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横浜製自動車 雑話(改訂)

1925年(大正14年)3月3日
アジア初の「日本フォード」製造工場が横浜市神奈川区子安に開設されました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
このフォードの進出は、日本自動車産業界に大きなインパクトを与えました。light_20150523132628

日本の自動車生産革命が国内メーカー、アメリカメーカーの下で<横浜>から始まりました。

1925年(大正14年)2月に資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立されます。
そして3月3日、新子安に「日本フォード」の製造工場が生産を開始します。
当初は本国モデルの左ハンドルT型フォードをノックダウン生産しますがここでは右ハンドルモデルAの生産をおこないました。
遅れること二年、ゼネラル・モーターズが大阪に拠点を置き生産を初め米国二大自動車メーカーによる東西競争が始まります。light_20150508141642
1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定。この法律により、国内資本が50%以上の企業のみ自動車製造が制限されたことで、
1939年(昭和14年)12月にはトヨタ・日産・フォード間の合弁企業設立交渉が行われたこともありましたが、軍部からの強い横槍があり夢の合弁はたち消えとなってしまいます。
日本フォード社は1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされます。
1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月終戦までの期間は日本政府に接収され、陸軍収容財産となり全ての生産設備は解体され、倉庫だけが残ったそうです。
戦後の連合国軍接収を経てフォードに返還され、東洋工業の所有となり現在はマツダのR&D(研究開発)センターとなっています。
一方、自動車製造(株)が1933年(昭和8年)に資本金1000万円で横浜に設立されます。(社長 鮎川義介)
翌年の1934年(昭和9年)6月に日産自動車(株)と社名を変更。翌年から生産に入ります。
1937年(昭和12年)2月には販売体制を確立するために「日産自動車販売」を設立します。
現在の日産自動車横浜本社

 

井伊掃部頭の銅像除幕式

1909年(明治42年)6月11日
「井伊掃部頭の銅像除幕式行われる。(横浜商工会議所百年史)」
以前「神奈川県庁設計問題」でも少し触れましたが、横浜を舞台にした開港騒動は明治に入ってからも長く続くことに。
まず「1909年(明治42年)6月11日井伊掃部頭の銅像除幕式行われる。(横浜商工会議所百年史)」
これは誤記と思われます。
正しくは1909年7月11日ではないでしょうか。

尊皇攘夷の空気が強まる中、時の大老「井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)」がペリーと日米修好通商条約を調印します。
その前にペリーが来航した時は老中“阿部 正弘”が日米和親条約で開国の実質的調印をし、後任の井伊直弼が例の<安政の大獄>で徹底した弾圧をしたために後世恨みを買う事になるわけです。
まあ 幕末史で彼ほど極端に評価の別れる人はいないでしょう。
井伊直弼が弾圧なら 吉田松陰はテロ首謀者ってことにもなりますから歴史の議論はこれからでしょう。
とにもかくにも歴史は大事件後少なくとも二世紀位は敗者に不利です。
弾圧された側が<政治権力>を握る。当然粛清が行われます。
薩長土肥を中心に尊王・勤王・攘夷・開港・佐幕・倒幕といった考えの交雑のなか明治維新となっていきますからまあややっこしいことこの上なし。
このあたりをテーマにするとこれまたこじれそうなので シンプルに
「井伊掃部頭の銅像除幕式」騒動を紹介しておきます。

