は事件ではなく乗船員による「事故」だったことが明確になってきます。
詳細は
「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」(惨劇から友情へ50年目の真実)光人社NF文庫に詳しいのでぜひ一読をお勧めします。
この本から歴史を紡ぐ“面白さ” “取材という基本”から史実を手繰る醍醐味が推理小説を読み解くように実感できます。
新たに多くの横浜に残された謎や、日本人とドイツ人の友情、信頼関係、文化交流の歴史が次々と明らかになっていく過程を一気に読み切ってしまいます。

(日独関係)
この「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」取材をキッカケに始まった日独交流があります。
読者にとっては当時を生きた多くの人たちの声を知ることで「消えかけた歴史」を掘り起す“重要性”を改めて実感する一級資料でとなっています。

(ある外交官の生死)
爆発事故の現場に一人のドイツ外交官がいました。
エルヴィン・ヴィッケルトは、当日ウッカーマルク号の横に停泊していた「THOR(トール)号」の船長に母国の記者達と共に招かれます。
THOR(トール)号は拿捕したロイテン号(オーストラリア船籍の客船)を横浜港に曳航し、捕虜を下船させ三菱造船で修繕、補給を済ませ、爆発のあった11月30日の翌日12月1日に出港する予定でした。
12時過ぎに横浜港に到着したヴィッケルトは、乗船し船上で昼食中でした。最初の爆発でヴィッケルト達は海に飛び込み次々と爆発するなか埠頭まで泳ぎつきます。まさに九死に一生を得たのです。
1915年生まれのヴィッケルトまた大変興味深い人生を歩んでいます。少し余談になりますが紹介しておきます。
ヴィッケルトはドイツの大学で美術史を学び、交換留学生として渡米し米国の大学で経済学と政治学を学びます。
その後、ヴィッケルトはヒッチハイクと無賃乗車で鉄道を使いロスアンジェルスまで大陸横断を達成します。彼はそれだけでは飽き足らず、当時日米間を往復していた日本船籍の移民船で横浜に向かいます。
横浜港から日本上陸を果たし、ドイツ新聞社へアジアレポートを送りながら中国に渡り、ドイツに戻るという世界一周を達成します。
この経験が役に立ったかどうかわかりませんが、外務省に採用され最初は「上海」に赴任します。上海では英語放送を行いますが上司の(ナチス党員)と折り合いが悪く“解任”されます。
運良く日本公使のエーリッヒ・コルトに拾われることでまた日本に赴任し、横浜でこの事故に遭遇し生死を分けることになります。
爆発の直後、オイルまみれになりながら生還したヴィッケルトは、数日後妻の出産に立ち会い二人目の息子(次男 ウィリッヒ)と出会うことができます。
次男Ulrich Wickertは、
http://en.wikipedia.org/wiki/Ulrich_Wickert
現在ドイツで人気のジャーナリストとして活躍しています。

 

No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん(加筆)

開港場「横浜」生みの親は誰でしょう?
私は“吉田勘兵衛”さんだと考えます。
彼の名が現在市内の一部に残っています。
その代表が「吉田橋」と「吉田町(商店街)」です。
1946年(昭和21年)11月16日(土)この吉田町商店街が復興祭を開催(17日まで二日間)しました。
この記事から
ざくっと(おこがましいですが)吉田町商店街を巡るエピソードを当ブログ流に追って?みましょう。
まず吉田町商店街はどこにあるのでしょうか?

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現在の吉田町は伊勢佐木町と野毛町を結ぶ短い商店街です。
開港後横浜が国際港として整備が始まり、国内用と外国用の桟橋ができました。
国内用の日本波止場から「馬車道」が走り「派大岡川」の「吉田橋」を抜け伊勢佐木町商店街横から野毛と「横浜道」に抜ける商店街が「吉田町商店街」です。

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それでは始めましょう。
吉田町商店街は幕末から昭和40年代まで、
継続してずーーーっと
横浜で一番コンスタントに賑わっていた“隠れ人気スポット”でした。
だから、終戦直後も一番に「復興祭」を開催したのでしょう。

1946年(昭和21年)11月16日(土)の「復興祭」は、神奈川新聞に広告と記事が出ています。

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写りが悪いのでご勘弁ください
 
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記事から文字がかすれて判読が難しいので間違っているかもしれませんが、概ね下記の通りの内容です。
“吉田町復興際”
進駐軍の許可を得て清水組(現在の清水建設)の全面協力で商店街を再建します。
※清水建設は1858年(安政5年)井伊直弼より開港場横浜の外国奉行所などの建設を請け負い横浜開発とは縁が深いゼネコンです。(都橋脇に横浜支店があります)

そこに戦前のお店が復活しその記念セールをするといった内容です。
(広告では)70の店舗が揃ったとPRしています。
ビクターの歌手が3名出演する“歌謡ショー”も同時に行われました。
3人の歌手とは
晩年は横浜で暮らしたデュエットの藤原亮子
第1回日本レコード大賞童謡賞を受賞した石井 亀次郎
そして新人の平野愛子でした。
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平野愛子(wikipedia)

これは中々特筆すべきことで、歌手 平野愛子が新人で登場していることです。
平野は1945年(昭和20年)暮れにビクターが行った歌手募集で3,000人の中から7人という400倍以上の倍率から選ばれた大型新人でした。
特にビクター専属作家「東辰三」に見いだされ
1947年(昭和22年)4月にビクターが戦後初のレコードとしてリリースした
「港が見える丘」で第一線に躍り出た
「濡れたビロウド若きブルースの女王、平野愛子」です。
この歌のヒットが「港の見える丘公園」の名につながります。

