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No.444 “Choshu five”NOMURAN,Yokohama

“Choshu five”と聞いて、直ぐに5人の名前が出てくる方はかなりの幕末通です。
映画にもなった幕末期の若者5人(長州五傑)
井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、伊藤博文、野村弥吉 のことです。
今日はこの長州五傑の中で最も横浜と関係の深いNOMURANこと“野村弥吉”を紹介しましょう。

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改めて、
明治に入り日本近代化の父と呼ばれそれぞれの分野で活躍した5人を簡単に紹介します。
井上 聞多→馨(当時28歳)写真(下段左)
 外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを歴任した「外交の父」
遠藤 謹助(当時27歳)写真(上段左)
 大阪にある造幣局の初代局長となって、有名な「桜の通り抜け」をつくった「造幣の父」
山尾 庸三(当時26歳)写真(下段右)
 帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿として活躍、後の東京大学工学部の基礎をつくり、明治政府の盲聾教育施設の設立にも貢献した「工学の父」
最も著名な政治家となった
伊藤 俊介→博文(当時22歳)写真(上段右)
 初代、第5代、第7代、第10代と4回にわたり内閣総理大臣を務め明治憲法制定にも尽力した「内閣の父」
最年少の
野村 弥吉 後の井上 勝(当時20歳)写真(上段中央)
 日本鉄道会社を創設し、初代鉄道庁局長となった「鉄道の父」

(横浜から密航)
この5名は、藩の了解を取り付け
横浜で長州財政を支えた御用商人「大黒屋榎本六兵衛」の横浜支店にあたる横浜本町2丁目の「伊豆倉商店」から密航費用を調達しますが必要経費に全く届きませんでした。
そこで藩の重要な鉄砲調達資金から5,000両(今の数億円)を無理矢理理屈を付け借り受けたエピソードは有名です。
直談判の相手が村田蔵六(大村益次郎)。
若き五人は、自分たちは未来の武器である!俺たちに賭けろ!と説得して留学費用を調達したと伝わっていますが、理由はともあれ貸すほうも借りるほうもスケールがでかいですね。
伊豆倉商店は早くから居留地1番に居を構えるジャーディン・マセソン社と取引があり、5人の密航に必要な“洋銀”の準備も行います。特に尽力したのが番頭の佐藤貞次郎で、マセソン社とは長州藩の軍艦購入の手配を行った人物でした。
このあたりの顛末は多くの「長州ファイブ」エピソードとして紹介されていますのでぜひお楽しみ下さい。
http://shogiku.sakura.ne.jp/choshufive1.htm

(英国へ!)
1863年6月27日(文久3年5月12日)土曜日深夜
徳川幕府のルールを破り、横浜港※から英国船に乗込み密航を決行します。
※ここで簡単に横浜港としましたが、
この横浜港とは<東波止場=仏蘭西波止場>のことです。
その際、上記写真にもあるように、横浜居留地で髪を切り洋装になり乗船します。
だから仏蘭西波止場付近に<ザンギリ碑>がある  訳ではありませんが偶然ですね。
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(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)
英国に無事到着した後、UCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)教授アレキサンダー・ウィリアムソン夫妻の絶大な支援のもとUCLで学びます。

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オックスフォード大学でもケンブリッジ大学でも無く
University College Londonに学んだことが、長州ファイブにとって重要な選択となります。
当時の英国では、1827年創設のUCLだけが、信仰、人種、国籍の違いを越えて、すべての学徒に開かれていた大学だったそうです。
※夏目漱石、小泉純一郎もUCLに学んでいます。

(横浜と野村弥吉と井上勝)
長州五傑の中で最年少、後に「鉄道の父」と呼ばれた野村弥吉(井上勝)は
1843年8月25日(天保14年8月1日)長州藩士井上勝行の三男として萩城下に生まれました。幼名は卯八、6歳で同藩の野村家養子となり、野村弥吉となります。

1868年(明治元年)英国から戻り、生家の井上姓に戻り「井上勝」と名のります。
※戦前まで、養子縁組は頻繁に行われていました。フルネーム変わってしまう場合もあり、歴史を調べる際に混乱する場合があります。

