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【ミニミニ今日の横浜】2月28日

この日、2月の終わり28日も取り上げてみたい出来事が多くあります。

■■1881年(明治14年)の今日
左右田 喜一郎が横浜で生まれました。
左右田(そうだ)の名で<銀行>と連想された方はかなりの横浜通ですね。
左右田銀行を一代で築いた左右田金作の長男、喜一郎は幼い頃から優秀で、1887年(明治20年)に入学した横浜小学校では第1学年を飛ばし2年生として入学、飛び級入学の草分け?といえるでしょう。
経済学者、経済哲学者であり新カント主義者の哲学者でもありました。
横浜商業学校(Y校・現横浜市立横浜商業高等学校)を経て
東京高等商業学校(現一橋大学)を優秀な成績で卒業します。
卒業後英国とドイツに学びます。留学中、父「左右田金作」の病気を知り、
1913年(大正2年)家業を継ぐために留学先より帰国します。
1914年(大正3年)父の創設した左右田銀行の取締役及び株式会社左右田貯蓄銀行の取締役に就任し父の銀行を引き継ぎます。
1915年(大正4年)3月26日、創業者 左右田金作は死去し喜一郎は頭取に就任、横浜経済界の様々な役職にも就きます。
また実業家でありながらも経済哲学の研究も続け
1918年(大正7年)からは京都帝国大学(現京都大学)文学部講師も務めました。
1920年(大正9年)の経済恐慌で横浜の有力総合商社「茂木商店」が破産し取り付け連鎖が起こります。市内の有力金融機関「七十四銀行」「神奈川銀行」「戸塚銀行」などが取り付け騒ぎとなり経営危機に。
この一連の取付騒ぎに連鎖し「左右田銀行」も経営危機となりますがなんとか倒産までは免れます。ところが大震災がそれに拍車をかけ、ついに銀行が経営破たん状態となり、喜一郎も母校東京商科大学講師や、京都帝国大学講師、貴族院議員という一切の公職をやめ事後処理にあたりますが、苦難の中、
1927年(昭和2年)8月11日病気のため46歳の若さで死去します。
リーダーを失った左右田銀行は1927年(昭和2年)12月7日に横浜興信銀行(後の横浜銀行)に引き取られ(営業譲渡)ます。

■■1902年(明治35年)の今日
「茶輸出米国商モリアン・ハイマン商会、横浜支店閉鎖(横浜歴史年表)」
この「モリアン・ハイマン商会」は神戸では有名な商社でした。ここでは米国商と表記されていますが、英国人2名が作った商社です。
(グラバーが残したパイオニア)
幕末に活躍したグラバーとフランシス・グルームが設立したグラバー商会に勤めていた二人の英国人が神戸に商社を開きます。
グラバー商会創設者の一人フランシス・グルームの弟アーサー・ヘスケス・グルームと同僚のハイマンが設立した会社で、主に日本茶の輸出とセイロンティーの輸入を手掛けます。幕末の武器を扱う政商だったグラバーの時代が終わり1870年(明治3年)にグラバー商会は倒産します。残された二人は居留地101番地にモリアン・ハイマン商会を設立し着実にビジネスを拡大していきます。
その後、アメリカに対しお茶のビッグビジネスが行われていた横浜に1883年(明治16年)本拠地を移します。
ところが横浜でのビジネスはあまり上手くいかず、
1902年(明治35年)の今日<横浜支店>を閉鎖し、神戸へ引き返すことにします。神戸居留地内の播磨町34・35番地に商社を構え改めて茶の輸出を続け利益を上げていきます。グルーム個人はリゾートビジネスに進出「オリエンタルホテル」を買収しゲオルグ・デ・ラランデの設計による新館を建設、「東洋一の洋館ホテル」と呼ばれました。ゴルフクラブの経営等、六甲山エリアの整備開発に私財を投じ順調に伸びていきますが、第一次世界大戦後の恐慌のあおりを受けオリエンタルホテルの経営状態が悪化、
1916年(大正5年)に経営権を横浜と縁の深い浅野総一郎に売却し破産を免れます。しかし、1918年(大正7年)1月2日に神戸倶楽部で開かれた新年会に出席したとき泥酔し転倒、傷口から破傷風に感染したことが原因で9日に死亡してしまいます。

