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「【記憶に残るスポット】」カテゴリーアーカイブ
No.455 東海道の横浜を歩く
「横浜道」に引き続き横浜の街道「東海道」を紹介します。
東海道と言えば、江戸時代に整備された徳川幕藩体制を支えた物流を支えた主要街道の一つです。
横浜エリアの東海道を何回かに分けて歩いてみましたので
紹介します。
【鶴見市場から生麦】
横浜東海道の旅は「鶴見市場」からスタートします。
京急鶴見市場駅から北方向に商店街を抜けると「熊野神社」にぶつかります。
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鶴見熊野神社 |
横浜市鶴見区市場東中町9〜21
殺風景な境内のわりに派手なHPがあります。
●「横浜市立市場小学校発祥の址」の碑
●加舎白雄と大島蓼太の句碑(飯田九一 選と揮毫)
この「熊野神社」前の通りが旧東海道です。
No.264 9月20日(木)「鼾かく人を流罪す月今宵」
鶴見川橋を渡りますが、鶴見川に鶴見川橋の名からもこの街道の歴史を感じます。
右手に「鶴見神社=杉山神社」があり街道の鎮守の役割をもっていることがわかります。
京急「鶴見駅」の線路下を(抜けられませんが)通り、
ベルロードつるみ・鶴見銀座商店街を抜けます。
鶴見線の架橋をくぐり
鉄道レトロの「国道駅」前から
生麦魚河岸通りを通ります。
【番外編】生麦、旧東海道を歩く
No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験
【子安から神奈川】
国道15号線がほぼ東海道をトレースしています。
入江川派川(海岸線に平行している運河)
ここが子安から神奈川が最も昔のままの海岸線をイメージできます。
No.216 8月3日 (金)この道は金港に続く
東神奈川は横浜市内最初の宿場町です。
神奈川県内最大の宿場町でもありました。
神奈川宿に関しては
別にテーマを立て 紹介します。
【神奈川から保土ケ谷】
横浜中心部に入ってきました。
東海道が 海に別れを告げ、内陸に入っていく分かれ目が
青木橋あたりです。
No.452 横浜道から開港当時を探る
鶴屋町から保土ケ谷までは 旧東海道の道筋が残っています。
八王子街道への別れ道「追分」を過ぎると
横浜賑わい商店街ベスト3に入る
洪福寺松原商店街です。
No.414 競争共栄商店街
ここまで渡ってきた川が
鶴見川
入江川
滝野川
そして
帷子川と今井川の合流地点が
相鉄線「天王町」駅前です。
東海道は今井川に沿って保土ケ谷宿に入ります。
JR保土ケ谷駅前を過ぎ、東海道・横須賀線の踏切を越えると
保土ケ谷宿 本陣跡に出ます。
この保土ケ谷宿からは 金澤古道が分岐しています。
【保土ケ谷から品濃町】
横浜市内の東海道最大の難所です。
何度来てもこの坂の急傾斜前で躊躇します。
急坂「権太坂」です。
ここを越えると「境木」です。
武藏の国と相摸の国の国境(くにざかい)です。
No.339-2 12月4日(火)越すに越されぬ国境(くにざかい)
【番外編】 1月17日(木)横浜は坂ばかり
横浜は坂が多い街ですが、中でも権太坂は厳しい!!!
かつて栄えた!
境木商店街も火が消えつつありますが
ここは元気です。
創作和菓子処 栗山
ご当地もの たくさん買ってきました。
「男爵さま」が最新の作品だそうです。いけまっせ!
新製品を創る努力と工夫が大切ですね。
http://www.wagashi-kuriyama.co.jp
境木の峠を越えると
東戸塚に入ります。
この街は 1980年(昭和55年)10月1日に横須賀線の新駅が開業し
日立製作所関連企業、西武等による開発が行われ新しい街が生まれました。
※日本現役最古の鉄道トンネル「清水谷戸トンネル」は
東戸塚駅と保土ケ谷駅間にあり東海道下りルート最初のトンネルです。
旧東海道には品濃一里塚跡を示す碑があります。
【品濃町から戸塚】
東戸塚から柏尾川支流に沿って旧東海道はつながっていきます。
戸塚ネタはこのブログでもかなり取上げています。
No.142 5月21日 戸塚は鎌倉?(加筆修正)
この先、藤沢宿までの旧東海道は踏破していません。
湘南に抜ける時は、戸塚駅前から柏尾川にそって川ルート下りばかりで
実は もう一つの 山越えが 待っています。
「原宿」あたりのルートです。
この区間は 今年中に踏破する予定です。
※藤沢宿から平塚宿までは徒歩踏破しています。
No.454 「横浜道」を歩く (後編) 加筆修正
No.453に引き続いて現在の「横浜道」(後編)の紹介です。
後半は横浜道の難所となった「掃部山・野毛山」越えから
野毛の町にぐぐっと曲がり
そして大岡川を都橋で渡ると吉田町、吉田橋となります。
現在 最も開港場の歴史を庶民の視点から散策できるエリアです。
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掃部山(かもんやま)の桜 |
この道行きは
人気の観光、賑わいゾーンで
案内情報も沢山紹介されています。
見どころは「掃部山」界隈です。
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横浜能楽堂 |
ここでは少し違った視点で紹介しましょう。
(石積み博物館)
このエリアは「石積み」の野外博物館です。
野毛山の傾斜地に
フランス積み
ブラフ積み
古来の亀甲石積
布積み
乱積み
谷積み
等々 時代や環境に応じた石積みが発見できます。
(蕎麦街道)
横浜道にはそば屋が多い!!!!
