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年別アーカイブ: 2013
【県別シリーズ?】 にトライ!
全国都道府県と横浜との関係を探し出すシリーズを突発で思いつきました。
今考えられるネタから まずどの都道府県ならつながるか?
まず 想起付けしてみました。
【北海道地方】
北海道→同じ開港組みでもあります。
No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!
No.270 9月26日(水)ノーマライゼーションの先駆け
No.412 多吉郎、横浜に死す。
他
新たな北海道=横浜ネタも発見しました。
【東北地方】
青森県→
【雑談】ラブストーリー
日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家として戦前戦中戦後を生きた秋田雨雀
岩手県
No.379 1月13日(日)Y市の橋
No.349 12月14日(金)6人の指導者達
中村 房次郎 岩手県史に欠かせない経済人
詳しく紹介する予告ばかりだったのでこれを機会に
中村 房次郎を紹介していきます。
宮城県
No.445 「有吉堤」
面白横浜市長 第13代宮崎県知事「有吉 忠一」についても新たに紹介していきたい人物です。
秋田県→特に無し
山形県→横浜とは古くから関係のある県の一つです。
No.439 へいらく・たいらこ
No.312 11月7日(水)裕次郎だけじゃない
伊東忠太 山形県生まれの建築家
No.44 2月13日 熊田と土門
福島県
No.387 謎解き野口英世
No.287 10月13日(土)翔ぶが如く
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
【関東地方】
茨城県
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命
新たに 水戸藩ネタでも横浜と関わりのあるテーマがあります。
栃木県
No.266 9月22日 (土)ハマの赤レンガ
群馬県
No.302 10月28日(日)全ての道は横浜に
その他 多くの上州商人が横浜で活躍
茂木 惣兵衛、中居屋 重兵衛、伏島 近蔵
埼玉県
No.374 1月8日(火)○●■△と横浜
→平沼 専蔵
千葉県
No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興
他にも多数紹介ネタがあります。
東京都
東京は 十分過ぎるほど関係がありますが
横浜開港に対し大正以降「東京開港」機運が高まり
壮絶な「開港バトル」を横浜・東京で繰り広げます。
このテーマはただ今 蓄積中です。
神奈川県→
No.339 12月4日 (火)「横浜から神奈川」へ
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日
No.399 神奈川都構想で抗争
No.438 神奈川奉行入門
他
【中部地方】
新潟県
No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば
◎新ネタも準備中
富山県
→浅野 紘一郎、安部 幸兵衞、増田 嘉兵衛
No.340 12月5日(水)今日は昼から銭湯だ!
◎新ネタも準備中
石川県
→曹洞宗の大本山總持寺
No.312 11月7日(水)裕次郎だけじゃない
◎新ネタも準備中
福井県
No.382 1月16日(水)横浜と福井
【番外編】善悪の彼岸
◎新ネタも準備中
山梨県
No.152 5月31日(木) もう一つの近代水道発祥の地
→水源地です。
→甲州商人は横浜を舞台に大活躍
◎新ネタも準備中
長野県
No.122 5月1日 ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた男
◎新ネタも準備中
岐阜県
→原 富太郎、早矢仕 有的 他
No.342 12月7日(金)2013年は古民家を愉しもう
No.292 10月18日(木)横浜初拳闘会
静岡県
清水次郎長関係、お茶関係
No.223 8月10日 (金)奇跡の釘
No.174 6月22日(金) しみずみなとの名物は?
No.314 11月9日 (金)薩長なんぞクソクラエ
愛知県→現在探索中
後半は 明日に
【横浜マークハンティング】地べたを拾う (追加版)
現代は地下社会である!?
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「ハンドホール」と呼ぶそうです。 |
(NTTの蓋デザイン)
この電話100年をデザインした「蓋」は横浜市内数カ所にしか残っておりません。(私の確認では二カ所)
1890年(明治23年)12月16日
横浜と東京間にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。
スタンダードな
マンホールの蓋はマンホールの蓋は
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あえて目立つ「消火栓」導管の太さで区別? |
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追加しました! |
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「ふしこし」管用のマンホールです。意味は調べてください!? |
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洗浄栓 |
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浚渫口です。 |
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むかしながらの?市道用マンホール |
全国都道府県市町で異なるので 当然マニアがいるんですが…
http://ja.wikipedia.org/wiki/マンホールの蓋
http://www.hotetu.net/manhole/manhole.html
上記のマニアックな集大成で
ほぼ横浜のマンホールもカバーされていると思っていたら??
