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【番外編】鬼が爆笑する話

来年2013年(平成25年)の「暦で綴る今日の横浜」は、そのままタイトルは活かしつつ「横浜市内の全線全駅」をテーマに綴っていくことにします。
→の予定でしたが 方針転換 もうすこしゆるゆるのテーマで進行中です。
横浜市内にはざっと数えたところ8社17路線、168の駅があります。ただ、この中には駅舎を共同(一帯)使用しているものも多くありますので、駅舎数でいくとまた少し減ります。単純に駅名数としては135あります。


例えば、弘明寺駅(京急と市営地下鉄)は同駅名で駅舎が一番離れています。案内に注意する必要があります。


「地下鉄弘明寺」と後発の市営地下鉄が命名するべきだったのかもしれません。いまさら「京急弘明寺駅」には歴史的にもありえないでしょう。

現在の駅周辺と、駅に因んだ歴史、エピソードを手繰りながら進めていきます。
さらに合間をぬって、昔から気になる商店街もそぞろ歩きしてみようかなと思ったら、現在横浜市内には340近い「商店街」があるんですね。
こればっかりは“全踏破”にはかなりの時間がかかりそうなので、暇を見てチャレンジとしますが、商店街の中から気になるところを紹介していくことにします。
また番外編では、
【Encyclopaedia Yokohamania】的な感じで
Yokohama Contentsを紹介していきます。
ちょっと気張り過ぎですが 無理せず紹介していく予定ですのでご支援のほどお願いいたします。

No.309 11月4日(日)名実共に記念館

2012年も2013年も
スポーツの秋といわれる十月頃まで異様に暑く熱中症まで出そうな気候でした。
11月に入ると一気に冷え込み冬到来といった感じです。
インドアスポーツに欠かせない体育館が活躍する季節です。
1970年(昭和45年)11月4日(水)の今日、横浜市神奈川区三ツ沢に平沼記念体育館が開設されました。

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(横浜市平沼記念体育館)
横浜駅北西に広がる三ツ沢公園の一角にひときわ個性的な体育館があります。
15代・16代横浜市長を歴任し日本における市民スポーツの父と呼ばれた平沼亮三の業績を記念して建てられた「横浜市平沼記念体育館」です。
この体育館は、建築探訪としても面白い作品といえるでしょう。
設計は駒沢公園体育館やソニービル、東京芸術劇場など多数の作品を残した芦原義信です。横浜市内の作品も多くあります。(下記の一覧参照)
■スペック
所 在 地: 神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1
意匠設計: 芦原建築設計研究所
規  模: 地上5階/地下1階 延床面積3,210㎡
備  考: 竣工年 1970年
構造設計:織本匠構造設計研究所
延床面積:3,210㎡
施  工:紅梅組、三木組JV
・市営・相鉄バス西口バス乗り場6〜10 三ツ沢グランド前下車
・市営地下鉄線 三ツ沢上町駅下車 徒歩15分
http://www.hamaspo.com/hiratai/index.htm

(横浜市内の芦原義信作品)
1957年 岩崎学園横浜レデイスセンター
 所在地・・横浜市西区北幸町
1959年 横浜市市場ポンプ場上家
  所在地・・横浜市鶴見区市場町
1960年 横浜市立市民病院
  所在地・・横浜市保土ヶ谷区岡沢町
1960年 神奈川県立婦人寮
 所在地・・横浜市鶴見区市場町
1961年 横浜市立港湾病院
  所在地・・横浜市中区新山下町
1970年 横浜市平沼記念体育館
 所在地・・横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1
1976年 南戸塚工場余熱利用施設
  所在地・・横浜市戸塚区上郷町
1981年 横浜市立老松中学校
  所在地・・横浜市西区老松町
1983年 横浜市立北方小学校
  所在地・・横浜市中区諏訪町
1986年 横浜市市民文化会館<関内ホール>
  所在地・・横浜市中区住吉町
1987年 横浜市立大鳥中学校
  所在地・・横浜市中区本牧町
1988 横浜女性フォーラム
 所在地・・横浜市戸塚区上倉田
1993年 横浜市立本牧中学校
  所在地・・横浜市中区本牧和田
1994年 国際学生会館 潮田地区センター
潮田地区住宅支援サービスセンター(潮田交流プラザ)
  所在地・・横浜市鶴見区本町通
1998年 市ヶ尾ハイツ(オクスト市ヶ尾)
 所在地・・横浜市青葉区市ヶ尾町
1998年 横浜市民病院再整備
  所在地・・横浜市保土ヶ谷区岡沢町
1999年 横浜脳血管医療センター
 所在地・・横浜市磯子区滝頭
2002年 上瀬谷住宅
 所在地・・横浜市瀬谷区上瀬谷町

