第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆
1945年(昭和20年)7月13日、
戦争も末期となったこの日
連日実施されていた米軍による空襲が鶴見エリアにも行われました。
京浜運河に沿った工場群が目標となり東芝鶴見工場も被曝します。
「土砂降りの雨の中を午前零時ごろから二時ごろまで、川崎市を主目標とした
B29五十機が、高度二千メートル以下の低空で侵入、鶴見区内でも百発以上の爆弾を投下、岸谷では五十余名の死傷者を出し、安善の日本石油が全焼、東京ガスのタンクにも直撃弾、末広町の旭硝子、日本鋼管が損害を受け、鶴見発電所も被害があった。生麦・潮田・旭町の爆弾の穴は直径二十メートルもあり、人々を恐怖に陥れた。(鶴見区史)」
この時、東芝鶴見工場の一角には捕虜収容所の東京第14分所(旧第11派遣所)がありました。空襲によって宿舎が直撃を受け捕虜が28人死亡、16人負傷、負傷者の2人は後日死亡します。
「国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32,418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3,500人が死亡している。(笹本妙子)」
(その後)
東芝工場内の収容所が空襲によって破壊された後、ここに収容されていた捕虜たちは鶴見区末広町1ー12ー4にあった第3派遣所に数日滞在し、その後<総持寺>前の施設に移され終戦を迎えます。
GHQはここでの30人の捕虜の死亡に対し、
軍当局が収容所を工場地帯に残すことを許した結果と判断します。ただ、ここに捕虜収容所があったことを米軍も認識しており、低空投下でも誤爆の可能性も高かった悲劇といえるでしょう。ここに労働力を確保するために捕虜収容所を設けた<日本>と無差別に近い爆撃を行った<米国>共に、戦争末期のヒステリックな措置であったことは間違いありません。 ◆横浜市内の捕虜収容所
東芝鶴見
日清製粉鶴見航空機
日本鋼管鶴見造船
大阪造船鶴見
日本鋼管鶴見造船
日本鋼管浅野ドック横浜
日清製油横浜
三菱造船横浜
横浜船舶荷役
横浜対価レンガ
(大船海軍)他
上記のように、工場の集中していた鶴見エリアは捕虜収容所も集中していました。隣接する川崎を合わせると15か所にも及ぶ捕虜施設が設置されました。
(出口のない改札)
横浜市内にある鉄道の<駅>の中で、マニアに人気の不思議な駅があります。
ここに紹介した東芝鶴見工場のある鶴見線海芝浦駅(うみしばうらえき)です。
1940年(昭和15年)11月1日に開設した「海芝浦駅」は一般乗客が改札を出ることができません。駅構内の敷地を含め、隣接する東芝京浜事業所の敷地内にあり改札は東芝関係者しか利用できないからです。
ただ
ここには、「海芝浦駅」に隣接して一般開放された「海芝公園」が設置されています。公園管理運営は東芝京浜事業所が行っています。開園時間は9時〜20時30分で、一度駅を(改札とは別)出て、園内に入るようになっています。
(過去の7月13日ブログ)
No.195 7月13日(金)BRAVE HEARTS
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=412
海上保安官の「仙崎大輔」を主人公にした超人気漫画「海猿」の映画第4作が 2012年7月13日(金)の今日、ロードショー公開されました。
第846話 1914年(大正3年)7月12日「新避暑地十二勝磯子海岸」
1914年(大正3年)7月12日
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。
この内容に関しては以前、下記のブログで紹介しました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7816
今日7月12日、違うテーマを予定していましたが
第12位 末席に選ばれた「磯子海岸」に関しては紹介してなかったので簡単ですが紹介しておきます。
磯子エリア(磯子海岸)は、堀割川が完成するまでは不便な陸路の他は本牧沖経由の海運しかありませんでした。明治期から大正期には、河川水路の他 市電(全身の横浜電気鉄道)が開通することで横浜(開港場)とのつながりが深くなっていきます。
横浜市域の海岸線が工業化に伴い埋立事業が行われる中、磯子海岸(根岸湾)と、隣接する富岡海岸は戦後まで大型埋め立て事業が行われませんでした。堀割川河口にパラオ行きの飛行場が開設されたり杉田・富岡エリアに軍関係の工場が進出しましたが、大幅に海岸線が埋立られることはありませんでした。
戦前から風光明媚なこのエリアは、湘南電気鉄道や市電の開通で<海水浴場>」として人気スポットとなっていきます。
戦後、高度成長に伴い、磯子海岸が工場用地として注目されます。
下記に磯子海岸関係の歴史を簡単に列記してみました。
1928年8月4日(昭和3年)