そこは地元。横浜らしい 地べたの「蓋」を発見したのです。
オリジナルの素材を活かしたマンホールもあります。
上の煉瓦模様はかつて歩道の素材に合わせていたのが
マンホールだけ残ったものです。
極めつけ!!!
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ロコサトシさんデザイン |
(これは実のところマンホールではない????)
今後じっくり探すと
No.457 ザンギリ野毛
野毛界隈。
酔いにまかせて彷徨うと、床屋が多い?!
やたら床屋(理容院)のサインポールが目に入ります。
気のせいか?酔いのせいか?それとも真実か?
ちょっと調べてみました。
野毛界隈で、果たして何店床屋(理容室)はあるのでしょうか?
調査結果をお知らせする前に、横浜の床屋についてのエピソードを少々ご紹介しましょう。
No.80 3月20日 西洋理容発祥の地、横浜
1873年(明治6年)3月20日、
明治天皇は自ら範を示すということで断髪します。
これによって一気に「床屋」(理容室)が時の職業になっていきます。
横浜開港資料館発行「もののはじめ考」(第3版)によると
開港早々1864年(元治元年)横浜ホテルに外国人の理容師が開業した記事が掲載されているそうです。
日本人による理容室開業については中々誰が“はじめて”かどうか判っていません。
諸説あるようです。
少なくとも 開港した横浜港に入港する外国船向けに西洋理髪師を見習った日本人が散髪業を始めたのは自然の成り行きです。
日本人の間に「西洋理髪」が定着していくのは、
No.80 3月20日 西洋理容発祥の地、横浜
で紹介したように、法令で断髪令が施行されてからのことです。
「市史稿」では、
桜木町に「西洋髪苅所」を富岡浅次郎という人物が開業し
「理髪業の嚆矢」とする説に触れています。
この説に従えば???????
桜木町=野毛界隈に理髪業が多いのも?
野毛界隈に理髪業が目立つ理由は、
「場外馬券場」があるからでしょう。
縁起かつぎや、負け癖を切る!という理由から競馬人は床屋が好きだとか?
だから野毛界隈に「理髪店」が多いんですね。
(野毛界隈の理髪店)
完全ではないかもしれませんが
野毛界隈に理髪店は12店ありました。
以前営業していた店を1店知っていますので
13店も集中していたことになります。
範囲は JR線より内陸、大岡川、京急、紅葉坂に挟まれたエリアを
野毛界隈としました。
価格もバラバラです。
ここにさらに「美容院」が最近次々と開店しています。
野毛は現在 整髪激戦区となっているようです。
(余談 理容室は何時休み?)
理容業はを独占禁止法の例外業種に指定され、理髪店の業界団体である全国理容生活衛生同業組合連合会が、1996年ごろまで都道府県単位で定休日や営業時間などの基準を決めていました。最近は拘束されること無く自由な営業形態になっています。横浜は火曜日定休が多いのでは?
No.456 自由ハンザ都市ブレーメンの気風
7月1日は横浜が開港した日です。
現在横浜では6月2日が開港記念日ですが、
ここに幕末明治の「暦」事情が隠されています。
今日は この有名な昭和3年事件は置いといて…
開港一番に入港した外国人達の話しを紹介します。
列強五カ国との間に結んだ「通商友好条約」では各国との開港日がバラバラでしたが、1859年7月1日に統一します。
約束だけではなく 各国と交易を行う準備が必要となってきます。
日本政府は、各藩・地元民間の有力者に命じて「開港場」=居留地と横浜道の整備を命令します。かなりの突貫工事だったようです。
「横浜道」に至っては開港前日に完成したそうです。
なんとか 体裁が整い 7月1日に外国船を受け入れる準備ができますが
前日30日に横浜港に到着したのが亜米利加船籍の一団で、
ハリス公使以下外交団でした。
そこは 日本政府(徳川幕府)も条約を楯に明日(7月1日)まで待て!
