1875年(明治8年)8月10日(火)の夕暮れ、ところは静岡県福島村。
近づく台風の様子を見に来た村人が沖を眺めた時、そこに見た事のない船が座礁している姿がありました。
かろうじて錨で流されないように帆をたたみ風に舞う帆船は明らかに異国の船でした。
しかも船上に人影が見え、この報を聞いた村は大騒ぎになりました。「黒船がここにも現れた!」
これが「ジェイムズペイトン号事件」のはじまりです。
座礁したジェイムズペイトン号を発見したのは福島村の責任者(戸長)の山田斧治郎とその長男の菊次郎、そして砂浜にいた村人の林蔵と治作の4人でした。
最初、単に異国の船が近づいているとした思わなかった彼らはすぐに様子がおかしい事に気がつきます。その船は遭難していたのです。
ここから、翌日にかけて村を挙げての救出劇が始まります。
(ジェイムズペイトン号)
1855年(安政2年)にイギリスのグラスゴーで建造されたジェイムズペイトン号は、三本のマストを持つ当時としては最速の貨物用帆船でした。積載量380トン 、全長135フィート(約41.14m) ロイド船級協会※1による船級はA1の格付けを持つスマートな船体で速度の早いクリッパータイプで、当時アメリカに遅れて始まったオーストラリアのゴールドラッシュ(1851年)で賑わうメルボルンを中心に運行していました。
※1 1760年に設立されたロイド船級協会は、大航海時代以降高まる遠洋貿易の船舶リスクを下げるために商人(荷主)や海上保険の会社らが第三者機関として設立した組織です。
大英帝国マップ |
まさに世界に君臨するBritish Empire(イギリス帝国)の時代です。特にオセアニア、東アジアはイギリス一色に塗りつぶされつつありました。
高性能だったジェイムズペイトン号は、メルボルンだけでなく南米チリや香港、台湾、インドなどの諸外国を往復し様々な荷物と人も運んでいました。
ペイトン号の活躍した都市と国 |
日本が開国した、1873年(明治6年)ころから時々日本にも寄港するようになり、まさに世界を走り廻っていました。この時は座礁する二日前の1875年(明治8年)8月8日(日)ケヤキの角材56トンとバラスト143トンなどを積んで横浜から長崎へ出航します。船長とその妻、航海士3人、船員8人、コック1人、ボーイ1人の合計15人が乗っていました。
村民は、台風の余波で荒れた波に揺れる船と浜を一本の太い綱によって結び、船長以下、全員を奇跡的に救出することができました。
この事件の顛末は、イギリスやオーストラリアの新聞で、「thegreatest kindness(最大の親切)」「the great humanity(大いなる人道主義)」と賞賛されます。横浜で発行されていた8月14日(土)付けのJapan weekly mailにも速報の形で掲載されます。
救助した村民は勿論、駆けつけた役人も英語が話せませんでした。そこにたまたま見物に来た青年が英語を話せるということで通訳を買って出ます。彼の名は林幹造(1853年〜1928年)で静岡銀行の元になる西遠銀行を設立した人物です。英国政府は当時の領事パークスが異例の早さで対応し、直ちに日本政府に謝意を伝えます。
その後、関係者には英国政府から感謝の意として現金と記念品が贈られ現在も焼失を除き大切に保管されてます。
当時としては大変珍しいことだったようです。
救助の詳細は浜松市のHPにありますのでぜひ読んでください。
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/ward/minamiku/chiikiryoku/jp/index.htm
(その後)
かろうじて座礁した船から一部荷物や装備品を回収することが出来ましたが、船体はしばらくして沈没してしまいます。
回収された機器や船体の銅板は(浜松で)米国の保険代理店によって競売にかけられます。落札したのが、武州横浜万代町(横浜市中区万代町)の村上喜代治らと林文吉でした。落札金額は1,540円、現在の価値にして1,540万円の高額だったそうです。彼らは釘屋で、当時の横浜の洋館建設ラッシュに銅板や鉄骨材は必需品でした。奇跡の救助と言う「ご祝儀もの」という付加価値もあったかもしれません。英国人の多かった当時の関内、山手には、ペイトン号の材料を使った洋館造りが当時ブームになったかもしれません。
(余談)
「ジェイムズペイトン号事件」のあった静岡県浜松市の福島海岸からJR浜松駅に向かう途中、JR東海浜松駅から南西に約1キロのところに地元でも有名な洋菓子工場があります。「横浜フランセ浜松工場」です。主に焼き菓子を中心に製造していますが、「横濱マドレーヌ」はフランセの人気商品の一つです。
http://www.francais.co.jp