磯子町・滝頭町地先埋立第一次工事完成
1929年1月17日(昭和4年)
森・磯子町地先埋立完成
1929年7月1日(昭和4年)
市営磯子水泳場(海水浴場)を公開
1930年4月1日(昭和5年)
湘南電気鉄道(現京浜急行電鉄)、黄金町〜浦賀、金沢八景〜逗子間開通、森駅(現屏風浦駅)開業
1930年7月1日(昭和5年)
湘南電鉄杉田駅開業
1931年12月26日(昭和6年)
湘南電鉄と京浜電鉄が日ノ出町駅で結ばれ、横浜〜浦賀間の直通運転を開始
1933年4月1日(昭和8年)
京浜電鉄の軌道拡張により品川〜浦賀間の直通運転を開始
1941年2月1日(昭和16年)
軍が杉田町地先5万坪を埋立。また、中根岸町を埋立、飛行場を開場する
1941年11月22日(昭和16年)
大日本航空会社磯子支社新館が鳳町に落成
1950年12月14日(昭和25年)
重油禍で屏風ケ浦、富岡、金沢の海苔全滅
1955年4月1日(昭和30年)
市電、八幡橋〜間門間開通
1956年8月3日(昭和31年)
杉田貝塚の発掘開始
1956年10月9日(昭和31年)
屏風ヶ浦漁協及び同海岸埋立反対期成同盟、「磯子海岸埋立反対決議」を市に手渡す
1956年10月17日(昭和31年)
国鉄根岸線建設並びに磯子・杉田地先埋立に地元漁協が反対、国鉄に陳情
1956年11月29日(昭和31年)
根岸湾埋立反対漁民総決起大会開催される
1956年12月25日(昭和31年)
市会、根岸湾埋立を決定
1957年4月3日(昭和32年)
国鉄根岸線建設事業を国鉄建設審議会が決定
1958年10月14日(昭和33年)
根岸の米軍飛行場が接収解除
1958年12月11日(昭和33年)
根岸湾埋立補償覚書調印
1959年1月25日(昭和34年)
根岸湾埋立で漁業補償協定に調印し根岸湾埋立問題協議会を解散
1959年2月21日(昭和34年)
根岸中学校で根岸湾埋立事業の起工式を挙行
1959年5月23日(昭和34年)
根岸線建設工事に着工
1960年2月15日(昭和35年)
鳳町の接収解除
1960年6月30日(昭和35年)
中根岸町の接収全面解除
1961年1月28日(昭和36年)
磯子団地(汐見台団地)の起工式を挙行
1962年10月10日(昭和37年)
市会、磯子団地の新町名を「汐見台」と決定
1963年2月1日(昭和38年)
磯子町、森町の地先埋立地に新磯子町、新森町を新設
1963年5月25日(昭和38年)
汐見台団地入居開始
昭和38年6月(昭和38年)
屏風ヶ浦漁協が根岸湾埋立記念碑を白旗に建立
1963年12月24日(昭和38年)
根岸湾第1期埋立事業竣工
1964年3月24日(昭和39年)
杉田町、中原町地先埋立地に新杉田町、新中原町を新設
1964年5月19日(昭和39年)
磯子駅前広場で根岸線第1期工区(桜木町〜磯子間)の開通式を挙行
1964年11月18日(昭和39年)
区住民運動連絡会議が東京電力の火力発電所建設に反対の決議
1964年11月27日(昭和39年)
屏風ヶ浦漁協の解散式挙行
1964年12月15日(昭和39年)
根岸湾第2期埋立事業竣工
昭和40年2月(昭和40年)
根岸湾漁協が根岸湾埋立記念碑を根岸駅前に建立
1966年7月19日(昭和41年)
南部下水処理場が竣工(昭17.4.1から「南部水再生センター」に名称変更)
1966年8月9日(昭和41年)
根岸線第2期工事(磯子〜大船間)の許可
1967年6月23日(昭和42年)
科学技術庁が根岸湾埋立予定地に原子力船母港建設の方針を横浜市に申し入れ
1967年7月31日(昭和42年)
市電、葦名橋〜杉田間廃止
1967年9月5日(昭和42年)
政府は原子力船母港の建設で横浜市を断念し、むつ市に決定
1968年8月31日(昭和43年)
市電、八幡橋〜間門間廃止
1970年3月17日(昭和45年)
根岸線磯子〜洋光台間が営業を開始
1970年8月28日(昭和45年)
大岡川分水路建設工事起工式挙行
第845話 横浜駅「京急西口通路」完成
私は都度、目標を決めて達成する“横浜コンプリート”を楽しんでいます。
その達成メニューの一つが<市内の鉄道全駅に降り立つ>ことです。 横浜市内には135の駅があり、21の路線、8つの会社(市営含む)があります。市内全駅踏破は最初から意図したわけではありません。90年代の後半に仕事で市内18の区役所を訪問する機会があり、鉄道機関を使ったことがキッカケです。
<無人駅>から9路線が乗り入れる<大ターミナル>までそれぞれの駅に不思議な味わいがあります。
135の駅に降り立った後は、それぞれの駅の<歴史>というと大げさですが、生い立ちに関心が出てきました。
駅を語りだすと「横浜駅」だけでも話題が尽きません。
いずれ市内全駅の紹介をしたいので、今日の横浜駅はゴクゴク手短なブログとします。
1987年(昭和62年)7月10日の今日
横浜駅「京急西口通路」(地下)が完成という記事を発見。
「京急西口通路」って 何処かご存知ですか?