と米国船団を横浜沖に留め置くことにし7月1日に「亜米利加一番」として手続きします。
亜米利加船とは異なり条約通り7月1日開港日に堂々入国したのが「阿蘭陀船」シキルレル号(Schiller)です。
幕府の認可番号は「阿蘭陀一号」で、250t 乗組員12名だったそうです。
五カ国の中で開港日に入国、入港したのは
亜米利加と阿蘭陀でした が
実際は 阿蘭陀船籍のドイツハンザ都市の船でした。
阿蘭陀船籍で偽装した背景にはこの時代のドイツ(プロシア)が抱える政治状況がありました。ここに乗船していたのはデュッセルドルフ出身自由ハンザ都市ハンブルグ商人のルイス・クニフラーでした。
到着早々、幕府の用意した外国人専用の貸家を申込早々に商館の開設に動き出します。
このルイス・クニフラーが横浜に初めて商館をオープンした外国人商人です。
福沢諭吉の自伝に
「五国条約というものが発布になったので、横浜は正(まさ)しく開けたばかりのところ、ソコデ私は横浜に見物に行った。その時の横浜というものは、外国人がチラホラ来ているだけで、掘立小屋みたような家が諸方にチョイチョイ出来て、外国人が其処に住まって店を出している。
其処へ行ってみたところが、一寸とも言葉が通じない。
此方の言うこともわからなければ、彼方の言うことも勿論わからない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙もわからぬ。何を見ても私の知っている文字というものはない。英語だか仏語だか一向わからない。居留地をブラブラ歩くうちに、ドイツ人でキニッフルという商人の店に打ち当たった。その商人はドイツ人でこそあれ蘭語蘭文がわかる。此方の言葉はロクにわからないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずるというので、ソコでいろいろな話をしたり、一寸と買物をしたりして江戸に帰って来た。」
福沢が「英学」に方針転換した有名なカルチャーショックの一説ですが、
ここに登場する“キニッフル”こそルイス・クニフラーのことです。
蘭商キニフルとも呼ばれ武器商人としても活躍します。
冒頭にクニフラーをデュッセルドルフ出身ハンブルグ商人と紹介しましたが、この当時のドイツはブレーメン・ハンブルグを中心に独立性の高い都市国家(自由ハンザ都市)として世界を舞台に交易を行っていました。
そして、ハンブルグ商人クニフラーは、ブレーメン出身の優秀な人材を日本担当に起用します。
長崎で実績をあげ横浜進出責任者として赴任してきたのが
マルチン・ヘルマン・ギルデマイスター(GILDEMEISTER)です。
ギルデマイスターは、横浜で日本との通商条約締結に動きますが、最終的にプロシア王国の代表団として日普通商友好条約締結に奔走します。
ドイツ北部に位置する大都市「ブレーメン」といえば?
ブレーメンの音楽隊を思い浮かべる方も多いかもしれません。
ブレーメンはドイツに11あるヨーロッパ大都市圏の1つです。
正式名称は「自由ハンザ都市ブレーメン州」の州都です。
ドイツと日本の開国をめぐる関係は
No.413 あるドイツ人の見た横浜
でプロイセン王国の使節団による日普修好通商条約交渉団とその通訳にあたった森山栄之助のエピソードを紹介しました。
冒頭で紹介しました通り、ブレーメンは「自由ハンザ都市ブレーメン」と現在でも名のっています。
ギルデマイスターの業績
ギルデマイスターは、当初居留地横浜で少数派だったプロシア人(ドイツ人)を組織化しドイツ人倶楽部をまとめあげます。
最終的には在横浜プロシア名誉領事となります。
1868年(慶応四年)明治維新直前にアメリカ経由で母国ドイツブレーメンに帰国します。
■プロイセン王国とブレーメン
プロイセン王国は「十字軍時代の三大宗教騎士団の一つであるドイツ騎士団が13世紀にバルト海沿岸のプロイセン地方に植民を行って成立したドイツ騎士団領を基に発展し、16世紀に公国、18世紀初頭1701年に王国となった」国です。
ところが、ブレーメンはかつてハンザ同盟だったハンブルクとともに、1871年まで独立した都市国家として欧州経済をリードします。
1871年にドイツ帝国の一部となりますが、関税上(交易上)独立していました。
完全にドイツ帝国に組み込まれたのは1888年(明治30年)になってからのことです。
(余談)
ブレーメンといえば????
