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番外編 ちょっと困った横浜町名事情
(昨年 余談で構成していた地名ものを番外編で独立させました)
町名と言えば、横浜市内には不便な町名が幾つかあります。
一つの町が二つの区によって引き裂かれてしまったのです。
住民は町名の継続を願った?かどうかわかりませんが、一瞬間違えそうな町名があります。
特に中区と西区の境界に多くあります。
■町を通りがぶった切る
桜木町一丁目〜三丁目は中区です。
桜木町四丁目〜七丁目は西区です。
花咲町一丁目〜三丁目は中区です。
花咲町四丁目〜七丁目は西区です。
赤門町は中区赤門町 西区赤門町があります。
→新しい区制のために泣き別れ
青葉区・都筑区に引き裂かれた?
荏田町(えだちょう)
荏田西・荏田北・荏田は青葉区
荏田南・荏田東は都筑区
少し前まで都筑区荏田がありましたが「あゆみが丘」に変更されました。
→保土ケ谷区・旭区に泣き別れ!
川島町
※結構広い町域なので、勘違いしたら迷うでしょうね。
■横浜市中区、西区の一部は町名表示が特別!
特別といっても 町名がではなく
他の区と町の並びが異なります。
欧米型というのか、通りに沿って町名が命名されています。
典型的なのが 横浜市中区 関内エリアです。
初めての人は戸惑います。
No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催
ちょっと刺激的なタイトルにしてみました。
今日3月24日は1989年(平成元年)YES’89 横浜博覧会の開会式が行われた日です。
<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>
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自作です。実際はもう少し右方向にランドマークが見える感じです |
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山下公園から撮影 |
このテーマは昨年の今日
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
で取上げましたが 再度取上げました。
改めて
「みなとみらい」関係のテーマの多さに自分でも驚きました。
三菱造船所の跡地を再開発した
平成最大のプロジェクトではないでしょうか。
スタートと同時にバブルが崩壊し、
お荷物!と批判を浴びながらも 少しずつ進んできました。
みなとみらいといえば、最新ニュース
横浜・臨港幹線道「開かずのトンネル」も完成から14年目にして開通することになりました。
全長 約1.3キロで、1986年着工1999年に完成しましたが眠っていました。
総工費約300億円、当時は周辺の交通量が当初の予想に満たなかった上、年間約8千万円の維持費がかかるため、開通が見送られてきたという経緯があります?
ここが開通しても この臨港幹線道路全体が開通した訳ではありません。
「横浜市港湾局によると、開通した地下トンネルは片側1車線の市道で、「みなとみらいトンネル」と名付けられた。同市の西区みなとみらい―中区新港間の1・3キロ・メートルを結ぶ。商業施設の密集するみなとみらい21地区(MM21)の中心部の混雑を避けて、その地下を通り抜けられるようになった。同局は1日約5000台の通行量を見込んでいる。」
ということですがちょっと勘ぐりたくなるタイミング?ですね。
(何が? 関内エリアの交通量がぐっと増えますよね。)
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無理やり探してきた写真です。近々もっとわかりやすいものに差し替えます |
※写真 マップは調達が間に合いませんでした。
後日しっかり作ります。
改めて
「みなとみらい」関係のテーマの多さに自分でも驚きました。
今日は「みなとみらい」関係の関連リンクも集めてみました。
No.279 10月5日 (金)赤い靴シティ1丁目
「みなとみらい」命名のエピソード
No.37 2月6日 都市デザインの実践場
みなとみらい計画について
No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
開港の道について
No.90 3月30日 環状鉄道の夢
このブログトータルで最もアクセスが多いテーマ。
注目度ナンバーワン。理由は何故だか判りません。
No.191 7月9日(火) 宙に舞う話
大観覧車の話
No.58 2月27日 政治家が辞めるとき
基本政策 横浜六大事業
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
みなとみらいスタートイベント横浜博覧会開会
No.87 3月27日 (火) 横浜駅のヘソが変わる
横浜駅が変化します!