平沼から日本蕎麦屋が10軒以上あります。
浅間下「横浜そば処 古登婦喜」
平沼「角平」
平沼「田中屋」
戸部「砂場」
戸部「松山そば店」
戸部「田中屋」
戸部「あんどうそば店」
※ちょっとルート外ですが花咲町 「太宗庵」
野毛町「中屋」
野毛町「東京庵」
吉田町「角清」
※八軒訪問。横浜道「蕎麦街道」って発想あると思います。
野毛山周辺はグルメスポット集中地区、しかも
小さい名店が点在しています。
例えば洋食!
紅葉坂周辺には「洋食屋きらく」(昔金港亭がありました)
青少年センターの「メルヘン」はあなどれません。
センターグリル、キムラの老舗も
レストランも新旧入り乱れて 話題の店が
ぎゅーーーーっと詰まっています。
No.371 1月5日(土)ノゲ的
No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興
※野毛界隈は ここでは略します。
(吉田町)
さて 最後のルート「吉田町」に入ります。
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん
鴎が舞う「都橋」を越えると
右側(南側)と左側(北側)が対照的な商店街が登場します。
吉田町の特徴は 左右非対称の商店街です。
通りとしての元気が出てきたのがここ十年のことです。
野毛とイセザキに挟まれて 静かに時が流れていましたが
再開発の計画が起る度に 街の活性化がロックされてきました。
この界隈も 情報が最近多く発信されています。
参考にされて 変わりつつある「吉田橋界隈」を
散策してみては如何でしょう。
新しいカテゴリーの飲食店が多く出店しています。
老舗中の老舗
肉の中川、鶏肉の梅や は健在!
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残念ながら閉店しましたね。 |
画廊も バーも
「Bar Noble」
横浜市中区吉田町2-7 VALS吉田町1F
http://noble-aqua.com
最近は
うなぎの「八十八」が出店しました。
このエリアから 目が離せません。
※余談テーマ
野毛の街をあるいていて
「理美容店」の多いことに気がつきます。
特に理容店で、値段もバラバラというところが
ちょっと“おそろしい”
今度数えてみますが ざくっと知っているだけで
野毛界隈に 理容室が10軒は数えることができます。
No.457 ザンギリ野毛
No.453 「横浜道」を歩く (前編)
昨日No.452で、横浜道が造られた頃の話しを紹介しました。
今日は、現在の「横浜道」をぶらり歩いてみましょう。
横浜道は、旧東海道の浅間下(当時は芝生村)から、
関内の吉田橋まで一直線につながっている
開港後最初にできた重要道です。
横浜道散策は東海道筋からスタートします。
(浅間下)
横浜道のスタート地点には、富士山信仰の「浅間神社」が鎮座しています。
周辺にはビルが乱立していますが、かつて海と冨士が良く見えた高台にあります。
このあたりの浅間下は、昔「芝生(しぼう)」村と呼ばれていましたが、
しぼう=死亡の音でもあるのでこの地名は無くなり「浅間下」と呼ばれるようになりました。
交差点の脇に「横浜道」起点の案内看板が設置されています。
ここから県道13号線(新横浜通)を関内方向に。
最初の川と橋があります。
新田間川(あらたまがわ)と新田間橋です。
この周辺には、うなぎの「野田岩」があります。
また、新田間川沿い少し上流に家具のダニエルの工房「家具の病院」があります。
事前に申し込めば見学もできます。私の大切な秋田木工の籐椅子の座面修復をお願いしたことがあります。
(見事な完成度です。今これに座って原稿を書いています)
新田間川を越えると横浜駅西口のビル街に入ります。交通渋滞の激しい岡野の交差点近くには予備校と東急ハンズ(7月で移転のため閉館)があり若い人たちがぐっと増えます。
ここには「吉村家」「横浜家」「山頭火」と人気ラーメン店が立ち並ぶところでもあります。
旧道「横浜道」は、次の帷子川(かたびらがわ)を渡る地点で少し脇道にそれます。
高架橋となっている「平沼橋」脇に小さな「旧平沼橋」があり、
少し前まで、開かずの踏切が設置されていました。
現在は通行不能となっています。
“平沼の踏切”を過ぎると、平沼商店街が戸部の手前石崎川に架かる
「敷島橋」まで続いていましたが 残念ながら
現在は見る影もありません。
それでも 良い店は頑張って残っています。
歴史ある蕎麦の田中屋、角平。お茶の平沼園、和菓子屋の寿々喜
新しいレストランも誕生しています。
三つ目の石崎川と敷島橋を越えると「戸部」に入ってきます。
お肉の「井上富蔵商店」は元々卸で小売りも行っています。
戸部7丁目交差点、市営地下鉄「高島町駅」あたりから京急「戸部駅」までは、かつて栄えた三菱造船関連の工場や機材、下請け企業が密集していたエリアです。