No.129 5月8日 ヒット曲の公園

港が見える丘  平野愛子
https://www.youtube.com/watch?v=VHJd8VMleCU

この“吉田町復興際”開催から半年後ですから、もうライブで練習していた頃ではないでしょうか?
当時を知る方から平野愛子は吉田町で何を歌ったか聞いてみたいものです。

(開港以前に横浜に着目)
この吉田町商店街、吉田橋の名が残る「吉田」は、横浜の関外地区を開港前に私財を投げ打って埋め立てた「吉田勘兵衛」さんの「吉田」です。
彼の努力、開拓精神が無ければ今の横浜は無く、開港場は最初の要求通り“神奈川”になっていたかもしれません。

(悲劇の埋立て王)
吉田家の代々に渡る横浜埋立て物語は語るも涙の物語です。
横浜に広大な新田を造った吉田 勘兵衛は江戸時代前期の日本橋で材木商を営み財を成します。高島嘉右衛門、苅部康則らとともに横浜三名士といわれました。(時代はズレますが)
※マルチビジネスマンだった高島嘉右衛門
 保土ケ谷宿の本陣を代々管理し、横浜道を造った苅部康則
吉田勘兵衛、
新田開拓に関しては、隅田川沿い、千住中村の音無川流域を埋立て農業の世界でも成功します。
1656年(明暦2年)に横濱の入海に目をつけます。

幕府の許可を得て新田の開発(干拓)に着手し数々の苦労を乗り越え完成し「吉田新田」と名付けます。

この功績により苗字帯刀を許され、子孫は代々この新田に住み続けることになります。現在は大岡川近くの「吉田興産ビル」にその名残があります。

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大岡川吉野町辺りから現在の首都高速までぜーーーんぶ、
吉田家の奮闘でできた土地です。
工事の途中、潮除堤が崩壊し干拓途中の土が流されたりしますが、地元の人々の意見をまとめあげながら約20年かけて
1667年に完成させます。

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信心深かった吉田勘兵衛は
「新田開発の成功は村民の努力と神様や仏様の守りがあったからだ」と考え“お三の宮日枝神社”と長者町八丁目に“常清寺”を建てます。
吉田家の菩提寺となっている“常清寺”はその後、久保山に移りますが共に祀られた「浄地院殿永運日浄清正公大神祇」(清正公様)は現在も(清正公通り)と共に長者町に残っています。
吉田家は明治に入って、横浜開港場の水運機能を高めるために中村川から根岸湾までの運河を開削し「堀割川」工事を進めます。途中財政難に陥りますがなんとか完成します。
現在の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町はこの土砂を使って埋め立てられたのです。
まさに現在の横浜は「吉田さん」のおかげです。

No.214  8月1日 (水)開港場を支えた派川(はせん)工事

(最近元気な吉田町)
最近元気になった「吉田町」に関しては
http://www.yoshidamachi.org
十六夜吉田町スタジオ
http://izayoiyoshidamachistudio.com/ja/
カクテルの世界チャンピオンのお店「ノーブル」も吉田町にあります。

No.134 5月13日 必ず素晴らしい日の出が訪れる

その他
吉田町商店街付近はまだまだ十話分以上のネタがありますが、

今日はこのへんで。またの機会に。
【番外編】吉田町雑景

No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南

No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば

1894年(明治27年)頃に「第一有隣堂」を当時のビジネススポット吉田町通りに開業します。

No.314 11月9日 (金)薩長なんぞクソクラエ

司馬遼太郎が『坂の上の雲』でほとんど取り上げなかった人物に
秋山 好古の大親友がいます。
その名は加藤恒忠(拓川)、直接横浜には関係ありませんが、
今日はちょっと脱線します。
1883年(明治16年)11月9日の今日、24歳の“加藤恒忠”は、フランス留学のために横浜港で若き友人達と別れのひと時を過ごしたあと、10日早朝フランス郵船「タイナス号」でパリに旅立ちました。

加藤 恒忠は伊予松山で1859年2月24日(安政6年1月22日)に大原有恒の三男として生まれます。
1870年(明治3年)に12歳で藩校明教館に入り1875年(明治8年)に東京に出て翌年9月には司法省法学校に入る実力を発揮しますが、少々正義感が強すぎ学校長に対し反抗します。
1879年(明治12年)2月、ついに校長の運営に反対し退学届けを出し学校を去ります。「賄い征伐事件」(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)
この間に大原家から父の実家加藤家を再興し「加藤恒忠」を名乗ります。
司法省法学校校長があまりに藩閥の威を嵩にきたため伊予人としては我慢がならなかったのでしょう。
この時一緒に憤慨して退学届を出した人物がいます。
後の日本新聞社長、弘前出身の「陸羯南(くが かつなん)」
総理大臣となった盛岡出身の「原敬(はら たかし)」
漢詩で名を挙げた仙台出身の「国分青崖(こくぶ せいがい)」らです。
加藤 恒忠は、彼らとは終生友人として親交を温めます。
タンカ切って辞めた加藤 恒忠は、明治の思想家、中江兆民の塾に入り学びフランス語とフランスの近代思想に出会います。

そして1883年(明治16年)11月加藤 恒忠25歳の時、
旧伊予松山藩主久松定謨に随行して渡仏します。
この時、法学校を蹴飛ばした親友陸羯南(26歳)国分青崖(26歳)
そして、甥っ子の正岡子規(16歳)、子規の従兄弟 藤野古白(12歳)らが渡仏する加藤 恒忠を横浜まで見送ります。

