横浜出身で市内、県内に多くの句碑を残した飯田九一は、
1936年(昭和11年)9月20日の今日「杉田金沢古今俳句集」を発刊しました。
九一にとって金沢の地はルーツでもありました。
画家、俳人として、また俳画を近代に確立した彼の足跡を追います。
現在も住宅として使用されている飯田家住宅 |
飯田九一 (いいだくいち) は、
1892年(明治25年)10月17日、十一代飯田助太夫(いいだすけだゆう)の三男として橘樹郡大綱村北綱島(現:横浜市港北区北綱島町)に生れました。
飯田家は、相模国金沢から綱島に移り住み助右衛門義直を初代とする北綱島村の豪農でした。
十代当主助太夫廣配家の代になると開港の時代に経営の才を発揮します。
農業のほか製茶業、製氷業なども手がけ大成功を収めます。大正時代には、ラヂウム霊泉湧出にも尽力し、綱島温泉として地域の発展に貢献します。
北綱島の飯田家、南綱島の池谷家。綱島の歴史を語る時必ず登場する両家については別の機会に紹介しましょう。
2月26日 ある街のある店の歴史(綱島)
北綱島の飯田家は江戸時代から名主となり開墾、治水等を行ってきましたが、明治以降の十一代、十二代当主はいずれも村長・議員として活躍する政治家の家となります。
このような家に生まれた九一でしたが、8歳頃から芸術に関心を持つようになり、実業家でもなく政治家でもない日本画の世界に入ります。東京美術学校を卒業した後、日本画壇の中心的存在となった川合玉堂に師事、日本画の正統派の技術を修得します。
横浜美術展入選、帝展入選、巴里日本画代表展に作品を出展するなど日本画家として活躍しますが、同時に俳句の世界にも才能を発揮し「俳画」の第一人者として活躍します。
近代以降、「俳画」といえば飯田九一といわれるほど江戸時代から余技とされていた俳画を一つの“道”として確立させました。
九一は日本各地を旅し、特に神奈川県内、横浜市金沢を訪れ、句を詠むだけでなく、地域に因んだ句の発掘と句碑建立に尽力します。
また、 俳諧関係の収集家としても歴史的価値のある九一のコレクションは評価が高く、現在県立図書館に保管されています。一部をデジタルアーカイブで閲覧する事ができます。
「飯田九一文庫の百人」
http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/yokohama/archive/iidakuichi_top.htm
(飯田九一の足跡)
大正十二年まで東京に暮らしますが、結婚した年に大震災に遭い横浜に転居します。
その後、鶴見区花月園内に移り、晩年は三ツ沢三丁目で暮らします。
神奈川県内に多数の九一が手がけた句碑があります。
市内では鶴見七福神、その中の三カ所に九一の句碑が残されています。
七福神マップチラシを着色しました |
■熊野神社(福禄寿)
1946年(昭和21年)に飯田九一によって建立された、江戸時代の蕉門俳人、加舎白雄と大島蓼太が東海道鶴見橋を詠んだ句碑があります。
揮毫は、飯田九一です。
「朝夕や 鶴の餌まきか 橋の霜」白雄
「五月雨や 鶴脛ひたす はし柱」蓼太
■東福寺(毘沙門天)
子育観音として信仰を集めました。
芭蕉や飯田九一の句碑があります。
■總持寺(大黒天)
ここにも芭蕉や飯田九一の句碑があります。
●富岡を詠った句
磯寺や雪の笠松南うけ 九一
●杉田を詠った句
梅寺や日向守りて無為の僧 九一
●その他
茅ヶ崎、江ノ島、小田原に多くの句碑を残しています。
※茅ヶ崎には特に飯田九一の足跡が多く残っています。
●飯田華頂女(飯田九一の妻 嘉千代)
雨寒く 土に染みゆく 草紅葉
このロゴ?見た事ありませんか?
「横浜のれん会」という横浜の老舗会ですが、この字は飯田九一の書によるものだそうです。
http://www.yokohama-norenkai.jp/index0.html
最後に 私の好きな一句
少々滑稽な描写ですが、鼾のうるさい友人と一緒に宿泊する際にそっと書置き、別の部屋で寝た時の句です。
「鼾かく人を流罪す月今宵」