野村弥吉は、長州五傑の中で横浜と縁の深い人物です。
いち早く洋学に関心を持ち横浜の外国人居住地で英語を勉強します。
この無謀とも言える英国留学(密航)を決行した長州五傑の中で唯一片言の英語が話せた人物です。
1863年(文久3年3月)横浜で調達された長州藩艦船「癸亥丸(きがいまる)」の船将を命じられたのが野村弥吉で、測量方を務めたのが長州五傑の一人、山尾庸三です。
野村、後の井上勝が横浜を舞台に活躍したのが新橋駅〜横浜駅間の鉄道敷設事業の日本側責任者としてです。
彼は若いころからかなりの酒豪でもあったようで、
英国留学時代、仲間達に「呑乱(のむらん)」と呼ばれていたことを自分でも楽しんでいたようです。自らを「NOMURAN」と称し彼のUCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)卒業証書にはMr.Nomuranと記される遊び心?もあったようです。

(鉄道ことはじめ)
1872年10月14日(明治5年9月12日)
日本初の鉄道路線である新橋駅〜横浜駅間が開業します。

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BBP5130025

明治新政府は1869年12月12日(明治2年11月10日)の廟議で
「幹線は東西両京を連絡し、枝線は東京より横浜に至り、又琵琶湖辺より敦賀に達し、別に一線は京都より神戸に至るべし」
という日本最初の鉄道建設計画を決定します。
枝線の東京横濱間から計画がスタートしますが、幹線計画は政府の危機的財政難で大幅に遅れます。
この日本初の鉄道路線計画の技術責任者がエドモンド・モレルです。モレルは日本の実情に即した提案、外貨の節約や国内産業の育成に貢献した外国人技術者(お雇い外国人)として日本鉄道史に足跡を残しますが、残念なことに夢半ば
1871年11月5日(明治4年9月23日)満30歳の若さで亡くなります。
Wikiでは
「1870年(明治3年)、イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し、本格的工事が始まった。日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父。鉄道国有論者としても著名)が鉱山頭兼鉄道頭に就任し、建設に携わった。」
と井上 勝に触れていますが、その評価は低すぎるような気がします。
モレルより3歳年下の同世代、モレルの母国イギリスで鉱山技術、化学等を学んだ井上とモレルのコミュニケーション無しに、この重要なミッションは成功しなかったでしょう。
当時、鉄道敷設反対派は暗殺も計画していた時代、全くスタンダードモデルのない日本に鉄道技術を根付かせるために、「現場主義」の井上は、横浜と東京間を何度も往復したに違いありません。
※井上はかなりの頑固者で、時の政府首脳ともかなり衝突したそうです。幕末に共に軍艦を運んだ「工学の父」山尾庸三とは真正面から衝突、辞表を叩き付けたエピソードも残っています。
No.288 10月14日(日)仮の借りを返す

No.164 6月12日(火) JR JR

(余談)
小岩井農場の井は井上のイです。
http://www.koiwai.co.jp
井上勝は視察で岩手県を訪れ、岩手山中腹にある温泉宿に泊まります。
この時に、この地を開拓して農場を造れないだろうかと考えます。

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これが小岩井農場の出発点です。
日本鉄道会社副社長・小野義真
三菱社社長・岩崎弥之助
そして 井上勝、三人の頭文字から 「小岩井」となります。
(余談2)
鉄道のゲージ問題
線路の幅を決めるにあたって 日本は何故狭軌を選んだか?
「日本鉄道史最大の失敗」とも言われていますが
ここにも井上勝が大きく関わっています。
当時の判断で 狭軌の選択は 正しかったと
私は 評価している一人です。

No.442−2 「路男」君の愉しみ(2)

最近「ローカルバスの旅」系のテレビ番組が多いようです。
実際見ていないので構成までコメントできませんが、
超人気番組ではなさそうですね。
にも関わらず なんで似たような番組が…
直ぐに疑う私の悪い癖です。
国交省のキャンペーンですかね?

と前フリをしたのは
私は昔から 路線バス大好きの「バス男」君系でもあります。
鉄道趣味系「乗り鉄」に相当します。
通勤以外でぶらっとバスを楽しむ“輩”はかなり少数派です。
理由の一つに
バスの利用が結構面倒だということ。
まず 道路事情に依存しますから 運行時間が読めないという不確実性を愉しめるかどうか?
また 運転手(全国殆どワンマン化)から
冷たい視線を受ける場合がある!
日常乗り馴れた乗客しか相手にされていないような感じが多々あるのです。
※近年行き先を尋ねることは激減しましたが、乗り方に戸惑ったときの面倒くさそうな運転手の態度にぶち切れそうになるときが マダあります。
かなり改善されましたが。