現在も少しその面影が残っています。
お店もかつて造船所関連お土産として人気だった「東京ひよ子 横浜店」が現在もしっかり営業しています。
銘菓ひよ子は、九州福岡のお菓子ですが、東京オリンピック以降関東に進出し 見事東京ブランドとなった珍しいお菓子です。
炭坑や製鉄所など重労働に「甘味」が人気となって福岡の名産となります。
※余談 岩亀横町に和菓子屋「住よし本店」がありました。ここには名物“塩分の効いた”きんつばがあって、造船所に働く人たちの超人気菓子だったそうです。
どこかで復活して欲しいな!甘みを抑えた良い味でした。
戸部7丁目交差点にある 今話題のお店と言えば
「横濱うたげやど根性ホルモン」です。
http://dokohoru.info
地恵地楽のお店と言われるだけあって 地産地消の人気スポットです。
このあたりから
江戸時代に切り通しとなった野毛山のてっぺんまで
少しずつ上り坂になっていきます。
戸部四丁目交差点からみなとみらい方向にのびる
「岩亀横丁」幕末から明治にかけて横浜最大級の遊郭
「岩亀楼」の遊女達の寮があったことからこう呼ばれるようになったそうです。
遊郭が無くなった後は 三菱造船関連の工場街として栄えます。
現在は その名残が少し在る という程度です。
この「岩亀横丁」には「岩亀稲荷」があり
「幕末安政のころ、現在の中区横浜公園のあたりにあった「岩亀楼」という遊廓(ゆうかく)の遊女が、静養のため利用した寮がここにあったことから岩亀横丁と呼ばれるようになったという。この横丁のなかほどに、静養に訪れた遊女がお参りしたといわれる稲荷がある。岩亀稲荷と呼ばれ、例祭が行われるなど、今も大切に守られている。」(横浜市西区HP)
ここには こんな言い伝えが残っています。
幕末の尊皇攘夷の考えから外国人客を拒み、
17歳伝説の岩亀楼のナンバーワン遊女「喜遊」が
最後は喉に刀剣を突きたてて自害したという。
この言い伝えには若干????
そもそも居留地の遊郭に上る時点で、
外国人相手が想定されることは解りきっていたことですから
恐らく 攘夷ではなく 理不尽な要求を拒み自害が妥当な線ではないか?
と推論しています。
後半はまた明日にしておきます。
No.452 横浜道から開港当時を探る
幕末に突然誕生した「横浜開港場」
この開港場は、幹線街道(東海道)との接続がありませんでした。
今回は、民間に下った突貫工事令で完成した
開港のための道「横浜道」を紹介しましょう。
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横浜道に埋め込まれている道標 |
開港前日に開通した「横浜道」を紹介する前に
なぜ 「横浜道」が必要となったのかあたりからヒモ解いていきましょう。
市史編集事業の重責を務められた高村直助先生は
横浜開港場を「帝都の関門」と呼びました。
開港のプロローグはロシアから始まり
ペリーの来航で 日本は開国を迫られます。
静岡県下田港開港から始まり
神奈川湊開港が「日米通商修好条約」で期限を設定して
開港場と決められますが、当時の徳川幕府は
できるだけ 江戸から「開港場」を外したいと目論見ます。
不便だが良港としてペリーの評価も高かった「横浜」を
開港場と決め
1859年7月1日(安政6年6月2日)未完成の状態で開港します。
開港場の整備は残り百日を切った約三ヶ月の短期間に行われます。
※アメリカは当初7月4日(独立記念日)を開港日にしたかった
日本政府と列強五カ国の間に結ばれた「安政の五カ国条約」の
重要な目的は「通商」=交易です。
通商に必須なのが「ロジスティクス(物流)」の確保です。
外国人を囲い込むために長崎の出島をイメージして管理しようとした幕府でしたが、
軍事・外交上も江戸への幹線道の整備が必要となります。
江戸時代の横浜村エリアの街道への動線は「井土ケ谷」経由保土ケ谷宿でした。
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安政6年の開港場 |
「開港場」と「東海道」を直結する道
「よこはまみち」の造成に踏み切ります。
開通当初は 重要な街道として多くの利用者で賑わいました。
東海道神奈川宿、その先の“江戸”への近道でした。
「絹の道」としても重要道でした。
ところが 埋立で状況が激変します。
明治に入り海岸が次々と埋め立てられます。
明治横浜の最初の大変化は
海岸線に鉄道が通り一般道も平行して整備されたことです。
(よこはまみち)
現在の浅間下交差点から、関内駅前吉田橋までが
「よこはまみち」です。
一時期 横浜開港史から忘れ去られていた道です。
「横浜道」の大半が横浜市西区を通っていることもあり
西区が「横浜道」の道標を埋込み整備しましたが?