横浜市西区掃部山公園図

この「井伊掃部頭の銅像除幕式」は横浜で行われました。その場所が現在の「掃部山公園」です。

この文面だけだとなるほど、幕末の大老が開港の舞台となった「横浜」に大きく関係があったから銅像が建った、と普通は思います。
当時の薩長藩閥組が強かった明治政府の下で、弾圧された張本人の顕彰碑を建てるなんて“もってのほか”と考えるのが<官軍>側で、
一悶着あったのがこの銅像事件です。
井伊直弼は彦根藩藩主で、現在も滋賀県彦根市では尊敬されていますから、彦根市の記述には
「開港50周年を迎えようとしていた横浜では、開港の生みの親でもある直弼を顕彰しようとする動きが盛り上がました。直弼の宮位にちなんで、掃部(かもん)山と名づけた地に直弼像が建立され、明治42年(1909)開港 50周年記念式典で像の除幕式が挙行されました。翌43年(1910)、直弼没後50年に、彦根でも護国神社近くにあった尾末公園に直弼像が建立されました。(彦根市)」と書かれています。
これ<正確>ではありません。井伊直弼像、開港 50周年記念式典での除幕を計画していましたが神奈川県知事から中止勧告があり1日から11日に延期して<強行>した経緯があります。これを開港 50周年記念式典の中に入れるかどうか?
まあ常識的に考えて 入らない。でもこの除幕式の意味するところは大きいのでしっかり研究して欲しいと望みます。
簡単に井伊直弼像建立顛末を年譜で追います。
1860年(安政7年3月3日)3月24日
三月三日桜田門外の変で脱藩した水戸藩士他18名が井伊直弼を殺害。
世田谷豪徳寺に葬られた井伊直弼の墓には毎年関係者が墓参に。
1881年(明治14年)11月
井伊直弼死後20年を経てそろそろ23回忌のこともあり
井伊直弼像、在東京建碑委員が選定されます。当初は銅像ではなく<建碑>案だったようです。建碑場所として横浜戸部不動山を候補に挙げられますが東京案の方が多数を占めます。
1882年(明治15年)10月
上野東照宮境内案を申請。11月に内務省内で議論されますが否決され不許可を通知。
1883年(明治16年)11月
横浜戸部不動山鉄道局所有地(現在の掃部山公園)の払下げを願い出、許可されます。
1884年(明治17年)1月
横浜戸部不動山の地所開墾に着手します。
1884年(明治17年)3月22日
「東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定」
1886年(明治19年)3月27日
豪徳寺で二十七回忌が行われます(26日〜28日)
1888年(明治21年)3月20日
神奈川一区選出の暴れん坊議員となった島田三郎(『東京横浜毎日新聞』社長)が
『開国始末』を発刊。(付録 井伊掃部頭直弼伝)ここで井伊直弼を擁護する。
1891年(明治24年)
「大老銅像建碑委員会」が発足。
1892年(明治25年)3月27日
井伊直弼の三十三年祭を世田ヶ谷豪徳寺で開催。
1893年(明治26年)
旧臣が集まり「旧談会」を発足。
1893年(明治26年)8月
佐賀藩出身の中野 健明神奈川県知事は 遺勲碑建設に関し内務省に問合せた結果、長州藩出身の井上馨大臣は拒否。(当たり前といえば当たり前)
1899年(明治32年)5月19日
「日比谷公園内に直弼顕彰碑計画を立てる」案が内務省却下。
この時の内務大臣は第2次山県内閣の西郷従道。
1907年(明治40年)2月
遺勲碑から銅像に変更し戸部山に建設を決定し設計に着手します。
土台の設計者は妻木頼黄。→彼が神奈川県庁設計から突然のスキャンダルで外されます。
1909年(明治42年)6月26日
銅像が竣工。
1909年(明治42年)7月1日
開港五十年式典が開催されます。横浜市章・市歌発表。
これに合わせて挙行予定だった銅像除幕式を神奈川県知事(周布公平)、横浜市に中止を申し入れ、中止延期となる。
1909年(明治42年)7月11日
除幕式を強行します。式典にはいったん政界を引退した元総理の大隈重信、英国総領事ら出席者は600人にも及びました。
1910年(明治43年)
彦根に井伊直弼像を建立
1914年(大正3年)11月7日
野毛山の土地・銅像は一旦井伊家に寄贈され、整備後横浜市に寄付(8月)、掃部山として開園します。
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で銅像上部が回転、転倒せず。公園は被災者の避難所に。
1935年(昭和10年)3月2日
「天照義団掃部頭銅像の首を狙う」事件発覚
1940年(昭和15年)4月10日
「井伊直弼朝臣顕彰会」横浜で開催。
1943年(昭和18年)6月16日
銅鉄押収「応召」となる。
1954年(昭和29年)5月20日
二代目井伊直弼像 完成。
1954年(昭和29年)6月2日
開港百年祭に際し二代目井伊直弼像 除幕式。
1958年(昭和33年)5月10日
開港百年祭実行員会、開港功労者31人を顕彰。井伊直弼も
1968年(昭和43年)9月29日
「開港の恩人井伊大老を偲ぶ110年祭」掃部山公園で開催
1989年(平成元年)
YES89掃部山公園再整備
2012年(平成24年)3月28
横浜市認定歴史的建造物に認定
2014年(平成26年)
区制70周年と掃部山公園開園100周年、掃部山公園再整備
※この年表は 各種資料から集めたもので ここの真偽は確認しておりません。
若干時系列で 矛盾しているかのように見える点がありますがそのまま掲載しました。

※何故誤って6月11日となったか推論
わからないでもありません。このブログでも何回も触れていますが、開港祭は昭和に入るまで7月1日に行われていました。そのため前述の延期騒動をそのまま現在の6月開港祭の前提で6月11日としたのではないでしょうか。

1914年(大正3年)7月12日 京急富岡駅

1914年(大正3年)の今日
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。
横浜貿易新報社は神奈川新聞社の前身で、1890年に創刊された老舗新聞社です。横浜貿易新報社は、新聞紙上で読者の投票によって選ぶ県下の「発見開拓すべき」「新避暑地」12ヵ所の選定を企画します。
総得票数27,261票を集め1位に輝いたのは鎌倉市今泉にある今泉不動(称名寺)です。大正初期、神奈川県内の「発見開拓すべき」観光スポットに見事輝きます。避暑という条件もついていますので、<涼しさ>も優先されたのでしょう。
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kids/jh/kjh_sa13.html
現在の横浜市域でも三ヶ所選ばれています。
2位:愛川村半原
現在も「発見開拓すべき」「新避暑地」に入るかも知れません。
3位:北足柄村平山
現在の南足柄市北部にあたります。
4位:大澤村神澤江岸
現在の相模原市緑区
5位:三崎町
現在の三浦市南西部
6位:金澤富岡海岸
7位:本牧三ノ谷
8位:龍口寺円遊地
現在の藤沢市片瀬あたり
9位:長井海岸
現在の横須賀市長井周辺
10位:茅ヶ崎海岸
茅ヶ崎市の海岸線のどのあたりかは?
11位:相模河畔田名
かつて大山道の宿場として栄え、明治期から昭和初期には「水郷田名」と呼ばれて歓楽街として賑わったそうです。
12位:磯子海岸

◆横浜市内の十二勝その1
(6位:金澤富岡海岸)

富岡付近
富岡付近

現在の横浜市金沢区富岡にあたります。
この「新避暑地十二勝」に選ばれた1914年(大正3年)当時はまだ、久良岐郡金沢村でした。
light富岡海荘図巻富岡海荘図巻(元はカラー)
富岡に別荘を持った三条実美が、明治22(1889)年に日本画家の荒木寛畝に描かせたものです。
横浜市に1936年(昭和11年)10月に編入され<磯子区>の一部となります。