(バス停)
全国バス停探しをしている訳ではありませんが、鉄道に比べてバス停は個性的(バラバラ)です。掲示している情報のデザインも千差万別です。

横浜市内でも、電子掲示から従来のプレート表記まで何種類かあります。
時刻表やルート案内も共通表示のバス停と、バス会社独自のものが混在しています。
 バス停の時刻表表記 字が小さい!年寄りにはかなり負担。
 バス停の表記で<次の停留所>表記が小さい場合が多い。
 同じ場所で、会社毎にバス停があり微妙に位置が異なる。(激減してはいますが)
 
(バスターミナルの不便さ)
全く初めて訪れるバスターミナルの判りにくさはバス利用の“宿命”です。
横浜駅は西口も東口も予め乗り場を確認してから移動しないと大変です。
横浜駅西口は バスターミナルが二カ所に別れています。
横浜駅東口は 乗り場案内が判りにくい。ので昼間は係員がいます。
判りにくさNo.1は「桜木町駅」バス乗り場だと思います。

飛び地のような探しにくいバス停

(乗車方法・料金)※大人の場合
横浜市内は「前乗り前払い後降り」しかも210円均一料金です。
川崎市内は、200円均一「前乗り前払い後降り」
神戸市内は、200円均一「前乗り前払い後降り」
京都市内は220円でバス・バス乗継というのがあります。大人350円

全国的には「後乗り後払い前降り」が圧倒的に多いのですが、
均一料金や先払いに慣れているとつい間違って車内でトラブルになることもあります。

(整理券)
最近「乗車カード」「ICカード」を利用できる路線が都市部では増えましたが、まだまだ整理券方式の路線が主流のようです。
この整理券、最近はバーコード読み取り式になってきました。
(その前にIC化したほうが合理的と思うのですが)

(他社乗入れ)
横浜市民としては、この課題が一番です。
一つの路線に複数の営業会社が走っていることが多く、しかも微妙にルートが異なるため、思わず乗り間違いを起こすことがあります。何時も乗り馴れている(常連客)には普通の出来事のようですが、初めて利用する者にとっては戸惑うことがあります。しかも、バスルート案内は運行会社毎なので、立体的な複数社を使った乗換のための下調べが難しいのです。「駅探」ならぬ「バス探」はできないのでしょうか?
http://www.kanagawabus.or.jp
各社のバス時刻をまとめて調べるには最適ですが、乗り継ぎ調査はできません。
一昨年、バス路線マップが発行されましたが、売れ行きが悪く新版は“おそらく”出ないでしょう。私のような「バス男」君系には必需品なんですが。


横浜市内を運行するバス会社は12社あります。
●横浜市営バス
●神奈中バス
●東急バス
●江ノ電バス
●相鉄バス
●京浜急行バス
●小田急バス
●川崎鶴見臨港バス
●川崎市営バス
 溝25系統 溝口駅前〜高田
●フジエクスプレスバス
 桜木町〜本牧循環
●大新東
 金01・02系統 金沢文庫駅〜レイディアントシティ
●横浜交通開発
 61 系統・117系統 他 横浜市営バスルートの管理(運行)受託路線

同じ名のバス停があります。最初間違いか?と思いましたが実際にあります。
二カ所に「滝頭」

基本、最初にも触れましたが
ローカル路線バスを“ぶらり”乗ることがレアケースなのです。
横浜市内でも「バス乗継」割引が「ICカード」等で可能になると嬉しいです。
同日に二回違う路線を乗り継ぐと420円が350円になるとか。
一日乗車券は現在も発行されていますが、市営バスだけです。
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kyoutuu/ichinichi.html#bus1
エリア内フリーチケットは
☆横浜1DAYきっぷ(京急電鉄)
京急線フリー区間、市営地下鉄・市営バスフリー区間、みなとみらい線フリー区間を組み合わせた一日乗車券
http://www.keikyu-ensen.com/otoku/otoku_yokohama.jsp

☆みなとぶらりチケット
http://www.yokohama-bus.jp/burari/index.html

バスネタブログ
No.339-2 12月4日(火)越すに越されぬ国境(くにざかい)

No.168 6月16日(土) 6月のカナチュウ

No.198 7月16日(月) 最後で最後の

No.92 4月1日 横浜市交通局ブルーライン大人200円

No.367 1月1日(火)この駅「日ノ出町駅」

【写真館】山下公園白灯台

昨年のテーマは山下公園の白灯台でした。
No.105 4月14日 白の悲劇
どうもデジカメのフィルターがおかしく画像に影が映っていますが
山下公園風景を紹介します。

No.438 神奈川奉行入門

特に詳しく知っていて 役に立つとは思えませんが、
恐らく、幕末の幕府役職の中で、
どちらかといえば 任命されたくない
 でも優秀な人材が望まれたポジションでした。
今日は、横浜散策の際 ちょこっと他の人に差をつけるかもしれない神奈川奉行について紹介しましょう。

