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【歴史エピソード】電話交換史
今日は横浜風景の歴史、過去と現在の風景から横浜を読み解きます。
●1890年(明治23年)12月16日
横浜と東京間にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。
2014 【ミニネタ番外編】横浜電信柱 探索
ここでは電柱のミニネタを紹介しました。
今日はその後の“電話交換”ネタを発見しましたので紹介します。

明治早々に電話が導入され、普及していきます。
導入に積極的だった人物は
寺島宗則です。
初期は交換手による回線交換でした。
電話を使うには、2つの電話機の間で通信回線がつながっている必要があります。
まず 各電話機から電話局と接続します。
この時に昔の映像にあるように手元のミニハンドルを回し簡易発電を行い交換台まで“使用信号”を送る磁石式が使われていました。
交換台がその信号を受けると口頭で相手の電話番号を告げて、人手で接続してもらう方式です。
交換手に依頼するタイプなので初期の電話機にはダイヤルがありませんでした。1890年代はこの方式が主流だったそうです。ところが、関東大震災で人による交換機能が全面ストップし、電話線は無事でも繋がらない事態が生じました。そこで
1926年(大正15年)復旧をきっかけに自動電話交換機が採用されることになります。
国内で初めて導入された自動交換機に採用されたのが「ステップ・バイ・ステップ」という方式です。仕組みに関しては各自調べてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/電話交換機
その後、順次自動化されていきますが、
当初は自動交換は市内電話に限られていました。それでも
市外電話にまで採用されるようになったのは戦後かなりたってからです。
自動交換機の導入にあたり
技術面の統一を重視する一方式案と
競争原理による経済性を重視する複数方式案が検討されます。
結果、
英国ATM社製のストロージャ式(A形)と
ドイツのジーメンスハルスケ式(H形)の2方式が導入されます。
英国ATM社製のストロージャ式(A形)は、
1926年(大正15年)1月20日
東京の京橋電話局に導入します。
一方
ドイツのジーメンスハルスケ式(H形)は、
1926年(大正15年)3月25日
横浜中央電話局(長者町局)に導入されます。
<昭和初期の長者町電話局>
<現在の長者町NTT>
ジーメンスハルスケ式は1934年(昭和9年)から国産化ができるようになります。
正式にH形交換機と呼ばれ自動交換用の電話機普及につながります。
※自動電話は、加入者が交換手に頼らず通話することになるため
その講習会がデパートや学校で開催されたそうです。
戦後、「ステップ・バイ・ステップ方式」はメンテが楽な「クロスバ方式」に代わり、市内から遠距離通話も自動化が導入されていきます。
ここに一枚の大正15年4月に出されたはがきがあります。
文面には
「横浜も去る三月二十五日から自働電話になり大変便利になりました。東京も二三局だけ自働式になったようでこれはその機械の内部の写真です」(独学読みなのでてにをは?)
絵柄には
ジーメン ハルスケ式
自働式電話交換機室
自働式電話開通記念 横浜中央電話局
とあります。
「絵葉書が語る」震災復興期の横浜です。
(通算648話)横浜火災海上保険を創った男
(プロローグ)
日本は世界の船舶保険において一位二位を競う“保険大国”です。この保険制度は十字軍遠征時代の冒険貸借から始まった金銭消費貸借制度に原点があります。その後、海洋貿易の契約制度の試行錯誤を繰り返しながら、近代保険制度が確立していきます。
日本では江戸末期に福沢諭吉※により、西欧における保険知識が紹介され、その後、明治初頭から海上保険の研究が行われ「海上請負」と呼ばれる荷主への貨物補償制度の試みが行われるようになりました。
※『西洋旅案内』
実は制度としては朱印船貿易時代にすでに「抛金」(なげかね)という海上保険制度が行われていました。これは前述の「冒険貸借」とほぼ同じ考えしくみの金銭消費貸借制度でした。
明治に入り最初の海上保険会社が1879年(明治12年)に設立されます。「東京海上保険会社」(現在の東京日動)です。
その後大小様々な海上保険会社が創業しますが、合従連衡を繰り返しながら現在につながってます。
1881年(明治14年) 明治生命保険会社(生保関連の草分け)。
1893年(明治26年)に住友海上火災保険(株)・日本海上保険(株)
1918年(大正7年)に大正海上火災保険(株)→三井海上火災保険(株)