<紹介文>
●復活せる富岡
避暑地の元祖/横電の延長近し
公園地の計画/魚欄に飛び上がる
横浜電車の八幡橋終点から乗合馬車に乗って30分も揺られて行くと金沢村富岡に達する。※1
富岡は東南に東京湾を抱き西北に丘陵を負ひ房総半島と相対してゐる。
海岸でありながら水のいいといふことは確かに此土地の誇のーであらう。
飲料水の如きは各戸に掘抜井を設け地下600尺以上の深所から噴出させるので非常に純潔な冷い水を得ることが出来る。※2
富岡は明治の初年頃には盛んに外国人が暑を避けに赴いた所で、我国海水浴の元祖は実に此の地を措いて他には無いのである。※3
然るに其後東海道に鉄道が敷設さるるやうになってからは避暑の客を大磯、鎌倉等に取られるので此地は漸漸忘れられて行ってしまったのである。
然るに土地の青年会員及び其他の有志は近く横浜電車線路の富岡へ延長さるるのを幸ひとし今次の当選を機として富岡海水浴の復活を思立ち一致協力して大に奔走し同所鎮守八幡宮の後丘なる八幡山の社地一町歩の荊棘(けいきょく)を拓いて公園となすべく目下盛に作業中である。
旅館には金波楼といふのがある。

11220935_1016008985109872_7851265712634385856_n海寶楼の広告

<若干解説>
紹介文には興味深い記述がいくつかあります。
※1「横浜電車の八幡橋終点」
「横浜電車(現在の横浜市電)」が八幡橋まで開通し順次海岸線を杉田方向に延伸する予定の時期にあたります。
ところが、「横浜電車」は延伸することが出来ず、途中杉田まで延伸されたのが昭和2年、「横浜市電」となった後しばらくかかりました。
その先の延伸予定もありましたが、市電の代わりに湘南電気鉄道(現在の京浜急行)が昭和5年に開通し、夏季のみ海水浴客専用仮駅が開設、翌年の昭和6年7月10日に正式な駅に昇格します。当時の駅名は「湘南富岡駅」で、戦後「京浜富岡駅」→「京急富岡駅」となり現在に至ります。
昭和5年に開設された「湘南富岡駅」は当初<木造の無人駅>だったそうです。まだ、鉄道のない頃、東京 牛込 若松町にいた、日本画家<川合玉堂>が別荘を構えその屋敷が残っていましたが、2013年(平成25年)漏電火災により焼失しました。
現在敷地内は一部一般公開されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/kusei/kikaku/gyokudo/
富岡近辺は川合玉堂が別邸としていた他、伊藤博文、三条実美、直木三十五など多くの人に愛されました。
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378
No.451 芸術は短く貧乏は長し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=108
No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=377

※2「海岸でありながら水のいいといふこと」
リゾート地として<おいしい水>が出ることは重要です。
※3
「富岡は明治の初年頃には盛んに外国人が暑を避けに赴いた所で、我国海水浴の元祖は実に此の地を措いて他には無いのである。」
この地にはヘボンが訪れ、海水浴場として推薦しています。このことから<我国海水浴の元祖>と呼ばれていました。富岡神社脇に記念碑が建っています。
現在はわが国初!海水浴場として全国何ヶ所かが<元祖>を表明しています。残念ながら富岡はそれ以降ということで<元祖>競争からは外れています。

(過去の7月12日ブログ)
No.194 7月12日(木)ソシアルビジネスの鏡
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=413
一行の出会いでした。膨大な年表に朝田又七という名を見かけました。

戦前 メディアとしての【絵葉書】

1910年(明治43年)6月13日
「内国郵便葉書の外国あて発送」が認められました。明治の近代化の荒波の中、郵便制度はこの国にも影響を与えました。欧米でスタンダードだった「絵葉書」日本では
明治後期、大正に入って空前の絵葉書ブームが訪れます。その後10年以上絵葉書の発行は脅威の数字を示します。
ブームというより絵葉書が日常の伝達ツールとなっていきます。中でも横浜は国際港のため国内外の絵葉書が多く流通しました。
このブログにも良く登場する戦前の絵葉書について簡単年表にしました。
1873年(明治6年)12月1日
最初の官製葉書(ポスタル・カード)が初めて発行されます。

1879年(明治12年)6月30日
国際郵便葉書の始まり
万国郵便連合葉書<唐草>2銭・3銭葉書を発行

1880年(明治13年)4月
葉書の表裏に関する規則がきまります。
例えば、葉書の表裏を墨で塗りつぶし、その上に<朱><白墨>等で文字を記載したものは、葉書として扱わない、表面は住所姓名しか記載できない、ただし至急とか年月日の記入は構わないとか。
※住所を書く方が<表面>です。

1885年(明治18年)3月26日
万国郵便連合条約調印

1898年(明治31年)12月10日
毎年1月1日から7日までの間、外国来を除き、葉書の到着印を省略
※この年賀状に消印を押さない ルールはここからです。

1899年(明治32年)2月13日
私製葉書の国外通信使用が認められる。

1900年(明治33年)9月17日
私製葉書の制式を告示、絵葉書自由化

1902年(明治35年)6月18日
最初の官製絵葉書発売
※万国郵便連合加盟25年紀念郵便絵葉書<6種1組で5銭>

1904年(明治37年)2月1日
日露戦争時の戦地と内地との通信用に軍事郵便葉書を発行
これによって絵葉書使用が全国に普及し始める。light_20151103211520_002

1906年(明治39年)
絵葉書ブームは最高潮に達し、様々な戦時絵葉書が発行され空前のブームを引き起こします。

1906年(明治39年)8月9日
<風景印>の原点となった
絵葉書に相当額の切手を貼付り記念のため日附印の押印の申出があれば事務支障ない限り応じなさい と通達が有ります。外国人旅行客からの要求?