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神奈川奉行所の運上所が現県庁に

「お奉行!」で最も有名なのが?
遠山の金さん、大岡越前守あたりですかね。
「奉行」という役職の歴史は古く、江戸以前の平安時代からある役職です。
簡単に言えば「行政官」のことで、政務を担当した職名を指しました。
江戸時代に官僚制が成熟し様々な「奉行職」(役職)が設けられました。
■三奉行
寺社奉行
→エリート中のエリートが就任、宗教団体担当
勘定奉行
→会計ソフトの商品名にもなっていますが
 幕府の財務、会計、幕府直轄領の支配等を担当
町奉行
→江戸の民政最高責任者、南北に分かれる
東京都知事兼警視総監兼東京地方裁判所長みたいなもの
■その他
道中奉行、作事奉行、普請奉行、寄場奉行、書物奉行、腰物奉行、吹上添奉行
この他にも様々な役職があったようですが、今日のテーマである
「神奈川奉行」は遠国奉行(おんごくぶぎょう)という役割の中の一つの職制でした。

(遠国奉行)
幕府直轄の要地に配した奉行の総称です。
江戸の町以外の幕府直轄領(天領)のうち重要な場所を管理監督しました。
重要な直轄都市が「京都」「大阪」「駿府」の三都市です。
設置年代順(幕末時点)に都市名を挙げると
長崎・(京都)・(大阪)・伏見・山田・日光・奈良・堺・(駿府)・佐渡・浦賀・下田・新潟・箱館・神奈川・兵庫
といった順です。
長崎奉行は1603年(慶長8年)に設けられた最も古い奉行で外国貿易を政府が管理した最初の奉行です。
数ある各都市奉行の中で
神奈川奉行は1859年(安政6年)に
兵庫奉行が“徳川幕府最後の”設置で1864年(元治元年)でした。
兵庫奉行は短く、殆ど機能しませんでしたので最後の重要な「遠国奉行」が神奈川奉行でした。
長崎に始まり神奈川(横浜)・兵庫(神戸)に終わったのも
歴史の皮肉でしょう。

(神奈川奉行)
横浜港が開港された1859年(安政6年)に開設されました。
開港が決まった初期は外交専門担当の「外国奉行」(遠国奉行より上格)が兼務していました。
初代「外国奉行」が横浜開港をリードした岩瀬忠震です。
神奈川奉行の任務は開国に関する様々な事務ですから
開港場建設の責任でもありました。

設置当初の神奈川奉行は三カ所で運営されました。
当時1,000人以上のスタッフ(役人)を抱え日本最大級の都市管理組織となります。
【会所】→事務所
青木町(神奈川県横浜市神奈川区青木町)

【奉行役所】主に内国司法・行政事務
戸部村宮ヶ崎(同西区紅葉ヶ丘、現・神奈川県立青少年センター)


【運上所】主に関税及び外務全般事務
横浜村波止場近傍(同中区日本大通、現・神奈川県庁付近)
運上所は1860年(万延元年)に独立します。

No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

(外交官兼務の神奈川奉行)
1859年(安政6年7月)外国奉行に就任し、8月には神奈川奉行を兼務早々、重要な命令を受けた「新見正興」は
1860年(万延元年)(3月18日に安政より改元)
日米修好通商条約批准書交換使節団の正使として渡米の任に就きます。
「万延元年遣米使節団」と呼ばれたこの使節団は
副使に村垣範正(淡路守)、監察には小栗忠順(豊後守)が任命され共に外国奉行経験者で批准書交換を達成した優秀な三人組でした。
「万延元年遣米使節団」の護衛という名目で渡米したのが
「咸臨丸」で乗船メンバーが派手?だったので有名になりましたが
正使はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込み横浜よりハワイを経由し太平洋を横断、サンフランシスコに到着しパナマ経由でワシントンD.C.に到着大役を果たします。

開港記念会館のステンドグラスに描かれたポーハタン号
ポーハタン号

到着したのが
1860年5月15日(万延元年閏3月25日)
そして正式に調印(批准書の交換)したのが
旧暦4月2日(1860年5月22日)
アメリカ合衆国大統領ブキャナンと謁見し、
批准書が交換され任務を終えます。
使節団は
1854年の開国後、最初の公式外国訪問団であり、世界一周も達成します。