■■1891年(明治24年)の今日
「川上音次郎一党は壮士芝居を吉田町蔦座で旗上興行したが幕間に演説をしてその筋の忌諱にふれた。オッペケペー節はこの時から初まつたものである(横浜歴史年表)」
こに記事にある「川上音次郎」は「川上音二郎」の誤りと思われます。私のブログでもいくつかの違った視点で紹介しています。
川上音二郎は筑前黒田藩(福岡藩)出身、「オッペケペー節」で一世を風靡した当時のパフォーマンス・アーティストの代表格です。
過去のブログでも書きましたが、wikipediaの川上紹介には横浜・茅ヶ崎との関連が全く触れられていません。このあたりに詳しい方、ぜひ追記されてはいかがでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/川上音二郎

No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=621

1895年(明治28年)1月2日の話
No.415 横濱的音楽世界
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=162

No.397 横浜「座・樓・亭」探し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=182

No.155 6月3日(日) パリ万博と神奈川沖
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=458

(2月28日関連ブログ)
1961年(昭和36年)の今日
日本郵船、氷川丸を氷川丸観光に売却。氷川丸観光株式会社を設立し6月1日に開業しました。(NYK資料)

No.59 2月28日 アジア有数の外為銀行開業
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=561
1880年(明治13年)この日横浜正金銀行開業

 
川上 音二郎
(かわかみ おとじろう、1864年2月8日(文久4年1月1日) – 1911年11月11日)は、筑前黒田藩(福岡藩)出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博した。「新派劇の父」と称される。 Wikipedia

【今日の横浜2015】1月24日

横浜の幕末明治を記録した資料に「横浜沿革誌(明治25年刊)」があり、時折史料として活用します。
1877年(明治10年)の今日の記述に
「京都へ海路行幸被為遊 當日午前九時二十分横浜停車場へ着御 元弁天東海鎮守府へ御休憩 十時三十分同海岸より小蒸気船に被為召高雄艦へ乗御 十一時御発艦 此時碇泊軍艦神奈川砲臺より祝砲を発す 清輝艦御先導を為し春日、東、孟春、千代田、鳳翔、浅間、摂津の七艦あわせて仏国軍艦一艘供奉す」
とありました。
内容は、明治天皇が船で京都行幸に出発するため列車で横浜に到着し<休憩>後発艦しましたというものです。
ここで取り上げるのはここに登場する「元弁天東海鎮守府」についてです。「元」となっているのは明治天皇が<元鎮守府>施設を使用したのではなく、この「横浜沿革誌」が書かれた明治25年時点では移転していたので「元」と表記されています。
東海鎮守府は1876年(明治9年)横浜に仮設され8年後の
1884年(明治17年)横須賀に移転した日本海軍の統轄機関です。
この鎮守府、当初の計画では1875年(明治8年)に海軍が日本周辺を大きく東西2海面に分け指揮管理する組織編成をしたことに始まります。
結果、東海鎮守府が横浜に<仮設置>され 西海鎮守府も計画していましたが設置されず東西の代わりに地域鎮守府が設置されることになります。
この約8年横浜にあった東海鎮守府について紹介しましょう。
「東海鎮守府」の場所はどこにあったか?
資料によりますと
「横浜北仲通6丁目旧ドイツ領事館跡」に設置されました。隣には灯台寮がありました。灯台寮(局)は元々洲干弁天の横にあった官舎跡に当時「灯台掛」用の木工場跡地に開設されたものです。
また鎮守府の東側は、神奈川裁判所(横浜裁判所)が「元フランス公使館跡」に建ちます。
「鎮守府」は約8年横浜に設置されていましたが、横須賀に組織が移った後は、一時期「弁天御用邸」として皇室関係の施設として利用されていたようです。
現在の北仲エリアですが 灯台・鎮守・御用邸・本町小学校・商学校・万国橋など
このエリアのエピソードはかなりありそうですね。