1907年(明治40年)3月28日
郵便絵葉書の表面下部3分の1以内に通信文の記載を認める。
<時代判定の基準となっています>
light_20150627233935 1910年(明治43年)6月13日
内国郵便葉書の外国あて発送を認める

1918年(大正7年)3月1日
郵便絵葉書表面記載部分を3分の1から2分の1に拡大
<時代判定の基準となっています>light_20151103211703

ブログに登場した絵葉書コレクション
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?cat=41

C58汽車道を走る

1980年(昭和55年)6月13日〜15日の三日間
「横浜港開港120周年・横浜商工会議所創立100周年記念」イベントにC58が走りました。その頃はまだ横濱に暮らしていなかったので写真も当時の雰囲気もわかりませんがネット上でも熱烈な写真記事が掲載されています。
山口線から横浜にC58を運び 汽車道を東横浜駅から山下埠頭駅まで走行!!
C58は過去に横浜機関区に所属していたことがあり久しぶりの里帰りとなりました。
このルートが現在「山下臨港線プロムナード」となって、歩行専用ルートとなっています。
使用車両はC58-1+スハ43系4両で、一日3往復
東横浜    山下埠頭    東横浜
09:57 → 10:09   10:30 → 10:42
12:30 → 12:42   13:00 → 13:12
14:30 → 14:42   15:02 → 15:14
<写真>
■横浜にC58が走った日。
http://rail.hobidas.com/blog/natori09/sp/archives/2008/05/c58.html
■横浜港開港120周年1980年6月13日
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/174/
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/175/

「山下臨港線プロムナード」

No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=557

「開港の道」山下臨港線プロムナードの終着地点となっているのが
「港の見える丘公園」です。
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=486

 

横浜市町内会連合会

1975年(昭和50年)6月12日の今日
横浜市内の町内会会長で組織していた「横浜市町内会長連絡会」が「横浜市町内会連合会」という名に改称されました。
皆さんは地域の自治会町内会に加盟していますか?
「自治会町内会は、一定の地域において、住民相互の親睦を図り、そこで起こる様々な課題を解決することを目的に自主的に組織された住民団体です。
横浜市内には、平成26年4月現在で2,881団体の自治会町内会が組織され、約123万世帯の市民が加入しています。」
と「横浜市町内会連合会」のサイトに書かれていました。

「自治会町内会は防災や福祉、美化活動など安全安心で住みやすい地域づくりを目指す活動や、お祭りや運動会などのレクリエーション活動を行っています。
普段、あまりお気づきにならないかもしれませんが、自治会町内会の活動は、みなさんのくらしに欠かせない役割を担っています。
地域の絆をはぐくみ、地域で支え合う社会を作っていくためにも自治会町内会への加入をお願いしています。」
http://www.yokohama-shirenkai.org
さらに少し遠慮気味に勧誘もしています。
横浜も加入率の低下に悩んでいるようです。
横浜市内 自治会町内会には
123万世帯が加入(H26年)しているそうです。横浜の総世帯数が約163万(H26年)ですから7割強の加入率という計算になります。
内閣府のH19年「町内会・自治会等の地域のつながりに関する調査」では
「町内会・自治会があると回答した人は、9割を超えている。また、町内
会・自治会の区域としては小学校区より狭いという回答が7割を超え、平 均すると約 600 世帯、9割弱の加入率である。なお、回答者世帯の9割超 が実際に町内会・自治会に加入している。」
都市部の横浜はかなり低い加入率です。
横浜市自治会町内会加入率推移
(自治会・町内会?)
ここまで「自治会町内会」とまとまった<単語>で表記しましたが、地域によって自治会・町内会はそれぞれ別名称で使用されています。
横浜市の公式見解(ちょっと大げさですが)では
「自治会・町内会は、地域に住むみなさんが自らの手で相互に仲良く助け合いながら、自分たちの地域生活をよりよくしていくために、様々な活動を行う任意団体です」
「「自治会」「町内会」の名称については、呼び名は違いますが、団体の活動内容に違いがあるわけではありません。それぞれの自治会・町内会が発足時に、決定しております。」
と名称は違うが内容は同じとしています。
地方自治法でも、「地縁」団体とされていて、町内会=自治会となっています。
徹底して調べていませんが 町会・町内会その下部組織として<隣組>の呼び名が戦前に使われ、戦後自治会が使われ始めたようです。
町単位が町会、集合住宅や新しくまとまって開発された住宅地には「自治会」が多く感じますが、混在していて明確な特性とはなっていません。
→市内自治会町内会の形成 おもしろそうです。
例えば自治会は「西柴団地自治会」「権太坂境木自治会 」「青葉区連合自治会」「緑区中山町自治会」「下田町自治会」「鴨居地区連合自治会」「本郷台自治会」「関ヶ谷自治会」
一方町内会は
「港北区連合町内会」「桜木町町内会」「南吉田町内会」「山元町3・4・5丁目町内会」「青葉区たちばな台町内会」「長沼町内会」「岡野二丁目町内会」

(歴史)
「横浜市町内会連合会」がまとめたものをベースに横浜に特化し町内会の歴史を調べてみました。
町内会の起源
横浜市における町内会の起源は、市制が施行された翌年の明治23 年(1890 年)
に作られた「衛生組合」で
この衛生組合を組織した目的は、
第一に横浜が開港以前は一寒村にすぎず、他の地域にあるような旧来の隣保組織を持っていなかった
第二に横浜が開港地として貿易や居留外国人との関係で、伝染病の危険にさらされる機会が多かったため
と横浜の町内会の起源をまとめています。

横浜の場合、
「横浜が開港以前は一寒村にすぎず」という点が大きいです。この決まり文句の「一寒村」という代名詞には異論がありますがここでは置いておきます。
※寒村ではなく小さい村で暮らしは豊かだった
横浜開港場は江戸時代までの農村や城郭・寺社・宿場などといった<地縁社会>の無い政治特区でしたので「旧来の隣保組織を持っていなかった」ことが特徴といえるでしょう。これも市域拡張で旧来の<地縁社会>が横浜市内にも組み込まれ、新旧の<融合>が横浜の文化的なエッジであるだろうと考えています。
横浜開港場周辺の地域にとって集落の<結束>は上記の第二の理由
<伝染病の危険>が大きかったといえるでしょう。