サッカー・ブンデスリーガに属するヴェルダー・ブレーメンのホームタウンです。ブンデスリーガ優勝4回を誇る強豪で、日本初のプロ選手である奥寺康彦も在籍していたチームです。
奥寺康彦がサッカーとで出会ったのが横浜市立舞岡中学校です。そして相摸工大付属高校から古河を経てドイツへ渡った日本初のプロ選手です。
現在、株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)取締役会長を務め横浜で頑張っています。
No.455 東海道の横浜を歩く
「横浜道」に引き続き横浜の街道「東海道」を紹介します。
東海道と言えば、江戸時代に整備された徳川幕藩体制を支えた物流を支えた主要街道の一つです。
横浜エリアの東海道を何回かに分けて歩いてみましたので
紹介します。
【鶴見市場から生麦】
横浜東海道の旅は「鶴見市場」からスタートします。
京急鶴見市場駅から北方向に商店街を抜けると「熊野神社」にぶつかります。
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鶴見熊野神社 |
横浜市鶴見区市場東中町9〜21
殺風景な境内のわりに派手なHPがあります。
●「横浜市立市場小学校発祥の址」の碑
●加舎白雄と大島蓼太の句碑(飯田九一 選と揮毫)
この「熊野神社」前の通りが旧東海道です。
No.264 9月20日(木)「鼾かく人を流罪す月今宵」
鶴見川橋を渡りますが、鶴見川に鶴見川橋の名からもこの街道の歴史を感じます。
右手に「鶴見神社=杉山神社」があり街道の鎮守の役割をもっていることがわかります。
京急「鶴見駅」の線路下を(抜けられませんが)通り、
ベルロードつるみ・鶴見銀座商店街を抜けます。
鶴見線の架橋をくぐり
鉄道レトロの「国道駅」前から
生麦魚河岸通りを通ります。
【番外編】生麦、旧東海道を歩く
No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験
【子安から神奈川】
国道15号線がほぼ東海道をトレースしています。
入江川派川(海岸線に平行している運河)
ここが子安から神奈川が最も昔のままの海岸線をイメージできます。
No.216 8月3日 (金)この道は金港に続く
東神奈川は横浜市内最初の宿場町です。
神奈川県内最大の宿場町でもありました。
神奈川宿に関しては
別にテーマを立て 紹介します。
【神奈川から保土ケ谷】
横浜中心部に入ってきました。
東海道が 海に別れを告げ、内陸に入っていく分かれ目が
青木橋あたりです。
No.452 横浜道から開港当時を探る
鶴屋町から保土ケ谷までは 旧東海道の道筋が残っています。
八王子街道への別れ道「追分」を過ぎると
横浜賑わい商店街ベスト3に入る
洪福寺松原商店街です。
No.414 競争共栄商店街
ここまで渡ってきた川が
鶴見川
入江川
滝野川
そして
帷子川と今井川の合流地点が
相鉄線「天王町」駅前です。
東海道は今井川に沿って保土ケ谷宿に入ります。
JR保土ケ谷駅前を過ぎ、東海道・横須賀線の踏切を越えると
保土ケ谷宿 本陣跡に出ます。
この保土ケ谷宿からは 金澤古道が分岐しています。
【保土ケ谷から品濃町】
横浜市内の東海道最大の難所です。
何度来てもこの坂の急傾斜前で躊躇します。
急坂「権太坂」です。
ここを越えると「境木」です。
武藏の国と相摸の国の国境(くにざかい)です。
No.339-2 12月4日(火)越すに越されぬ国境(くにざかい)
【番外編】 1月17日(木)横浜は坂ばかり
横浜は坂が多い街ですが、中でも権太坂は厳しい!!!
かつて栄えた!
境木商店街も火が消えつつありますが
ここは元気です。
創作和菓子処 栗山
ご当地もの たくさん買ってきました。
「男爵さま」が最新の作品だそうです。いけまっせ!
新製品を創る努力と工夫が大切ですね。
http://www.wagashi-kuriyama.co.jp
境木の峠を越えると
東戸塚に入ります。
この街は 1980年(昭和55年)10月1日に横須賀線の新駅が開業し
日立製作所関連企業、西武等による開発が行われ新しい街が生まれました。
※日本現役最古の鉄道トンネル「清水谷戸トンネル」は
東戸塚駅と保土ケ谷駅間にあり東海道下りルート最初のトンネルです。
旧東海道には品濃一里塚跡を示す碑があります。
【品濃町から戸塚】
東戸塚から柏尾川支流に沿って旧東海道はつながっていきます。
戸塚ネタはこのブログでもかなり取上げています。
No.142 5月21日 戸塚は鎌倉?(加筆修正)
この先、藤沢宿までの旧東海道は踏破していません。
湘南に抜ける時は、戸塚駅前から柏尾川にそって川ルート下りばかりで
実は もう一つの 山越えが 待っています。
「原宿」あたりのルートです。
この区間は 今年中に踏破する予定です。
※藤沢宿から平塚宿までは徒歩踏破しています。
【番外編】京都の戦乱!
第二次世界大戦で空襲を受けることが無かった「京都」
平安の時代から 大災害を受けること無く現在にその佇まいを残している!?
と思ったら 大間違いでした。
都市にとって火災は致命傷です。
幕末明治、横浜でも何回か大火事で街の機能が麻痺します。
一番大規模の火災は「横浜大空襲」ですが、関東大震災の出火類焼も大きな被害をもたらしました。歴史的には横浜が開港によって大都市への急発展を遂げる中、居留地の近くで起りました。
No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!