暦で語る今日の横浜【9月28日】

暦で語る今日の横浜【9月28日】

No.24 1月24日 西へ新たなフロンティアへ

No.24 1月24日 西へ新たなフロンティアへ

【ミニミニ今日の横浜】3月3日

1925年(大正14年)の今日3月3日

フォード横浜工場

横浜市神奈川区子安にアジア初の「日本フォード」製造工場が開設されました。
このフォードの進出が、日本自動車産業界に大きなインパクトを与えました。日本の自動車生産革命が<横浜>から始まったといっても過言ではありません。
フォード工場位置 (超簡単 自動車史)
日本の自動車産業は戦後、トヨタ自動車を筆頭に日本メーカーは戦後日本経済を牽引してきた、戦後経済復興のシンボルでした。急成長を遂げた自動車産業、その基盤は戦前の横浜に築かれました。
簡単に自動車産業史を追ってみます。
ヨーロッパで生まれた自動車は、アメリカで産業として確立します。
日本が開港によって近代化の道を歩むことになりますが、自動車市場が花開くには様々な社会構造の近代化が必要でした。フォードも対アジア市場として日本に対し日露戦争が終結した1905年(明治38年)に輸出を開始します。
国内自動車製造業も次々と設立されますが個人工場の域を出ることができませんでした。
1925年(大正14年)2月17日に資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立されます。そして
3月3日の今日、
工場を開設、当初は本国モデルの左ハンドルT型フォードをノックダウン生産します。
遅れること二年、ゼネラル・モーターズが大阪に拠点を置き生産を初め米国二大自動車メーカーによる東西競争が始まります。
昭和初期、日本の道路は
横浜産のフォード、
大阪産のシボレーが席捲します。
日本のモータリゼーションが、米国の大手二社によって始まった事実はあまり知られていません。勿論、日本メーカーも国産自動車の増産と販売に努めます。
1933年(昭和8年)自動車製造(株)が横浜に設立され、翌年から年間1,000台ペースで生産開始しますがフォード横浜工場の生産能力は年間1万台、規模の違いは圧倒的でした。
その後、フォード(横浜工場)は、神奈川区守屋町2丁目1343番地に、敷地11,266.98坪規模の子安新工場を立ち上げ、右ハンドルのモデルAの本格的な生産を開始します。最盛期には一日当り200台の生産能力を持っていたそうです。
1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定。この法律により、国内資本が50%以上の企業のみ自動車製造が制限されたことで、
1939年(昭和14年)12月にはトヨタ・日産・フォード間の合弁企業設立交渉が行われたこともありましたが、軍部からの強い横槍があり夢の合弁はたち消えとなってしまいます。
日本フォード社は1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされます。1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月終戦までの期間は日本政府に接収され、戦後の連合国軍接収を経てフォードに返還、現在はマツダのR&D(研究開発)センターとなっています。

1933年(昭和8年)12月26日、横浜に設立された自動車製造(株)が、後の日産自動車となります。
日産自動車も横浜ルーツの企業で、現在横浜に本社が移転(戻って)しました。
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http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
(3月3日関連ネタ)
■1854年3月31日(嘉永7年3月3日)
「神奈川にて日米和親条約締結」
とありますが、<神奈川にて>ではなく<横浜で神奈川条約>を結んだと表現するほうが正しい。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港することを決定します。
米国側
漢文担当の主席通訳官サミュエル・ウィリアムズ
オランダ語通訳アントン・ポートマン
日本側
第1通訳担当が森山栄之助

<森山栄之助関連>
No.412 多吉郎、横浜に死す。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=166

<日米和親条約締結>
No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=556

<日米和親条約締結関連>
No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=521

 