※この記事も注目度が高いテーマです。
No.200 7月18日(水)無限の境界
「クイーンズスクエア横浜」開業
みなとみらいのコンベンション機能強化
No.220 8月7日 (火)Visit Yokohama MM
みなとみらいホテル建設ラッシュ
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
横浜駅東西南北競争
No.430 鶴見警察署長・大川常吉
今日は連発です。
年表で探しにくい「3月21日」のエピソードです。
この日に因んだ「大川常吉」さんの話しを紹介します。
大川さんは関東大震災の時、流言飛語に凛とした態度で正義を守った人物として、現在まで語り継がれている人です。
横浜市鶴見区潮田にある「東漸寺(とうぜんじ)」本堂横に建つ記念碑には
「故大川常吉氏の碑
関東大震災当時、流言飛語により激昂した一部暴民が鶴見にすむ朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し、当時鶴見警察署長故大川常吉氏は、死を賭してその非を強く戒め、三〇〇余名の生命を救護したことは誠に美徳である故、私たちはここに故人の冥福を祈り、その徳を永久に讃揚する。
一九五三年三月二一日
在日朝鮮統一民主戦線鶴見委員会」
と記されています。
震災後のパニック状態の中、
約300人の朝鮮人、中国人を暴徒から守った警察官が大川常吉です。
この事を知ったのは 10年前にこの本の著者キョンナムさんのトークショーで紹介された一冊の本「ポッカリ月が出ましたら」からでした。
大川常吉さんは1877年(明治10年)に生まれ、震災時は46歳でした。
大正12年9月1日に起った関東大震災の直後、
「朝鮮人が井戸に毒をいれた。」
「震災の混乱に乗じて日本人を襲ってくる。」
というデマが広がり、全国で朝鮮人に対する迫害、襲撃虐殺事件が起こります。
この朝鮮人に対する流言飛語は、無責任な“新聞記事”も
火に油を注ぐ役割を果たしました。
当時の鶴見警察署は署員30人あまりの今とは比較にならない小さな警察署でした。ここに震災で被災したおよそ300人の朝鮮人・中国人が保護を求めてきました。署長大川常吉さんは、警察署を取り巻いて騒乱状態になっている中で
「持っているビンに毒が入っている。たたき殺せ」という声に
「その井戸水を持ってこい。私が飲んで死ねば朝鮮人を引き渡す。異常が無ければ私に預けよ。」
「私を信頼しないのなら、朝鮮人を殺す前に、この大川を殺せ。自分を殺してから中へ入れ。」
と警察署の入口に仁王立ちで暴徒に冷静さを求めたという事件です。
「どこの国の人間であろうと、人の生命に変わりはない。それを守るのが私の任務だ。」とも語ったそうです。
この碑に記されている
「在日朝鮮統一民主戦線」という厳めしい名は
今緊張感の高まる北朝鮮系「朝鮮総連」の前身ですが、
日本人を賞賛することはかなり珍しいことだと在日の友人も語っていました。
地元では 現在でも語り継がれているそうです。
当時、鶴見町の有力者・町議会議員だった人の日記が残されているそうです。
事件の時、大川署長とまちの人々とのやりとりも克明に記録があるそうです。
日本の小さな街の小さな事件ですが、
この時代と、人間の尊厳を再確認する 重い事件といえるでしょう。
No.429 Y校創設地はどこだ?2
昨日の「Y校創設地はどこだ?」の記事で
叱咤激励のメールをいただきました。
No.428 Y校創設地はどこだ?
「Y校の創設地を調べるなら
Y校の歴史を直接図書館か何かで調べ、もうひとひねりしてほしい。」
ごもっとも
前日の「Y校創設地はどこだ?」の本意は
手元の二次情報で、二つの食い違ったデータの謎解きをする愉しみを追いかけました。
そう データ追跡の基本は「一次情報」にあたれ!