京浜急行のホームと<西口・相鉄線方面>を結ぶ連絡地下通路です。
恐らく乗換に利用する人以外この地下通路は知られていない“迷路”ではないでしょうか。
“迷路”とはいささか失礼な表現かもしれません。
かつて横浜駅は、東西を繋ぐ自由通路が限られていて大変不便でした。(現在もわかりにくい)
横浜駅は、jRを囲むように東に京浜急行、西に相模鉄道、地下に東急・みなとみらい線(かつては西側)が乗り入れています。相模鉄道線から京急に、東急線から京浜急行への乗り換えは<至難の技?>でした。(現在もかなり大変です)1974年(昭和49年)
上図は1979年発行の横浜駅近辺マップ
1980年(昭和56年)11月20日に東西自由通路が全面開通し連絡こ線橋が撤去されます。
私はこの京急こ線橋を利用していなかったので殆ど記憶がありません。
東京寄りの今も残されている<跨線橋>は頻繁に利用していました。
「京急西口通路」を示すマップは無いか?
1996年の駅周辺詳細図に点線で示してありました。この「京急西口通路」は<横浜駅みなみ通路>が完成した現在も一部がそのまま活用されています。
それにしても、横浜駅は工事していない時期があったのでしょうか?と言いたくなるくらい工事中駅です。
今日はさらっと小さなネタで失礼します。
(過去の7月10日ブログ)
No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=415
都市には必ず川の歴史があり氾濫と治水の歴史でもあります。
1976年(昭和51年)7月10日(土)の今日は、大岡川治水工事の一貫として着工した「大岡川分水路」(全長3,640m)の部分通水(笹下川から根岸湾まで)を開始した日です。
第844話1922年(大正11年)7月9日軍医森林太郎
7月9日というと、私は作家森鴎外、軍医森林太郎の命日がまず思い浮かびます。
1862年2月17日(文久2年1月19日)〜1922年(大正11年)7月9日
https://ja.wikipedia.org/wiki/森鴎外
ブログの日記に命日を選ぶのは不本意ですが森鴎外に関しては、多くの懸案事項を残したまま亡くなったこの日から、今日のブログを始めます。
森は作家としての鴎外像が強く、医療官僚や軍医としての姿はあまり知られていません。
「明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、戯曲家、陸軍軍医、官僚(高等官一等)。陸軍軍医総監(中将相当)・正四位・勲二等・功三級・医学博士・文学博士」
作家としては最初の作品「舞姫」晩年の「山椒大夫」「高瀬舟」他 多くの作品を残しました。横浜市民にとって森林太郎は横浜市歌の作詞者としてもよく知られています。中には鴎外と林太郎が結びつかない方もいるかもしれませんね。
何故、森林太郎が横浜市歌を作ったのか?私は勝手な推論を立てていますが、ここでは触れません。過去ブログを参照願います。(まだ詰めが甘いですが)
「横浜市歌の真実」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=626
森林太郎は公衆衛生の研究と行政施策の担当者でもありました。彼は衛生学研究・衛生制度調査を目的に4年間のドイツ留学し下水道の研究もあり、帰国後は伝染病予防最前線にいたキーマンでした。
現在も疫病は国家にとって一大事です。
開港で、日本は西欧文明を吸収しましたが、同時に世界の疫病も輸入することになります。その入口が開港場の横浜でした。
No.2178月4日(土)わがひのもとの虎列刺との戦い
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=390
No.89 3月29日ペスト第一号もYOKOHAMA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=528
疫病との戦いは横浜が最前線でしたが、明治期には全国に感染が広がり、国の大問題となります。中でもコレラは世界的大流行(パンデミック)の波を幕末開港期に受けます。元々インドの風土病だったコレラは、植民地から船に乗って世界に伝染し、日本では江戸時代後期に流行します。
このコレラ流行が<攘夷思想>に拍車をかけました。このコレラ菌の特定が1883年(明治16年)コッホによってですから、かなりの期間不明の病として人々に恐れられました。
明治期、伝染病を担当する衛生事務は文部省が管轄していました。疫病予防法の基礎を作った相良知安(さがら・ともやす)は初代文部省医務局長の役職でした。
1875年(明治8年)になり衛生事務は文部省から内務省に移管されます。(因みに厚生省が内務省から独立したのが1938年(昭和13年)1月11日です)
幕末から明治にかけてコレラが何度も流行し、抜本的対策も無く対応に追われるばかりでした。
例えば伝染病に関する法律から伝染病を見ると
1870年(明治3年)「種痘法」が初めて制定されます。すでにコレラが大流行していましたが、法として具体的な対策を取ることができませんでした。
その後
「天然痘予防規則」が明治9年
そしてようやく「虎列刺病予防法心得」が明治10年公布と続きます。