今ひとつ 地味な存在になっています。
横浜道の名残は殆ど残っていません。
野毛の切り通し周辺の「石積み」
戸部近くの「岩亀稲荷」
浅間神社付近の細道 位でしょうか。
新田間川
帷子川
石崎川
大岡川
四つの川(橋)を渡り
野毛の切り通しを抜けると目の前に
「開港場」が目の前に拡がります。
東海道筋から開港場を目指した人々は野毛から眺める
洋館が並び 沖には船が多く停泊している
新しい街に ワクワクしたことでしょう。
この『道』無くして 開港場は成立しませんでした。
改めて「横浜道」に光を!!!!
明日は 現在の「横浜道」を歩きながら
開港の名残と 現在の散策スポットを紹介します。
No.451 芸術は短く貧乏は長し
文学賞といえば
「芥川賞」「直木賞」が有名です。
芥川賞は“芥川龍之介”に因んだ賞です。
では?直木賞は?
作家であり脚本、映画監督までこなした「直木三十五」に因んだ賞です。
この直木三十五なる人物は
横浜と深く関係があります。
今日は文学賞の名となった
「直木三十五」と横浜について紹介しましょう。
「直木三十五」
(なおき さんじゅうご)
直木三十五賞(通称「直木賞」)はエンターテインメント系の作品に与えられます。
http://www.bunshun.co.jp/award/naoki/
直木三十五は
1891年(明治24年)2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれました。
本名は植村宗一で、苗字の植村の「植」の字を分解して「直木」とし、名の部分は年齢を元に直木三十一(31歳のとき)からスタート、
三十五で改名することを止めました。
彼は1934年(昭和9年)2月24日、
四十三歳で亡くなっていますから“初志貫徹”していれば
「直木四十三」となったでしょう。
(放蕩作家 直木三十五)
大正の末から昭和の初めにかけ文壇、映画界で活躍しますが
相当の放蕩作家でした。
(戦前は放蕩作家多いですね。ある意味良い時代だったのかもしれません)
43歳で亡くなった翌年の1935年(昭和10年)
友人だった文藝春秋社長・菊池寛により直木賞が設置され現在まで多くの作家の目標となっています。
彼の代表作となったのは「南国太平記」という作品で、
幕末薩摩藩のお家騒動を取材した新聞小説で不動の位置を築きます。
時代小説では多くの秀作を残しています。
一方で、事業癖というか稀代の浪費家でもありました。
京都で映画制作に手を出し失敗。出版社も幾つか創設し失敗します。
1933年(昭和8年)春、これまでずっと借家住まいだった直木三十五は、横浜金澤の富岡を訪れ、この地が気に入ります。
一説によると、この地金澤を舞台にした江戸時代の武士、豊島刑部明重を執筆するためだったとも言われていますが、国税庁に半旗を翻し納税を拒否していた“直木”が一生で唯一、自身で設計し家を建てることを決意します。
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関東学院大学による復元調査 |
場所は慶珊寺の裏山の一角。
境内に家を建てたいと住職佐伯隆瑞に申し入れ、結局寺の北側後方の高台、当時畑だった千三百三十五坪を借り受けることになります。
新居は昭和8年の暮れに完成し、東京から引越します。
ところが彼は、余りの静けさに堪えられないとか、
自分の設計した家の使い勝手が悪いとか 言われるように
ほどなく
文芸春秋の一室に、逃げるように帰り 自宅を放棄します。
体調もかなり悪化していたのでしょう。
家屋の完成間もない翌年1934年(昭和9年)2月24日、帝国大学付属病院にて、持病の脊髄カリエスが悪化して亡くなります。
墓は 自宅近くの 富岡山長昌寺にあります。
この使い勝手の悪い 直木邸は彼の死後、家族と知人が暮らしていましたが
売りに出すことになります。
戦時中に購入したのが「橋本 東」という方で、
冗談で「疎開用に」と言ったことから 偶然購入するはめになります。
“買うには買ったが…”
あまりにも不便で使い勝手が悪いので一部を改装します。
しかし、殆ど住むこともなく 最後は老朽化のために取り壊されてしまい、現在は空き地となっています。
この元「直木三十五邸」入口に
横浜ペンクラブの方々と大佛次郎氏が中心となって
彼の記念碑が建っています。
「芸術は短く貧乏は長し」
No.449 横浜18区路線バスの旅
【チャレンジ18区】
路線バスを使い 横浜18区を走り抜ける
踏破マップ |
【ルール】
①移動には必ず路線バスを使うこと。
②一筆書きであること。(同じ路線は使用しない)
③300m程度の徒歩移動は可(駅の反対側への移動等)
④最短を目指すこと。
(スタート)
桜木町駅[中区]8系統 6:33発
横浜駅改札口前[西区]
横浜駅西口 59系統 6:50発
[神奈川区][鶴見区※注①][港北区]
※注①
一瞬鶴見区を通過するルートを選びました。
この一瞬通過ルートはこのゲームのポイントに
なりますが、下調べ不足でした。
この59系統は、綱島街道尾根ルート系です。
浦島から菊名まで分水嶺を走ります。
港北区総合庁舎前 7:25着 7:26発
[都筑区]
途中 工業地帯「新羽」エリアを通るルートなので
8時出社系の企業が多く、めちゃ混みでした。
外国人も多かったです。
東方町 7:52着
実はこの後に7:31発
中山駅北口行がありましたが
時刻表確認時間が無かったので乗り継ぎに
[緑区]
中山駅北口 7:57着 トイレ
![]() |
中山駅 |
中山駅北口 90系統 8:08発
☆注意 横浜市営バス「一日乗車券」は横浜市営のみ使えます。
90系統の場合、東急と共同運行ですので東急バスでは使えません。
[青葉]
青葉台営業所前 8:17着 若葉台方面はとにかくバス運行本数多数
[旭区]
若葉台中央 8:40頃着 23系統 65系統 55系統
※作戦タイム
若葉台中央 神奈中116系統 8:57発
三ツ境駅北口 9:25着
[瀬谷区]
トイレ探しに時間を食う!