【ミニミニ今日の横浜】3月7日

1978年(昭和53年)の今日

「首都高速道路横浜市道1号横羽線・2号三ツ沢線が開通。」
横浜駅西口出入口(金港JCT)から神奈川区の三ツ沢(第三京浜との接続)が開通しました。これによって首都高速神奈川2号三ツ沢線が全線開通します。
広い意味での「狩場インターチェンジ」の機能が完成し、
首都高速道路、保土ヶ谷バイパス、第三京浜道路、横浜新道に接続します。この時点では「横浜横須賀道路」は未完成です。
2号三ツ沢線 金港JCT〜三ツ沢JCT間 2.3Kmの短い区間ですが、この2号線の開通で、横浜の道路網の重要な区間がつながったことになります。
light_首都高三ツ沢線 <関連年表>
1959年(昭和34年)10月28日
国道1号横浜新道の全線が開通します。
1965年(昭和40年)12月19日
第三京浜が全線開通します。
1968年(昭和43年)7月5日
第三京浜と横浜新道との連絡路が開通します。
昭和40年 1972年(昭和47年)8月7日
横羽線、金港JCTまで開通します。
1973年(昭和48年)4月17日
保土ヶ谷バイパスが開通し、新保土ヶ谷インターチェンジの一部が供用開始となります。
1974年(昭和49年)9月25日
新保土ヶ谷インターチェンジ〜狩場インターチェンジ間が開通し、新保土ヶ谷インターチェンジが全面通行可能となります。
1978年(昭和53年)3月7日
横羽線・2号三ツ沢線が開通し横浜新道・第三京浜と接続しました。
同時に横羽線・1号の金港JCT〜横浜公園出入口区間が開通します。
1979年(昭和54年)12月6日
有料道路「横浜横須賀道路」日野IC〜朝比奈IC間が開通します。
1984年(昭和59年)2月2日
横羽線が横浜公園出入口〜石川町JCT開通で、全線開通。
1985年(昭和60年)4月1日
横浜新道と首都高速神奈川2号三ツ沢線とを連絡する「三ツ沢ジャンクション」を新設。
1993年(平成5年)3月1日
首都高速神奈川2号三ツ沢線三ツ沢ジャンクション改良
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(3月7日関連年表)
No.67 3月7日 教育会館にて夜露死苦!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=552
下記の
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=578
では、荒廃する子供達の姿が浮き彫りにされました。
金属バット事件から校内暴力へと拡大していく時代です。
あなたにとって 80年代はどんな時代だったでしょうか?

その他
1948年(昭和23年)の今日
新警察法の公布に伴い、自治体警察として「横浜市警察」が発足します。市内各警察署は例えば「横浜市加賀町警察署」と名乗ることになります。
同時期に消防組織も自治消防組織となり1948年(昭和23年)の今日、横浜市消防本部が設置されます。
※加賀町警察といえば横浜最初の警察署です。
No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=422

light_加賀町警察

【ミニミニ今日の横浜】3月6日

今日3月6日の話題は全て じっくり紹介したい濃厚なテーマですが、
この【ミニミニ今日の横浜】では残念ですがさらっとアウトラインを。

■1911年(明治44年)の今日
「神奈川の神風閣(元神風楼)が焼失した。その際イギリス人および邦人3名が焼死した(横浜歴史年表)」
神風楼は遊郭です。横濱の遊郭移動史を一度整理して紹介せねば!!と思っているだけで中々まとまっていませんが、市役所同様(比較が悪い)引越しの歴史です。
最初は太田屋新田(現在の横浜公園あたり)に港崎遊郭(代表が「岩亀楼」)を作り最も華やかな時代でした。
火災で関外の吉田新田北一ツ目に移動、吉原遊郭といわれました。
またまた火災で焼失、高島町に移転して高島町遊郭となります。
この時の代表が「神風楼」で、経営者は高島嘉右衛門。
その後また火災で焼失吉田新田の南三ツ目に移動。戦後の1958年(昭和34年)まで永真遊郭街として引き継がれます。この他にも、市内には幾つか遊廓が存在した地域がありました。弘明寺とか台町とか。
この辺は別途紹介します!
light_横濱絵葉書021 light_横濱絵葉書025 「神風楼」は「No.9」という看板を掲げ有名になりますが、この神風楼にまつわる話(人物)はたとえば清水次郎長(山本長五郎)、若き野口英世、箱根富士屋ホテル創業者 山口仙之助の養父は山口粂蔵で、ここ神風楼の支配人でした。
No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜

■1928年(昭和3年)の今日
「戸塚実科高等女学校が創立された(横浜歴史年表)」
1928年(昭和3年)3月6日認可  戸塚町立戸塚実科高等女学校
1939年(昭和14年)4月1日  横浜市立戸塚実科高等女学校
1943年(昭和18年)4月1日  横浜市立戸塚高等女学校
1948年(昭和23年)4月1日  横浜市立戸塚高等学校
校歌は佐佐木信綱作詞、信時潔作曲共に校歌づくりの巨匠で晩年の作。

■1936年(昭和11年)の今日
「チャップリンが横浜に上陸した(横浜歴史年表)」
当時世界的な有名人だったチャップリンはアジア紀行の際、北太平洋の女王「氷川丸」を選びます。その理由は<氷川丸の「天麩羅」がチャップリンを虜にした>からだといわれています。