伝染病を全体で捉え法的な基準を決めたのが
1880年(明治13年)7月9日の今日公布された
「伝染病予防規則」となります。
この法律では「コレラ・腸チフス・赤痢・ジフテリア・発疹チフス・ほうそう」を伝染病と指定します。この中に<結核>※が含まれていません。
※理由は未調査
伝染病予防対策には 光と影があります。
防疫は水道行政の発展に寄与します。水に悩んでいた横浜を救った水道が、国際港として発展する基盤となります。
一方で、疫病行政は差別の温床にもなっていきます。戦後まで引きずっているハンセン病はその事例といえます。
しっかり公衆衛生の知識を持つことが大切です。ただ過度な反応は社会的ダメージにもつながります。正確な情報のもとで、対策を日頃から心がけておくことが必要ですね。
従来の「伝染病予防法」「性病予防法」「エイズ予防法」の3つが統合され
1998年に「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」が制定されました。
横浜と縁のある防疫関係者といえば
野口英世
No.387 謎解き野口英世
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=195
野口と鴎外も関係があります。
(過去の7月9日ブログ)
No.191 7月9日(火) 宙に舞う話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=416
7月9日はジェットコースターの日です。1955年(昭和30年)のこの日開園した 後楽園遊園地に日本初の本格…
第843話 1898年(明治31年)7月8日開港港則公布
1898年(明治31年)7月8日の今日、
開港港則が(勅令)公布されました。

第一条 左ニ記載スル外国通称ヲ許シタル諸港ノ経界ハ左ノ如ク之ヲ定ム
「横浜ノ港界ハ、十二天(マンダリン・ブラフ)ヨリ燈船マデ、夫ヨリ正北ニ向イ鶴見川口ノ東岸マデ引キタル一線内ニ含マル」と規程されました。(勅令第百三十九号)官報7月8日
港湾に関する原則的なことを決めた国の法律です。
第一条には、上記の通り、横浜港の範囲が明記されました。

「境界線は鶴見川河口域から真南に下ります。」
「南端は本牧十二天、小港のあたりです。」
横浜“港はどこからどこまで”というごく当たり前のルールが初めて規定されました。
外国との港湾に関する規則は
1869年5月(明治2年)に大阪を国際港と認め開港する際に4カ国領事と協議し「大阪港規則」を決定し布告します。明治政府になって初めての<港則>の成立です。
ところが、この「大阪港規則」は、曖昧な部分が多く、例えば港の境界が示されていませんでした。つまり外国船が入港する際の停泊地<碇泊位置>に関する規定が無く、乱暴に言えば何処に停泊しても規制できないものでした。
当然、様々なシーンで日本と外国、そして外国同士の紛争が多発します。ルールが曖昧なゆえに各国の思惑がまかり通る、緊迫した港湾行政が全国の<開港場>で行われ、特に最大の開港場であった横浜居留地がクローズアップされます。
当時明治政府は、不平等条約を抜本的に改定することを目的としていたため、港湾規則に関しても、現行ルール(不平等条約下)での運用で紛争を乗り切ろうとしていました。
現実に起こる紛争は国レベルから港の直接管轄者である<県>に預けてしまいます。
横浜港を例に取れば 港湾行政に神奈川県・税関(大蔵省)・外務省・内務省、(後に横浜市)など関係者が関わっている状態が長く続きます。
ここに、居留地内の諸外国のパワーバランスが加わり、事態はかなり複雑な様相を呈します。
幕末、南北戦争で日本(横浜)で静かにしていたアメリカが明治に入り、俄然発言力を増してきます。明治初頭、居留地自治をめぐりイギリスとアメリカの主導権争いは明治横浜の様々な政策に影響を及ぼします。
明治期の<神奈川県令・知事>は日本の外交政策の最前線に立たされた役職なので、個々に追っていくと知事によって個性も出て面白い。
港の規則に話を戻します。
港の範囲を示す国内のルールは1870年(明治3年)に「横浜港内規則」によって規定されていましたが、あくまで列強が<参考>にしていたルールで、暗黙の了解、慣例化されていたルールだったようです。
ところが事態はこの慣例が次第に破られていきます。
いろいろ調べてみると、諸外国の商船が勝手に貿易を始める<税関>から見れば密貿易・脱税にあたりますから 当然対処しようと考えます。税関にとって港の境界は生命線でもありますから、当然国の問題として政府に何とかしろ!と上申します。
ところが、政府は事態を明確にせず、不透明なまま問題を先送りします。これは政府が怠慢であった訳ではなく、天下の不平等条約を元から改定したい政府にとって、不平等の一部で諸外国と交渉し<妥協>を強いられることを嫌ったからです。ここで港湾規則制定が転機を迎えます。
外務大臣に大隈重信が就任します。

彼は、港湾ルールの早期確定(制定)のため<不平等条約撤廃>とは分離して交渉にあたります。
これが横浜港<大築港計画>のキッカケになりました。
大隈は、かねて懸案であった横浜港の整備を国が責任をもって行うから、港の使い方も同時に考えましょう!