1919年(大正8年)に三菱海上火災が設立。
1897年(明治30年)に横浜でも海上保険会社が設立されます。
横浜火災海上保険です。
後の戦時経済下に関西の保険会社と合併し同和火災海上保険となりますが、貿易港横浜を代表する海上保険会社として創業以来各地に支店を出し貿易の潤滑油の役割を担っています。
横浜火災海上保険を偲ぶ形としてとして現存するのが神戸にある毎日新聞ビルです。ここはかつて横浜火災海上保険 神戸支店(1925年竣工、設計:河合浩蔵)でした。
横浜火災海上保険(株)本店は、「横濱成功名誉鑑」(1910年 明治43年刊)によれば太田町3丁目50番地となっています。同和火災海上保険(株)『同和火災50年史. 資料集』によれば「横浜火災創業の地(現在の横浜市中区弁天通一丁目付近)」です。
微妙な違いについてはここでは精査しません。
この横浜火災海上保険の初代社長は富田鐵之助(とみた てつのすけ)、副社長で二代目社長となったのが土子金四郎(つちこ きんしろう)です。
話は横道に逸れます。社長となった富田鐵之助なる人物もかなり魅惑的な人物のようです。彼の簡単なエピソードを集めるだけでも たっぷり歴史の面白さを楽しむことができそうです。
富田鐵之助
Wikipediaでは
「富田 鐵之助(とみた てつのすけ、天保6年10月16日(1835年12月5日)〜大正5年(1916年)2月27日)は、幕末の仙台藩士・明治期の外交官・実業家。諱は実則。号は鉄畊。日本銀行初代副総裁・第2代総裁を務めるが、大蔵大臣松方正義と対立して罷免された。後に貴族院議員・東京府知事を歴任する。」
とありますが、ここに紹介した内容以外が富田を紹介する上で重要な側面だと思います。明治政府の経済政策の台所となる「日本銀行」の設立に深く関わり、初期の重要な金融政策に関わった冨田は総裁になって早々大蔵大臣松方正義に明治22年罷免されます。
以後在野で生きることになります。彼の生き方、日銀時代の数年以外(前後)が面白いのですが、あまり紹介されていないようです。横浜とも横浜火災海上保険以外で繋がっています。
<第一エピソード>
富田 鐵之助は日銀を首! になった二年後の1891年(明治24年)、東京府知事に就任します。
この時に彼が断行した「神奈川県」との大げんか!※ が『神奈川県に属していた「三多摩(南多摩郡・北多摩郡・西多摩郡)」を東京府に併合』したことです。これは東京と神奈川の水源戦争でもあり、東京(府)になっていなかったら、多摩川の上流域は神奈川県で、横浜の水源地も道志川・相模川水系に加え多摩川水系も横浜・川崎の水!ということになっていたらその後の都市発展は大きく変わってきたかもしれませんね。東京にとっては三多摩確保が生命線であったことは間違いありません。
<第二エピソード>
じゃあ 富田 鐵之助は神奈川の宿敵!か? というと一方で
(東京府知事就任以前ですが)日本の生糸産業が対米輸出に深く関われるよう尽力しています。この生糸紡績に関しては、知事辞任後 横浜に大いなる貢献をしています。
保土ケ谷、現在の天王町にあった大工場「富士紡績」の設立に関わっていました。
「富士紡績」は戦災で焼失するまで天王町一帯の基幹産業として、地域と深い関わりがありました。
No.434 帷子川物語(2)
(エピローグ)
へろへろとワンタンすするクリスマス
カチカチと義足の歩幅八・一五
ライターの火のポポポポと滝涸るる
オノマトペ(擬声語・擬態語など)の不死男といわれるほどリズム感のある俳句を残した秋元不死男は戦前戦後を通してアリズムを指向した俳人として活躍します。
大桟橋埠頭ビルに秋元不死男の句碑があります。目立たないので見逃している方も多いかもしれません。
「北欧の船腹垂るる冬鴎」
Whirl winter-seagulls yonder
While rests a huge Nordic liner
With her impending wall of hull,at anchor.
秋元不死男は、横浜市元町生まれで彼の作品活動で山手警察署に逮捕、半年後東京拘置所に移され二年間勾留された時代もありました。
俳人 秋元不死男、本名は秋元 不二雄。彼が職場として23年間勤めたのが、
横浜海上火災保険でした。1941年(昭和16年)、治安維持法違反の嫌疑で検挙され会社を辞職。戦後は俳句の世界に生き、1968年句集『万座』にて第2回蛇笏賞を受賞しました。
No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」
今日は、点と線を結ぶ“遊び”をします。
つなぐのは 足利尊氏と横浜ゴムとフェリスの秀才です。
この三つのキーワードにどのような関係があるか、
おわかりですか?