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=500

■1940年(昭和15年)の今日
「横浜・サイパン・パラオ間の定期航空が開始された(横浜歴史年表)」
これが今日の一番ネタです。
「南洋群島とわが本土とを結ぶ横浜〜サイパン〜パラオ間四千百二十キロの空の制覇に向った大日本航空旅客輸送は六日横浜、サイパン間を見事征服し日本航空界の輝かしい躍進振りを見せている時、六日の決算委員会で福田関次郎氏(民政)が航空路の拡充、航空不安の除去その他につき質問、藤原航空局長官、桜井航研技術部長からそれぞれ答弁があった、その答弁の中で最も注意を引くものに南洋島を空から結ぶいわゆる南洋島内線の拡充で、これは現在横浜からサイパン、パラオまでの航空路をヤルートまで延長しさらにパラオ、ヤルート間のトラック島とサイパンを結ぶことになっているが、この実現は来る七月から十二月まで毎月一回試験飛行を行い昭和十六年一月から定期空路を確立すべく努めることになった(大阪毎日新聞)」
と当時の新聞記事にもあるように、
かつて横濱、磯子から国際線が飛び立っていたという事実だけでも驚きです。
根岸飛行場あたり 横濱で教鞭をとっていた作家「中島敦」も作品の中で横濱の飛行場を描いたシーンがあります。
No.692 世界一周機「ニッポン」(号)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6006
No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=393
暦で語る今日の横浜【9月10日】
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=75
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=207
いずれじっくり紹介したいと思います。

(3月6日関連ブログ)
No.66 3月6日 ラーメンがなくなる日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=553

【ミニミニ今日の横浜】3月5日

タイムリーなネタから

1854年(嘉永7年3月5日)
「吉田松陰、海外渡航を狙って保土ケ谷宿にくる。」
数え年・25歳の時のことです。

ペリーが来航した際、一年後の再来を予告し去りますが、
半年も早くペリーは
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)
琉球を経由して再び浦賀に来航し幕府を慌てさせます。その後も次々と艦船が江戸湾に入港、
3月19日(嘉永7年2月21日)
最終的に総勢9隻のペリー艦隊が江戸湾に集結します。
この時 ペリーに直接会う!と決めた人物が吉田松蔭です。足軽の金子重之輔と二人で、まず東海道の「保土ケ谷宿」に入り、そこから横濱に入ります。(おそらく 保土ケ谷道から戸部に出た?)
light_吉田松陰 ところが横濱では沖のペリー艦隊に近づくことが実行できず失敗。
ペリーが下田に移動したことを知り、伊豆に向かった松蔭らは海岸につないであった漁民の小舟を盗み艦船に向かい旗艦ポーハタン号に乗船、渡航を直訴しますが拒否され、断念。幕府の命で萩の野山獄に幽囚されることになります。下田踏海事件というそうです。
これを美談とするのか、愚行とするのか? 意見が別れるところです。
日米ワシン

No.65 3月5日 サルビアホール一周年(改訂)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=554
今日は 短く 失礼します。

【ミニミニ今日の横浜】3月4日

今日は簡単に

1947年(昭和22年)の今日
「野毛にマッカーサー劇場(実演と映画封切り)開場」
野毛の一角に戦後一時期占領軍司令官<マックアーサー>の名の劇場が野毛にありました。
位置は現在の桜木町JRAあたりで
美空ひばりが本格デビューを果たした「横浜国際劇場」に隣接した場所に同時期開館しました。 ※横浜国際劇場 5月5日開館

「マッカーサー劇場」は地図・写真記録等から<マックアーサー劇場>となっていましたが、記録ではマッカーサーとなっています。
Douglas MacArthur 確かにマックアーサーと読むのが素直ですが、スコットランド・ゲール語で息子を意味する<アーサーの子MacArthu>は一般的にマッカーサーと表記されています。
http://www.hamakei.com/photoflash/816/

野毛の「横浜国際劇場」は日本映画・演芸・歌謡ショー中心の劇場で
「マッカーサー劇場」は洋画専門館としてオープンしました。
(占領の時代)
1945年(昭和20年)に戦争が集結し、米軍が横浜市域の多くを接収します。米国駐留軍は軍事施設を初め、住宅施設・補給施設そして文化施設を横浜に設置します。
特に住宅が多かったためか<映画館、劇場、スポーツ等>の文化施設が横浜中心部に開設します。
占領文化施設の一部を下記に示します。
「横浜赤十字クラブ」「バンカー ズ・クラブ」「ゴールデ ンドラゴン・クラブ」「ク ロスロード・クラブ」「ゼブラ・クラブ」「コロニアル・クラブ」「セブ・メス・ホール」「ルー・ゲーリックスタジアム(平和球場→横浜球場)」
伊勢佐木町に開設された「オクタゴン劇場(横浜松竹劇場の跡廃止)」
開港記念会館は「メモリアル・ホール」
松屋伊勢佐木町店は「横浜PXメインストア」