(市民スポーツの父)
一方の「平沼記念体育館」の他、平沼記念レストハウス(横浜市中区不老町)も彼の業績に因んでいます。
平沼 亮三(ひらぬま りょうぞう)

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第15・16代横浜市長は横浜市出身で、福沢諭吉の門下生として慶應義塾に学び、野球部では4番打者として活躍したスポーツマンでした。
平沼 亮三を紹介するには、横浜埋立ての歴史から始めない訳には行かない。
横浜市西区平沼近辺(通称:平沼町)は亮三の祖先である5代目平沼九兵衛が1839年(天保10年)に埋め立てを始め、7代目平沼九兵衛の代で完成した埋立地です。
平沼家は明暦年間(1655年〜58年)に保土ケ谷に移住し酒造業を営んでいました。埋立て事業の完成に伴い製塩業にも手を伸ばし、平沼新田に移住し財を成します。
亮三が慶應に入社(入学)したのが明治22年6月21日で最初は保土ケ谷から通学していましたが、通学がキツかったので幼稚舎の教員宅に下宿していたそうです。
大学部理財科在学中は野球部に在部していましたが卒業後は、柔道、剣道、相撲、野球、テニス、ピンポン、バドミントン、スケート、登山、ボート、水泳、乗馬、陸上、器械体操、バレーボール、ハンドボール、バスケットボールなど二十六種目のスポーツをそこそこのレベルまでこなしたまさにスポーツ万能タイプでした。
1932年(昭和7年)のロサンゼルス、1936年(昭和11年)のベルリンオリンピック選手団団長を務めています。

(市長平沼 亮三)
平沼 亮三が最も活躍し功績を残したのは横浜市長時代といえるでしょう。
戦後の戦災と進駐で機能不全に陥っていた横浜の街を復興の道筋をつけたのは平沼 亮三だからこそ可能だったといっても過言ではないでしょう。
1955年(昭和30年)に神奈川県で開催された国民体育大会開会式で市長はやわら、モーニングを脱ぎ捨て白鉢巻を締めてランニング姿に変身します。
聖火リレーの最終走者としてトラックを半周し56段の聖火塔の段を駆け登り点火したサプライズは76歳の老人の快挙として当時の話題になりました。現在も三ツ沢公園の中央に聖火を持つ平沼 亮三像が建っています。

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(余談)
平沼 亮三は稽古に集う若者たちに“スポーツライス”という名でカツの乗ったカレーを良く提供したそうです。これがカツカレーの元祖です。

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本文とは直接関係ありません

※『塾』第32巻2号(1994年(平成6年)4月1日発行)参照

(誤用)
もう一人横浜で活躍した平沼専蔵という人物がいます。
専蔵は埼玉県飯能の出身で平沼 亮三とは縁戚関係にはありませんが、時々親戚と表記されているものがありますが間違いです。

(関連ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

No.308 11月3日(土)対米初の特許は横浜花火

TPPで知的財産権のことが議論されていますが、
対米初の特許は「横浜花火」でした。
江戸時代に開花する花火は明治に入り“彩色光剤”が外国から輸入されると江戸の伝統と開化の技術が融合し世界一といわれる日本花火の基礎ができ上がります。
1877年(明治10年)11月3日(土)
太田町の「平山甚太」が“外国人居留民”を意識して横浜公園で花火を300発打ち上げます。
これが横浜の名物となり海外進出にまで発展します。

花火の歴史は古くから伝わっていますが、
現代花火の基礎ができ上がる時期は明治時代です。
特に外国との接点が強かった横浜では「花火需要」が高かったようです。
横浜太田町四丁目で花火師として活躍した平山甚太は、居留地の外国人からも祝日の興業用に注文が殺到します。
平山甚太は、神奈川県権令・野村靖に宛て書簡を送っています。
「横浜居留の英国商人から注文を受けて若干数の煙火を渡したら英国で模倣され、輸出できなくなって困っている」という内容です。
当時なら逆のケースが良くありそうですが、
日本の技術を英国商人が真似するので困ると主張していることには驚きます。