![]() |
近年足利尊氏像では無い説が有力 |
■歴史認識 日本史で足利尊氏ほど戦前と戦後で評価が変わった人物はいないでしょう。 時代は14世紀、第96代後醍醐天皇と対立して足利政権を樹立し、 史上最大の逆賊とも 史上屈指の有徳の英雄とも評されました。 現在の研究では尊氏の人間的側面や、人間関係の分析がかなり深く行われ新しい人物像が描き出されているようです。 (横浜と足利氏) 栃木県足利市は、尊氏の「足利家」に因んだ名前です。では“横浜”との関係は? 彼の簡単な伝記を読む限りではトピックスとなるような「横浜」との関係はありませんでした。ところが、 足利尊氏関連の日本史を調べている時、彼の時代=中世ではなく“近代史”で横浜が浮上してきました。 足利尊氏が“国賊”とされていた戦前に彼を再評価しようとした人物が横浜にいたのです。歴史で習う「南北朝」の歴史認識は明治時代に入り、「南朝正統・尊氏逆臣」という「皇国史観」に反する考えや研究、発言が抑圧されるようになります。 1934年(昭和9年)にいわゆる「足利尊氏論」が起こり当時の斎藤実内閣商工大臣だった「中島 久万吉」が辞任します。 ※中島久万吉が、13年前に(会員向け)同人誌に発表した論文「足利尊氏論」が月刊誌『現代』に採録されたことが、衆議院で取り上げられ紛糾します。 中島大臣の論文内容は、足利尊氏を賛美する内容でそれが国粋主義者たちを刺激します。 この中島久万吉、横浜を舞台に実業家として活躍した人物です。 彼は大手メーカー古河グループの中核となる 「古河電気工業」と「横浜ゴム」を創業し、昭和に入り政界入りします。 ■平沼育ち 横浜ゴム関係は幾つかこのブログでも紹介しています。 横浜ゴム株式会社は、横浜で誕生した「横濱電線製造」が成長し古河グループ(古河電工)の一員となります。このお膳立てをした実業家が中島 久万吉です。 電線とタイヤの原材料のゴムは“絶縁体”として密接な関係があります。古河電工は銅線を、横濱電線製造はその銅線に絶縁加工し「電線」を製造しました。 この横浜電線製造を起こした横浜の“発明王”が山田与七です。 山田は高島町に山田電線製造所を作り成功します。 中小起業から脱却するために横浜商人の木村利右衛門、原富太郎らの出資を得て横浜電線株式会社を作り 一回り大きい製造会社となります。この時に次世代電線製造に必要だったのがゴムでした。 「銅線」製造部門が古河鉱業(古河電工)になり、 「ゴム」製造部門が「横浜ゴム」となって 現在の日本の基幹産業となります。 No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王(加筆修正)
No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?
■浜流しになった父信行
この古河の立役者、中島 久万吉、1873年(明治6年)横浜に生まれます。
父は中島信行、母は陸奥宗光の妹“初穂”で、久万吉を生んだ後体調を崩し1877年(明治10年)に若くして亡くなります。
父の信行は土佐勤王党→長州藩の遊撃隊→坂本龍馬の海援隊→陸援隊に参加した幕末の強者の一人で大暴れし、明治になっても波乱の人生を送ります。
新島襄との出会いでクリスチャンとなり新政府の幹部として活躍しますが、自由民権運動に板垣退助とともに参加し、政府批判を強めます。
優秀だった中島はこの間、任官し外国官権判事や兵庫県判事、神奈川県令を務めますが、
戦前の大悪法の一つ「保安条例」によって
横浜に追放されます。
よこはまついほう?
現在の感覚では信じられませんが、自由民権運動を弾圧するためできた“にわか”法律です。秘密の集会・結社を禁じ内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の多くが
<東京ところ払い!>
皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられます。
尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民 そして中島信行と後妻となった中島湘煙夫婦も1887年(明治20年)12月に追放される<ハメ>になります。
島流し ならぬ ハマ流しになる始末が その後の中島の人生を大きく変えます。
■政治家への転身
中島 久万吉の父、信行は横浜に落ち着くとまもなく
1890年(明治23年)7月1日
第1回衆議院議員総選挙に神奈川県第5区から立候補して当選し
その後は 政治家として活躍し
最後は 療養中の神奈川県大磯別邸にて亡くなります。
長男の中島 久万吉は
自由民権の理想を最後まで貫いた父と
義母「中島湘烟」の影響を十二分に受け経済界と政界で活躍します。
■戦士、岸田俊子
岸田俊子(きしだとしこ)
明治の時代を駆け抜けた女権拡張運動家・作家です。
俊才「岸田俊子」後の中島湘烟
(ブログでも紹介しました)
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
1889年(明治22年)6月1日
25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。
ブログから 引用します。
(天才・神童の出現)
若松賎子の半年前(文久3年)に京都の呉服商の長女として生まれた「岸田俊子」は、小さい頃から神童と呼ばれた俊才でした。