米軍施設ではない「マッカーサー劇場」は、アメリカの民間企業が建てたものなのか?
当時の神奈川新聞では
「其の名も”マッカーサー劇場”元帥を讃へ横濱野毛に開館」とタイトルが書かれていますので、戦後日本が占領軍司令官を多く<讃え>た施設の一つといえるでしょう。
戦後の日本、アメリカに対し<節操が無い>のか<日本独特の柔軟性>なのか議論の別れるところですが、占領軍へのプレセンスをいち早く行った横浜市民の受容性には感服します。
「一般からその館名を公募してゐたところ、廳募は1万7千通に上った。二十三日にその審査を開催、堀内敬三(音楽家)北林透馬(作家)中山富久(作曲家)橘正禄(舞踊家)青木純二(神奈川新聞文化部長)平古壽次(瑞穂興業社長)などが厳選入選候補としてマッカーサー劇場、ミューズ劇場、希望劇場、セントラル劇場、オリンパス劇場などが残った、さらに審査の上で確定するが、進駐軍当局の認可を得てマッカーサー劇場と命名されると、日本では最初のマックアーサー元帥を讃える劇場が横濱に誕生するわけ、尚この劇場では横濱で最初のダンシングチームや市民演劇團も育成していくといふ。
(昭和21年9月26日付神奈川新聞)」

ちなみにこの1947年(昭和22年)時代
横浜市役所は、マッカーサー劇場から徒歩5分
五代目市庁舎(1944 年~1950年)として旧老松国民学校(老松中学校)にありました。

(関連ブログ)
No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=476

No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352

No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363
(3月4日関連過去ブログ)
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=555

【横浜雑学録】昭和21年地形図の謎(改訂版プラス)

2019年正月、加筆修正しました。
ブログ作成をきっかけに<横浜関係の資料>を収集するようになりました。
主な歴史資料としては古書・絵葉書そして地図です。その中で、現在手元に横浜エリアの地形図が何枚かあります。
改めて 整理してみると些細なことですが 気がついたことがありますので紹介しておきます

(地形図5万分1 昭和21年発行「横濱」)
昭和21年発行の5万分1
図域名:「横濱」を複数枚入手しました。
一見して全て同じ地形図ですがよくよく見ると 中に表記の異なるものがあるからです。
昭和21年、日本は敗戦後の占領体制の時代です。特に横浜はGHQの重要施設があったこともあり、変化の真っ只中にありました。
この年に発行された地形図、
「発行年月」はまったく同じで<発行日>と<価格>、<内容>が微妙に異なるものが見つかりました。
「国土地理院」のデータによると
5万分1図名:「横浜よこはま」の昭和21年版については下記の情報があります。国土地理院「横浜」一覧リストでは
※昭和7年測量二修正版が昭和21年8月31日に発行。
ところが現物では「昭和7年測量二修正版昭和21年発行」でありながら
内容の異なるものが5種類もありました。

3円50銭
内務省地理調査所3円50銭
8月30日10円
地理調査所8月30日発行10円
8月30日15円
地理調査所8月30日15円

大きくは8月30日地理調査所発行のものと8月31日内務省地理調査所発行のものに分かれます。
さらに異なった価格設定が行われています。
◎その1

昭和21年8月30日発行 「地理調査所」版 定価10円と15円
◎その2
昭和21年8月31日発行 「内務省地理調査所」版 定価2円と3円50銭
◎その3
昭和21年8月31日発行 「地理調査所」版 3円50銭
地図右肩にある区分指定や凡例にも違いがあるようなので比較してみました。