ということなので
一次情報をあたりました。
というか、古書店を巡っていたら
偶然、「Y校八十周年記念誌」に出会いました。
地味な表紙で ほとんど気がつかない場所での発見です。
※即 入手しました。
そこには、Y校創設期の話しが詳しく記載されていました。
「横浜商法学校」の命名は早矢仕有的で、創設者“美沢進”校長のヘッドハンティング
も彼が小幡篤次郎に伝え、福沢諭吉の快諾を得たそうです。
「横浜商法学校」誕生は横浜町会所の二階で、3月20日開校し
最初の生徒は4名、教員が5名という状況だったそうです。
そこで、25日に急遽夜間部を設け14名の生徒が集まり、現在の定時制部の起源となります。定時制としても日本で初期創設の部類に入るのではないでしょうか。
そして
「11月27日に北仲通六丁目六十八番地」に
新校舎が完成し、移転します。
ここでも 発見です。昨日の「No.428 Y校創設地はどこだ?」
の下になった年表では11月26日となっていました。
以上が 「横浜商法学校」設立の顛末です。
この「Y校八十周年記念誌」にはその当時の手書き地図が掲載されていましたので転載させていただきます。横浜駅(現桜木町駅)前には噴水がありました。
ここでもう一つ 個人的大発見。
横浜正金銀行支配人、慶応義塾塾長、交詢社の設立発起人だった小泉信吉(こいずみ のぶきち)の自宅が桜木町一丁目一番地にあったことがこの手書き地図に書かれています。
Y校との関係も深く、強力な支援者でした。
(試練)
1888年(明治21年)3月18日に近所で起った火事で学校が全焼します。
その時、
「学校が焼けたのではないぞ、建物が焼けたのだぞ、解ったか。
解ったらよい 酒でも飲め」と
美沢校長を強く励ましたのが小泉信吉だったそうです。
隣接地の本町六丁目八十四番地の生糸会社を借りて授業を再開、
一年九ヶ月後、新校舎ができあがり大きな試練を乗り越えます。
さて?
この間借りした生糸会社?
手元資料で調べましたが判りませんでした。
帝蚕倉庫株式會社は創設が大正なので違います。
追跡してみます!
この「Y校八十周年記念誌」にはY校のエピソードが一杯記載されています。
テーマを練りながら 折々に紹介していきます。
No.428 Y校創設地はどこだ?
タイトルほどの、謎解きではありません。
3月20日のネタ貼に
「横浜商法学校、横浜町会所内に開校」とありました。
あれ?記憶違い?から 謎解きが始まりました。
■横浜商法学校とは、
横浜市立横浜商業高等学校(愛称Y校)の前身です。
Wiki等で変遷を整理すると
★横浜市立横浜商業高等学校は?
1882年(明治15年)3月20日開校の横浜商法学校
→横浜商業学校→本町外十三ヶ町立横浜商業学校
→横浜市立横浜商業学校→横浜市立横浜商業高等学校
と整理できました。
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/hs/y-shogyo/
場所に関しては
1882年(明治15年)
横浜商法学校が設立され,町会所桜上にて授業を開始(3月20日)
1905年(明治38年)
南太田の現在地に校舎が落成し,移転した(9月)
と(Y校のHP)の記事があります。
ところが私愛用の
1892年(明治25年)発行の地図に「横浜商法学校」の記載があったような?
確認してみると
北仲に「商業学校」「横濱学校」という記載がありました。
記憶通りではありませんでした。
学校名が違う! 北仲にある学校は?
明治15年の地図には「如春学校」と記載されています。
「本町に小学如春学舎」
学制に従い北仲通三丁目に第l大学区、第七中学区、第一番小学壮行学
舎として創立
第二番小学如春学舎(明治6年5月、元弁天の官舎に創設)
第三番小学同文学舎(明治6年6月、住吉町に創設)を併合して
元浜町一丁目に移転、横浜学校と改称
「横浜近代史年表」他の資料から
横浜商法学校は、
1882年(明治15年)3月20日
町会所(現在の開港記念会館)で創立され
11月26日 27日(※修正します)理由は明日を読んでください!