黒ルートは咸臨丸、遣米使節団は赤と緑ルートで世界一周します

この批准を記念して百年後の1960年に「日米修好通商百年祭」が開催されます。
吉田茂元首相が民間の遣米使節団の団長としてアメリカ諸都市を訪問し、100年前に新見ら遣米使節団を迎えたのと同じ会場で開催された正式午餐会に出席しました。
一方、アイゼンハワー大統領の日本訪問も計画されましたが、日米安保条約改定をめぐる国内の「安保反対」運動の高まりを受けて、実現しませんでした。


使節団をアメリカまで運んだポーハタン (USS Pawhatan) 号をモチーフにしたマークが作られました。

 


写真はその時の切手、記念フラッグと皿です。
「ポーハタン (USS Pawhatan) 号は、南北戦争時の米国海軍の外輪フリゲート艦である。
名前はアメリカ・インディアンのポウハタン族に由来する。米国海軍では最大かつ最後の外輪フリゲート艦であった。嘉永7年(1854年)のペリーの日本再訪の際の黒船の一隻。」
このポーハタン号と同型の「亜墨利加蒸気船 長四十間巾六間」をデザインしたイヤープレートが今年2013年横浜焼の伝統を受け継ぐ
増田工芸によって制作されました。

http://www.masuda-art.com/masuda/cn89/pg1296.html

(余談) 
新見正興が外国奉行就任時の領地は現在の横浜市戸塚区品濃町あたりだったそうです。


今日番外編で咸臨丸

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2

No.34 ‎2月3日 ポサドニック号事件で咸臨丸発進

No.386 清水の次郎長、横浜に通う

No.55 2月24日 YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA

No.437 横浜ドラゴンズ、吉田さんに斬られる!

昔々、横浜に大きな龍が住んでいたそうな。
ところが明治になって
吉田勘兵衛の子孫に胴体を斬られてしまったそうな。
なんて話しを今日は繰り広げます。

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星空を物語に見立てて星座を生み出すとか
地形や風景を花鳥などに見立てる人間の想像力って
素晴らしいものがありますね。
(龍の丘)
本牧から山手、根岸、蒔田そして滝頭までの丘陵地
この一帯の姿を「龍」に見立てた伝説が残っています。

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竜の名を寺院の山号(さんごう)にしたところがこのエリアには
多いのです。

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真ん中の「堀割川」は後から付記したものです
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これらの「龍」をなぞっていくと
大きな龍に姿が“顕れて”きますでしょうか?

頭の部分が
高野山真言宗 龍頭山密蔵院 (瀧頭山?)
横浜市磯子区岡村2丁目16-19

喉頚の部分が
高野山真言宗 青龍山 宝生寺
南区堀之内1丁目
この宝生寺は、歴史上初めて文献に「横浜」の名が登場した古文書を持っているお寺です。
この一帯をかつて治めた平子(たいらこ)氏一族の開基といわれています。

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ちょっと

その他
南龍山 不動院 無量寺
高野山真言宗
横浜市南区蒔田町174

海龍山  本泉寺増徳院
高野山真言宗準別格本山
横浜市南区平楽103
※寺籍は横浜市中区元町1−13
多くの開港後の横浜商人が菩提寺としました。
No.410 横浜最古の寺周遊(前編) 
龍祥山 勝國寺
曹洞宗総持寺派
横浜市南区蒔田町932

曹洞宗 泉谷山竜珠院(りゅうしゅいん)
横浜市磯子区岡村2丁目16-19

(堀割川)
この一帯の丘陵地の首元を削って
堀割川が作られます。
まさに伝説の「龍」の首を斬ったことになります。
その後の言い伝えによれば
この堀割川の完成で 龍は
「増徳院」に移ってしまい
宝生寺以下 堀割川以西の寺は衰退し
「増徳院」が隆盛を極めたとあります。
まさに 堀割川を切り開いた
吉田さんによって
古代・中世の龍伝説が切り落されてしまった
という 物語でした。
(余談)
滝頭の瀧はさんずいに龍を表し龍に関係ありと伝わっている話しもありますが、
地名の由来では 定かではありません。

(堀割川関連)
No.435 大岡川物語(1) 
No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川
No.187 7月5日(木) 目で見る運河

No.436 北仲のお稲荷さん

北仲の「帝蚕倉庫」脇に1990年代、お稲荷さんがあったことを
急に思い出しました。
探したら写真が出てきました。
今は再開発で移動していますが、
2004年位まではあったような??????
ビル関係者に聞けば済む話しですが
些細なことが気になる私としては
真夜中に資料探しとあいなりました。
今日は些細な北仲稲荷?の話しです。

曖昧な記憶ですが最初は赤い塀も無かった?ような

明治頃の北仲に関しては
No.428 Y校創設地はどこだ?