役所も焼失!
No3 1月3日(火) 大火事
同様に京都も例外無く平安から江戸末期まで大火の歴史がありました。
今日は 京都の大火事を調べてみました。
平安時代以降の大火事と言えば
1177年(安元3年)「太郎焼亡」「次郎焼亡」と連続して起ります。
鴨長明の『方丈記』によると
火事は「樋口富小路辺り」(現在の京都市下京区万寿寺町富小路辺り)の小屋から出火し、当時の市街地約三分の一が炎上しました。
この様子は、九条兼実の『玉葉(ぎょくよう)』、藤原定家の『明月記』など他にも多数の古記録や文学作品に書かれました。
1467年(応仁元年)応仁の乱による戦乱火災
1788年3月7日(天明8年1月30日)天明の大火
団栗焼け(どんぐりやけ)、都焼け(みやこやけ)
または干支から申年の大火(さるどしの たいか)と呼ばれました。
当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰します。
1864年(元治元年)には
京都史上最大級の戦乱大火災がありました。
禁門の変(蛤御門の変)による大火事です。
いわゆる「どんどん焼け」(鉄砲焼け)と呼ばれました。
戦闘の場になった御所と長州藩邸辺りから出た火が京都一円を焼き尽くしました。
この様子を表すものとして「洛中大火夢物語」、「秋の日照」、「甲子兵燹(かっしへいせん)図」があります。
手元に「甲子兵燹図(かっしへいせんず)」がありますので
じっくり見てみるとその描写には興味深いものがあります。
甲子兵燹図(かっしへいせんず)は
1893年(明治26年)に発行されました。
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復旧の図 |
この絵の舞台、蛤御門の変の現場となった御所と長州藩邸辺りから出火します。
7月19日朝7時頃に河原町二条の長州藩邸から
※落ち延びる長州勢が長州藩屋敷に火を放ち逃走。
10時頃には堺町御門に隣接した鷹司邸の2ヵ所から出火します。
※敗残兵が逃げ込んだ鷹司邸や民家に会津藩・薩摩藩兵・新選組が砲撃し出火
このことが会津以下幕府側の評判を落としたとも言われています。
21日朝まで燃え続けました。
焼失した町数は811町、被災世帯2万7513戸、公家屋敷18、武家屋敷51、社寺253に及んだといわれています。負傷者744名、死者340名が出ました。
![]() |
赤色が類焼地域、被害が全域に及んでいることがわかります |
当時の市街地の3分の2に当たる地域が焼失し、東本願寺など大きな寺社にも被害が及びました。
京都御苑(京都御所)自体は焼失を免れますが
この「禁門の変」の大火で京都は機能を失い、天皇の東京行幸のきっかけにもなります。
この大火災が発生する戦乱が起る直前の
1864年(元治元年)7月11日午後5時ごろ
横浜開港に深く関わった変わり者 信濃国松代藩士 佐久間象山が三条木屋町で暗殺されます。
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紅葉の野毛山 |
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佐久間象山の碑 |
佐久間象山、優秀な半面傲慢でもあり 敵も多かったようです。彼の弟子“勝海舟”もあまり象山のことを(回顧談で)良く評価していませんが、海舟もかなりの変人ですので どっちもどっちといったところでしょうか。
佐久間象山の碑が 野毛山公園に建っています。
No.454 「横浜道」を歩く (後編) 加筆修正
No.453に引き続いて現在の「横浜道」(後編)の紹介です。
後半は横浜道の難所となった「掃部山・野毛山」越えから
野毛の町にぐぐっと曲がり
そして大岡川を都橋で渡ると吉田町、吉田橋となります。
現在 最も開港場の歴史を庶民の視点から散策できるエリアです。
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掃部山(かもんやま)の桜 |
この道行きは
人気の観光、賑わいゾーンで
案内情報も沢山紹介されています。
見どころは「掃部山」界隈です。
![]() |
横浜能楽堂 |
ここでは少し違った視点で紹介しましょう。
(石積み博物館)
このエリアは「石積み」の野外博物館です。
野毛山の傾斜地に
フランス積み
ブラフ積み
古来の亀甲石積
布積み
乱積み
谷積み
等々 時代や環境に応じた石積みが発見できます。
(蕎麦街道)
横浜道にはそば屋が多い!!!!