No.89 3月29日 ペスト第一号もYOKOHAMA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=528
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=390
悪い意味でいち早く伝染病の被害を受けた横浜は1890年(明治23年)に作られた「衛生組合」がいわゆる地域互助組織=隣保組織の代替となったようです。
その後関東大震災を経験しながら、「衛生組合」が「自警団」等を経て「町内会」「青年会」等の地域組織として地縁組織となっていきます。昭和期横浜市には、自治活動を行うための町内会、衛生組合の町内会事務代行、町総代会という3つの組織がありましたが1940年(昭和15年)9月11日付け内務省訓令第十七号「部落会町内会等整備 要綱」により「隣組」「町内会」として明確に一本化されます。
「隣組」は十戸内外で組織されるように指導され、当時大ヒットした<国民歌謡>によりさらに強化されることになります。
https://www.youtube.com/watch?v=rBh4wUrjltM
https://www.youtube.com/watch?v=kQf-aO95ezU
1941年(昭和16年)時点で
横浜市の町内会数は798、隣組は約2万に達し、銃後の守りとなりました。
戦時中の横浜の「隣組」の様子を丹念に調べた本が出ています。
「戦時下の日本人と隣組回報」渡邊洋吉 幻冬舎新書2013年刊

この本は珍しい昭和16年〜17年の横浜市戸塚区矢部町第6隣組で回覧された「隣組回報」を読み解きながら当時の時代背景、状況を克明に記しています。

戦中に隣組、町内会は有効な情報伝達組織、地域管理システムとして機能しましたが、粗末な地域権力構造となり暴力組織にもなり終戦とともに解散・解体されます。
戦後、未組織の中で生活互助的な「防火防犯協会」「赤十字奉仕団」が誕生し「町内会」の役割を担うようになります。
1951年(昭和26年)GHQの自治政策緩和により権限が政府自治体に移管、「町内会」組織の再編が始まります。長い接収時代が徐々に解除となり、横浜市に多くの人口が流入する30年代ごろから積極的に新しい「町内会」組織育成と平行して従来とは違った形の自治会町内会(団地管理組合の性格をもった自治会町内会など)が続々と結成されます。
これらの地域互助組織の発展形が市連合町内会長連絡会となり
1975年(昭和50年)6月12日の今日
横浜市町内会連合会に改称されたという訳です。

(横浜国立大学でも)
町内会への加入について
町内会に入って、地域デビューしよう!ー地域に新たな活力を!ー
学生の皆さんは、国大生になって実家を離れ、国大周辺やヨコハマ地域等に暮らす「地域社会の一員」です。その地域を運営していくには、町内会という組織が必要で、日夜活動しておりますが、その町内会では若い力である国大生の加入を強く求めています。
「遠くの親戚よりも近くの他人」という諺がありますが、どうか地域の方々と顔馴染みになり、何かあったらお互いに助け合っていくような間柄になっていただきたいと思います。
皆さんが地域住民の方々に見守られていれば、ご両親も安心です。

なんて案内もあるのには驚きました。

長くなりましたが、最近人気薄の自治会町内会ですが
違和感があることも事実です。個人単位ではなく<世帯単位>であることや説明(理解)のプログラムなしに半強制的な<雰囲気のある>ところも
地域の老人親睦、広報の配布組織といった批判もあります。
地域社会の「骨粗鬆症」化と表現する専門家もいます。
なんといっても<防災上>
私達を守る私達が守る共助組織です。
さらに高齢化の中での様々な課題を解いていく大事な下支え組織でもあります。
しかし
世代間・ライフスタイル別の運営に対する認識ギャップが多く生じているようです。その他の共助組織との連携やシームレス化も遅れています。
横浜も空き家率、高齢化率が 急上昇しています。
このギャップを乗り越えるには さらなる工夫が必要でしょうね。

No.164 6月12日(火) JR JR
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=446
1872年6月12日(水)(旧暦明治5年5月7日)かねてよりの突貫工事で進めていた品川・横浜間の鉄道が仮開業しました。

1月31日 朝吹英二

横浜に関係のある一人の人物を紹介します。
1918年(大正7年)の今日、実業家の朝吹英二が71歳の生涯を終えました。
「朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日)〜大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。幼名は萬吉、鐵之助。」(wikipedia)
このwikipediaでは彼の紹介に「横浜」の項目はありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝吹英二
彼は幕末に生まれ、明治・大正期に実業家として活躍します。
若い頃のエピソードとしては、尊皇攘夷思想だった朝吹は同郷の開明派「福沢諭吉」を暗殺しようと企てますが失敗しこれをキッカケに慶應義塾に学び、福沢の元で働くようになったそうです。実業家として頭角を現し三菱商会から三井に転じ、「三井の四天王」の一人と呼ばれるほど<三井>の重鎮として活躍します。
1880年(明治13年)7月20日から業務を開始した「貿易商会」横浜支店の責任者として朝吹英二は横浜を舞台に活動します。
この「貿易商会」は、社長が丸善の創業者である早矢仕有的で朝吹は役員として横浜支店を任されます。「貿易商会」は本店を東京に置き、横浜の本町四丁目に支店を開設します。取り扱った業務内容は生糸の輸出・茶・煙草・雑貨・米などの輸出と鉱物・皮革類・魚類等の輸入等でした。
「貿易商会」にとって「横浜支店」は特別な存在でした。
資本金二十万円の内、十五万円が「横浜支店」の事業資金として振り分けられ、主に<生糸の輸出>を専門とし支配人として朝吹英二が着任しました。
いわば特別プロジェクトの性格を帯びた「横浜支店」でした。
この「横浜支店」設立の背景は、単にビジネスチャンスというだけではなく、当時の横浜を舞台に行われていた貿易の<問題>がありました。