No.429 Y校創設地はどこだ?2

でちょっと触れましたが
古地図には神社らしき記号がありませんでした。

位置的には
みなとみらい線の出口あたりだったか?


ということで
昔(1990年代中心)の地図を引っ張り出してきました。
このあたりも 激変!しています。

おそらく、上記マップの海員会館上部のL時ビルのあたりか?

航空写真ではそれらしき???木立が???気のせい?

1992年時点汽車道の架橋が無い!?

本町六丁目のさくらぎビルに中華料理店?があった記憶もありますね。

北仲橋が架かりました

今日は何の結論も出なかった話しです。お粗末でした。

No.435 【横浜の河川】大岡川物語(1)

大岡川、横浜開港史を語るには欠かせない川です。
多くのエピソードが満載です。
熱狂的なファンの多い「大岡川」を今日は断片的ですが
紹介しましょう。

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横浜市内を流れる河川水系は大きく4つに分けることが出来ます。
1.鶴見川水系(一級河川)
 市内唯一の一級河川です。→鶴見川については
 4月に紹介します。
 No.370 1月4日(金)鶴見川 輪下り絶景
 
2.帷子川水系(二級河川)源流は旭区若葉台近辺から
 No.433 帷子川物語(1)
 
 No.434 帷子川物語(2)
 
3.大岡川水系(二級河川)源流は磯子区氷取沢町円海山近辺
 今日の主人公です。
4.境川水系 (二級河川)源流は町田市相原町近辺
 横浜市境を流れ、支流の柏尾川は戸塚の歴史と共に歩んできました。
 →境川も4月中に紹介します。左馬神社もありますから…。
(大岡川は不思議な川です)
下図をご覧下さい。

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大岡川水路模式図を作ってみました。
シンメトリー(左右対称)でしかも
分水路が同じような位置にあるって
見事ですね。
ということで
この川沿いに自転車で走破してみました。

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途中、笹下川から分水路沿いに山越えがキツかったですが
概ね川筋は勾配もゆったりとしていて最高です。
川沿いの道も(とぎれとぎれですが)整備されています。

走行時期にもよりますが
上大岡あたりから水量が一気に減少します。
分水路の効果が出ているのでしょう。
大岡川に架かる橋、ざくっと数えてみました。

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アバウト100、小さな支流を入れると140位あります。
このツーリングで橋物語も面白いなと思いました。
歴史的に価値のある橋も架かっています。
※浦舟水道橋

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1893年に西之橋として仮設された日本最古のピン結合プラットトラス橋です。
横浜市認定歴史的建造物にも選定された価値ある近代産業資産です。

(分水路)
大岡川には分水路が上流と下流に合わせて二つあります。
下流の堀割川は歴史ある分水路です。

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流域全長は2.7kmあり、
明治初期に吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫が家運をかけて挑み完成させたものです。
「1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募った。吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行った。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定された」(Wikipedia)

堀割川の役割は、説明にもありますが、
・水運用の水路確保→本牧鼻迂回
・吉田新田埋立用土砂確保→埋地七ケ町へ
という二つの目的がありました。
磯子、岡村エリアの人々にとって
開港場と磯子の地域を船で結ぶことが悲願でした。
陸路では山越え
海路では 波の荒い本牧沖を回らなくてはならず
内水路が必要でした。
(車の無い時代、水運が最も大量の荷物を早く運ぶことができました)
本来なら、公共事業として 国なり県が行う事業ですが、
この「堀割川」プロジェクトは
「神奈川県知事・井関盛良が堀割の埋立工事を自費負担で行う者が
あれば許可するから申し出るようにと布達します。
長者町に暮らす九代目・吉田勘兵衛が志願し予算は23万5000円、米国人から借金して計画します。(『磯子の史話』より)」
関連資料を見る限り、どうやら「吉田家」は無理してこの事業に参入せざるを得なかったようです。
堀割川造成計画は、山を切り崩し 水路も同時に作りつつ埋立を行ってしまおう
という壮大な計画でした。

(最後は借金の高利子と災害による工事遅延のためと借用金の高騰した利払いで吉田家は破綻寸前となり国の支援でなんとか完成にこぎつけます)
 

一方上流の<大岡川分水路>は
1981年(昭和56年)に大岡川の洪水を防ぐために作られた人工河川です。
延長は3.64kmあり磯子湾に繋がっています。

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日野川と笹下川、二つの川から水位が上昇すると自然に分流される構造になっています。