本町六丁目・北仲通六丁目に新築移転
とわかりました。
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昭和初期の北仲 |
【Y校の歴史】
1882年(明治38年)港の有力生糸商人・小野光景らにより横浜商法学校設立。
1888年(明治44年)横浜商業学校と改称。
1905年(明治38年)現在地に校舎が落成し、移転。
1917年(大正6年)横浜市立商業学校と改称。
1924年(大正13年)本科の上に2年制の専修科を置く。神中(神高)戦[2]が開始される。
1928年(昭和3年)専修科を母体に横浜市立横浜商業専門学校(通称Y専)を設置。
1948年(昭和23年)学制改革により横浜市立横浜商業高等学校となる。
1949年(昭和24年)横浜市立港高等学校を統合し、男女共学となる。商業科、普通科、家政科、別科として理容科が設置される。港高校の夜学部を港分校とした。
1950年(昭和25年)港分校は横浜市立港高等学校(定時制)として分離独立した(港高校の復活)。
1982年(昭和57年)創立100周年記念式典挙行。
No.427 横浜で学ぶ(神社編2) 「横浜で鳥居に出会う」
鳥居(とりい)とは、神社の「門」にあたります。
ここから神社の神域に入りますよ!という境目“結界”を示しています。
横浜の神社で鳥居を調べてみました。
まずは名称から
神社には鳥居があります。
いろいろな形がありますが
明神鳥居(みょうじんとりい)と
神明鳥居(しんめいとりい)の様式が大半を占めます。
一番多いのが
●明神鳥居(みょうじんとりい)
日本で最も多い稲荷鳥居(いなりとりい)も明神鳥居の一種です。
「大明神」とも言われますが
「ハマの大魔神社」なんてありましたね。
「佐々木大明神」なんて呼んだりして。
→この様式の変形に稲荷鳥居があります。
本来は柱と島木(しまぎ)との間に台輪(だいわ)を入れますが、台輪のない
お稲荷さんもありますね。
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神奈川区にある「笠のぎ稲荷」 |
赤鳥居で柱の下部を黒塗り板木で巻くのもポイントです。
●神明鳥居(しんめいとりい)
「伊勢鳥居」とも言います。直線的なフォルムが特徴です。
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西区浅間神社境内 |
![]() |
鶴見区鶴見市場 熊野神社 |
→神明鳥居の中には「外宮鳥居」があります。
伊勢神宮に本宮がありますが、全国的にも少ない「鳥居」の一つでしょう。
伊勢山皇大神宮に建っています。
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伊勢山皇大神宮 二の鳥居 |
【鳥居の雑学】
数え方は、「1基、2基」と数えます。
本殿から一番外側を「一の鳥居」近づくにつれて「二の鳥居、三の鳥居」と呼びます。
地域の鎮守稲荷にはいろいろあります。
No.426 横浜で学ぶ(神社編1)
近年、歴女から発展し神社ファンが急増中とか。
神社検定も始まりました。
横浜の神社で「神社」を学んでみましょう。
体系的ではありませんが、ちょいネタで
横浜の神社をお楽しみ下さい。
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伊勢山皇大神宮 |
【横浜の神社】
神社といえば?
全国で最も多いといわれている神社は
「お稲荷様」と「八幡様」だそうです。
神社と一言で表現しますが、神社も色々分類できます。
※合祀(いっしょに祀られる)等で実数値は確定できにくいのですが
ネット、マップ等で集めたリストを原資料にしています。
八百万(やおよろず)の神が神社に祀られていますが
横浜市内では「杉山神社」
五十猛神(スサノオの子)を主祭神とする神社
が一番多いのが特色です。
ここで少し紹介しました。
別に改めて神社探索の一環として
「杉山神社」を紹介する予定です。
今回は 一般的な“じんじゃ”から横浜を眺めてみましょう。
●稲荷神社(いなりじんじゃ)
→「稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社とされている。元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神」
主祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま)
赤い鳥居が多いので目立ちます!!
→横浜のお稲荷様
多数!!!あります。ざくっと100ありました。
小さな地域の「お稲荷さん」も入れるともっと増えるでしょう。
●八幡神社(はちまんじんじゃ)
→「八幡宮は、八幡神を祭神とする神社。八幡神社、八幡社、八幡さまとも表記・呼称される。全国に約44,000社あり、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社とする。(Wiki)」稲荷神社と並んで全国で最多の神社です。(実数不明)
主祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)
→横浜の八幡様
富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)金沢区富岡東4ー5ー41
戸塚区に「八幡様」が多く点在します。理由は追求していません。
→舞岡八幡宮(まいおかはちまんぐう)戸塚区舞岡町946
村の鎮守という原風景を持っている神社が「舞岡八幡宮」です。
八幡神社(はちまんじんじゃ)戸塚区下倉田町宮谷470
八幡大神(はちまんだいじん)戸塚区吉田町1263
冨塚八幡宮(とみづかはちまんぐう)戸塚区戸塚町3828
八幡社(はちまんしゃ)戸塚区秋葉町343
子之八幡社(ねのはちまんしゃ)戸塚区上倉田町978
八幡社(はちまんしゃ)戸塚区上矢部町1949
八幡社(はちまんしゃ)戸塚区矢部町辻1003
※私のリストでは40社あります。
この他
●神明社(しんめいしゃ)
→「神明神社」(しんめいじんじゃ)は、天照大神が主祭神です。
総本社は伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)です。お伊勢様とも言います。
横浜市内では、杉山神社に次いで多い?