という方策を示します。
→第一期横浜港築港計画が1890年に始まります。
この横浜港築港計画に関しては、国内問題として内務省と外務省、さらには横浜税関(大蔵省)・神奈川県を巻き込んだ論争(と抗争の間くらい)があり
日本各地の築港計画に関わったオランダとの競争があった結果、英国のパーマー設計で築港計画が行われます。
時代は、開港以来30年もの時が流れ、世界の海運状況が劇的に変化していました。
大型商船が世界各国で増産され、大海運時代が到来していたのです。
港湾ルールの早期確定を狙った大隈のチャレンジは国内外の議論沸騰と<大隈の襲撃事件>によって挫折します。しかし、一度始まった港湾ルール策定の流れは国内外のニーズとも合致し、
1898年(明治31年)7月8日の今日、
開港港則 勅令 という形で結集することになりました。
そしてこの「開港港則」にもとづき「横浜港規定」が設定されさらに詳細な港のルールが明文化されていきます。
少し後半端折った感があります。「開港港則」制定への道のりは実に興味深い事項です。ここには作家有島武郎の父、横浜税関長有島武や実は明治以降にも大活躍した後藤象二郎らも登場し、さらに資料を読み込んでみたいエピソードです。
また、この「開港港則」における<横浜港の範囲>が後の東京・横浜開港闘争!?にも重要な役割を担ってきます。
今日はここまでとします。
(過去の7月8日ブログ)
No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=417
1958年(昭和33年)7月8日の今日
伊勢佐木から横浜公園に移築された米軍用の室内運動場フライヤー・ジムの …
(参考資料)
■開港港則は
港内における船舶交通の安全と整頓を図ることを目的として制定された法律(1948公布)。本法制定以前に存在した旧開港港則(1898年公布の勅令)が,開港のみを対象とし,また関税や検疫事務に関する規定を含んでいたのに対して,本法は,その内容を交通警察的見地からの規定に純化するとともに,その適用対象を開港以外の港も含め港一般に拡張した。適用対象となる港およびその区域は政令(港則法施行令)によって定められることとされており,1997年現在その数は500余港となっている。
■開港港則中改正
明治31年勅令139号として開港港則が制定されました。本則は開港(海外との貿易が可能とされた港)における船舶交通と衞生上の安全を図ることを目的としていました。また、開港の指定が同則の第1条でなさえていたことから、開港の指定は、同則の改定として実施されました。
第842話 毎年7月7日は「川の日」
毎年7月7日は「川の日」です。
国土交通省「川の日」
私も横浜に関係するブログを3年書く中で、<川>の重要性に気が付きました。
横浜にとって<川>は欠かせません。
特に横浜は<結晶>が作られていくように、1859年に誕生した<開港場>を核とし、川を軸に大きくなった街です。
(ダブルリバー)
横浜は<大岡川>と<帷子川>よって基盤が出来上がりました。
【横浜の視点】ダブルリバー
さらに市域拡大の過程で鶴見川と多摩川の存在も横浜市の形成に欠かせません。現在相模川(寒川)から横浜に欠かせない水も運んでいます。
川から見た横浜形成史を考えてみるのは大変面白いテーマです。
開港場を包みこむ<大岡川>も横浜駅を回り込む<帷子川>もダブルリバーです。

都市、そして港に川は必要ですが<治水>も必要でした。大岡川河口域に形成された開港場最初の治水工事が<堀川工事>です。堀川は開港場の出島化という役割もありましたが、一方で吉田新田によってできた中村川の分水路の役割も担っていました。
明治に入り、<堀割川工事>が始まります。
「水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため」だけではなく“大岡川の分流”も必要となっていたからではないでしょうか。
吉田新田を<田畑>から居住地にしていくにはしっかりとした治水工事が必要になります。掘割川と吉田新田のなかに整備された<運河>により横浜の関内外が発展できますが 治水の悩みはその後も長く続きました。
ただ、上流では利水源として活用されていた<水>が都市化によって水はストレートに川へ注ぎ込み邪魔になってきます。
終戦直後、62万人だった人口が7年(1952年)で100万人、1968年には200万人を突破、谷戸の多い横浜で宅地は河川域から丘陵地に拡大していきます。
そこで抜本的な治水工事が求められ、
「大岡川分水路」計画が立てられました。
関内外の治水に莫大な予算とエネルギーがかかっていることを少なくとも<下流域>の人々は知っておく必要があるでしょう。
<横浜の水系>
横浜は4つの大きな水系によって形成されています。
■鶴見川
(入江川・滝ノ川)
■帷子川
■大岡川
■柏尾川・和泉川(境川水系)
(侍従川・宮川)
それぞれに個性豊かな川です。川と人が分離してしまいました。距離は益々開いています。小さな川は<蓋>をして暗渠化して見えなくなっています。
今日、川の日 近くにある<ドブ川?>のふるさととこの先の<河口域>そして海に関心を持つ一日にしてみてはいかがでしょうか?
No.701 運河の街誕生(序章)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6364
No.700 【横浜の河川】川いろはのイ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6336
No.435 【横浜の河川】大岡川物語(1)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=136
No.192 7月10日(火)【横浜の河川】もう一つの大岡川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=415
(絵葉書に見る昔の川の風景)
戦前の横浜市内の川の風景
(過去の7月7日ブログ)
No.189 7月7日(日) ぼくは日本人を信じます
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=418
歴代43人目の内閣総理大臣「大平正芳」は、
1937年(昭和12年)7月1日(木)横浜税務署長の辞令を受け、
7月7日(水)横浜市に赴任しました。
第841話 田中光荘死す!
