12月 3

第937話【市境を歩く】川崎市境0その2

■今回は川崎・横浜市境パート2
かつての日本橋を起点に横浜港に至る国道一号線、現在の国道15号線を越え
いよいいよ「京浜運河」に入ります。国道15号線の市境には、恐らく大正時代に改修された時に建てられた<東海道>の道標がひっそり建っています。国道を越え、平安町(横浜側)と池田町(川崎側)を進み、市境にある京町小学校脇から南下、このあたりはかつて大きな船溜まりがあり、「京浜運河」として日本鋼管他近隣の産業運搬船が利用していました。
現在、河口域の白石橋まで暗渠化しなごりは<電信柱>に残されています。
京浜運河の歴史は古く、
1910年(明治43年)に京浜運河の発起人会が作られ
1917年(大正6年)に京浜運河株式会社が設立されます。
代表は川崎の工業化を推進した浅野総一朗で、周辺埋立に伴う河川や工場用水の排水路及び運搬水路として整備されました。 排水路でもあったため周辺の海苔養殖事業者からは湾岸汚染を抗議する運動も起こりましたが1936年(昭和11年)に「京浜運河」埋立計画が発表されるなか、
内陸部の京浜運河は暗渠化し、
現在は、遊歩道(京町緑地)として整備されています。
途中には横浜市と川崎市が共同で設置した市境モニュメントがあります。
かつて運河だった遊歩道(京町緑道)の両側は工場が密集していましたが、移転・廃業等の跡地は大型のマンションとなり、住宅地へと変貌し続けているようです。
京浜運河は、途中大東町から横浜市側になり末広橋近くで開渠化し旭運河となります。
高速道路「横羽線」と下を走る「産業道路」の通るあたりには
「汐入」「寛政」「新田」といった江戸時代の海岸線を想像させる名前が残っています。
横浜市鶴見区寛政町の寛政は江戸時代の寛政年間に湾岸干拓が完成し年貢を収めることができたことからこの名が付いたといいます。
川崎市川崎区田辺新田は
田辺家により天保年間に開拓が行われ、このエリアのあざなとなり現在の地名になった場所です。市境の橋は白石橋。
市境に架かる「白石橋」から海へ続く「境運河」の先は大工場地帯となっています。市境のゴールは湾岸沖です。この先簡単に市境は歩くことができませんので
市境歩きはこれにて終了。

12月 3

第936話【市境を歩く】川崎市境0

街には国境ほどではありませんが行政の境界があります。
地域民にとって境界は別段関係ありませんが時にこの境界が市民生活に影響してきます。
街は何故ここに境界を設定したのか、
謎解きをしながら市境を歩くと、横浜が見えてきます!
市境の基本はおおよそ地勢の影響を受けています。
・川筋
(主に境川あたり)
・尾根筋
(北部と南部)
※隣接自治体は
川崎市・東京都町田市・大和市・藤沢市・鎌倉市・逗子市・横須賀市

■今回は川崎・横浜市境
スタートは尻手駅です。

尻手駅
尻手

ここから川崎市境を湾岸まで南下します。
横浜と隣接する自治体は川崎市です。
ちょっと余談から、
市境際のJR南武線「尻手」駅は川崎市で、
お隣の「矢向」駅は横浜市に位置しています。
横浜市域に南武線の駅があることちょっと意外ですね。
■拡張競争
横浜市と川崎市の<領土獲得>はドラマのような歴史があります。
元々、明治期までは広く橘樹郡でした。その後川崎市と横浜市が拡大するにつれて周辺村域を合併し市域拡大を繰り返し最終的には二分します。
今回歩くのは
橘樹郡田島村→1927年(昭和2年)4月1日に川崎市
橘樹郡町田村(潮田町)→1927年(昭和2年)4月1日に横浜市
この境です。
前述の通り、JR南武線「尻手駅」は横浜市に食い込むように<川崎市>です。
資料を精査していないので憶測の域をでませんが、
南武線尻手駅の開業は
1927年(昭和2年)3月9日で、
同年の
1927年(昭和2年)4月1日に市境が確定します。