(知的財産権)
平山甚太は英国政府に対し
英国での煙火の専売権利(特許権)申請ができないかどうかと
1877年(明治10年)11月、明治政府に問い合わせています。
同時期に横浜公園(彼我公園)で花火を300発打ち上げた訳ですから、
英国と明治政府へのデモンストレーションだったのではないでしょうか。
当日の様子は

「天長節の祝日に際し、太田町四丁目(旧豊橋藩)平山甚太、横浜公園内に於て大煙火を施行す、当日午後、内外の観客、園の内外に群集す、同三時頃より夜半に至る迄大小三百余を打揚ぐ、昼の煙火中、著しきは双竜上下して玉を争ふが如き、錦鱗の遊泳、白鷺の群飛、大国旗・達摩等にして、其奇巧妙術、観者感賞せざるはなし、夜は其数更に多く、紅雨連星青珠又赤珠を吐くが如き、其光彩絶妙枚挙に遑あらず、内外の観客喝采の声湧くが如く、為めに山壑も拆くる計なり、爾来、平山煙火の名声四方に伝播し、陸続注文あり、因て内田町に煙火製造場を建築し、(後に吉田新田へ移す)盛に之を製造し、海外に販路を開くに至れり」
と「横浜沿革史」に記録されています。

英国領事館からの返事は
煙火(花火)は英国専売法(Statute of Monopolies)でいうところの「新遊戯」の類に属しますが、英国内では「新遊戯」は専売特許の対象にはならないので
特許申請は難しいということでした。
平山は英国への特許申請を断念し、
毎年アメリカ独立記念日にグランドホテル前の会場で
花火打ち上げの注文がある米国への「特許権取得」を目指します。
1881年(明治14年)に平山は米国ニューヨーク・ボストン・フィラデルフィア等の諸都市に職工5人を1年間派遣し技術の吸収と実際に打ち上げ米国マーケットの調査に努めます。1882年(明治15年)に日本国内で専門家に依頼し横浜の米国領事の手を経て米国政府に対し花火の「専売免許」出願します。

以下登録までの経過です。
1883年(明治16年)3月15日 米国で特許が出願されます。
 4月17日 拒絶の理由が通知されます。
 公的申請書の表記場の不備だと思います。
 4月24日 手続の補正を行います
 6月25日 手続補正(宣誓書再提出)
 6月29日 特許査定通知
 7月19日 登録料納付
 8月7日 に特許が正式に登録されます。

特許内容は
■取得者は花火師・平山甚太(1840年〜1900年)。
■特許取得当時は横浜太田町(現在の横浜市中区太田町)在住。
■特許日は1883年(明治16年)8月7日。
■特許の対象となった発明の名前は「昼花火(Daylight Fireworks)」
■「昼花火」:花火玉の外皮の中に火薬の他に軽くて柔らかい素材で作った人形や鳥形などを詰めておき、打ち上げた際に外皮が割れて中から人形などが飛び出して、フワリフワリと空中を漂う花火。
この証明書の写しが、
2010年の横浜で開催されたAPECの時にオバマ大統領が管首相にプレゼントしました。

特許となった「昼花火」とは字の如く昼間の花火のことで、打上った花火から空に浮かぶ人形や金魚、風船、国旗などが舞って落下してくる様が特許となったのポイントだそうです。


http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/central/hirayama.html

日米桜寄贈100周年事業の「昼花火」
2012年3月25日(日)
日本政府により西ポトマック公園で
日米桜寄贈100周年事業イベントの一環として全米桜祭り開会式に先立ち、
「日米桜寄贈100周年事業」における日本文化発信事業の一環として
1883年に平山甚太が日本人で初めて米国での特許を取得した「昼花火」の復刻版花火が約7分間にわたり打ち上げられ約150人の招待客の喝采を受けます。
花火文化も日米交流の架け橋になっていたのです。