仏郵船会社のあった居留地十番、現在はホテルニューグランドが建っています。

加藤 恒忠はフランス滞在中に外交官試補になり、33歳の時に帰国します。ベルギー駐在特命全権公使、ジュネーヴの万国赤十字会議に全権として出席しますが、伊藤博文と対立し職を辞します。
その後、新聞記者を経て国会に登壇します。衆議院議員、ジュネーブ会議全権大使、松山市長などを歴任します。最後まで「正義の下で」闘った人生でした。同い年で同郷の日本騎兵の創始者「秋山好古」とは終生竹馬の友であり、相談相手でした。

正岡子規にとって叔父、加藤 恒忠は兄であり父にも近い存在でした。加藤も子規亡き後の正岡家を支援します。

(興津の風)
静岡県清水市興津に正岡子規の句碑が建っています。平成14年子規100年の忌日に建てられました。
結核となった正岡子規は弟子の伊藤左千夫に勧められて、興津で病気療養する予定でした。弟子の加藤雪腸や河東碧梧桐の手配により興津本町の松川医院(現、河村医院)に入院する予定でしたが、周囲の反対にあい、興津での療養は断念せざるをえなくなりました。子規自身は興津をお気に入りだったようで、ここに移るかどうか、そのメリット・ディメリットを書簡にして叔父加藤 恒忠に送っています。

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興津転居の利
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興津転居の害

子規は 興津に行きたかったのでしょうね。

「つきの秋 興津の借家 尋ねけり」

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訪れた時には野菊がきれいに咲いていました。 
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奥の山裾が清見寺です。

2年後の1902年(明治35年)に36才の若さで亡くなりました。

No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン

第837話 正岡子規の7月2日

第837話 正岡子規の7月2日


No.287 10月13日(土)翔ぶが如く (加筆修正)

明治維新は時代の転換点でした。
この先、どの路を歩むのか、
維新を起こした若者達にも皆目検討がつきませんでした。
ただ全ての路の先に立ちはだかっていた“坂”を
一所懸命登ろうとしていたことは間違いありません。
1878年(明治11年)10月13日(日)横浜が(11月21日に)横浜区となる直前の今日、
太田町の幕末から続く「料亭佐野茂」に
結社「嚶鳴社」発会式のために市内外の有志が集合しました。

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太田町界隈 佐野茂の場所は未確認です

1873年(明治6年)10月、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の5人の参議(内閣制度ができる前の政府集団指導者)が一斉に辞職します。
これを明治6年の政変と呼びます。これによって伊藤・大久保体制が確立します。
そして
1874年(明治7年)政治闘争に破れた板垣退助らが時の政府から下野した事をキッカケに自由民権運動が起ります。

明治に入り、日本は維新に成功しましたが、
薩長藩閥による独善的政権運営に批判が高まり幾つかの政治危機を迎えます。
その第一幕が「明治6年の政変」です。これによって同床異夢のご一新の若者達は最初の分裂を迎え全国各地に政治結社設立運動が起こります。
一方、武力による政治危機は、1877年(明治10年)に起った西南戦争の西郷軍全面的敗北で、多くの結社はより言論闘争にシフトしていきます。
日本の近代政党誕生前のうねりでした。
明治維新で大きく国家体制が変わったとはいえ、政府を支えるテクノクラートの多くが“徳川時代”の優秀な官吏達でした。
彼らもまた、現状の政治体制に対し民意を集約する必要性を感じ言論型政治結社の結成を急ぎます。
その一つが沼間守一率いる「嚶鳴社」です。
新聞記者、弁護士、開明派官吏などを中心として結成された明治時代前期の政治結社です。

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「嚶鳴社」の中心人物は、元老院大書記官の沼間守一(ぬまもりいち)で、自由民権・国会開設を主張します。
まず東京に本部を置き、福島県石川郡石川(第二嚶鳴社)と群馬県前橋、そして神奈川県横浜に支社を興します。
http://www.wave-yui.or.jp/sekiyousha/nagare.html
この時の、横浜支部結成大会が、冒頭の
1878年(明治11年) 10月13日(日)「料亭佐野茂」にて行われたのです。

(経済と政治を問う嚶鳴社)
その後「嚶鳴社」は短期間に勢力を伸ばし沼津、上田、八王子、五日市、大宮、浦和、草加、木更津、勝浦、鳩ヶ谷、遊馬(ゆま)、杉戸、館林、島村、新町、足利、白河、鶴岡、大垣、甲府、須賀川、仙台など関東・東日本中心に支社が結成されます。
「嚶鳴社」は単に政治的要求の運動だけでなく商権運動として外国に対する不平等な商業活動への不満もありました。特に横浜は生糸貿易の拠点でありながら外国商館に主導権を握られている状況を打開したい要求が横浜財界から起っていました。
横浜支社結成には、横浜経済界から
戸塚千太郎、早矢仕有的、木村利右衛門らが集い、
リーダーの沼間守一も駆けつけます。沼間守一この時34歳です。

(嚶鳴社誕生)
嚶鳴社は1873年(明治6年)暮、民衆の政治意識を高めるために沼間守一とその仲間たちが東京下谷に開いた「法律講習会」からスタートしました。
ここには肥塚龍、田口卯吉、堀口昇、島田三郎、末広重恭、野村本之助といった、当代一流の知識人が出入りし、盛んに討論会や演説会を開催していきます。
ここのリーダーとなった沼間守一という人物、かなり面白い人生を歩みます。