昭和18年尻手駅界隈

駅をめぐってもやり取りがあったとしても不思議ではないでしょう。
鉄道は地域にとっても重要なインフラですので、駅際の<境>を正確に線引していくなかで、我が市に駅を!という作用もあったと思います。
尻手駅の<尻手>の名も
橘樹郡鶴見町大字市場字尻手の”尻手”から採っていますので、横浜市に編入された市場村・矢向村の字名でした。<尻手>命名にも当時はいろいろあったのかもしれません。
<市境>も<いさかい>のネタであることは間違いありません。
川崎市とは大騒動になった日吉村顛末もありました。
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発


尻手あたりから、海岸にかけてかつて<用水路>だったので、正確には川筋境に市境が生まれたといえるでしょう。古い地図では尻手駅脇に川筋があり最終的には京浜運河に流れ込んでいた(いる?)ようです。(上図)
尻手近辺にはいたるところに水路や池、沼地を確認することができます。
今回の市境旅もある意味
<暗渠旅>といえるでしょう。
尻手駅界隈は東西で表情が変わります。東側は川崎市幸区、駅前の西口通り東方向に900mで、川崎駅に出ます。川崎駅西口は東芝などの企業が集中するエリアでしたが、西口ラゾーナなどが登場し一気に商業集積地に変貌しました。
一方、西エリアは南武線に並行してJR貨物線(現在横須賀線)と鶴見川があり、住宅地と中小事業所が密集する地域です。
南武線(本線・支線)に沿って流れていた用水路に沿って市域となっています。
南武線本線と支線、東海道本線の挟まれた三角地帯には
川崎市堤根処理センター(川崎市堤根処理センター発電所)があり、ゴミ焼却エネルギーの再利用が図られています。予熱は隣接する「ヨネッティー堤根」に供給されています。市境はJR東海道(並木踏切)を越えます。用水路は全て暗渠化していて、一部名残が残っているだけです。さらに南下し京浜急行を越えるあたりで少し市境が複雑に変化します。京急の踏切近辺には横浜市と川崎市、両市境を示す道標が設置されています。

横浜市側
川崎市側

一本で両市を示している珍しいの道標の一つです。
市境は第一京浜、国道15号線に向かいます。
第937話【市境を歩く】川崎市境0その2
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につづく

11月 8

第919話【横浜の小さな橋】大清水橋(滝ノ川)

Google Earth

滝ノ川に架かる「大清水橋」
かな表記は「だいしみずばし」だが市の橋梁台帳では「おおしみずはし」となっている。読みが全く異なるもの珍しい。理由は近所に60年暮らす方に聞いても解らなかったが、その方は「おおしみずばし」だと思っていたようだ。
滝の川だと神奈川区、滝ノ川は境川の小派川となる。「滝ノ川」の名は神奈川東京に多くあり、小さいが時に滝のように流れるからかもしれない。
横浜市戸塚区小雀町付近(公文学園)あたりを源に横浜市と鎌倉市の境付近を沿うように流れ、藤沢市に入り、藤沢宿近くで境川に流れ込む。普段は殆ど水量の少ない川だが、一旦雨が降ると一気に水量が増し、両脇の畑が浸水することもあるという。
長さと幅がほぼ同じくらいなので橋面は四角い感じがする。記憶違いかもしれないが、
かつてこの橋の近くを横浜ドリームランド線(モノレール)が走っていたころ、車両が交差するポイント近くを流れる小さな川の記憶が残っている。
少し小高い尾根筋のような<国道1号線>と横浜市水道局小雀浄水場のある丘に挟まれた谷戸が滝ノ川。現在も川沿いには畑が多く残っている。実はこの「大清水橋」はかつて神奈川有数の渋滞交差点「原宿」の迂回路として使っていた個人的に懐かしい橋だった。今冷静に地図を眺めるとやたら遠回りで、少しは時間短縮に役立ったのかドウか実に怪しい抜け道だ。でも渋滞で頻繁にアクセルとブレーキを踏むより<走る>ことでストレスレスだったのかもしれない。
ただ少し小高いところから<冬場に限るが>見る富士はなかなかである。