平沼から日本蕎麦屋が10軒以上あります。
浅間下「横浜そば処 古登婦喜」
平沼「角平」
平沼「田中屋」
戸部「砂場」
戸部「松山そば店」
戸部「田中屋」
戸部「あんどうそば店」
※ちょっとルート外ですが花咲町 「太宗庵」
野毛町「中屋」
野毛町「東京庵」
吉田町「角清」
※八軒訪問。横浜道「蕎麦街道」って発想あると思います。
野毛山周辺はグルメスポット集中地区、しかも
小さい名店が点在しています。
例えば洋食!
紅葉坂周辺には「洋食屋きらく」(昔金港亭がありました)
青少年センターの「メルヘン」はあなどれません。
センターグリル、キムラの老舗も
レストランも新旧入り乱れて 話題の店が
ぎゅーーーーっと詰まっています。
No.371 1月5日(土)ノゲ的
No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興
※野毛界隈は ここでは略します。
(吉田町)
さて 最後のルート「吉田町」に入ります。
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん
鴎が舞う「都橋」を越えると
右側(南側)と左側(北側)が対照的な商店街が登場します。
吉田町の特徴は 左右非対称の商店街です。
通りとしての元気が出てきたのがここ十年のことです。
野毛とイセザキに挟まれて 静かに時が流れていましたが
再開発の計画が起る度に 街の活性化がロックされてきました。
この界隈も 情報が最近多く発信されています。
参考にされて 変わりつつある「吉田橋界隈」を
散策してみては如何でしょう。
新しいカテゴリーの飲食店が多く出店しています。
老舗中の老舗
肉の中川、鶏肉の梅や は健在!
![]() |
残念ながら閉店しましたね。 |
画廊も バーも
「Bar Noble」
横浜市中区吉田町2-7 VALS吉田町1F
http://noble-aqua.com
最近は
うなぎの「八十八」が出店しました。
このエリアから 目が離せません。
※余談テーマ
野毛の街をあるいていて
「理美容店」の多いことに気がつきます。
特に理容店で、値段もバラバラというところが
ちょっと“おそろしい”
今度数えてみますが ざくっと知っているだけで
野毛界隈に 理容室が10軒は数えることができます。
No.457 ザンギリ野毛
No.453 「横浜道」を歩く (前編)
昨日No.452で、横浜道が造られた頃の話しを紹介しました。
今日は、現在の「横浜道」をぶらり歩いてみましょう。
横浜道は、旧東海道の浅間下(当時は芝生村)から、
関内の吉田橋まで一直線につながっている
開港後最初にできた重要道です。
横浜道散策は東海道筋からスタートします。
(浅間下)
横浜道のスタート地点には、富士山信仰の「浅間神社」が鎮座しています。
周辺にはビルが乱立していますが、かつて海と冨士が良く見えた高台にあります。
このあたりの浅間下は、昔「芝生(しぼう)」村と呼ばれていましたが、
しぼう=死亡の音でもあるのでこの地名は無くなり「浅間下」と呼ばれるようになりました。
交差点の脇に「横浜道」起点の案内看板が設置されています。
ここから県道13号線(新横浜通)を関内方向に。
最初の川と橋があります。
新田間川(あらたまがわ)と新田間橋です。
この周辺には、うなぎの「野田岩」があります。
また、新田間川沿い少し上流に家具のダニエルの工房「家具の病院」があります。
事前に申し込めば見学もできます。私の大切な秋田木工の籐椅子の座面修復をお願いしたことがあります。
(見事な完成度です。今これに座って原稿を書いています)
新田間川を越えると横浜駅西口のビル街に入ります。交通渋滞の激しい岡野の交差点近くには予備校と東急ハンズ(7月で移転のため閉館)があり若い人たちがぐっと増えます。
ここには「吉村家」「横浜家」「山頭火」と人気ラーメン店が立ち並ぶところでもあります。
旧道「横浜道」は、次の帷子川(かたびらがわ)を渡る地点で少し脇道にそれます。
高架橋となっている「平沼橋」脇に小さな「旧平沼橋」があり、
少し前まで、開かずの踏切が設置されていました。
現在は通行不能となっています。
“平沼の踏切”を過ぎると、平沼商店街が戸部の手前石崎川に架かる
「敷島橋」まで続いていましたが 残念ながら
現在は見る影もありません。
それでも 良い店は頑張って残っています。
歴史ある蕎麦の田中屋、角平。お茶の平沼園、和菓子屋の寿々喜
新しいレストランも誕生しています。
三つ目の石崎川と敷島橋を越えると「戸部」に入ってきます。
お肉の「井上富蔵商店」は元々卸で小売りも行っています。
戸部7丁目交差点、市営地下鉄「高島町駅」あたりから京急「戸部駅」までは、かつて栄えた三菱造船関連の工場や機材、下請け企業が密集していたエリアです。