<発行所>
発行所は
「内務省地理調査所」「地理調査所」の二種類
「内務省地理調査所」は終戦2週間後の
1945年(昭和20年)9月1日付けで文民組織である内務省地理調査所が新たに発足し、
1948年(昭和23年)1月1日に建設院(建設省)地理調査所となり
1960年(昭和35年)7月1日に国土地理院となります。
<発行日>
発行の月日は 8月30日と8月31日の二種類あります。冒頭でも紹介したように
国土地理院データでは昭和7年測量二修正版昭和21年8月31日発行のみとなっています。
<頒布価格>
定価2円・3円50銭・10円・15円
改訂版が発行された昭和26年版までの5年間に組織や経済環境が急激に変化していることがこのデータからも読み取ることができます。
物価推移から調べてみると
昭和21年から昭和26年までの間に
(山手線初乗り)
20銭→50銭→3円→5円→10円
(鉛筆1本)
50銭→2円→5円→10円
(白米<農政米>価格)
36円→150円→357円→405円→445円→620円
1946年(昭和21年)2月に新円切替が行われました。
右肩境界確定 右肩境界未確定<区分>
神奈川県武蔵国・相模国
鶴見区・神奈川区の境界未定
地図本体の中身に違い! は?
鶴見区と神奈川区は1927年(昭和2年)10月1日に区制施行により横浜市に編入されますが、昭和期に急速に拡大した埋立て地の境界が未確定の時期の原図を使ったものだと推測できます。境界

この地図の元となったのが
<昭和7年測量二修正版>とあります。
以降発行された
昭和21年まで戦争直前から戦中を経て、戦後最初の発行となったものが今回謎多き地形図です。
この昭和21年版、内容は昭和7年時点のままの部分が多数あります。細部まで確認していませんが、顕著な例は鉄道路線の延伸時期です。
神中鉄道神中鉄道が横浜駅まで乗り入れていませんので1933年(昭和8年)以前、
湘南電気鉄道と京浜電気鉄道の<連結前>の図であることも昭和初期の時点ということが推測できます。

東京急行東横線
東京急行東横線
西区・中区 分区
西区・中区
東京横浜電鉄
東京横浜電鉄
湘南電気鉄道
湘南電気鉄道
京浜急行 南区
京浜急行 南区

 その他は?
根気強くエリアをチェックしますか    。

No.708 【1月15日】神奈川県令の交代

1874年(明治7年)の今日
神奈川県令の交代がありました。
「マリアルス号」事件で英断を下した神奈川県(権令)「大江卓」が大蔵省五等出仕の任命を受け転任します。後継には横浜運上所在勤、租税権頭だった20代の若き「中島信行」が就任します。(〜1876年(明治9年)3月28日)
権令(ごんれい)とは県令に次ぐ県の地方長官のことです。
大江卓は、ペルー船籍の「マリアルス号」事件で、事態解決のため担当(県令)だった「陸奥宗光」の代わりに急遽神奈川権令となり日本の司法権を守ったことで有名な人物です。
大江卓の妻は後藤象二郎次女、小苗で、後藤象二郎が義父にあたります。
この大江卓は横浜に名を残しています。桜木町駅前から関内方向に走る16号線の「大江橋」です。現在は「大江橋」に隣接して「桜川橋」が架かっているため特に目立ちませんが、横浜が<運河の時代>だったころは初代横浜駅と関内を結ぶ重要な橋でした。

「マリア・ルス事件〜大江卓と奴隷解放」武田八洲満 著 (有隣堂、1981年5月)
No.257 9月13日(水)司法とアジアの独立

No.257 9月13日(水)司法とアジアの独立


(着任の中島信行)
1874年(明治7年)の今日、若き神奈川県令となった彼を簡単に紹介しておきましょう。
1846年10月5日(弘化3年8月15日)生まれ1899年(明治32年)3月26日に亡くなります。「日本の政治家。男爵。通称は作太郎。長男は中島久万吉。最初の妻は陸奥宗光の妹中島初穂(1877年死去)で、後妻は女性解放運動家の岸田俊子。(Wikipedia)」

この表現では、本人より長男と二人の妻にフォーカスがあたっているようですが、中島は1887年(明治20年)12月26日に公布された悪名高き治安法「保安条例」で<江戸所払い※>を命じられたバリバリの自由民権運動家でもありました。