しかたないので軽食を食う!!
三ツ境駅 戸17系統 10:15発
[戸塚区][泉区]
戸塚駅東口 10:55頃着 11:08発
江ノ電バス 大船行 11:25頃
乗車方法が異なります
[栄区]
笠間十字路 11:30頃 神奈中バス15系統
本郷車庫前 11:45頃着
昼食と周辺散策
本郷車庫前 12:36発 12:40頃着
長倉町にて
以前から気になっていた
かながわの橋百選の一つ
横浜最古の橋「昇龍橋」へ!
散策プロムナードに整備されていた!?ようですが
かなり 荒れています。
![]() |
展望台は崩壊 |
「昇龍橋」美しい!期待を裏切ってません。
良い形の石橋ですね。
「昇龍橋」はバス停一つ手前の「八軒谷戸」にあります。
ただ「八軒谷戸」からですと いたち川に降りるのが難しいので
「長倉町」からワイルドに川辺を歩いていくのが
発見の感動が一入!!!!
長倉町の近くに昔良く行った「上郷森の家」があるので
立ち寄りたかった!!が
本日は スルーしました。
[金沢区]
金沢八景駅前に 13:30頃着
金沢八景でピンポイントで行っておきたいところ?
瀬戸橋と、「明治憲法起草の地」あたり再確認に決定
No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
姫小島水門
金沢八景をぶらり散策して
「州崎」から京急バス4系統に乗ります。
ここからは
18区を踏破するための小技を使います。
(無理矢理バス路線)
[磯子区]
磯子車庫前下車
ここから「港南区」を通過するには
「打越」か「上大岡」へ向かうしかありません。
どちらも本数がほとんどありません。
今後の課題です。
1時間に1本の上大岡着
[港南区]
(小休止)
上大岡駅から弘明寺まで神奈中 港61系統
![]() |
弘明寺でデュークによりあんぱんを七種類購入 |
[南区]
港61系統は横浜駅東口行なのでこれで一気に帰りたい!
どうしても「保土ケ谷区」を経由するには、保土ケ谷駅東口経由がベストなので
弘明寺から横浜市営9系統で
[保土ケ谷区]
「保土ケ谷駅東口」
![]() |
ふらんすやまの保土ケ谷支店もあります |
ここで106系統に乗換えて
「桜木町駅」にて終了です。
最後はかなり乱暴ルートになってしまいました。
逆コースだとどうなるか?いずれチャレンジします。
土日ですとダイヤが変わりますからまた違った組み立てになるでしょう。
(振返りと課題)
要領を心得ると 結構楽しいバス巡りです。
市営の「一日乗車券」600円はフルに使いました。
これでかなりコストダウンに繋がりました。
神奈中は無理としても相鉄バスの「一日乗車券」は作って欲しい!!!
「東急バス1日乗車券」は500円で販売しています。
今回は使っていませんが、使い方によっては
かなりメリットがあります。
☆今回の18区踏破のポイントは
金沢区と保土ケ谷区をどう走るか?でした。
もう少し工夫路線があると思います。
(精算)
横浜市営「一日乗車券」600円
神奈中バス 他1400円
合計 2,000円
15回。11路線 約11時間の旅でした。
続編もあります。
【バス旅】横浜18区路線バスの旅(日曜版)
【番外編】横浜マークハンティング
世界中のどの町を歩いても“つまらない”とか
“見るところがない”と感じたことがありません。
仕事先、用事先では時間があれば周辺を散策し
私独自のマークハントします。
![]() |
内務省地理寮水準点(全国的にも希少価値です) |
マークハンティング項目の一部を紹介しましょう。
①クレーン→関連「今無い風景」消える風景
②ベンチ(座るところ)→The 座
③すかしブロック探し→絶滅危惧系消える風景
④古い石積み
⑤道標、看板、告示パネル
⑥トマソン→今は役に立たない?