1926年(大正15年)7月6日
「田中光荘が没した。(62歳)横浜新聞販売界に20余年尽力した(横浜歴史年表)」
今日はこの記事から、横浜・新聞というキーワードを追いかけてみます。
残念ながら「田中光荘」なる人物の資料は見つからずこの記事に関してはコメントできません。
新聞と横浜について少し紹介します。
横浜では明治初期、日本で最初の日本語による日刊新聞が発刊されました。
遡ること開港直後から居留地の外国人によって様々な<ニュース>が発行されるようになります。手書きの新聞から始まり、木版による新聞となりますが、発行時期の特定は不明のようです。
初期の内容は居留地の貿易関係者が顧客に対して情報を送るという形で発行されました。「サーキュラー(商館新聞)」「トレード・サーキュラー」
その後、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が1861年(文久元年)英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊した記録が残っているそうです。その後、岸田吟香の協力を受けて「海外新聞」という定期刊を発行しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/浜田彦蔵
国内の各藩が手書きで情報をまとめたものを<新聞>とするかどうかは議論の分かれるところです。また江戸時代には日本が誇る<瓦版>もすでに存在していましたから、開港後“欧風伝聞紙”newspaperを新聞紙としたあたりからが「新聞」というようです。
まず最初に印刷物として新聞を発行したのは外国人でした。
日本で最初の日刊新聞となった「デイリー・ジャパン・ヘラルド」の他「エクスプレス」「ジャパン・タイムス」「ジャパン・ガゼット」「ジャパン・メイル」などが発刊されました。
幕末慶応年間に日本語の新聞らしき発行物が発行されるようになります。前述のジョセフ・ヒコによる「海外新聞(慶応元年)」『萬国新聞(慶応3年」「横浜新報もしほ草(慶応4年)」そして明治に入り
1871年1月28日(明治3年12月8日)
横浜活版舎、「横浜毎日新聞」を発刊に至ります。この「横浜毎日新聞」に関わった人脈だけで“横浜のドラマ”となるようなキーマン達が関わっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜毎日新聞
神奈川県令(県知事)・井関盛艮
印刷業者の本木昌造・陽其二
初代主筆を務めた妻木頼矩
島田三郎
仮名垣魯文
沼間守一
石橋湛山
(横浜新報もしほ草)
『横浜新報もしほ草』は米国人ヴァン・リード(Eugene M. Van Reed)と日本人岸田吟香(ぎんこう)により慶応四年(1868年)に横浜の外国人居留地で発行された定期刊行物です。毎号六枚で構成され、表紙には黄色の和紙が使用され記事のほとんどを岸田吟香が執筆しましたが、<岸田>は外国人発行の影に隠れ名前は記載されていません。
おそらく、居留地の<治外法権>を利用し、当時厳しかった言論統制をかわしたものと思われます。かなり人気メディアとなり第四十二篇まで発行されました。
神奈川大学のアーカイブで内容を画像で閲覧できます。(モノクロです)
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/4462
そして新聞に関しては関内日本大通際に「日本新聞博物館」(2000年10月オープン)があることも忘れてはいけません。
※外観写真省略します。
http://newspark.jp/newspark/
実は 日本最初の「新聞博物館」は熊本にあります。
熊本市 中央区世安町172
http://kumanichi.com/museum/
(長ズボン)
新聞博物館のある「横浜情報文化センター」の裏手?に
新聞少年の像が建っていることをご存知ですか?
地味な像ですので見逃してしまいそうですが、この「新聞少年像」は<路上観察学>的(個人的?)に関心があります。
それは何かといいますと 長ズボンなんです。全国にある新聞少年の像の多くが<半ズボン>なのに対して 横浜は長ズボンです。“おそらく”全国に2箇所しか無い?(徹底して調べていません)貴重な像ではないでしょうか。
と大げさすぎますが、ブログに取り上げました。
個人的には長ズボンの経緯も調べてみたいテーマです。
No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=456
(神奈川新聞)
最後に、地元の新聞も応援しましょう。最近話題となった沖縄から北海道まで全国ほぼ都道府県におおよそ一紙ローカル新聞が発行されています。
http://www.kanaloco.jp
(過去の7月6日ブログ)
No.188 7月6日(金) 深夜のコンテンツチャレンジ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=419
2008年(平成20年)7月6日(日)の今日、
「独立U局」の一つテレビ神奈川の深夜23:30〜24:00枠で
新しい角度の番組に挑戦しました。
第840話 7月5日引越し好き
今日のテーマは<引っ越し>
他の街の歴史は良く判りませんが、
横浜の歴史を眺めると施設の移転(引越し)がめだちます。
1974年(昭和49年)7月5日の今日
JR根岸線関内駅前の大通り公園に面した好立地に「教育文化センター」が開館します。略して<教文センター>ここに横浜市民ギャラリーが<移転>してきました。
(横浜市民ギャラリー)移転史
1964年(昭和39年)桜木町駅近くにオープンし
1974年(昭和49年)の今日新築の「教育文化センター」内にオープン。
2013年(平成25年)に「教育文化センター」解体のため閉館し
2014年(平成26年)10月10日に西区宮崎町に移転オープン。
このように様々な事情で移転した施設を記憶の範囲で羅列してみます。
■横浜市役所移転史
[本町1丁目(横浜電信分局)]→[港町(魚市場跡地)]→[桜木町一丁目(中央職業紹介所)]→[港町]→[老松町(老松国民学校)]→[反町(日本貿易博覧会神奈川会場)]→[港町]→[北仲へ]
No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=348
※市役所は全国でもトップクラスの引越し回数ではないでしょうか?