1870年(明治3年)6歳で下京第15校に入学、
1875年(明治8年)中学に進みます。
1879年(明治12年)15歳で昭憲皇太后(当時34歳)に「孟子」などの漢書講義を担当する事となった訳ですからその「俊才」ぶりが伺われます。
いじめられのかどうかはっきりしませんが、名誉職を1年で辞退し“自由民権運動”に目覚めていきます。
1882年(明治15年)4月大阪道頓堀の政談演説会で最初の演説デビューとなった岸田俊子の「婦女の道」は、世間をあっと言わせます。
あでやかな容姿、弁舌口調は視聴者を魅了します。
全国各地で彼女の演説は人気を博しますが、時代は言論封殺、明治の暗黒時代に入ります。滋賀県大津の演説で官史侮辱罪で投獄され、方向転換を迫られ演説から寄稿による言論に変わっていきます。
この時期活動を共にしていた18歳年上の自由党副総裁中島信行と結婚(後妻)します。
若き日の中島信行は、坂本龍馬、睦奥宗光ら土佐藩士と共に討幕運動に参加した海援隊メンバーの一人で、死別した最初の妻は睦奥宗光の妹でした。
睦奥宗光、中島信行は共に神奈川県令を務め、中島は第一回の衆議院選挙で神奈川4区で当選した横浜ゆかりの人物でもありました。
※神奈川第1区は島田三郎
俊才中島湘烟(岸田俊子)はフェリスとの関わりを深くしていきます。
1888年(明治21年)5月にはフェリス和英女学校名誉教授
1893年(明治26年)9月にイタリア公使になった信行ともに結核を発病
1898年(明治31年)11月帰国し神奈川県大磯町に転居、夫婦ともに治療に専念します。
1899年(明治32年)3月26日信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日一年後追うように中島湘烟、肺結核のため28歳で逝去します。
■大磯に死す
ここに登場した中島信行 俊子(湘烟) は神奈川県中郡大磯町の大運寺に墓があります。
この大磯という街は不思議な街です。新島襄が療養中に無くなったように茅ヶ崎市と並んで“サナトリウム”当時不治の病に近かった結核療養施設が多かったことも関係がありますが、明治中期から昭和初期にかけて、要人の避暑・避寒地としても最高のロケーションだったようです。
吉田茂
伊藤博文
山形有朋
その他、西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎など
明治時代の幹部勢揃いといえそうな顔ぶれです。
最初の帝国議会が開かれた時
初代衆議院議長となった中島信行
初代貴族院議長となった伊藤博文
内閣総理大臣は山県有朋でした。
この三人が大磯に別荘を持っていました。
→大磯と横浜の歴史的関係
調べてみると面白い繋がりがありそうです。
※個人的には山県有朋に関心があり
彼の資料を調べていますが
一時期作られた イメージとはかなり異なる人間像が感じられます。
何かの折に 紹介しましょう。
「山県有朋」関連書籍リスト
山県有朋 明治日本の象徴
岡義武 岩波新書(絶版)
山県有朋
半藤 一利 筑摩書房
山県有朋 愚直な権力者の生涯
伊藤 之雄 文春新書
山県有朋と明治国家
井上 寿一 NHKブックス
【雑記録】鉄道技師モレル
(以下の記述はJR桜木町駅が改装される前のものです)
普段は全く気にも留めていなかったところで発見。
桜木町駅改札前のサインボード表示に
「エドモンドモレル記念碑」だって?
頻繁に利用している割に気がつかないものだ。
あのこと?
「エドモンドモレル記念碑」
これ自体はかなり有名なのでご存知の方も多いだろう。
改札前のサインボードにこの「エドモンドモレル記念碑」
という表記があったことに気がついたことから
改めて「エドモンドモレル記念碑」を探ってみた。
(少し調べてみた)
この記念碑
それにしても落ち着かないところに設置されている。コインロッカーのスペースに鎮座しているが、一昔前は通路だったのでここに「エドモンドモレル記念碑」は無かった。
一時期駅舎内に掲示され(保管されていた時期もある)この「記念碑」は、日本最初の駅舎(汐留と並んで)だったことの“なごり”なのだろうか。
![]() |
大昔のモレルレリーフ |
現在の碑にある説明版には
「1865年、英国土木学会員に選ばれる。1870年、鉄道敷設を計画していた日本政府は初代鉄道建築師長として雇用し、10数名の技術者とともに日本に招いた。
1872年を目標に新橋〜横浜間の鉄道事業はモレルの監督のもと着手されたが、日本の鉄道開通を見ずに1871年29歳で他界。イギリス人。
横濱開港150周年を記念して
東日本旅客鉄道株式会社 横浜支店 2009年6月」
とある。
No.164 6月12日(火) JR JR
元々の碑には十河信二氏によって銘が刻まれている。
十河信二(そごう しんじ)
第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁で
「新幹線の父」の名でご存知の方も多いだろう。関東大震災(1923年)の時、復興のために設立された帝都復興院に出向し“オオナタ”を揮う予定が疑獄の中失脚。満鉄に勤めるが1938年(昭和13年)に辞職し戦後しばらく鉄道から離れるが、1955年(昭和30年)5月14日に71歳の高齢で国鉄総裁に就任する。
当時、大きな鉄道事故が連続し加賀山之雄、長崎惣之助 両総裁が辞任。