日本は開港後欧米列強と結んだ不平等交易条約(修好通商条約)の影響で、貿易を管理・統制することがほとんど不可能な状態にありました。
明治初期の貿易は殆ど外国(欧米)の商社が独占していました。
1867年(明治10年)の輸出額の94%、輸入額の95%を外国商社が独占。
しかも、居留地の外国商館は<悪辣な手段>を使い、差別的で一方的な交易で暴利を上げていました。特に横浜を舞台にした生糸交易は取扱額も大きく日本経済の要でもあったため<フェアトレード>は日本経済界・政府の重要な課題でした。
「貿易商会」横浜支店設立には、貿易のバランスを回復する(自主貿易の確立する)ことも大きな目的でした。「貿易商会」の設立趣意書の一部を商会します。
「我国人ハ在港ノ外人二依頼シテ貿易ノ事ヲ行ヒ既二幾分ノ国損ヲ致シ、又其物品ノ代価ヲ受授スルニ当テ為替ノ事ヲモ彼ノ「パンク」二任スルガ故二、輸出入ノ景況二従テ為替ノ相庭(相場)ヲ昂低スルモ、全ク彼レノ意中二存シテ、内国ノ商人ハ恰モ其制御ヲ仰キ、昂低共二常二彼レニ便利ニシテ、我二不便利ナラザルハナシ、金権ノ主客、処ヲ異二スルモノト云う可シ」

結果は残念ながら 1876年(明治19年)倒産、失敗に終わります。
朝吹英二は生糸直輸出事業の大損失を一身に背負って日本一の借金王と呼ばれたりしました。「貿易商会」に限らず、多くの日本企業が不平等交易に立ち向かい、粘りつよく条約改正に至るまで要求と実践を繰り返していきます。
明治以降、日本の急速な経済発展と表現されますが外国商社との条件闘争と試行錯誤を繰り返していきます。

横浜で大失敗した朝吹英二は、その責任をとって放浪生活に入ります。
そんな朝吹英二がある時、かつての知り合いだった第3代日本銀行総裁 川田小一郎を訪ねます。川田は朝吹に自分の給料袋をそのまま渡し、再起を支援。
これがキッカケとなって朝吹は経済界に復帰、当時危機に瀕していた鐘淵紡績の立て直しに貢献します。
その後、三井財閥の基盤確立に尽力するとともに日本経済界の重鎮として多くの足跡を残します。
「生涯
豊前国(現在の大分県)中津藩宮園村(現在の大分県中津市耶馬溪町大字宮園)の大庄屋の跡取として生まれた。
日田の咸宜園や中津の渡邊塾・白石塾に学ぶ。尊皇攘夷思想に染まり、維新後の明治3年(1870年)、開明派の福澤諭吉暗殺を企てるが、転向し福澤とその甥 中上川彦次郎の庇護を受け、彦次郎の妹と結婚する。慶應義塾に学び、明治11年(1878年)、三菱商会に入社。明治13年(1880年)、貿易商会に入って取締役となる。
また、大隈重信に近い政商となり、三井財閥に転じて、明治25年(1892年)に鐘ヶ淵紡績専務、明治27年(1894年)に三井工業部専務理事に就任。明治34年(1901年)、中上川が死去すると、益田孝により中上川の工業化路線は一旦は止まったが、それでも明治35年(1902年)に三井管理部専務理事に就任し、王子製紙会社では役員を務めて会長となり、また、芝浦製作所、堺セルロイドなど王子と共に業績不振とされたこれら企業の建て直しを担当することとなった。このように三井系諸会社の重職を歴任し、「三井の四天王」の一人と言われた。
中上川の後任の最有力候補であり、かつ慶應閥の筆頭とも目されていた朝吹だったが、上述のように、後見の中上川の死去にともない、益田が三井財閥の実権の座を握ることとなり、明治40年(1907年)には、益田が引退に際して團琢磨を推挙したため、退任を余儀なくされることとなった。
江戸時代において悪人とされていた石田三成の顕彰事業にも熱心で、歴史学者渡辺世祐に委嘱して『稿本石田三成』を書かせ、その墳墓発掘にも力を尽くした。」

(関連ブログ)
No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

 

【今日の横浜2015】1月28日・7月24日

1891年(明治24年)の今日
「日本最初の石鹸製造者の堤磯右衛門(59)が没した。彼は明治初年横須賀造船所請負人代理で現場監督中当時輸入品だけであつた石鹸に注目し、フランス人写真技師ボイルからその基本的製法を学び研究の結果、明治6年三吉町4丁目に初めて石鹸製造所を設け、海外に輸出するまでになつた」(横浜歴史年表)
横浜もののはじめ<代表格>石鹸の堤磯右衛門(磯子)が亡くなった日です。
このエピソードは有名な話なので 今日は別ネタで一捻りします。