(横浜と沼間守一)
沼間守一は江戸牛込で幕臣の子として生まれ沼間平六郎の養子となります。
1859年(安政6年)養父長崎奉行転勤に伴い長崎で英国人に英学を学びます。
その後、江戸で海軍技術、横浜でヘボン塾に学び医学から英語(兵法)まで幅広い知識を吸収します。同期には大村益次郎ら幕府委託生九人がいました。
また、幕府陸軍伝習所にも入所し、仏式兵法を徹底的に学びます。
幕府第二伝習兵隊長となり1,500人近い幕府兵士を育てる手腕を発揮します。
この時彼はまだ二十代前半でした
維新前夜、
沼間守一は会津に士官約20名を連れ脱走、遊撃隊(銃隊)を編成、新政府軍と戦いますが降伏、江戸に護送されます。
「ああ たった六十余州か けさの春」
という句を残します。
服役後、1869年(明治2年)に放免されますが、時代は明治となり武士では生活できずかつて学んだ英学を活かし日本橋に塾を開くことになります。
ところが、危険分子ということでまたまた投獄されてしまいます。
この時彼を助けたのが、北関東で大鳥圭介らと一緒に戦っていた新政府軍の指揮官、
土佐藩士“板垣退助”でした。
後の自由民権運動の旗手となった板垣退助に助けられた沼間は生活のために
土佐藩邸の兵士教授方に就きますが、
土佐藩が廃藩置県で消滅してしまいます。
仕方なく活路を自由都市「横浜」に求めハマに来て起業します。
最初は生糸商・両替商を営みますが、英学・兵学には優れていましたが商業(商売)はからっきしダメで一年早々で廃業します。
彼の噂を聞いたのか、
誰かの口利きがあったのかわかりませんが、
当時の大蔵大臣“井上馨”に“国の財政にお前の才能を活かせ”と推薦を受け
1872年5月1日(明治5年)付けで租税寮七等出仕、横浜税関詰になります。
今で言う国税庁横浜税務署勤務を命ず!ってとこですかね。

(暴れん坊役人)
沼間守一、根っからの天才肌?だったのか二ヶ月で租税寮でも問題児として上司が音を上げます。推薦した手前、井上馨は親友の江藤新平に面倒見てくれ!と頼み込みます。
沼間守一、司法省七等出仕に(異動?)し早々(語学が堪能?厄払い?)欧州派遣され各国を巡る旅に出ます。
1873年(明治6年)に帰国し、司法省六等出仕に昇進します。
この年に「法律講習会」が設立されます。
それにしても この時代 ジェットコースターみたいな人生他にも多々あったようです。

(メディアに生き残りを賭ける)
沼間守一はその後、順調に司法省で法律の専門家として出世しながら、「法律講習会」をより政治性の強い結社「嚶鳴社」に発展させていきます。政府要員でありながら政治活動、今では考えられませんが、この自由を政府がずっと容認する訳が無く、次第に弾圧が厳しくなります。
「嚶鳴社」の横浜支社を結成した翌年の1879年(明治12年)
沼間守一は元老院役職を辞任し
一般官吏に戻り活動を続けますが「官吏の政談演説が禁止」が決り、
官吏の職も辞め『嚶鳴雑誌』を創刊します。
そして、さらに明確なメッセージを発信するために
1879年(明治12年)11月18日に横浜で創刊された
日本最初の日本語の日刊新聞「横浜毎日新聞」を買取り
本社を東京に移し「東京横浜毎日新聞」とします。

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その後1886年(明治19年)5月1日に「毎日新聞」1906年(明治39年)7月1日に「東京毎日新聞」と改名しますが、廃刊になるまで政治の監視、反戦の姿勢を貫き
明治ジャーナルの金字塔といえるでしょう。

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1888年(明治21年)から社長を引き継いだのが、
かつて創業時代に記者を仮名垣魯文らと勤めた
横浜の反骨政治家「島田三郎」でした。

1月23日 大正の正義

その後の沼間守一は、
道を官吏から政治に転換し東京府会議員となり国会期成同盟の責任者の一人となり憲法が成立する1889年(明治22年)まで八面六臂の活躍をしますが、惜しくも1890年(明治23年)5月17日に亡くなります。47歳の若さでした。
※ここに登場する「毎日新聞」は
現在の毎日新聞社ではありません。
現在の毎日新聞は1943年(昭和18年)に「大阪毎日新聞」と「東京日日新聞」が合併して設立されたものです。

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

ここでも何回か紹介しましたが、
咸臨丸についてその実像が意外と知られていません。かくいう私もほとんど知りませんでした。
咸臨丸の波濤の生涯に出会うキッカケはバーでした。
北海道、夕張に出かけた帰り、札幌のバーに立ち寄った時にバーテンダーから
カウンターで一冊の本を紹介されました。

旅先の情報を知るには「バー」がもっとも知的でエキサイティングです。

1咸臨丸は遣米使節団ではありません。
2咸臨丸の最後は北海道。函館沖に沈んでいます。
3咸臨丸は5,000日現役でがんばりました。
4咸臨丸は最初太平洋横断には使用されない予定でした。
5咸臨丸はオランダ生まれで、欠陥品でした。
6九州対馬にもロシア船掃討作戦のために出動しています。
7静岡清水港で新政府軍に攻撃され咸臨丸乗組員全員が死亡します。

この清水港事件が起ったのが
明治元年9月18日(1868年11月2日)の今日です。

咸臨丸栄光と悲劇の5,000日
札幌のバーで出会った一冊
まず簡単に前段から。
咸臨丸は、幕末期に幕府がオランダに発注した軍艦です。
オランダから到着した「咸臨丸」は長崎海軍伝習所の練習艦として使用されました。
※「咸臨」とは『易経』から引用、君臣が互いに親しみ合うことを意味します。
咸臨丸
太平洋を渡る咸臨丸