平山甚太との意外な関係

No.419 落胆の身を江湖にさらす

(11月3日は良いネタばかり)
●1880年(明治13年)
「君ケ代」の曲譜が制定された日です。
※国歌「君が代」発祥の地は幾つかありますが横浜が有力ですね。

●1976年(昭和51年)
馬車道通りが完成し記念の「馬車道まつり」が開催されました。
商店街のストリートデザインの草分けです。この馬車道モール化から、伊勢佐木、元町へと商店街の空間デザインが実現していきます。

●1983年(昭和58年)
三菱重工横浜造船所跡地が「みなとみらい21」と命名されフェスティバルが開催されました。

●1986年(昭和61年)
戸塚区が分区し栄区と泉区、そして新戸塚区が誕生しました。

栄区マーク
泉区マーク

●1993年(平成5年)
エコライフチケット制度が開始します。(当初毎週水曜日使用)
現在はファミリー環境1日乗車券に
大気汚染の防止を考え、マイカーにかわり市営バスをご利用いただけるよう、同居のご家族5人までご乗車になれる市営バス1日乗車券です。
発売額 1,000円
土・日・祝日、8月12日〜8月16日、12月25日〜1月7日
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kyoutuu/ichinichi.html#sub1

●1998年(平成10年)
日本一になった横浜ベイスターズの優勝パレードが行われ、交通局提供のオープンバスが人気となりました。

【番外編】横浜の橋物語 (改訂版)

横浜市内に1,700橋がありますが
橋の数が一番多い区はどこでしょうか?
そして 一番橋の少ない区は?

■横浜市内の橋梁数、区別数字が少々異なります。
第90回横浜市統計書による市内橋梁数
※( )内は道路局2004年度の所在地別カウント
旭土木事務所管内 158(154)
戸塚土木事務所管内 146(154)
青 葉土木事務所管内 135(136)
泉土木事務所管内 119(124)
保土ケ谷土木事務所管内 135(117)
神奈川土木事務所管内 110(115)
港南土木事務所管内 117(112)
都 筑土木事務所管内 99(105)
金沢土木事務所管内 97(101)
栄土木事務所管内 95(92)
緑土木事務所管内 84(83)
瀬谷土木事務所管内 81(76)
港北土木事務所管内 61(58)
磯子土木事務所管内 64(56)
西土木事務所管内 58(51)
中土木事務所管内 65(47)
鶴見土木事務所管内 33(46)
南土木事務所管内 43(45)
横浜市内総計  1,700(1,672)

※旭区が一番多いというのは、横浜通の方にも意外だったのでは?

旭区橋梁マップ

では一番橋の少ない区は?
鶴見土木事務所管轄で33です。
意外?だと思いませんか?
鶴見川がイメージされますから、橋も多いような感じですが一級河川「鶴見川」は河口に近い一部分が鶴見区でしかありません。

(都橋雑景 横浜で超有名な橋?の一つです。)

(都橋の鳩?ここは鴎が似合います)

■鶴見区東寺尾・北寺尾 響橋
通称「めがね橋」かながわの橋100選
1941年(昭和16年)竣工
鉄筋コンクリート製アーチ橋
橋長は48メートル

■鶴見区梶山 梶山橋
 スペック?私のお気に入り橋の一つです。

■横浜で最も有名なベイブリッジです。
No.381 1月15日(火)素材ベイブリッジ

私は「つばさ橋」の方が好きですね。

No.356 12月21日(金)世界一の斜張橋■中区 港1号橋梁(汽車道に架かっています)

 
(万国橋も良いですね)
 

■中区 桜川橋 桜が似合います

自動車専用道路に架かる橋 さてどこでしょうか?

歩行者専用の橋を「人道橋」といいます。
結構多い!

■横浜駅東口長い歩道橋

橋の色にも個性があります。

線路を跨ぐ高架橋も橋ですね。架け替えに10年以上かかった平沼橋です。

橋?というべきなのか?シーサイドラインの風景です。

シーサイドラインの風景もいいですね!