■横浜税関移転史
(象の鼻パークあたりから現在の場所に移転します)
■中区役所移転史
[港町]→[桜木町]→[住吉町]→[日本大通]
※中区役所も三回引越ししています。
■南区役所移転史
※記憶の範囲
[南太田一丁目]→[花之木町三丁目]→[浦舟町2丁目へ]
■神奈川新聞社
※記憶の範囲
[太田町2丁目]→[花咲町6丁目]→[太田町2丁目]
◎港南区役所の移転計画
駅前区役所として区民には便利な港南区役所が港南区港南四丁目(すぐ近く)に移転します。これは数百メートルの移動という感じですね。計画が遅れているようです。
移転新築工事の杭工事の再施工に伴い、完成時期が約1年遅れ平成29年3月になる見込み。
◎神奈川県立図書館の移転計画が検討されています。
◎戸塚区役所が駅前に移転しました。
◎磯子区役所も浜マーケット近くの磯子1丁目から磯子3丁目に移転
◎警察署(記憶の範囲)
・山手警察
※正確な町名は判りませんが 山手町→本牧町→戦中に移転を繰り返し→小港町
・南警察署
※南警察署は名称も変わりました。
1921年(大正10年)寿警察署(南区吉野町5丁目)久良岐郡警察署から改称
1983年(昭和58年)南区大岡二丁目に新築移転
・伊勢佐木警察署
明治10年 長者町(長者町署)
明治15年 境町(横浜署)
明治17年 伊勢佐木町25番地(吉田橋際)伊勢佐木署
大正12年 震災のため久保山派出所→太田尋常小学校→初音町に移転
大正13年 長者町5丁目(本願寺)
昭和2年 新庁舎
ここまで振り返ってみると 震災と戦争・接収が横浜にとって大きなダメージになっていることが改めて認識しました。
忘れていました、横浜駅も現在三回目の移転です。
(過去の7月5日)
No.187 7月5日(木) 目で見る運河
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=420
1904年(明治37年)7月5日(火)の今日、
大岡川の吉浜橋と花園橋が遊泳禁止で話題となりました。
第839話 1863年7月4日の日記
7月4日を貴重な「関口日記」から歴史を紐解いてみます。 この日は、
日本の旧暦では1863年7月4日は<文久3年5月18日>です。
当時の商人の暮らしと気象記録としても貴重な「関口日記」には文久3年の5月は晴天が続く生活誌が記録されています。
旧暦5月3日から5日には節句の柏餅を楽しむ様子が記録されています。
『関口日記』は、(現在の鶴見区にある)生麦村に暮らしていた関口家の歴代当主が18世紀後半から20世紀初頭までの約140年間ほとんど休むこと無く書き続けた日記です。日記の中には時折大事件に遭遇した様子も記録されています。
生麦といえば文久2年8月21日(1862年9月14日)に起こった「生麦事件」ですね。 日記では事件のあったその日に記録が記されていますが、淡々と事実のみ記述されているだけです。
当時、東海道筋にあたった生麦は<西の大名>の通り道でもあり、時折通過する大名や藩の幹部のための支度の様子も記録されています。
一方
西暦の7月4日はアメリカにとって重要な日です。
<7月4日=インディペンデンスデイ>
1776年7月4日にアメリカ合衆国が独立しその後のアメリカ史ではインディペンデンスデイとして重要な役割を担っています。
横濱でも開港以来、この日7月4日には米国主催の花火大会が行われたり、パレード、港湾内で礼砲がなるなど様々な催しが行われてきました。
米国国内では、例えば1863年7月4日の今日
<35スターフラッグ>合衆国の州が35になった日です。 この1863年はアメリカ最大の内乱「南北戦争」のまっただ中で、ヴィックスバーグの戦い(5月18日〜7月4日)があり北軍が勝利してミシシッピ川の支配権を確保。この戦いで優勢だった南軍の敗色が濃くなる天下分け目となりました。この時の北軍のリーダーがグラント将軍で後に大統領となり、退職後日本を訪れます。
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=357
No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=356
また、日本と開港の交渉を行った際、アメリカは7月4日を開港日に指定しました。(英国の猛烈な反対で7月1日に落ち着きます)
※南北戦争
アメリカが農業立国から工業立国への転換期に起こった内乱で、当時農業経済の労働基盤であった<奴隷制度>を維持したい南部と、工業経済が急速に進展していた北部の利害衝突が戦争の大きな要因となりました。
1861年4月12日に(サムター要塞の戦い)で開戦、軍事力では指揮官クラスが南軍に多く属していたため南軍が最初は優位でしたが、前述のヴィックスバーグの戦いを境にミシシッピ川の支配権を確保したことで南軍の敗色が濃くなり1865年4月3日に南部の首都リッチモンドが陥落。9日には南軍リー将軍が降伏し、南北戦争は事実上終了します。
日本に開港を迫り外交交渉で一歩イニシアチブを取っていたアメリカは南北戦争で事実上日本の幕末外交から姿を消します。