最初の活躍は“太平洋横断”です。

遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断するにあたり、幕府の正使に万一の事が起きた場合に備え提督役に「軍艦奉行木村摂津守」、艦長役に「勝海舟」を任命し「ポーハタン号」に随伴させる事にしました。

咸臨丸には計107名の乗組員が乗船、

勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らがいました。(日本人96名、米国人11名)

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一般的には、ここで咸臨丸の姿が消えてしまいます。
太平洋往復を無事に終えた咸臨丸は、帰国後幕府軍艦として日本各地を航行します。
酷使しすぎて最後は動力の蒸気機関を取外し“帆船”になります。

 今日番外編で咸臨丸

 No.34 2月3日 (金) ポサドニック号事件で咸臨丸発進

※この間、咸臨丸はかつて英米が領有権を宣言した「小笠原諸島領有権」確保のために諸島に派遣されています。(この辺は現在の問題とも重なり面白い史実があります)

1868年(明治元年)に最後の幕府軍と新政府の戊辰戦争が起こり、咸臨丸は幕府の艦船として他の艦船と行動を共にします。

幕府軍 海軍副総裁榎本武揚(えのもとたけあき)は降伏を拒否、品川から旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出します。

ボロボロの“咸臨丸”は銚子沖で暴風雨に遭い榎本艦隊とはぐれてしまいます。下田まで流されますが、榎本艦隊の一隻蟠竜丸(ばんりゅうまる)に曳航され清水港に避難します。(この時既に、咸臨丸は戦闘を諦め、新政府側に降伏するために清水港に向かったという説も有力です)
清水港で修理にあたりますが、傷みが酷く蟠竜丸は咸臨丸を残して先に北海道へ向かいます。

(長い前段はここまで)
9月2日に清水港に避難した咸臨丸は船体を修理するため、武器弾薬や器械等を陸揚げします。
清水といえば、15代将軍徳川慶喜が大政奉還し国許に蟄居した場所です。静岡藩徳川家は驚天動地、対応に苦慮します。
旧幕府の軍艦が入港した訳ですから。

静岡藩は「咸臨丸乗組員に一夜の宿も貸してはならぬ。匿ったりした事が後日解ったら、匿った当人はもちろん五人組の仲間や村役人までも処断する」と通達を出します。
そこに、新政府軍の追っ手が清水港に入ってきます。
富士山丸、飛龍丸、武蔵丸という当時最新の軍艦です。

※富士山丸はアメリカ製で、幕府が注文した新品を新政府軍が獲得した船です。

軍艦には柳河藩(福岡県柳川市)兵30名・徳島藩(徳島県)兵30名が乗込み、陸路は肥前佐賀藩兵に警戒するよう司令を出します。

9月18日清水港内で、新政府軍は咸臨丸を発見、アメリカから納品されたばかりの富士丸は発砲しながら咸臨丸に接近、船上で斬り合いが始まりますが、咸臨丸に残っていた乗員は全員死亡します。

(ここからが?)
死亡した咸臨丸乗員は湾内に放置され、新政府軍は立ち去ります。
静岡藩が江戸(東京)に打診した降伏交渉がもう少し早ければ、戦闘中止となり乗員の生命は失われなかったかもしれません。

とにかく、反乱軍に関わるな!と新政府から命令が出され、しかも静岡藩は別の難題を抱え、新政府とは事を荒立てたくない切迫した事情がありました。多くの旧幕臣の駿府への移住と再就職問題です。
徳川藩側は、一部危険分子のことを考えている余裕など無かったのです。湾内に放置された咸臨丸乗員、春山弁蔵、春山鉱平、今井幾之助、長谷川清四郎、高橋与三郎、加藤常次郎、長谷川得蔵の七人の遺体を引き上げ、弔った人物がいます。

壮士の墓

山本長五郎、一般的には「清水次郎長」の名で有名です。
次郎長親分は、その日の内に、遺体を引き上げ「死ねば皆仏官軍も賊軍も無い」という名ゼリフを残し清水向島の土左衛門埋葬地、通称土左衛門松の根元に葬ります。清水町妙生寺の住職乗暹により、浄土三部経を石に書き供養します。

山本長五郎、映画や芝居、小説になってイメージができ上がり過ぎですが、彼の人生は確かに若い頃の“ヤクザ”な生活がありますが、幕末から明治にかけて、廻漕業、三保の新田開発、巴川の架橋、相良町の油田開発、英語学校の設立、又蒸気船による海運会社の設立を手がけた実業家でした。山岡鉄舟との出会いが彼の生き方を変えたのかもしれません。山岡は良き次郎長の相談相手だったようです。

明治期、清水と横浜の航路開発や、高島嘉右衛門と新田開発を計画したり、横浜と清水の関係を深めた人物でもあります。

次郎長関係書籍
次郎長関係書籍

その後の咸臨丸は、悲劇で終わります。

清水港事件からちょうど4年後の1871年(明治4年9月19日)、仙台白石城主 片倉邦憲の旧臣401名を移住させる目的で北海道小樽へ向け出航。輸送途中に北海道木古内町泉沢沖で暴風雨により遭難し、サラキ岬で破船し沈没します。

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当時、旧幕臣達は北海道に多く移住しましたが、今の札幌市白石区の名は、片倉氏の旧臣達が作った白石村から続くものです。