立て直しのために4代総裁に就任した。
十河信二は戦前、標準軌にこだわった人物でもある。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/404.html
No.472 横浜と法政大学、その点と線
法政大学は横浜と関係があります。
今日は、1920年(大正9年)に設置された法政大学と横浜を点と線で結んでみることにしました。
法政大学は東京六大学の一つで、
1880年(明治13年)4月に開設された「東京法学社(のち東京法学校)」と
1886年(明治19年)開校の東京仏学校が前身となり1920年(大正9年)の大学令に基づき大学となりました。
私学としては日本で最初の「法学部」と「社会学部」を設置しました。特に法学に関しては「日本近代法の父」ボアソナードが初代教頭に就任しています。
この「法政大学」設立の源流に
“横浜”がつながりますが
その前に
法政大学校歌をお聞きください。
http://www.youtube.com/watch?v=LdBbAFaKnRE
法政の校歌は
作詞は佐藤春夫
作曲は近衛秀麿という当時としては
最強のタッグが組まれました。
創設間もない
1929(昭和4)年、法政の学生の間に
校歌作成委員会が結成されます。
当初は学生から応募を募り
作品73編のエントリーがありましたが
その中から何を選ぶか
なかなか意見の一致が得られませんでした。
最終的に当時法政大学で教鞭を執っていた
“佐藤春夫教授”に作詞を依頼し
作曲は“近衛秀麿”という最強タッグが組まれこの校歌が誕生しました。
校歌にしては珍しく
作詞者、作曲者の間で激しい論争、激論がかわされたそうです。
(1)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
見はるかす窓(の)富士が峰の雪
蛍集めむ門の外濠
よき師よき友つどひ結べり
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校
(2)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
われひと共にみとめたらずや
進取の気象質実の風
青年日本の代表者
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校
作曲者の“近衛秀麿”は少し横浜と関係があります。
No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。
横浜と関係が深いといえば、近衛秀麿より作詞の佐藤春夫です。
法政大学校歌の作詞を行った昭和4年当時
佐藤春夫は短期間ですが法政大学で教鞭を執っています。
1929年(昭和4年)に法政大学予科講師となり、作文を担当していました。
ちょうどこのタイミングに、校歌づくりが行われたことになります。
作家 詩人でもある佐藤春夫は 和歌山県新宮に生まれ育ちますが、
1910年(明治43年)に上京し与謝野寛の新詩社に入ります。
その後、若き日の一時期
1917年(大正6年)から数年を
神奈川県都筑郡中里村鉄(くろがね)
現在の横浜市青葉区鉄で過ごしました。
この“くろがね村生活”をベースに誕生したのが
短編「病める薔薇」短編集としてまとめた「田園の憂鬱」です。
当時は鉄道も無く
「広い武蔵野が南端になって尽きるところ」
「言わば山国からの微かな余剰を湛えた〜」
大山街道沿いの小さな集落でした。
ここには 現在 佐藤春夫「田園の憂鬱由縁の地」碑が建っています。
佐藤が暮らしていた当時「田園の憂鬱」に登場した近所の女学生のモデルとなった金子美代子さん(故人)が、戦後本人の同意を得て建てたものです。
現在は 往時の風景も殆ど無く、一部の丘陵地が残るのみです。
さあ、法政大学と横浜の関係“本編”に戻ります。
法政の前身学校となった「東京法学校」は、フランス法系学校として1880年(明治13年)4月に開設された東京法学社が出発点となっています。
この東京法学校の初代校長となった人物が薩埵正邦(さった まさくに)で後の法政大学創立者の中心人物です。
この東京法学校の姉妹校として
1886年(明治19年)5月横浜市の尾上町6丁目に設立されたのが
「横浜法律学校」です。
横浜代言人組合(後の横浜弁護士会)によって設立された「横浜法律学校」は、当時としては大変珍しく、この代言人(弁護士)による法律家育成組織の結成に重要な役割を果たしたのが先の薩埵正邦(さった まさくに)でした。
開校時から東京法学校の教員が多く講師陣に名を連ね、修業年限の3年を超えて修学を希望するものは東京法学校へ編入できる名実共に「姉妹校」といえる学校でした。
残念ながら
横浜法律学校は、1889年(明治22年)ごろに財政的な問題で廃校となってしまいますが設立から3年間に法律関係書籍の発行等を行い優秀な人材も育成しました。
例えば
江戸文化・風俗研究家「江戸学」の祖といわれた三田村 鳶魚(みたむら えんぎょ)は「横浜法律学校」に学びました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/三田村鳶魚
この「横浜法律学校」
尾上町6丁目に設立されましたが、
現在でいえば 指路教会の向かい側あたりでしょうか?