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改めて見学!というほどでもありませんが
河川工事の凄さを実感できる構造を観ることができます。

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第896話【横浜の河川】大岡川物語(2)

第896話【横浜の河川】大岡川物語(2)

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催

ちょっと刺激的なタイトルにしてみました。
今日3月24日は1989年(平成元年)YES’89 横浜博覧会の開会式が行われた日です。
<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>

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自作です。実際はもう少し右方向にランドマークが見える感じです
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山下公園から撮影

このテーマは昨年の今日
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

で取上げましたが 再度取上げました。

改めて
「みなとみらい」関係のテーマの多さに自分でも驚きました。
三菱造船所の跡地を再開発した

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平成最大のプロジェクトではないでしょうか。
スタートと同時にバブルが崩壊し、
お荷物!と批判を浴びながらも 少しずつ進んできました。

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みなとみらいといえば、最新ニュース

横浜・臨港幹線道「開かずのトンネル」も完成から14年目にして開通することになりました。
全長 約1.3キロで、1986年着工1999年に完成しましたが眠っていました。
総工費約300億円、当時は周辺の交通量が当初の予想に満たなかった上、年間約8千万円の維持費がかかるため、開通が見送られてきたという経緯があります?
ここが開通しても この臨港幹線道路全体が開通した訳ではありません。
「横浜市港湾局によると、開通した地下トンネルは片側1車線の市道で、「みなとみらいトンネル」と名付けられた。同市の西区みなとみらい―中区新港間の1・3キロ・メートルを結ぶ。商業施設の密集するみなとみらい21地区(MM21)の中心部の混雑を避けて、その地下を通り抜けられるようになった。同局は1日約5000台の通行量を見込んでいる。」
ということですがちょっと勘ぐりたくなるタイミング?ですね。
(何が? 関内エリアの交通量がぐっと増えますよね。)

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無理やり探してきた写真です。近々もっとわかりやすいものに差し替えます

※写真 マップは調達が間に合いませんでした。
後日しっかり作ります。

改めて
「みなとみらい」関係のテーマの多さに自分でも驚きました。
今日は「みなとみらい」関係の関連リンクも集めてみました。

No.279 10月5日 (金)赤い靴シティ1丁目 
「みなとみらい」命名のエピソード
No.37 2月6日 都市デザインの実践場

みなとみらい計画について
No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
開港の道について
No.90 3月30日 環状鉄道の夢

このブログトータルで最もアクセスが多いテーマ。
注目度ナンバーワン。理由は何故だか判りません。

No.191 7月9日(火) 宙に舞う話
大観覧車の話

No.58 2月27日 政治家が辞めるとき
基本政策 横浜六大事業

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
みなとみらいスタートイベント横浜博覧会開会

No.87 3月27日 (火) 横浜駅のヘソが変わる
横浜駅が変化します!
※この記事も注目度が高いテーマです。

No.200 7月18日(水)無限の境界
「クイーンズスクエア横浜」開業

No.211 7月29日 (日)株式会社横浜国際平和会議場

みなとみらいのコンベンション機能強化

No.220 8月7日 (火)Visit Yokohama MM
みなとみらいホテル建設ラッシュ

No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
横浜駅東西南北競争

No.430 鶴見警察署長・大川常吉

今日は連発です。
年表で探しにくい「3月21日」のエピソードです。
この日に因んだ「大川常吉」さんの話しを紹介します。
大川さんは関東大震災の時、流言飛語に凛とした態度で正義を守った人物として、現在まで語り継がれている人です。

横浜市鶴見区潮田にある「東漸寺(とうぜんじ)」本堂横に建つ記念碑には
「故大川常吉氏の碑
 関東大震災当時、流言飛語により激昂した一部暴民が鶴見にすむ朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し、当時鶴見警察署長故大川常吉氏は、死を賭してその非を強く戒め、三〇〇余名の生命を救護したことは誠に美徳である故、私たちはここに故人の冥福を祈り、その徳を永久に讃揚する。
       一九五三年三月二一日 
           在日朝鮮統一民主戦線鶴見委員会」

と記されています。


No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

震災後のパニック状態の中、
約300人の朝鮮人、中国人を暴徒から守った警察官が大川常吉です。
この事を知ったのは 10年前にこの本の著者キョンナムさんのトークショーで紹介された一冊の本「ポッカリ月が出ましたら」からでした。