(余談)
咸臨丸乗員の碑が興津の清見寺にあります。
この碑をめぐっては、福沢諭吉が榎本武揚と咸臨丸に同乗した勝海舟を非難した「痩我慢の説」が有名です。

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清見寺にある碑

最後まで函館で戦って破れた榎本武揚は、明治政府の要人に変身、清見寺に建つ慰霊碑に「食人之食者死人之事」と残します。
その後の榎本は大活躍しますが、(過去の反省無き態度に)福沢は節操がない!と非難します。
「痩我慢の説」

面白い文章ですのでぜひ一読をお勧めします。
勝に関して、咸臨丸同乗以来確執があり、咸臨丸の最後に関わった榎本を非難した福沢にとって<咸臨丸>は鬼門だったようです。

(口語訳)

http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20111201/1322665564

(原文 青空文庫)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/card46826.html

 

 

No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)

元米国18代大統領ユリシーズ・グラント一行は、
1879年(明治12年)9月3日(水)の今日、
横浜港からPacific Mail Steamship Companyの蒸気船「City of Tokyo」号に乗り母国に向け出港しました。
2年と4ヶ月の長い旅の中で、グラントの日本滞在は
若き日本の指導者にとって
“まことに小さな国が開化期を迎える”力となった出会いでした。

元米国18代大統領ユリシーズ・グラント(1822年4月27日〜1885年7月23日)は、歴代米国大統領の中では周囲の汚職スキャンダルに悩まされ低評価でしたが
軍人として南北戦争を戦い最終的に北軍に勝利をもたらした偉大な司令官(将軍)として後世に名を残します。
グラントは二期大統領を務めた後、三選を諦め世界一周の旅に出ます。
イギリスを皮切りにヨーロッパ諸国を歴訪、さらにエジプト、インド、シンガポール、タイ、清を経て最後の訪問地が日本でした。

簡単にグラント将軍の日本での行動を紹介します。
1879年(明治12年)6月長崎到着。
 日本側から伊達 宗城伯爵が出迎え、接遇担当としてグラントの信頼を得ていた駐米公使 吉田 清成を米国から呼び戻しました。
 当時、5代目にあたる駐日公使ジョン・ビンガムも彼の到着を待ちわびていました。
ビンガムはかつてアメリカ議会で共に共和党議員として活躍した仲間でした。
6日間の歓迎行事を終え、次の寄港地は神戸を予定していましたが関西圏で発生した「虎列刺」(コレラ)が大流行の兆しを見せます。
ビンガムは神戸寄港を中止させますが、接遇担当の吉田 清成がサプライズメニューを用意します。
長崎港を出たグラント一行は、7月2日に静岡の清水港で漁師達の投網漁のパフォーマンスを見て短時間ですが上陸します。このサプライズにグラントは感激します。このパフォーマンスを担当したのが山本長五郎、清水次郎長でした。この“仕立て”には米国に渡った咸臨丸・咸臨丸を攻撃した米国製の蒸気戦艦富士山丸、それを斡旋した米国公使プルインのエピソードがあり、グラントはおそらくパフォーマンスの背景を聞いて大声を挙げて笑ったに違いありません。(別掲予定)
静岡で楽しんだグラント一行は、7月3日に横浜港に到着し大歓迎を受けます。
出迎えた日本側の要人は、岩倉具視、伊藤博文、寺島宗則ら当時の政府側最高幹部達でした。
横浜に到着した彼らは汽車で移動し新橋に向かいます。
新橋駅では、岩倉遣米使節団の一員だった福地源一郎が歓迎の辞を伝えます。
翌日の7月4日、御所での天皇謁見が用意され、訓練された儀仗兵がアメリカ合衆国の初代国歌である「コロンビアをよぶ」で出迎えました。
Hail Columbia
http://www.youtube.com/watch?v=WoSsjfHHhKs
http://www.youtube.com/watch?v=FyIqvZSuptk

1879年(明治12年)7月4日は、103年目のアメリカ独立記念日にあたり、若き明治天皇は
「今日ハ貴国独立ノ期日ニ当リ候ヨシ此日ニ於テ初面会ヲ遂げ右ノ歓ヲ申候ハ別テ目出度事ニ存候」と述べます。
謁見後、夜には上野精養軒で東京在住のアメリカ人による歓迎レセプション

8日には東京府民主催の歓迎夜会(工部大学校)16日 新富座で観劇会8月1日 横浜居留地外国人主催夜会(山手公園)5日 渋沢栄一主催の晩餐会(飛鳥山)25日 上野公園に明治天皇臨席のもと歓迎会26日 横浜駐在アメリカ総領事主催夜会(渋沢栄一資料から)

渋沢関連の民間財界側の歓迎プログラムだけでもこれだけ行われました。
政府公式行事も続きます。
日光では、精力的に日本政府代表と琉球の領有をめぐる日清間の対立問題ほか国際情勢について意見を交わします。

特に明治天皇のグラントへの信頼関係は強く、8月10日の天皇・グラント会談は
後の日本の方向を占う重要なアドバイスでした。
老獪な英国”と共に南北戦争を戦ったグラント将軍、
英国嫌いの駐日公使ヒンガムの正義感、
なんとか南北分裂を避けることができたアメリカのピュアな時代に、
日本のキーマン達は出会ったのです。
(後編に続く)

No.209 7月27日 (金)浜で起り、浜で終結

横浜が開港の正式調印が安政6年6月2日(1859年)行われ、
外国人居留地が誕生した直後、事件は起りました。
7月27日(1859年8月25日)横浜居留地の波止場近くで“初めて”外国人が日本人に襲撃され、二人が死亡したのです。

このあたり?