そこに英国と薩摩の「生麦事件」の処理で幕府は混迷を深めます。二度の「下関戦争」も起こり、諸外国と一発触発の国際情勢となっていきます。
1863年7月3日(文久3年5月18日)には幕府が、過去に宣言した「開港場閉鎖と外国人追放」を文書にて撤回せざるを得ない状況となり、開港場の警備体制を英国とフランスに委譲するという事態になります。
その頃中国でも同治2年5月19日(1863年7月4日)李鴻章は「私が大金を惜しまず、一,二名の西洋人を雇った理由は、我が軍隊の混沌状態を一新することにある」(『李鴻章全集』第29巻)
と西洋技術を取り入れること(洋務運動)を決断します。
この頃、文久3年5月12日(1863年6月27日)
長州五傑がジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)で横浜を密出港し英国に渡ります。
No.444 “Choshu five”NOMURAN,Yokohama
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=119
文久3年7月2日(1863年8月15日)〜7月4日(8月17日)には「薩英戦争」で薩摩が大敗しますが、切り替えも早く1865年に「遣英使節団」を独自に渡英させるなど、時代が激しく動き始めます。
文久3年5月18日癸亥晴天
横浜は関口日記によると薄晴の一日で
「今朝子安村之者雨乞ニ参リ候由当節照続田畑作物痛候ニ付十ケ村組合に而小田原道了大権現へ参ル子安ニ而行」
日照りが続き小田原大雄山最乗寺にお参りに行くことなどが記録されています。
No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=373
(過去の7月4日ブログ)
No.186 7月4日(水) 一衣帯水の地 上海
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=421
2010年6月28日(月)から7月4日(月)までの1週間を「横浜ウィーク」と題し、
上海市内において、横浜シティプロモーション、横浜ブランドの市場開拓、観光客・中国企業の誘致を目的とするイベントを集中的に開催しました。
第838話 1989年(平成元年)7月3日ミッドナイトアロー号
1990年代の初め、JR新宿駅南口脇にあったバスターミナルから「深夜急行バス」を良く利用したことがあります。最近は、めちゃくちゃわかりにくかった様々な長距離・深夜バスがほぼまとまりました。
「バスタ新宿」
http://shinjuku-busterminal.co.jp
私の利用した「深夜急行バス」は東京駅から新宿経由で湘南に向かう系統で、運行会社は小田急か神奈中か記憶は曖昧です。
当時、新宿発の深夜急行バスにはかなり制限があり横浜駅近くに停車する路線がありませんでした。新宿を出発すると最初の停車が横浜新道の保土ケ谷区今井町で、唯一自宅に近く(新道上の)「今井町」バス停から一般道に降り、そこからタクシーを拾わなければ自宅には辿りつけませんが重宝しました。
この「深夜急行バス」は
1990年代初めから徐々に拡大した新しいサービスで、
“70年代”から始まった「深夜バス」とは異なります。
「深夜バス」は首都圏の郊外に大型団地が急増した60年代、通常の路線バス運行ルートを使って終電に近い時間帯で運行が求められた結果始まったサービスです。
当時の運輸省も検討に入りますが、1970年に神奈川中央交通が独自の判断で日本最初の「深夜バス」を町田で運行します。この年の暮れに運輸省から深夜枠の路線バス運行に関してガイドラインが出され、1971年から一気に深夜時刻の「深夜バス」運行が全国に拡大します。
これに対して、
1989年(平成元年)7月3日の今日、
終電後の交通手段としてターミナル駅から自社の営業路線まで新たにバス路線を開く「深夜急行バス」<ミッドナイトアロー号>が日本で初めて運行されました。
運行会社は東急バス、運行区間は「渋谷〜青葉台間」です。この路線は現在も運行されています。


深夜運行なので正確には<7月4日>未明ということになりますが、運行上の日付は7月3日出発となるそうです。
前述の通り、初期の運行はかなりルート設定に制限があったようで、新宿駅から横浜駅ルートはありませんでした。しかも途中のバス停設定も自社の路線が運行されているエリアに限られました。
※この原則は現在も変わっていないようです。
この<ミッドナイトアロー号>を皮切りに、全国で終電後の都心部と郊外、そしてターミナルとターミナルを結ぶ「深夜急行バス」が多く運行されるようになりました。
(過去ブログ7月3日)
No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=422
1877年(明治10年)7月3日の今日、
神奈川県は居留地の各国領事に対し6月30日付けで横浜外国人居留地取締役(居留地警察のトップ)Edward.S.bensonを解傭(雇用解除)した旨を居留地各国領事に通知しました。