大川常吉さんは1877年(明治10年)に生まれ、震災時は46歳でした。
大正12年9月1日に起った関東大震災の直後、
「朝鮮人が井戸に毒をいれた。」
「震災の混乱に乗じて日本人を襲ってくる。」
というデマが広がり、全国で朝鮮人に対する迫害、襲撃虐殺事件が起こります。
この朝鮮人に対する流言飛語は、無責任な“新聞記事”も
火に油を注ぐ役割を果たしました。
当時の鶴見警察署は署員30人あまりの今とは比較にならない小さな警察署でした。ここに震災で被災したおよそ300人の朝鮮人・中国人が保護を求めてきました。署長大川常吉さんは、警察署を取り巻いて騒乱状態になっている中で
「持っているビンに毒が入っている。たたき殺せ」という声に
「その井戸水を持ってこい。私が飲んで死ねば朝鮮人を引き渡す。異常が無ければ私に預けよ。」
「私を信頼しないのなら、朝鮮人を殺す前に、この大川を殺せ。自分を殺してから中へ入れ。」
と警察署の入口に仁王立ちで暴徒に冷静さを求めたという事件です。
「どこの国の人間であろうと、人の生命に変わりはない。それを守るのが私の任務だ。」とも語ったそうです。
この碑に記されている
「在日朝鮮統一民主戦線」という厳めしい名は
今緊張感の高まる北朝鮮系「朝鮮総連」の前身ですが、
日本人を賞賛することはかなり珍しいことだと在日の友人も語っていました。
地元では 現在でも語り継がれているそうです。
当時、鶴見町の有力者・町議会議員だった人の日記が残されているそうです。
事件の時、大川署長とまちの人々とのやりとりも克明に記録があるそうです。
日本の小さな街の小さな事件ですが、
 この時代と、人間の尊厳を再確認する 重い事件といえるでしょう。

No.428 Y校創設地はどこだ?

タイトルほどの、謎解きではありません。
3月20日のネタ貼に
「横浜商法学校、横浜町会所内に開校」とありました。
あれ?記憶違い?から 謎解きが始まりました。

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■横浜商法学校とは、
横浜市立横浜商業高等学校(愛称Y校)の前身です。
Wiki等で変遷を整理すると
★横浜市立横浜商業高等学校は?
1882年(明治15年)3月20日開校の横浜商法学校
→横浜商業学校→本町外十三ヶ町立横浜商業学校
→横浜市立横浜商業学校→横浜市立横浜商業高等学校
と整理できました。
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/hs/y-shogyo/
場所に関しては
1882年(明治15年)
横浜商法学校が設立され,町会所桜上にて授業を開始(3月20日)
1905年(明治38年)
南太田の現在地に校舎が落成し,移転した(9月)
と(Y校のHP)の記事があります。

ところが私愛用の
1892年(明治25年)発行の地図に「横浜商法学校」の記載があったような?
確認してみると

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北仲に「商業学校」「横濱学校」という記載がありました。
記憶通りではありませんでした。
学校名が違う! 北仲にある学校は?
明治15年の地図には「如春学校」と記載されています。
「本町に小学如春学舎」

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学制に従い北仲通三丁目に第l大学区、第七中学区、第一番小学壮行学
舎として創立
第二番小学如春学舎(明治6年5月、元弁天の官舎に創設)
第三番小学同文学舎(明治6年6月、住吉町に創設)を併合して
元浜町一丁目に移転、横浜学校と改称

「横浜近代史年表」他の資料から
横浜商法学校は、
1882年(明治15年)3月20日
町会所(現在の開港記念会館)で創立され
11月26日 27日(※修正します)理由は明日を読んでください!
本町六丁目・北仲通六丁目に新築移転

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とわかりました。

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No.267 9月23日(日)Yの真価

No.349 12月14日(金)6人の指導者達

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昭和初期の北仲

【Y校の歴史】
1882年(明治38年)港の有力生糸商人・小野光景らにより横浜商法学校設立。
1888年(明治44年)横浜商業学校と改称。
1905年(明治38年)現在地に校舎が落成し、移転。
1917年(大正6年)横浜市立商業学校と改称。
1924年(大正13年)本科の上に2年制の専修科を置く。神中(神高)戦[2]が開始される。
1928年(昭和3年)専修科を母体に横浜市立横浜商業専門学校(通称Y専)を設置。
1948年(昭和23年)学制改革により横浜市立横浜商業高等学校となる。
1949年(昭和24年)横浜市立港高等学校を統合し、男女共学となる。商業科、普通科、家政科、別科として理容科が設置される。港高校の夜学部を港分校とした。
1950年(昭和25年)港分校は横浜市立港高等学校(定時制)として分離独立した(港高校の復活)。
1982年(昭和57年)創立100周年記念式典挙行。