No.471 横浜・世田谷・彦根
私は特に“運命論者”ではありませんが、
巡り合わせの不思議さを感じることが時々あります。
今日はある偶然の一致を紹介しましょう。
2008年(平成20年)〜2010年(平成22年)
横浜開港150年関連の仕事で彦根市に何度か出向くことになりました。
![]() |
国宝 彦根城 |
![]() |
ゆるキャラ人気のひこにゃん |
それまで滋賀県長浜・大津は何度も訪れたことはありましたが、彦根は気になっていましたがスルーしていました。
私は、東京都世田谷区世田谷に生まれ育ちました。
中学で引っ越すまで世田谷区野毛町(これも因縁?)と世田谷区上町に育ちました。
一時期過ごした世田谷の自宅近くは「ボロ市」で有名な通りがあり、玉電が走る下町風情の住宅地です。当時の自宅近くに「豪徳寺」という大きな寺がありました。
この豪徳寺は「招き猫」で有名なところですが、
その所以となった彦根井伊家の菩提寺として有名です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/豪徳寺
寛永10年(1633年)近江彦根藩第2代藩主であった井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備したことから現在に至ります。
ここには、一部の彦根藩主の墓がありますが中でも第15代藩主だった井伊直弼の墓もあることで有名になりました。
![]() |
井伊直弼の墓 |
現在暮らす横浜の自宅近くには掃部山公園があります。
掃部山は難読地名に入るでしょう。
「かもんやま」と読みます。
名前の由来は、井伊直弼(いいなおすけ)の官職名から来ています。
江戸時代には 様々な役職(官位)があり大名は○○守・頭(〜のかみ)と名乗りました。テレビドラマで有名な大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)は、町奉行として徳川吉宗の「享保の改革」を支援した大名で、越前=福井とは全く関係がありません。
井伊家は代々掃部頭(かもんのかみ)を名乗ったため、近江彦根藩の第15代藩主だった井伊直弼も“井伊掃部頭直弼”と名乗ります。幕末の徳川幕府の大老となった井伊直弼の公園がなぜ横浜市西区にあるのでしょうか?
ここには明治期薩長藩閥政治と旧幕府との確執のシンボルとして<井伊直弼 顕彰>運動が関わってきます。→別途紹介します。
![]() |
彦根市に建つ井伊直弼像 |
小さい頃遊んだ豪徳寺、平成の自宅近くにある掃部山公園
ともに井伊直弼つながりですが 自宅を引っ越しするときの理由には全く入っていませんでした。というよりまったく忘れ去られていた存在といったほうが正確でしょうか。
さらに一時期暮らした「世田谷区野毛」
現在の自宅近くにも「横浜市中区野毛」があり 縁とは不思議なものです。
→もう少し加えれば 両親は福井県出身で茅ヶ崎に暮らしていますが、
この茅ヶ崎には「大岡越前守」の墓があるのです。
父も引っ越してから知ったそうです。
しつこく、因縁はまだあります。
私の自宅近くに「日ノ出町」という街があり、京浜急行の駅近くには幕末期「陣屋」がありました。開港に際し関内の居留地警備のために幕府の命令で一時期福井藩が警備にあたっていました。ただ、この警備にあたっては一悶着ありました。
幕府は、横浜に居留地を開くにあたり警備を越前松平藩に命じますが、
このときの藩主“松平春嶽”は、命令をやんわりと拒否します。
これに激怒したのが 時の大老“井伊直弼”ですから 因縁ですね。
このことも含めて“安政の大獄”で春嶽は失脚、その後(しぶしぶ)越前松平藩は横浜警備に就くことになり、そこにスタッフとして赴任したのが岡倉 覚右衛門
岡倉天心の父親です。
歴史は史実の点と線を編むのが面白いところですね。
No.382 1月16日(水)横浜と福井
【番外編】富士山の美しさを世界に紹介した英国人
江戸末期、全国の諸大名以下多くの人々が“横濱”の動向に関心を抱いていました。幕府の手によって翻訳新聞・筆写新聞が制作され、また伝聞を記録に残し“国元”に伝えられました。
日本の近代ジャーナリズムの幕開けに大きな影響を及ぼします。
(この辺は 現在「メディア拠点横浜の興亡」としてまとめています)
この横浜発の外国情報は、多くの人々によって写本が作られ
「横濱新聞」「異国関係資料」として全国の要人に伝えられました。
この写しの中に幕末の外国人富士山登山の報告記録がありましたので【番外編】で紹介しましょう。
古文書初心者なので正確な訳はできませんが
英人冨士登山と題し 浅間神社の大宮司冨士亦八郎が
万延元(年)庚申8月2日に寺社奉行の松平伯耆の守に届け出た英国人の富士登山の行程についての書面の写しです。
これは
日本発の富士登山を行ったオールコック一行についての記事です。
No.158 6月6日(水) 休暇をとって日本支援!