現在も少しその面影が残っています。
お店もかつて造船所関連お土産として人気だった「東京ひよ子 横浜店」が現在もしっかり営業しています。
銘菓ひよ子は、九州福岡のお菓子ですが、東京オリンピック以降関東に進出し 見事東京ブランドとなった珍しいお菓子です。
炭坑や製鉄所など重労働に「甘味」が人気となって福岡の名産となります。
※余談 岩亀横町に和菓子屋「住よし本店」がありました。ここには名物“塩分の効いた”きんつばがあって、造船所に働く人たちの超人気菓子だったそうです。
どこかで復活して欲しいな!甘みを抑えた良い味でした。
戸部7丁目交差点にある 今話題のお店と言えば
「横濱うたげやど根性ホルモン」です。
http://dokohoru.info
地恵地楽のお店と言われるだけあって 地産地消の人気スポットです。
このあたりから
江戸時代に切り通しとなった野毛山のてっぺんまで
少しずつ上り坂になっていきます。
戸部四丁目交差点からみなとみらい方向にのびる
「岩亀横丁」幕末から明治にかけて横浜最大級の遊郭
「岩亀楼」の遊女達の寮があったことからこう呼ばれるようになったそうです。
遊郭が無くなった後は 三菱造船関連の工場街として栄えます。
現在は その名残が少し在る という程度です。
この「岩亀横丁」には「岩亀稲荷」があり
「幕末安政のころ、現在の中区横浜公園のあたりにあった「岩亀楼」という遊廓(ゆうかく)の遊女が、静養のため利用した寮がここにあったことから岩亀横丁と呼ばれるようになったという。この横丁のなかほどに、静養に訪れた遊女がお参りしたといわれる稲荷がある。岩亀稲荷と呼ばれ、例祭が行われるなど、今も大切に守られている。」(横浜市西区HP)
ここには こんな言い伝えが残っています。
幕末の尊皇攘夷の考えから外国人客を拒み、
17歳伝説の岩亀楼のナンバーワン遊女「喜遊」が
最後は喉に刀剣を突きたてて自害したという。
この言い伝えには若干????
そもそも居留地の遊郭に上る時点で、
外国人相手が想定されることは解りきっていたことですから
恐らく 攘夷ではなく 理不尽な要求を拒み自害が妥当な線ではないか?
と推論しています。
後半はまた明日にしておきます。
No.452 横浜道から開港当時を探る
幕末に突然誕生した「横浜開港場」
この開港場は、幹線街道(東海道)との接続がありませんでした。
今回は、民間に下った突貫工事令で完成した
開港のための道「横浜道」を紹介しましょう。
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横浜道に埋め込まれている道標 |
開港前日に開通した「横浜道」を紹介する前に
なぜ 「横浜道」が必要となったのかあたりからヒモ解いていきましょう。
市史編集事業の重責を務められた高村直助先生は
横浜開港場を「帝都の関門」と呼びました。
開港のプロローグはロシアから始まり
ペリーの来航で 日本は開国を迫られます。
静岡県下田港開港から始まり
神奈川湊開港が「日米通商修好条約」で期限を設定して
開港場と決められますが、当時の徳川幕府は
できるだけ 江戸から「開港場」を外したいと目論見ます。
不便だが良港としてペリーの評価も高かった「横浜」を
開港場と決め
1859年7月1日(安政6年6月2日)未完成の状態で開港します。
開港場の整備は残り百日を切った約三ヶ月の短期間に行われます。
※アメリカは当初7月4日(独立記念日)を開港日にしたかった
日本政府と列強五カ国の間に結ばれた「安政の五カ国条約」の
重要な目的は「通商」=交易です。
通商に必須なのが「ロジスティクス(物流)」の確保です。
外国人を囲い込むために長崎の出島をイメージして管理しようとした幕府でしたが、
軍事・外交上も江戸への幹線道の整備が必要となります。
江戸時代の横浜村エリアの街道への動線は「井土ケ谷」経由保土ケ谷宿でした。
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安政6年の開港場 |
「開港場」と「東海道」を直結する道
「よこはまみち」の造成に踏み切ります。
開通当初は 重要な街道として多くの利用者で賑わいました。
東海道神奈川宿、その先の“江戸”への近道でした。
「絹の道」としても重要道でした。
ところが 埋立で状況が激変します。
明治に入り海岸が次々と埋め立てられます。
明治横浜の最初の大変化は
海岸線に鉄道が通り一般道も平行して整備されたことです。
(よこはまみち)
現在の浅間下交差点から、関内駅前吉田橋までが
「よこはまみち」です。
一時期 横浜開港史から忘れ去られていた道です。
「横浜道」の大半が横浜市西区を通っていることもあり
西区が「横浜道」の道標を埋込み整備しましたが?