開国はしましたが、日本は“安政の大獄”で一種の戒厳令による状態でした。
国内は一発触発、徳川政権は内外部に不満分子を多々抱えていましたが、列強各国も足並みは揃っていません。
まず英仏が江戸に乗り込み外交拠点を求めます。
米国も英仏の動向に注視しながら独自の外交を開始します。

イギリスはアジア外交のベテラン、ラザフォード・オールコックを日本担当にします。
安政6年6月7日(1859年7月6日)に、江戸高輪東禅寺にイギリス総領事館を開き、準備を始めます。
アメリカは既にタウンゼント・ハリスがヘンリー・ヒュースケンとともに
安政3年7月12日(1856年8月21日)に日本へ到着し江戸元麻布善福寺に公使館を開きます。
フランスは、少し遅れて
安政6年8月10日(1859年9月6日)にギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールが初代の在日本フランス領事として赴任し済海寺(港区三田)に領事館を開きます。

一方
ロシアは早くから日本への開国要求を始めていましたが、決定打に欠けていました。
ペリーが開港を突きつけたことにより、ロシア政府はベラルーシ生まれのゴシケーヴィチを
安政5年9月18日(1858年10月24日)シベリア経由で箱館(現函館市)に総領事として着任させます。
他国の領事は横浜・江戸で活動しましたがロシアは函館を中心に外交活動を行います。
このスタンスが後の日露関係に大きく影響していきます。

前置きが長くなりましたが、
安政6年7月27日(1859年8月25日)ロシア海軍の海軍少尉ロマン・モフェトと水兵イワン・ソコロフは1人のコックを連れて食料品を買うために上陸します。
横浜町3丁目青物屋徳三郎方で買物を済ませ、店を出たところを3人は突然襲撃されます。
記録には居留地の繁華街はまだ多くの店が開いていたと書かれていますから夕方だったのでしょう、2人は死亡、まかないコックは重傷を負います。
(武士らしい)犯人は堂々と逃走してしまいます。
これが、開港後(日本史上)初めて外国人に殺傷者がでた重大な外交事件でした。

(これ以降 短めに)
アジア外交のベテラン、オールコックは直ちに幕府に抗議し賠償を求めよ!とロシアに直言します。
ロシアの外交姿勢は決まらず、結局具体的行動に出ません。
結局賠償を求めず、丁重な埋葬と“永久管理”を要求し幕府も了承します。
幕府側もロシア側も事態の大きさに気がつかず、解決を現場任せにします。
この態度が英米仏の外交団に不信感を起こさせると同時に、外国勢力排除勢力「攘夷派」を勢いづけさせます。
ここから、生まれる結果は“攘夷派による「血のテロル」”でした。
 ■安政6年10月11日(1859年11月5日)
  フランス領事館従僕殺害事件
 ■安政7年1月7日(1860年1月29日)
  イギリス公使館日本人通訳殺害事件
 ■安政7年1月8日(1860年1月30日)
  フランス公使館放火事件
 ■安政7年2月5日(1860年2月26日)
  オランダ船長殺害事件
 ■文久元年5月28日(1861年7月5日)
  第一次東禅寺事件

ワーグマン画による第一次東禅寺事件

まだまだ続きます。数々の殺傷事件が起る中、
 文久2年8月21日 (1862年9月14日)
  有名な神奈川「生麦事件」が起ります。
徳川幕府は、各藩の攘夷派を抑えられず、外交関係は最悪になり、
倒幕
大政奉還
そして明治維新を迎えることになります。

(意外な結末)
幕末に起った数々の大事件の一つに「水戸天狗党の乱」があります。
元治元年(1864年)に水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)が挙兵し一種の内乱になります。62人の挙兵から始まった尊皇攘夷派は数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がります。
※小説にもなり茨城では研究会が幾つも続いています。
しかし、水戸藩も混乱しリーダーシップを欠く天狗党は挙兵の名目を半ば見失い、決起は水戸藩の内部抗争の色彩を濃くします。
幕府は追討令を出し天狗党は逃走集団に変貌します。
逃走ルートは
那珂港→大宮→大沢→大子(元治元年11月1日)→川原→越堀→高久→矢板→小林→鹿沼→大柿→葛生→梁田→太田→本庄→吉井→下仁田→本宿→平賀→望月→和田→下諏訪→松島→上穂→片桐→駒場→清内路→馬篭→大井→御嵩→鵜沼→天王→損斐→日当→長嶺→大川原→秩父→中島→法慶寺→薮田-今庄→新保(12月11日)→敦賀(降伏)
という長距離、時間は一ヶ月に及びます。
最終的には天狗党員828名は加賀藩に投降して武装解除されます。
その中に、水戸出身の小林幸八という人物がいました。
ことの天狗党の乱に関する顛末を取り調べ中、
小林幸八は過去の事件にまで言及します。
ロシアの異人を居留地の波止場近くで襲撃したことを自供します。
幕府は彼を横浜に送致し死刑、最初の「異人斬り」は意外な結末を迎えることになります。
亡くなったロシア軍人二人は山手外国人墓地(ロシア22区19)に、
犯人の小林幸八は梟首(きょうしゅ)刑になりますが
明治になってから靖国神社に祀られています。


No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

No.193 7月11日(水) Hi Come on!