「神明神社」リストには50あります。
●お伊勢様(おいせさま)
横浜の神社といえば
横浜の総鎮守「伊勢山皇大神宮」(いせやまこうたいじんぐう)
横浜市西区宮崎町64
ここは「神明神社」の分類に入ります。
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伊勢山皇大神宮の雪景色 |
●浅間神社(せんげんじんじゃ)
浅間神社は
「富士山に対する信仰(富士信仰、特に浅間信仰)の神社」
祭神は多数ですが
源 頼朝、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)という女神
が祀られています。
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横浜市西区 浅間神社 |
浅間神社(せんげんじんじゃ)西区浅間町1ー19ー10
次回は横浜で学ぶ鳥居入門を!
No.425 川の交差点、都橋界隈
川に交差点がある?
ぶっちゃけていえば運河ってことですが
地図を眺めていると 河と運河が交わる
川の交差点
惹かれるものがあります。
横浜の古い地図を眺めていると
都橋周辺に目がいきます。
都橋周辺は何度も紹介していますが、お気に入りの空間です。
特に川に交差点があった都橋、柳橋あたりの風情を想像するのが
好きです。(残念ながら今は激変しています)
※中村川にも堀割川との十字路がありました。
(別の機会に紹介します)
図柄からもかなりの混雑が見てとれます。
絵でも優先(川)は「大岡川」です。
川沿いの「柳」は残っていませんが、緑は残っています。
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右側が昔の柳があった河岸 |
水の道は変更が難しいのですが、
現在、横浜の運河の多くが“埋立”てられています。
かつての川を想像しながら散策する愉しみも良いですね。
※昔桜木町駅(旧横浜駅)に噴水があったんですね。
都橋界隈の風景
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これなんでしょう? |
No.424 琉球バル
2012年2月1日にバジルドミノという一文を限定配信した。
以下は2012一部更新したものだ。
以前から野毛を歩いていて書きたかったことがある。
タイトルは「バジルドミノ」。
Tipping Pointの好事例だ。
ある一定の閾値を越すと一気に全体に行き渡ることを「ティッピングポイント(Tipping Point)」という。
もう一つ別な表現では、ドミノ現象がある。
小さなきっかけを起点として、大きな範囲に影響が及ぶ現象のことだ。
連鎖反応という表現のほうがぴったりかもしれない。このドミノ倒しの最初の一枚を倒すことを「ファーストタッチ」という。
この話しは、横浜市中区野毛に起ったドミノ現象のファーストタッチの話しである。
(序章)
10年以上の時間をかけてドミノは静かに並べられていた。
1989年の横浜博YES89を皮切りに現在の「みなとみらい」地区が新しい職住地域として開発が始り、ビジネスゾーンであると同時に横浜最大の観光スポットとしても多くの若者を吸引するパワーを持ち始めた。
一方、横浜の下町「野毛」は東横線桜木町駅が無くなることで飲食街の危機と叫ばれた。
はたしてそうだったのだろうか?
結果は既に出ているようだ。
10数年前野毛の近くに移ってきた頃、私は違和感のある光景を目にするようになってきた。
それは夜11時過ぎに
若者が暗くなった野毛界隈を右往左往している姿だった。
その姿は次第に増え始めていた。
単なる一過性、みなとみらいで遊んだ連中がその勢いで夜を彷徨っているに違いない。いずれどこかに消えて行くだろうと見ていた。
(チーズケーキブーム去る)
野毛の一角にチーズケーキの店が突然現れた。 そしてすぐに消えた。
その後にオープンしたのがイタリアンバル「バジル」である。
2007年5月ごろのオープンと記憶している。
ワインの立ち飲みができる。
元気なスタッフがいる。
宅配ではないピザが食べられる。
なんといっても夜遅くまで開いている。
これはイケルと思った。
前の通りはちょっと交通量が多すぎるが、オープンな感じが良い。
(第二次立ち飲みブーム)
1999年(平成11年)頃に第一次立ち飲み(大)ブームが起こり、一過性のように下火になった。生き残っている店は固定した。
この時に多くの立ち飲み業態が淘汰されたが、平成17(2005)年頃、第二次立ち飲みブームが起こる。
第一次のときとは一変して、スペインバルやイタリアンバル、昭和レトロ風をねらった立ち飲み屋などコンセプトがしっかりしたお店が登場してきた。
これらの新立ち飲み店は、おじさんではなく、女性や若者客などをターゲットにしたオシャレ系なお店が次々と登場する。
しかも若者と女性に従来の「おじさん」までオシャレ系に吸い寄せられてきたのだ。