1917年(大正6年)1月28日の今日
作家となって間もない芥川龍之介が三渓園の原善一郎を訪ね、善一郎が歓待します。
そのお礼状を芥川は善一郎に送ります。
「拝啓 昨日は松井老人同道にて参上 色々ご馳走になりありがたく御礼申し上げます。瑞魔天を見たことは一生忘れません。あんな甚大な感動を受けたことは今まで殆ど無いと言って良い位です。
ああいう所へ行かなければ駄目です。少なくとも行こうとしなければ、
尤も行こうと言っても 今の人間には行かれないのかもしれませんが
なにしろ大変なものです。また 三渓園小集の時には上がりたいと思っております。
三渓園そのものの冬枯も甚だ面白く思いました」(一部句読点読み付加)
笹鳴くや横笛堂の眞木材
と即興の俳句を添えています。
※「瑞魔天」は新井恵美子「原三渓物語」では「閻魔天」となっています。light_20150404125316龍之介と善一郎とは東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)時代の同級生で友人でした。ご存知、横浜の大生糸商の原富太郎(原三渓)の長男として生まれた善一郎は早稲田大学に進み、家業を継ぐことを運命付けられ卒業後アメリカに留学します。一方の芥川は、中学から第一高等学校一部乙類(文科)に成績優秀が優秀だったため無試験入学します。
その後、東京帝国大学文科大学英吉利文学科に進み学生時代に『新小説「芋粥」』で文壇デビューします。
中学時代の二人は友人として互いに影響し合い、芸術を愛した善一郎が愛読していた歌誌「心の花」を薦めます。これをキッカケに芥川は同誌に短歌を寄稿するようになります。
さらに、文芸誌「心の花」第18巻第4号に「柳川隆之介」の名で短編『大川の水』が掲載され文学者の道を歩み出します。
https://www.youtube.com/watch?v=rCQARXjTuuM
『大川の水』

芥川が「三渓園」を訪れた1917年(大正6年)は、作家芥川にとって
第一短編集『羅生門』「戯作三昧」連載 第二短編集『煙草と悪魔』「或る日の大石内  蔵之助」など作家活動にギアが入った一年でもありました。
この年の暮れ11月23日
芥川は 善一郎の結婚披露宴に出席します。善一郎の妻寿枝子は、団琢磨(59歳)の四女で、会場は移築が完了した三渓園臨春閣(りんしゅんかく)でした。
披露宴には芥川の他に
哲学者、美学者、作家の阿部次郎(当時34歳)
哲学者、倫理学者、日本思想史家の和辻哲郎(当時28歳)
哲学者、教育者、政治家の安倍能成(当時33歳)らの若き仲間達が集いました。
その後芥川も善一郎も それぞれの道を歩みます。
芥川は
1927年(昭和2年)7月24日に服毒自殺します。
そして原善一郎が
1937年(昭和12年)8月6 日に脳溢血で突然亡くなります。
父原三渓は箱根で息子の死を知ります。病気がちの三渓にとって追い打ちをかける悲報でした。
昭和恐慌、東京開港の難題を抱える中、
原三渓は
1939年(昭和14年)善一郎三回忌の祥月命日が過ぎた8月16日、70年の生涯を閉じます。

(1月28日関連ブログ)
No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

渡辺福三郎とその妻 たま。

(素案レベルです。今後加筆修正される予定です)

1901年(明治34年)と1904年(明治37年)1月25日に
市議会議長に渡辺福三郎が選出されたと「横浜市会の百年」の年表に記載されていました。

(渡辺福三郎の議長任期は1893年(明治26年)〜1905年(明治38年)で、市会の議長選挙は概ね明治期は1月に行われていました)
この市会議長を10年以上歴任した渡辺福三郎という人物について
今日は紹介しましょう。
《渡辺福三郎》
1855年(安政2年)1月〜1934年(昭和9年)
明治から昭和前期に横浜を舞台に活躍した実業家です。明治の時代、茂木・原・若尾と並ぶ横浜の豪商と言われた実業家です。
福三郎、江戸は日本橋の老舗海産物業「明石屋」の家に生まれました。
彼の父にあたる「明石屋」7代目福秀の時に横浜が開港を迎えます。
開港場の交易を推進するため幕府の勧めもあり元浜町に「明石屋分店」を構え巨額の投資を行います。
江戸で商っていた軍用石炭を横浜でも扱い、その他に海産物・蚕糸を取り扱いました。福三郎の代になり横浜支店は本格的に外国船の石炭や、輸出用の海産物を扱い「石福商会」の看板で事業を拡大していきます。
彼が関わった横浜の事業は多岐にわたりました。幾つか紹介しましょう。
神奈川・八王子間の「横浜鉄道(現在の横浜線)」の発起人・経営者の一人として尽力します。また「横浜電気鉄道」の設立にも関わり<取締役>に就任し経営に参画します。
1912年(明治45年)には渡辺銀行を設立、馬車道入口の本店は地域のランドマークとして威風を放ちます。
渡辺銀行は経済恐慌の影響を受け残念ながら昭和13年に第一銀行に買収され消滅しますが、戦前の横浜経済の重要な役割を担ってきました。

さらに
<渡辺福三郎>の妻 「たま」という女性を紹介しようと思いましたが、
実業の福三郎とはまったくジャンルの違う分野で大活躍した横浜の女傑!です。
彼女に関しては 別仕立てでぜひ紹介したいと思っています。

No.25 1月25日 馬車道の華

No.25 1月25日 馬車道の華


「横浜宝塚劇場」が改装オープンし「市民ホール」となった日です。

No.391 謎解き馬車道

No.391 謎解き馬車道

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

「一寒村に過ぎなかった横浜が〜」
枕ことばとして使われる横浜開港のフレーズです。
小さな村でしたがそれを<寒村>という枕詞で形容するのは止めよう派です。
<小さな村>たしかにその通りですが、横浜村が小寒村であれば、日本の大半の村は<寒村>となってしまうでしょう。
日本全体が近世から脱却したいがための強調だったのではないでしょうか。
私はもうこの苔むした表現は卒業したほうが良いなと考えています。
開港前の横浜村は風光明媚な<観光地>でもあり、そこそこ豊かな暮らしをしていました。