歴史を感じる橋梁が横浜にも多く架かっています。

■すごいデザインですね。

一見 心もとない基礎の上に架かる橋ですがしっかりしてました。

大岡川の風景です。

最近橋もPRするように?大きな看板が架かっています。

橋がじゃま?似合う?見る人で変わる風景です。

ここはどこでしょう??
自転車ではすれ違うことが難しい細い歩行者専用道です。
通学路として架けられたと地元の人が教えてくれました。(鶴見川)

■新田間川河口に架かる「みなとみらい大橋」です。

※さて ここはどこでしょう。高速道路も橋の連続ですね。私の隠れスポットです。

No.307 11月2日(金)日本波止場に万国橋

橋は新しい世界を繋ぐ道です。
橋梁設計は土木の中でも花形です。
橋ほど個性的な設計が自由に許される「公共事業」はありません。
横浜市内には約1,700の橋があります。
その中でも撮影ポイントとして人気の高いビュースポットが「万国橋」です。

万国橋からみなとみらい
万国橋から横浜税関方向

1940年(昭和15年)11月2日の今日、
新港埠頭を繋ぐ横浜税関管轄の万国橋が改装され渡れるようになりました。
「万国橋」は“かながわの橋100選”に選ばれたコンクリートアーチ橋で、中区海岸通四・五丁目と新港一・二丁目を結んでいます。橋上から見る“みなとみらいエリア”はこのエリアを映し出す絶好のビューポイントとして人気があります。
この万国橋、外国航路を利用する際の
重要な橋でしたので国税庁(横浜税関)の管轄でした。
かつて、開港場には三つの波止場がありました。

「仏蘭西」「英吉利」そして国内航路の拠点として栄えた「日本波止場」です。
日本波止場から居留地(関内)を通り、関所(吉田橋)から(関外)に抜ける道が「馬車道」です。ところが、これらの「波止場」は吃水が浅く大型船を係留できませんでした。多くの外国船は沖に停泊し小型船で港まで運ばれてきました。

「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!

明治政府の緊急課題は、横浜に国際級の「埠頭」を造ることでした。

日本波止場時代に新港埠頭を重ねました

1906年(明治39年)に完成したのが「新港埠頭」です。

最初は「万国橋」が唯一の連絡橋でした。
鉄道が埠頭まで開通します
昭和初期の万国橋付近

この新港埠頭を結ぶ橋が国際港の窓口「万国橋」でした。

light資料絵葉書015017ここで開港50年式典も行われます。
鉄のアーチを囲って<城>のハリボテを作っています。
light201504281万国橋6その後、新港橋ができ、鉄道が開通します。
横浜が誇る国際港「新港埠頭」には現在の成田空港のように鉄道で乗り付けることができたのです。
No.2057月23日(月)駅を降りたら、国際港

No.241 8月28日(火)駅を降りたら、国際港 復活(その2)

No.62 3月2日 (金) みらいと歴史をつなぐ道

その後、旅客船は新しくできた大桟橋に移りますが、
新港埠頭は国際貿易の舞台として活躍します。

万国橋も車両が多くするようになり、
強度を高くした新橋に
1940年(昭和15年)改装され11月2日の今日開通することになります。

(その他の11月2日)
1973年昭和48年中央卸売市場南部市場が金沢区鳥浜町(根岸湾ハ地区)に完成しました。
http://www.city.yokohama.lg.jp/keizai/happyou/h22/220726.html
http://www.s-nakaorosi.or.jp
http://www.yokohama-smp.com/event.html

【番外編】横浜の橋物語
横浜市内に1,700橋がありますが橋の数が一番多い区はどこでしょうか?
一番橋の少ない区は?
答えは番外編で。

【横浜の橋】No.12 万国橋(新港埠頭)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8519

【アクセスランキング】

一日一話形式のブログを開始して10ヶ月経ちました。300話のアクセスログから何が一番読まれているのか?調べてみました。
■ダントツ一位
No.195 7月13日(金)BRAVE HEARTS

※映画の影響ですか、ぶっちぎりのアクセス数です。海上保安庁への関心が高いという点もあると思います。

■第二位
No.90 3月30日 環状鉄道の夢

※鉄道系はやはり強いなと思います。

■第二位
No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で

※FBでシェアされたことと明治期の意外さ(お初もの)からか?

■第四位
No.155 6月3日(日) パリ万博と神奈川沖

※フランス月間にあわせた記事だったのでマッチしたかな?

■第五位
No.184 7月2日(月)  ハマに浜ができた日

※横浜の海水浴場でヒットしたかな?八景島かも。

■第六位
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発

※受験生にヒット?

■第七位
No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

※三菱のちから?