今ひとつ 地味な存在になっています。
横浜道の名残は殆ど残っていません。
野毛の切り通し周辺の「石積み」
戸部近くの「岩亀稲荷」
浅間神社付近の細道 位でしょうか。
新田間川
帷子川
石崎川
大岡川
四つの川(橋)を渡り
野毛の切り通しを抜けると目の前に
「開港場」が目の前に拡がります。
東海道筋から開港場を目指した人々は野毛から眺める
洋館が並び 沖には船が多く停泊している
新しい街に ワクワクしたことでしょう。
この『道』無くして 開港場は成立しませんでした。
改めて「横浜道」に光を!!!!
明日は 現在の「横浜道」を歩きながら
開港の名残と 現在の散策スポットを紹介します。
No.451 芸術は短く貧乏は長し
文学賞といえば
「芥川賞」「直木賞」が有名です。
芥川賞は“芥川龍之介”に因んだ賞です。
では?直木賞は?
作家であり脚本、映画監督までこなした「直木三十五」に因んだ賞です。
この直木三十五なる人物は
横浜と深く関係があります。
今日は文学賞の名となった
「直木三十五」と横浜について紹介しましょう。
「直木三十五」
(なおき さんじゅうご)
直木三十五賞(通称「直木賞」)はエンターテインメント系の作品に与えられます。
http://www.bunshun.co.jp/award/naoki/
直木三十五は
1891年(明治24年)2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれました。
本名は植村宗一で、苗字の植村の「植」の字を分解して「直木」とし、名の部分は年齢を元に直木三十一(31歳のとき)からスタート、
三十五で改名することを止めました。
彼は1934年(昭和9年)2月24日、
四十三歳で亡くなっていますから“初志貫徹”していれば
「直木四十三」となったでしょう。
(放蕩作家 直木三十五)
大正の末から昭和の初めにかけ文壇、映画界で活躍しますが
相当の放蕩作家でした。
(戦前は放蕩作家多いですね。ある意味良い時代だったのかもしれません)
43歳で亡くなった翌年の1935年(昭和10年)
友人だった文藝春秋社長・菊池寛により直木賞が設置され現在まで多くの作家の目標となっています。
彼の代表作となったのは「南国太平記」という作品で、
幕末薩摩藩のお家騒動を取材した新聞小説で不動の位置を築きます。
時代小説では多くの秀作を残しています。
一方で、事業癖というか稀代の浪費家でもありました。
京都で映画制作に手を出し失敗。出版社も幾つか創設し失敗します。
1933年(昭和8年)春、これまでずっと借家住まいだった直木三十五は、横浜金澤の富岡を訪れ、この地が気に入ります。
一説によると、この地金澤を舞台にした江戸時代の武士、豊島刑部明重を執筆するためだったとも言われていますが、国税庁に半旗を翻し納税を拒否していた“直木”が一生で唯一、自身で設計し家を建てることを決意します。
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関東学院大学による復元調査 |
場所は慶珊寺の裏山の一角。
境内に家を建てたいと住職佐伯隆瑞に申し入れ、結局寺の北側後方の高台、当時畑だった千三百三十五坪を借り受けることになります。
新居は昭和8年の暮れに完成し、東京から引越します。
ところが彼は、余りの静けさに堪えられないとか、
自分の設計した家の使い勝手が悪いとか 言われるように
ほどなく
文芸春秋の一室に、逃げるように帰り 自宅を放棄します。
体調もかなり悪化していたのでしょう。
家屋の完成間もない翌年1934年(昭和9年)2月24日、帝国大学付属病院にて、持病の脊髄カリエスが悪化して亡くなります。
墓は 自宅近くの 富岡山長昌寺にあります。
この使い勝手の悪い 直木邸は彼の死後、家族と知人が暮らしていましたが
売りに出すことになります。
戦時中に購入したのが「橋本 東」という方で、
冗談で「疎開用に」と言ったことから 偶然購入するはめになります。
“買うには買ったが…”
あまりにも不便で使い勝手が悪いので一部を改装します。
しかし、殆ど住むこともなく 最後は老朽化のために取り壊されてしまい、現在は空き地となっています。
この元「直木三十五邸」入口に
横浜ペンクラブの方々と大佛次郎氏が中心となって
彼の記念碑が建っています。
「芸術は短く貧乏は長し」