⑦橋いろいろ
形、色、構造、名前
⑧神社仏閣をちょこっと参拝
→杉山神社、左馬神社、変わり名神社
⑨分水嶺ツアー 街の尾根筋を歩く
⑩今無い風景
空き地編、工事中編、解体・建替編…→絶滅危惧系消える風景
という視点で
⑪季節によっては「正月飾り」「門松」
⑫配管芸術も横浜で堪能できます。
改めて確認しますが
あくまで「ついで」ですので
まず本命の「わざわざ」があって、
「ついで」に「ぶらり」する中で得られるマークの愉しみです。
敢えて追いかけることはしていません。
①クレーン→関連「今無い」
90年代の初め、ある大手企業の横浜支店長をインタビューした時に
「横浜の第一印象はクレーンです。」と言われて以来気になって仕方がありません。
「港湾はクレーンが欠かせません。ビル工事にも欠かせません。変わりゆく横浜にクレーンは風景です。」なるほど。
クレーンのあるところは風景が変わりつつある「目印」です。
②ベンチ(座るところ)
ベンチは街中 至る所に設置されています。しかもデザインは色々です。
時折 気になるベンチを発見した時には“記録”しておきます。
たかがベンチと侮らないでください。
題して The 座
③すかしブロック探し
透かしブロック探しは、圧倒的に横浜以外の大正昭和に栄えた街に行くのが良いでしょう。横浜の「すかしブロック」はほとんどが「浜千鳥」で変わり種に出会うことは滅多にありません。があるんですね時々。
![]() |
最もスタンダードタイプ「浜千鳥」 |
神奈川区、南区、鶴見区、中区が狙い目です。
変わったものも点在しています。
古い住宅街の記号です。
④古い石積み
城下町、寺社町には良い“石積み”(江戸時代)が残っています。
横浜開港場付近は幕末からの街ですが、
![]() |
上部は今新しいマンションに変わっています。 |
ブラフ積、イギリス積他近代産業資産として石積みが多く残っています。
⑤道標、看板、告示パネル(別の機会に)
![]() |
トップの写真の説明看板です |
⑥トマソン→今は役に立たない?(別の機会に)
⑦橋いろいろ
形、色、構造、名前
![]() |
東京の水道橋ではありません! |
→領域広いです。かじる程度です。
⑧神社仏閣をちょこっと参拝
→杉山神社、左馬神社、変わり名神社
→領域広いです。かじる程度です。
⑨分水嶺ツアー 街の尾根筋を歩く
→最近凝ってます。
谷戸の多い横浜、意外な風景に出会えます。
![]() |
羽沢の尾根筋からみなとみらい方向、一面のキャベツ!! |
⑩今無い風景
空き地編、工事中編、解体・建替編…
街中で“無くなった風景”は 意外と思い出せないものです。
⑪季節によっては「正月飾り」「門松」
昔ながらの多品種少量生産の街中アートです。
⑫配管芸術も横浜で堪能できます。
特に夢中になって調べるというスタンスではなく
歩いているゾーンの「空気」を感じる時のマークとして
上記の「しるし」を探し楽しんでいます。
No.448 IZUMI Ça va bien!
水辺の整備がコンクリート擁壁の護岸工事から、
親水に変わりはじめて何年たつでしょうか?
最近の水辺は、魅力的になってきました。
今日は
全長9.42kmの短く小さな河川ですが、
「和泉川」流域の一部を紹介しましょう。
和泉川(いずみがわ)は、瀬谷市民の森を源流として境川と平行しつつ南下し戸塚区俣野町で本流に合流しています。
「境川」は字の通り、横浜市と隣接する大和市、藤沢市の境を流れ、「和泉川」はその支流として瀬谷区、泉区、戸塚区を南北に流れています。
この和泉川流域は、数多くある鎌倉街道の中でも“上の道”と呼ばれる古道が通っています。
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凡そのルートです。赤が「上の道」緑が「中の道」青が「下の道」 |
「上の道」は鎌倉時代以降“相摸のもののふ”達がこの道を駆け抜けましたが、江戸時代以降は街道の役目を終え、豊かな近郊農業の地でした。
(左馬神社)
和泉川のちょうど中流域に固まって点在している不思議な神社群があります。
横浜市
①左馬社(瀬谷区橋戸3ー20ー1)
④飯田神社(泉区上飯田町2517)
⑤佐婆神社(泉区和泉町4811)
⑥左馬神社(泉区和泉町3253 )
⑧鯖神社(泉区下飯田町1389 )
⑩鯖神社(泉区和泉町705)
大和市
②左馬神社(上和田町)
③左馬神社(下和田町)
藤沢市
⑨鯖神社(湘南台)
⑦七ツ木神社(高倉)
⑪左馬神社(西俣野)
⑫佐波神社(石川)
「左馬」「佐婆」「佐波」「鯖」
“さま”または“さば”と呼ばれています。
上記のリストは、飯田神社のようにかつて「さば神社」だったものが近隣の地名に変わったものも含まれています。
現在記録上判っている「さば神社」は十二社といわれています。他にもあったかどうかは不明です。
■特徴
①和泉川中流域の一角に集中して点在していること
※川に沿う点では杉山神社群とも似ています。
②鎌倉古道に沿っていること
※創建の時期は安土桃山時代末期から江戸時代草創期といわれています
③「七さばまいり」という風習が残っていること
※一日で七つの左馬神社をお参りすることで疱瘡、麻疹(はしか)、百日咳などの悪病除けになるという風習。
④源義朝(九社)または源満仲(三社)を祭神としていること
などが挙げられます。
⑤「境川」を含め、この一帯は水害湛水域だったこと
※杉山神社同様に川を治める鎮守の役割も担った
サバ神社の多くが小高い場所にあります。
何故「さば」なのか?