※<江戸所払い>は冗談ですが、
皇居から3里(約11.8km)以外に退去させるという途方も無い法律。
保安条例
第四条 皇居又ハ行在所ヲ距ル三里以内ノ地ニ住居又ハ寄宿スル者ニシテ内乱ヲ陰謀シ又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スルノ虞アリト認ムルトキハ警視総監又ハ地方長官ハ内務大臣ノ認可ヲ経期日又ハ時間ヲ限リ退去ヲ命シ三年以内同一ノ距離内ニ出入寄宿又ハ住居ヲ禁スルコトヲ得

(公務員から政治家へ)
「外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学をした後は神奈川県令や元老院議官をつとめた。自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理とな(Wikipedia)」った中島信行は「保安条例」で1887年(明治20年)横浜へ<所払い>となります。
この<所払い>で以前県令となり知人の多かった横浜に移った中島は、地元横浜で政治活動を開始、1890年(明治23年)7月1日に行われた第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第5区から立候補し当選します。
※第1回衆議院議員総選挙(投票率は93.91%)
神奈川小選挙区当選者
1区で島田三郎
2区で山田泰造
3区で石坂昌孝・瀬戸岡為一郎
4区で山田東次
5区で中島信行
6区で山口左七郎
この当時、神奈川県は現在の県域とは少々異なっていました。都下三多摩地区が神奈川県に属していました。

第1回衆議院議員総選挙でみごと当選した日本初の衆議院議員について
明治24年に発刊された「明治新立志編」に当選直後の中島信行以下当選者の評伝が書かれています。

★この「明治新立志編」で中島信行が 麦酒の酒税増税反対を主張した件について詳しく説明しています。ビールの事業化を日本で初めて成功した<横浜>が地盤? だったからでしょうか?機会があれば調べてみたいところです。

(通算648話)横浜火災海上保険を創った男

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中島信行関連
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※中島信行夫婦の墓(神奈川県中郡大磯町大磯・大運寺)

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No.707 野毛「海員碑」について

野毛成田山横浜別院から一つのモニュメントが消えました。
海員悼逝の碑です。
新本堂造営のために設置場所が無くなったからでしょう。
light_成田山旧本堂海員碑本堂の脇にこの「海員悼逝の碑」が建ったのは1903年(明治36年)6月のことです。明治維新以来の海難に殉じた多くの船員の霊を慰めるために明治32年、当時の海員倶楽部所属の船員が呼びかけで同じ職の船員たちの拠出によって建立されたものです。題字は伊藤博文の筆によるものだそうです。
横浜都市発展記念館にある絵葉書コレクションには
「横浜野毛山ヨリ市街ヲ望ム」というタイトルでこのモニュメントが写っているものがあります。
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a01_001-16.htm
「備考:正面の塔は1903(明治36)に野毛山不動尊内に建立された海員悼逝碑。碑には国際信号旗がはためいている。悼逝碑の左側に横浜停車場が、画面右奥に指路教会が見える。絵葉書は1907(明治40)〜1918(大正7)年の発行。トンボヤ刊。」
その他
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a13_028_34.htm
「震災で上部に見えている飾りを失う。」
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a13_028_20.htm
■当時の観光ガイドブックより:
「山号を成田山 寺号を延命院と云ふ 成田山新勝寺の末寺で準別格本山である 明治三年南太田の普門院に遥拝所を設けたが同九年高島嘉右衛門氏から敷地の寄附を受け現在の場所に移つた」(『横浜名勝』横浜市銃後奉公会、1939年)
解説:海員悼逝碑(画面右)上部に設置されていた碇の飾りが見えないことから関東大震災以降の撮影か。絵葉書は1918(大正7)〜33(昭和8)年刊。
このようにこの「海員悼逝の碑」は関東大震災で倒壊してその後再建されますが、中が空洞になっていて震災直後は避難場所になっていたという記録も残っています。
light_成田山旧本堂大正期01 light_成田山旧本堂LM方向

ここにある絵葉書には
震災前の上部に設置されていた碇の飾りが見えるところから、震災前に撮影され発行されたものといえるでしょう。
碑の横には国文学者の重野 安繹(しげの やすつぐ)が書いた海員悼逝之碑文が設置されていました。
スクリーンショット 2015-01-13 15.42.41スクリーンショット 2015-01-13 15.42.55

今後、塔の再建予定があるのか?ない場合でも碑文等の保存がされるのか?
確認していないのでわかりません。
すでに取り壊しているので 遅いかもしれませんが、できればこの碑は何らかの形でこの地に残してほしいと希望するものです。
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