■第八位
No.285 10月11日(木)武装セル芸術

※観艦式がテーマだった事と、自衛隊の観艦式がニュースになったことから?

■第九位
No.301 10月27日(土)三つの日清

※カップヌードルミュージアムで検索か?

■第十位
No.137 5月16日全店サマークリアランスセール開催中

※以外と言葉通りの検索か?

番外編のお気に入り
【番外編】コンパクトディスクと蚊取り線香

※横浜とは全く関係ありませんが

【番外編】市のマークの番外編

No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史

nn1983-E5-B9-B4-E6-88-B8-E5-A1-9A-E9-A7-851今、東海道本線戸塚駅西口再開発が終盤を迎えています。
戸塚駅は東海道の宿場町にできた駅で、市内2番目の乗降客数を誇る横浜市内中核都市の一つで
しかし、駅前の不便さは長らく市内最悪の状態でした。
1986年(昭和61年)11月1日の今日、
再開発ビル「ラピス戸塚」が完成オープンしたのを皮切りに
戸塚駅東西再開発が本格的に始動します。

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東口にラピスが完成した頃の戸塚駅周辺

戸塚駅前はとにかく不便でした。日立村と呼ばれるほど、数多くの日立関連工場がある中、駅前は地権者の合意形成ができませんでした。(今日は東口の話しなのでこの辺の話しは控えめに)
駅横を二級河川境川支流「柏尾川」が流れ、江戸時代から栄えた宿場町があったことも起因してか、駅前の整備にはかなりの時間を必要とします。
都市計画上の戸塚駅再開発事業が計画されたのは昭和30年代です。再開発着工に半世紀以上の時間がかかりました。現在国道1号線の地下化(「開かずの踏切」解消)等が進み全ての計画完了には更に時間を必要とします。

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No.142 5月21日 戸塚は鎌倉?

(戸塚競馬に行こう)
東海道本線戸塚駅は開設された当初、宿場側の西口しかありませんでした。戸塚駅の開業は1887年(明治20年)7月11日、東京と国府津が開業した時にできた駅です。その後、1937年(昭和12年)に東口ができますがキッカケは「戸塚競馬場」を利用する客が急増したためです。

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戸塚競馬場は1933年(昭和8年)吉田町の水田を埋め立てて開場します。
現在の日立横浜工場がある場所で、一周1,600mだったそうです。競馬場に因んだ「駒立橋」のみが当時の痕跡として残っています。
年に二回、3月と9月の4日間しか開催されませんでしたが、
大踏切を渡るための人で埋め尽くされたため地元の要求で「東口」ができます。

 

「戸塚競馬場」は戦争中に軍用馬訓練場となり
1942年(昭和17年)に西口側の駅から離れた汲沢に移転します。
現在は汲沢団地横の戸塚高校となっていますが若干その名残(痕跡)が地図上からも確認できます。

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昭和の競馬場があった頃
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現在
県営汲沢団地

1949年(昭和24年)川崎に新しく競馬場が作られるのを機に、
1950年(昭和25年)戸塚競馬は閉幕します。
吉田町にある駒立橋の地名は、戸塚競馬場に因んだ名です。

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戸塚駅前を大きく変えるキッカケは、
1987年(昭和62年)に横浜市営地下鉄1号線(ブルーライン)が開通するにあたり、東口再開発計画が一気に進んだ事です。
駅前広場とバスターミナルが整備され、
1986年(昭和61年)11月1日にラピス戸塚が開店し戸塚の動線が変わります。
ただ、開通した市営地下鉄は、仮開業の状態でホームが短く後部2両の扉を閉鎖したまま停車する状態でした。
YES89会期中の1989年(平成元年)8月27日、ホームが完成します。
翌年の1990年(平成2年)3月に一応の東口地区第一種市街地再開発事業は完了します。

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さあ、次は西口か?
1994年(平成6年)に戸塚駅西口第1地区第二種市街地再開発事業都市計画が決定しますが、変更に次ぐ変更が続き事業着手は2007年(平成19年)、1962年から半世紀、都市計画事業決定から15年かかりました。
現在、西口開発の影響で東口は厳しい状況になっていますが、
東口のポテンシャルはまだまだあるので、今後の整備計画がスムーズに行く事を祈っています。