諸説あり 確定はしていませんが、
源義朝が左馬頭(さまのかみ)であった説が一番妥当にも思えますが
よくわかっていません。
(モデルコース)
相鉄線「いずみ中央駅」から
和泉川を下りながら
右岸、左岸に点在する「さば神社」を中心に散策し
相鉄線「ゆめがおか駅」か市営地下鉄「下飯田駅」ゴールがちょうど良い距離です。
サイクリング、ウォーキングに最適です。
神社や古寺のほか、公園、富士塚、染めの工房、和食レストランもあり
快適な半日コースとなるでしょう。
No.447 いずたとばななの物語
先日船から横浜湾岸部を旅する機会がありました。
「バナナ埠頭」を観たい!という願いが達成!!!
バナナ専用船も間近でウォッチでき感激でした。
バナナ船ごときに何を感動しているのだ!
私の魅力コンテンツ探しの原則は「ついでコンテンツ」の充実が鍵となっています。
場所、出来事、人物、歴史等々のエピソードが重なる「コンテンツ」を探したい!
「へー」で終わる“落語の考えオチ”のような読了感のあるテーマが見つかればベスト!
例えば「クロモジ」から「ヨコハマタイヤ」
No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?
「No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王」
ということで、今日は
横浜にあるバナナ埠頭とその一帯の地名から「ついでコンテンツ」をひも解きます。
横浜市神奈川区出田町にバナナの輸入専用埠頭があります。
専用岸壁、燻蒸や定温保管可能な設備を備えた専用上屋の名が
「バナナ1号・2号上屋」です。
ネットで調べた限りですが正式に「バナナ」と命名されている上屋は
ここだけではないでしょうか。
バナナ輸入量が一番多いのは「東京港」次いで「神戸港」で
横浜港は第三位ですが 唯一「バナナ上屋」があるのは
ちょっと嬉しいです。
バナナ埠頭には
その他に青果上屋や青果企業の事務所があります。
※ご存知の方も多いと思いますが
上屋(うわや)の語源はウェアハウス (Warehouse)の音を当てはめた造語です。
バナナの陸揚げは、 専用埠頭で行われます。
何故、専用埠頭なのでしょうか?
バナナは輸入後に専用の処理作業が必要になってきます。そのためにバナナ用の専用施設の揃った「埠頭」が必要になってくるという訳です。
バナナは99%が輸入で日常の果物として欠かせない人気の果物ですが、
検疫上完熟で輸入することが殆ど禁止されています。
多くのものが 青いまま輸入され 日本国内で燻蒸・熟成され市場に出ます。
そのための加工施設が「バナナ」には必要という訳です。
輸入してから加工?
面倒なことをしている割にバナナ 廉価で販売されていますね。
価格安定の理由は
年間を通じて 輸入量が安定していることと前述の通り輸入から市場に出回るまでのシステムが確立しているからです。
何故生産量が安定しているのか?
生産地が赤道を中心にベルトのように点在しているため 季節に関係なく成長するからです。
1903年(明治36年)4月10日が
日本が商業取引として初めて“バナナ”を輸入した日だそうです。
輸入先は台湾で基隆(キールン)港から神戸に向けて大阪南船の恒春丸が約75kgのバナナを運びました。当初は高級品だったようです。
(余談)
バナナの叩き売りは九州門司から始まったそうです。
(いずた いづた でた)
横浜港で、バナナの荷揚げを行っているのは、前述の通り
神奈川区出田町(いずたちょう)にある出田町(でたまち)ふ頭です。
え?
同じ出田町で「いずた」「でた」読み方が二つある?
正しくは「いづた」では?
この話しは 地元では有名な話しで
港湾関係者はほぼ全員「でたまちふとう」
でも神奈川区の町名は「いずたちょう」です。
「いづた」ではありません。
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よーく見ると上から修正シートを貼っている???? |
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昔の画像 |
Wikiでは
「出田町(いずたちょう)
横浜市神奈川区の町名。住居表示は未実施で、郵便番号は221-0032。
1921年(大正10年)2月4日、横浜鉄工所が千若町3丁目地先の埋立免許を取得。1923年(大正12年)4月に着工、1927年(昭和2年)8月22日に竣工した。
同8月30日、横浜鉄工所の専務取締役出田孝之の姓から、出田町と命名された。
1952年(昭和27年)に出田町埠頭の建設工事着工。
1954年(昭和29年)に2バースが完成、
1958年から1963年にかけ、新たに2バースを建設した。」
面積は0.161km2
横浜港の重要な埠頭として活躍しています。
最初は「いずた」でしたが、現場レベルで難読のため「でたまち」を多用しあとから確定した施設名といえるでしょう。
厳密にいえば この埠頭を作った「出田孝行」氏への畏敬を示すのであれば
使いにくくとも「いずたちょう」とすべきだったのでは?