簡単に紹介しましょう。
(富士登山)
船旅で相模湾に入る頃、多くの人が富士山の絶景に遭遇します。さらに東京(江戸)湾に入り、横浜港に向け舵を切ると 天候の良い日には真正面に富士山を眺めることができます。登山が日常のレジャーだった欧米人にとって
「富士山」はぜひ登ってみたい“そこにある山”でした。
ドイツ人旅行家ケンペルも富士山に登りたかったのですが、信仰の場でもある富士山には幕府の許可が下りませんでした。
開国後も幕府は外国人の居住は認めましたが、日本国内旅行の自由に関することに関しては、明治初期まで認めていませんでした。
オールコックは、外交官特権として特別に旅行の自由を持っている存在だとして、幕府に富士登山を認めるよう要求を続けます。
ようやく
オールコックは、富士登山計画に反対していた幕府を説き伏せ、
万延元年7月(1860年9月)富士山へ向けて出発することになります。
旅には、オールコックを初めとする英国公使館職員ら8名のイギリス人に加え、幕府から派遣された“外国奉行役人や荷物を運ぶ人馬”が100名近く随行するというものものしいものでした。
そのため、オールコックが当初希望した静かな旅とは逆に
大行列となってしまいます。
当初オールコックの目的は、富士山に登ってみたいという英国人(エリート)の“登山願望”に加え、日英修好通商条約(1857年締結)にある内地旅行権の確認や江戸を離れた地方を視察するという政治的目的もあったようです。
オールコック一行は東海道を通り、小田原から、箱根の山中を抜け、吉原宿で台風をやり過ごした後、静岡県三島市大宮町を経て村山の興法寺に入ります。
箱根越えの際
「スイスを旅行した者には、オーベルラントのある部分、特にローテルブリュンネンへの下り坂を思い出させる個所が多かった。マツの木がいっぱい生えている高い山やみずみずしい緑色の渓谷とか屈折しながら下の野原に流れてゆく渓流などがよく似ている。だがそれは、主要な特徴の面ではあまり雄大ではない。ここには永久的な氷河や雪のマントをかぶったむき出しの岩や高峰はない。」
日本に辛口のオールコックにしては少し褒め言葉が見られます。
翌朝、村山を出発し「中宮八幡堂」まで馬を利用しここからは荷物を預け、金剛杖を手に徒歩での登山に切り替えます。
その日は六合目(現在の七合目)まで登り、翌日無事頂上に到達します。山頂では事前に準備していた測量機器で標高・気圧など測量し、英国旗を掲げシャンパンで乾杯し登頂を祝ったそうです。
その後、「一ノ木戸」(標高2,160m付近)まで一気に下山し、
同所に一泊した後に村山を経て大宮町に戻ります。
一行が通過する東海道筋では、オールコックの富士登山が大変注目を集め、見物制止命令が出されるほどでした。
日本で最初に富士山登頂を実現し彼の記録から外国に富士山の存在が多く知られることにまります。
最初の登山者は英国公使オールコックですが、
アメリカ公使ハリスの通訳だったアムステルダム生まれのオランダ人ヒュースケン(1832年〜61年)もいち早く日記の中で富士山の美しさを記録しています。
残念ながらヒュースケンは、攘夷派の浪士に襲撃され命を落としてしまいます。
横浜年表ピックアップ【10月26日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1878年(明治11年)の今日
「北方の射的場で外国人の競走会開催。」
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない
「北方の射的場」で「競争会」が開催されたことがポイントです。
●1887年(明治20年)の今日
「自転車入荷の広告が出される。」
No.369 1月3日(木)自転車乗ってますか?
●1938年(昭和13年)
「本市社会事業家渡辺たま子(81)が逝去した。
渡辺福三郎夫人で、横浜孤児院、女子商業学校を設立した。また婦人運動に活躍した」
※渡辺福三郎は渡辺治右衛門(銀行家・東京の大地主)の弟、横浜第一の地主。
※1900年(明治33年)南太田の庚耕地に横浜孤児院を創設
●1939年(昭和14年)の今日
「市では東京開港問題にたいし、本格的な反対運動をおこすことに決定した」
No.347 12月12日(水)横浜自立の原点
※港都横浜と帝都東京の都市間競争!