<開港特区横浜時計台>
開港によって横浜は開港特区となり、その中心地となった開港場は国内外のビジネスが集積する都市となっていきます。明治になり、開港場でビジネスを展開する貿易商人たちが日々起こる案件を評議する目的で「町会所」が設立されます。
横浜商工会議所の原点です。
light_時計台神奈川県全図1874年(明治7年)に竣工した町会所は、石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として明治38年に撤去されるまで開港場の「時計台」としてもランドマークの役割を果たします。
鐘塔はドーム風に設計され、時計はスイスの商社<ファーブルブラント商館>が輸入したものを取り付けます。light_町会所時計台

町会所は1890年(明治23年)に「横浜貿易商組合会館」と改称し
その後「横浜会館」と呼ばれるようになります。
明治30年代半ばにはこの「横浜会館」も老朽化し明治38年に改修工事のため解体工事が始まります。
この時「時計台」も撤去されます。
翌年明治39年に隣接する鍛冶場のもらい火で焼失し、改修を断念します。
1909年(明治42年)横浜開港50周年を機に、「横浜会館」再建計画が持ち上がり資金集めが始まり大正3年9月に起工、同6年6月に竣工したのが現在の愛称ジャック「横浜市開港記念会館」です。当時は「開港記念横浜会館」と呼ばれました。開港記念会館夜景

今回のテーマは、この「町会所」にあった<鐘>です。
平野光雄の「時計亦楽」(昭和51年10月25日、青蛙房刊)横浜町会所時計塔の項に下記のような記述がありました。
「付記。『開港記念横浜会館図譜』(大正六年十一月刊)を見ると、旧町会所時計塔に設置された時報用釣鐘(梵鐘風の和鐘)の写真が掲載されており、当然、大正六年までは釣鐘が存在していたことを物語っている。(以下略)p98」梵鐘

開港記念横浜会館図譜<え?梵鐘風の和鐘?!>
この町会所は1874年(明治7年)に竣工、石造亜鉛葺二階建て、一部4階建て延床765㎡の壮大な洋館でした。ここには町役所や歩合金徴収所、貿易商組合事務所などが入っていました。4階には文明開化を象徴する巨大な時計塔が設置され、鐘塔はドーム風に設計され、前述の通り時計台の機械はファーブルブラント商館が輸入しジェームス・ファーブルブラント自ら塔屋に登って取り付けを指揮したそうです。
※JamesFavre-Brandt
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt.html
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt2.html

時計は時刻を刻みますが、見える範囲でしか活用できません。
そこで、<和製の梵鐘風の釣鐘>を撞き<時報>とした訳です。
鳴らされた時刻はわかりませんが、例えば正午に「ゴーン」と鐘が鳴ったお寺の無い開港場はどんな感じだったのでしょう。居留地の外国人には<クールジャパン>だったのかもしれません。
「時計亦楽」の著者も疑問を呈していますが、
この「釣鐘」は何故和風だったのか?
その後、この釣鐘はどのような運命をたどったのか?

開港50年記念祭 弁慶の釣鐘と提灯1909年(明治42年)開港五十周年の年、市内では様々なお祭り、式典が開催されます。開港五十周年を祝う<弁慶の絵柄の鐘楼が写った絵葉書>
この絵葉書には「この鐘の由来」がおぼろげに見えます。
「旧横浜会館時計台時報に用いたる者なり」
新しく制定された市章<ハマ>マークの提灯と、横浜会館で時報として使われていた釣鐘が弁慶に担がれている光景です。その後の調べで、弁慶の鎧は陶磁器で作られているそうです。
現代のように、プラスチック素材ではなく当時の最適技術としての陶磁器技術が用いられていたことに感銘と納得感がありました。

さて、ここに登場する「弁慶の鐘」とはどんな意味合いだったのでしょうか?
「弁慶の釣鐘伝説」という話は全国にあるようで、そもそもは
三井寺(園城寺)金堂に伝わる
弁慶が“比叡山に持ち帰った”という伝(つたえ)のある鐘のことで
「ある日、弁慶一行が三井寺にやってきて、ひと暴れした後、このお堂の釣鐘を引っ張り出して比叡山に持って帰りました。この鐘は、俵籐太が琵琶湖の竜神の頼みで、百足を退治して、そのお礼に竜宮から貰い、三井寺に寄付したと言伝えがあります。さすがの弁慶も簡単には持ち上がらず、引き摺っているのが、よくわかります。
それで、この鐘を「弁慶の引き摺り鐘」と言うようになりました。」 とあります。
この他
●鳥取県の大山寺の釣鐘
弁慶の釣鐘(寿永の鐘)
弁慶の怪力 鳥取県の大山寺の釣鐘を、一日で島根県平田市鰐淵寺まで担ぎ持ち帰った。18歳の修行僧時代のことで、なんと 101Kmの距離を担いで運んだそうです

●石川県金沢市石浦神社拝殿
「石川県金沢市石浦神社拝殿弁慶に伝わるエピソードに、「弁慶の釣鐘引き」の話がある。?〜1189。源義経(1159〜1189)の家来といわれているが、大体が室町時代成立の『義経記』によるもので、その生涯は明らかではない。
主君に最期まで尽くし、かつ怪力無双の豪傑ということから人気が高く、能「安宅」や歌舞伎「勧進帳」では主役である。」
と解説されています。

●出雲市の鰐淵寺
にも伝承があります。

大切な梵鐘を移動させた<因縁>を伝えるための物語のようです。こんなに大切な梵鐘を弁慶によって移動させたのは<これこれしかじか>という訳です。
「横浜会館」の時計塔(横浜町会所時計塔)の鐘は
どこから来て どこに行ったのか?
横浜沿革誌残念ながら いまだもって謎のママです。何かの資料が発見されわかる日がくるかもしれません。開港場の時報が<ゴーン>だったことは、当時の開港場の音の風景としてはかなり面白いエピソードではないでしょうか。