むかし、初めて小説を書いてみようと思ったテーマの冒頭部分が
「Hi Come on SAN」「いいえ、私は嘉右衛門(かえもん)でございます」なんてジョークから始めよう思った井伊掃部頭銅像の像がある掃部山(かもんやま)の話しを今日は紹介します。
1909年(明治42年)の今日7月11日付けで「井伊大老銅像除幕式が掃部山で挙行された」と報じられました。

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(悲劇の銅像)
横浜市西区紅葉ヶ丘の「掃部山公園(かもんやまこうえん)」に彦根藩15代藩主「井伊直弼(いいなおすけ)」の像が建っています。現在の像は二代目で1954年(昭和29年)に再建されたものです。

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建立の発端は、元彦根藩の関係者有志が開港50周年祝賀の節目に開港の舞台となった横浜に井伊直弼の像を建立し顕彰したいと横浜市側に伝えます。
建立後、付近一帯と像を条件付きで寄付も申し出ます。

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彦根市にある井伊直弼像
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ご存知、彦根のゆるキャラ「ひこにゃん」

除幕式は、
当初1909年(明治42年)7月1日開港50周年式典にあわせて挙行の予定ですすめられました。
6月に案内状を各方面に発送しますが、幕末、井伊直弼が断行した“安政の大獄”で身内、師らを処刑された関係者から異議が出たのです。
特に伊藤博文(恩師は吉田松陰)は怒りを露にしたといいます。
一方で、明治政府の薩長偏重の政治に対する不満が強く時勢にあったことを受け“抵抗の象徴”でもありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/安政の大獄
※安政の大獄をめぐる井伊直弼議論は
現在新しい資料による展開を示していますが、
概ね井伊直弼の横暴という評価が多いようです。

横浜市側は“準備が整わない”という理由で延期を求め、10日遅れて除幕式が挙行されることになります。

■関連年表
1884年(明治17年)旧彦根藩士らが「鉄道山(現:掃部山)」と呼ばれていた丘を買取ります。
1914年(大正3年)に約束通り掃部山一帯と像が横浜市に寄付されます。
1923年(大正12年)関東大震災で大きくズレますが倒れることはありませんでした。
1943年(昭和18年)撤去されます。
1954年(昭和29年)開国100周年記念(日米 修好通商条約締結100年)
に際し再建されます。
1957年(昭和32年)銅像の冠と刀の一部が盗まれそうになりますが未遂に終わる事件が起ります。
1958年(昭和33年)開港100周年を記念して井伊直弼像の記念切手が発売されます。

(開国か開港か)
横浜にとって井伊直弼という人物はどんな関係があるのか?
これがもう一つの議論のテーマになります。
「開国の立役者」は井伊直弼かもしれないが「開港の恩人」という表現で岩瀬忠震こそ横浜の重要人物だ。井伊より岩瀬!
という議論です。また、日本開国と横浜開港は別のことだという議論もあります。
1954年(昭和29年)開国100周年記念以来、横浜では「開国」ではなく「開港」を全面に打ち出していきます。
2009年に行われたY150では「開港開国博」としました。
開港によって現在の横浜が生まれ、開国によって現在の日本があります。この像を見上げる度に思います。

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桜の名所です。

「みなとのみらい」はどこへいこうとしているのか?  と。
※岩瀬忠震は別な機会に取り上げます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/岩瀬忠震

(碑文資料)
■1954年像が再建されたときの碑文
安政五年大老井伊掃部頭直弼は/内外の紛擾を排して/日米修交通商条約の調印を決行しひろく通商の基を開き/近代日本発展の端緒をつくった/明治十四年旧彦根藩有志は/直弼追慕のため建碑の挙を興し/大老の事蹟に縁故深き横浜に地をトし/戸部町に一岡を購い/掃部山と称してここに造園を施し/明治四十二年園内一角に銅像を建立し/越えて大正三年園地とともにこれを横浜市に寄附した/不幸大戦中の金属回収により銅像は昭和十八年撤去の運命に遭い/公園また昔日の悌なきところ/たまたま昭和二十九年開国百年祭を催すに方り/記念行事の一環として/開国に由緒深き井伊掃部頭の銅像再建と掃部山公園の整備を企画し/ひろく市民の協賛を求め/ここに復旧の業を興した

■1989年開港130周年に際し建てられた碑
「横浜の開港と掃部山公園」
安政五年(一八五八)/日本の近代化に先駆した大老井伊掃部頭直弼は/よく内外の激動に耐え/機に臨み英断/日米修好通商条約を締結した/安政六年/ここに横浜は/未来の発展を予見するかのように/世界の海洋に向って開港した/明治十四年(一八八一)/井伊大老を追慕する彦根藩士有志により/開港に際しての功績を顕彰するため/記念碑建立の計画をたて/明治十七年この地の周辺の丘を求め/掃部山と称し造園を施し/明治四十二年(一九〇九)/園内に銅像を建立しこれを記念した/大正三年
(一九一四)/井伊家より同地並びに銅像を横浜市に寄贈/掃部山公園として公開された/ここに/平成元年を以て/市政一〇〇周年/開港一三〇周年を迎え/これを記念してこの碑を建立した

■(1994年3月)「井伊掃部頭ゆかりの地」教育委員会 説明文
 明治四二年七月,横浜開港五〇年記念に際して,旧彦根藩有志が藩主の開港功績の顕彰のため,大老井伊掃部頭直弼の銅像を戸部の丘に建立し,その地を掃部山と名付けて記念しました。銅像の左側にある水飲み施設はその時に子爵井伊直安より寄付されたものです。
当時の銅像は,藤田文蔵,岡崎雪声によって製作され,その姿は「正四二上左近衛権中将」の正装で,高さは約三・六メートルを測りました。しかし,当初の銅像は,昭和一八年に金属回収によって撤去され,現銅像は,昭和二九年,横浜市の依頼により慶寺弓長が製作したもので,その重量は約四トンあります。
なお,台石は妻木頼黄の設計で,高さは約六・七メートルあり,創建当初のものが残っています。

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(関連ブログ)
No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭

No.180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線