こじんまりとしたスペース、オープンキッチン、カウンター。
腰を据えないがゆえの「気軽さ」に軽く寄ることができる空間がこの時代にマッチした。
(野毛もこれを待っていた)
野毛のバジルは快進撃を続けている。
この野毛エリアのドミナント戦略で攻めている。
一方、野毛交差点周辺は一気に競合の出店ラッシュとなった。
みなそれぞれに個性的である。
野毛で新しい飲食スタイルがティッピングポイントを超えたのだ。
このバジルドミノは花咲あたりまで波及し、宮川町、日の出町にまで広がっている。
要因はさまざまある。吉田町も元気になった。
隣接する黄金町にアート拠点ができ多くのアーティストが集まるようになったこと。
ドンキホーテの出店も大きい。
紅葉坂近辺に大型マンションもいくつか建った。
ワンルームマンションの勇、グリフィン銀座でもある。
円高(ワインが手頃、輸入食材が豊かになった)もあるだろう。
ようやく野毛が「眠らない街」になったのだ。
野毛ラーメン銀座といわれたピークも過ぎたが、淘汰は一通り終わった感がある。
いち早くデニーズもこの流れを読んだが少し客層を誤り早々に撤退して行った。
この先、野毛バジルドミノはどのような模様を見せるのか。
ブームからこの街の顔としてどこまで勝負できるのか?
期待は大きい。新しい野毛の店。現在私が確認(飲んだ)店は9店。
他にまだ4、5店あるらしい。
野毛は確実に新しいゾーンに変身しつつあるようだ。
■良く行く花咲町のバジル→ここはスクラップ・アンド・ビルドか?撤退。
音楽通りに良い刺激が走っている。
さすがバジルは、スタッフが訓練されている。
味も価格も野毛の相場観を見事にリードしている。
◎BASIL
2007年5月:1号店「イタリアン バル バジル」
2008年9月:2号店「チーズ& ワイン バジル」
2010年9月:3号店「アメリカンバー バジル」
2011年5月:4号店「カフェ バジル」
2012年2月:5号店「トラットリア バジル」
2013年3月15日
6号店「琉球バルBASIL」オープン→10月に閉店!早ッ!
【番外編】桜咲く
今年の梅開花は少し遅めでしたが、桜は一気に開花してきました。
花見ポイントをざくっと集めてみました。ほんの一部です。
今年は春休みにタイミングが合いそうですね!
※マナーは守りましょうね。(写真は昨年が中心です)
三渓園(さんけいえん)
http://www.sankeien.or.jp
三ツ沢公園(みつざわ)
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/mitsuzawa.html
三ツ池公園(みついけ)
http://www.kanagawaparks.com/mitsuike/
掃部山公園(かもんやま)
http://www.city.yokohama.lg.jp/nishi/miryoku/kouen/kamonyamakoen.html
幸ヶ谷公園(こうがや)
http://www.natsuzora.com/may/park/kogaya_sakura.html
野毛山公園(のげやま)
http://park.hama-midorinokyokai.or.jp/park-details/nogeyama-park
弘明寺公園(ぐみょうじ)
http://www.city.yokohama.lg.jp/minami/70minamiru/71spot-route/713park/713002.html
八聖殿(はっせいでん))※三渓園近く
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/
本牧山頂公園
http://sancho-yokohamaueki.com
保土ヶ谷公園
http://www.kanagawa-park.or.jp/hodogaya/
根岸森林公園
http://hanami.walkerplus.com/detail/ar0314e25877/
清水ヶ丘公園
豊顕寺市民の森(ぶげんじ)※三ツ沢公園隣接
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/green/shiminnomori/shimin-bugenji.html
山手公園
横浜市児童遊園地
久良岐公園
大曽根第三公園
大岡川プロムナード
http://river-sakura.com
本牧通り・桜道
港南桜道
http://kanagawa87.web.fc2.com/sakura_sakuramiti.htm
http://www.city.yokohama.lg.jp/konan/town/sakuramiti/sakuramiti-history.html
http://www.city.yokohama.lg.jp/konan/town/sakuramiti/iinkai.html
外国人墓地
英連邦戦死者墓地
谷戸坂
関内桜通り