今私が最も関心のあるテーマです。
●1948年(昭和23年)の今日
第1回横浜市営戸塚競馬開催(〜11/2)。
No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史
横浜年表ピックアップ【10月25日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1878年(明治11年)の今日
「内務省所管の横浜製鉄所が海軍省所管となり横須賀海軍造船所に付属された」
「横浜製鉄所」に関していろいろ紹介しています。この横浜製鉄所は、
もう少し追っかけたいテーマです。明治初期の横浜を語る良い材料です。
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)
No.187 7月5日(木) 目で見る運河
●1898年(明治31年)の今日
岸田吟香(65歳)
「横浜に行き、羽衣座で開かれた横浜売薬業者による売薬増税不可の政談演説会で、客員として「貢病論」を演説する。」
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)
●1906年(明治39年)の今日
神戸で横浜のアマチュア倶楽部野球団 対 神戸クリケット倶楽部の第1回クリケット試合開催し横浜が勝利しました。
●1916年(大正5年)の今日
天皇が恒例観艦式のため、横浜に行幸。
●1916年(大正5年)の今日
本町横浜商業会議所跡を会館として借受け横浜YWCAが創立された
YMCAではありません。
横浜YWCAは1913年(大正2年)に誕生しました。
http://yokohama-ywca.jp
●1924年(大正13年)の今日
石井柏亭(42歳)横浜に行き、
関東学院で開かれた教員美術講習会で、「美術の本領」を講演する。
※石井 柏亭(いしい はくてい)
日本の版画家、洋画家、美術評論家。
1897年(明治30年)浅井忠に入門し、油絵を学び、
1900年(明治33年)に結城素明らが自然主義を標榜して結成した
「无声会」に参加し新日本画運動を推進しました。
●1925年(大正14年)の今日
日本基督指路教会の新会堂献堂式が行われた
※正式名称「日本基督教団横浜指路教会」
1874年、ジェームス・カーティス・ヘボンにより、ヘンリー・ルーミスを初代牧師として関内居留地に設立されました。
「指路」とは旧約聖書にある地名・人名のシロ(Shiloh)に由来、
またヘボンの出身教会名でもあります。
ノートル・ダム大聖堂に似たフランス初期ゴシック風教会堂で
横浜市認定歴史的建造物。
●1935年(昭和年)の今日
「婦人矯風会の久布自落実(くぶしろおちみ)
米国の売春事情、廃娼後の施設などの調査・研究を終え、
横浜港に帰国。」
※主に廃娼運動を行い
市川房枝らとともに婦人参政権運動にも参画しました。
●1972年(昭和47年)の今日
「交通局本局が、中区港町1丁目1番地の関内中央ビルに移転」
●1986年(昭和61年)の今日
「金沢自然公園にコアラ到着」
横浜年表ピックアップ【10月24日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1876年(明治9年)の今日
「外国人の競馬開催(11/1〜3)についての交通規制の広告が出される。」
どんな広告規制だったのか 見てみたいですね。当然、自動車規制ではありませんから、人?馬車?あたりだったのでしょう。
※記録では1860年(万延元年7月16日)9月1日に現在の元町ストリートあたりで競馬が行われた記録があります。
1876年(明治9年)は、横浜の乗馬クラブで内紛があり、団体が分裂した年ですから、開催側も少しナーバスになっていたのかもしれません。
●1916年(大正5年)の今日
「独亜銀行(Deutsch-Asiatische Bank)」横浜支店の営業が一部解除されます。
独亜銀行はドイツのアジア進出のために中国、上海に本店が創設された金融機関で、第一次世界大戦中連行国側であった日本はドイツ・オーストリアを中心とした同盟国側に対し経済制裁行いその一環として銀行業務の停止命令を出した後の緩和策の一つです。
●1922年(大正11年)の今日
石原純(41歳)横浜に行き、
県立第一中学校(現希望ケ丘高校)で開かれた、
五日会主催の相対性原理講話会で講演する。
アルベルト・アインシュタインが光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によってノーベル物理学賞を受賞したのが1921年(大正10年)
受賞によって世界にその名がとどろきました。
多くの物理学者が、彼の理論を理解しようと論文を読みあさった時代です。
※石原 純(いしわら あつし)は、アインシュタインらのもとで学んだ理論物理学者であると同時に『アララギ』の発刊に参加した歌人でもありました。
しかし、「アララギ」を揺るがす恋愛問題で脱会しますが、
“愛”を貫き通します。
戦争が終わった直後、自動車事故で重傷となりその後亡くなります。
自由な時代の到来直前の死でした。
●1982年(昭和57年)の今日
堀割川・中村川・大岡川でカヌーフェスティバル開催。
現在は、新しい水辺をたのしみながら考える「水辺荘」が様々な横浜の水辺へいざなうプログラムを提供しています。
http://mizube.so