と私は思うのですが。
横浜には埋立に貢献した人物の名がついた地名が多くありますが、
横浜鉄工所の専務取締役出田孝行さんはメジャーになれなかったからでしょうか。少し寂しい気もします。
(こんな事例も)
大桟橋(おおさんばし)は、かつて「だいさんばし」と呼ばれていた時代があります。東京オリンピックを契機に「おおさんばし」名称が徹底されたようです。
「だいさんばし」という方がいらしたら60から70歳以上間違いなし!
ただし、”だいさんばし”は戦前戦後の一時期だけだったようです。明治育ちの港湾関係の方を祖父に持っている方は、「祖父はおおさんばしと言っていた!」そうです。
(埠頭豆知識)
港には埠頭(ふとう)があります。
鉄道と同様に人の乗降りの機能と
貨物の荷役(積み下ろし)が行われる機能を持っています。
埠頭の条件には 人と荷物で変わりますが
①係留施設があること。
船舶が接岸する岸壁・物揚場のことです。
②旅客ターミナルがあること。
③取り扱う荷物の荷さばき施設・保管施設があること。
付随して
荷物用のコンテナ等を扱うガントリークレーンや
保税倉庫が設置されています。
(上屋とは?)
港湾の荷さばき用倉庫のことです。
保管をおもな目的とする一般の倉庫とは区別されます。
国や自治体の港湾管理者が管理する公共施設のほか、
民間の通運会社管理のものも多数あります。
中でも保税上屋は「倉庫内が保税地域の一種」として税関手続の便宜のため外国貨物の積卸・運搬・一時的蔵置を行う場所として税関長より許可された特別な空間です。
(神戸のバナナ埠頭)
バナナ輸入量国内第二位の神戸港にある兵庫ふ頭にある
兵庫突堤はバナナ埠頭と呼ばれています。
兵庫ふ頭
兵庫ふ頭は、第1突堤から第3突堤までからなる、市民生活に直結したバナナ等の青果物を扱うふ頭として整備されています。
2001年(平成13年)7月から地下鉄海岸線が開通しました。
No.446 赤い橋
橋は人やモノを繋ぐ役割を担っています。
川に、道路に、海に架かる橋がありますが
ひと際目立つ
横浜にある“赤い橋”を紹介しましょう。
詳細に調べていませんが
私が見つけた範囲で“赤い橋”ベスト3紹介します。
第一位 浦舟水道橋
第二位 打越橋
第三位 称名寺平橋・反橋
この三つの赤い橋は、それぞれ特徴のある橋です。
●「浦舟水道橋」は
横浜市南区の中村川に架かる橋です。
→詳細は後半で紹介します。
●「打越橋」
道路に架かる橋です。跨道橋(こどうきょう)といいます。
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迫力ではNo.1ですね |
横浜市中区打越の「横浜市主要地方道80号横浜駅根岸線」に架かっています。
構造は鋼ランガー橋
「この橋は関東大震災の後、路面電車の線路敷設により造成された切通しを跨ぐため 、建造された美しいアーチ形式の鋼橋である。両側を石積擁壁と草木で覆われたV字形の空間に鮮やかな朱色のアーチが架かる景観は、横浜を代表する橋の品格をそなえ、地域のランドマークともなっている。」
●「称名寺平橋・反橋」
横浜市金沢区にある国宝のある称名寺
庭園の池に架かる橋です。
参道橋とでも表現しておきましょう。
木製の再現された単純桁橋、アーチ橋です。
(浦舟水道橋)
今回は「浦舟水道橋」について少し詳しく紹介しましょう。
「浦舟水道橋」は、大岡川、中村川、堀割川水系の中でひと際目立つ真っ赤な橋です。現在は人道橋となっています。
場所は横浜市南区中村町3〜191地先
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120年の歴史があります。意外に感じられるかもしれません。 |
「浦舟水道橋」移設の歴史
1893年(明治26年)「西の橋」として架設されました。
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M25の頃の西の橋。かつて横浜製鉄所があったあたりです |
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)
神奈川県の土木技師・野口嘉茂の設計により英国シェルトン社製の鋼材を使用して作られました。
現在の「西の橋」は震災復興橋梁として大正15年に竣工され
旧西の橋は解体され、1927年(昭和2年)翁橋の位置に移設されました。
1989年(平成元年)「浦舟水道橋」として現地に再移設されながら残された歴史的遺産です。
処分されず保全活用してきた諸先輩に敬意と感謝を捧げたいと思います。
橋のたもとには記念プレート(消えかかって読みにくい)には
「現存する道路橋としてはわが国最古のピン結合のプラットトラス橋である。」
とあります。
※「プラットトラス(Pratt truss)とは、斜材を橋中央部から端部に向けて「逆ハ」の字形状に配置したものである。ピン結合に適した構造で、日本では明治時代によく採用されたが、やがてより部材が節約でき軽量化を果たせるワーレントラスに移行した。」
ピン結合プラットトラス橋は、
西の長崎市にある出島橋も同様の構造で市街地開発の中、奇跡的に残っっています。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/sumai/670000/676000/p001689.html
→長崎の「出島橋」は通った記憶がありますが残念ながら写真に収めていません。
(余談)
「私立探偵 濱マイク」で“濱マイク”が女の子とジャンケン、チョコレートを食べるシーンに使われました。移設したてのころです。