小雀から富士
10月 6

第912話 【市境を歩く】長尾台町あたり

横浜側:長尾台、田谷
鎌倉側:玉縄、岡本
今年の春、市境踏破を目指しました。ほぼ全市境あたりを歩きましたので、第二ステップでは、市境をもう少し探ってみることにしました。
(長尾台)
大船駅西口から柏尾川に沿って上流に向かうと程なく「長尾台」のバス停があります。このあたりで川を背にすると目の前に切り立った高台とその周辺が長尾台です。
中世戦国時代に後北条氏伊勢盛時、後の北条早雲となったに武将によって築かれた玉縄城(たまなわじょう)の出城があった場所とされています。
この長尾台は東と南の方角を見据える良い立地で古くから小城(館)があったことが発掘調査で判っています。平安時代の武将、源義家に従って活躍した長尾次郎の名がこの地名の由来とされています。中世に北条氏の三浦攻めの拠点となった鎌倉玉縄城は、永正9年(1512年)に後北条氏伊勢盛時のちの北条早雲によって築かれます。長尾台は玉縄城の重要な出城で近くを流れる境川支流柏尾川が堀の役割をする絶好の要害の地でした。
現在も長尾台の丘陵部は人里離れた別天地の様相で、横浜に居ることを忘れてしまいそうです。
この長尾台と隣接する田谷の境界にはケモノミチがあり、この道を抜けると玉縄五丁目に出ることができます。
(夢を運ぶ)
この市境にはかつて、モノレールが走っていました。
この話にピンとくるかどうかで一つの世代を測ることができます。夢のように現れ、夢のように消えた「横浜ドリームランド」の消滅要因がこの横浜ドリームランドと大船駅を結ぶ”モノレールドリームランド線”のトラブルでした。モノレールが開通した翌年、1967年(昭和42年)に構造上の欠陥が見つかり早くも運行が休止され、送客できないことでドリームランド閉鎖の致命的要因となります。モノレールを担当した東芝は、責任を認めず、長い裁判となります。
※このドリームランドモノレール事件の裁判過程は実に興味深いのでじっくり読み解いてみたいテーマです。 池井戸潤の「下町ロケット」にも通じる、大手企業の<影>が見えてきます。
掲載の地図に引かれている路線図はかなり乱暴ですが、実際は長尾台・田谷付近の市境に沿って路線が引かれていました。すでに市街化していたこの地域に交通機関を設置する唯一残された空間だったのかもしれません。
(市境)
JR大船駅ホームの下を柏尾川の小派川「砂押川」が流れています。横浜市と鎌倉市の境、市境の決まり方としては一般的な「境の川」です。
「砂押川」が柏尾川に合流し市境も柏尾川に沿って400mほど北(上流)に伸び、柏尾川右岸側、西方向に入り込み長尾台西南の尾根筋が市境となっています。
現在の長尾台は古来「相模国鎌倉郡」で、1889年(明治22年)明治期最大の市町村再編成が行われます。この市町村合併は近世江戸の集落関係に関係なく様々な軋轢を残したまま実行されます。
柏尾川右岸の金井村・田谷村・長尾台村と小雀村が合併し現在の鎌倉市境、横浜市西部のかなりまとまったエリアが長尾村となります。
ところが、1915年(大正4年)に再編が起こます。
“広い長尾村”周辺が解体され、国道(東海道)沿いの小雀村・富士見村・俣野村・長尾村(一部)が大正村に
田谷村・金井村・長尾(台)が明治22年に柏尾川左岸でまとまった豊田村と大正4年に合併し大きな「豊田村」となります。
単純化すれば、川をベースにした農業エリア柏尾川両岸でまとまり、東海道筋経済圏で戸塚宿以南でまとまった新しい自治体を作り直したという構図です。
ただ、長尾(台)村は大船駅に近かったため、早くから大船村への合併を希望していましたが叶いませんでした。
(鉄道の時代)
明治に入り、街道の時代に加え鉄道の時代が始まります。
東海道線 大船駅は
1888年(明治21年)11月1日に開業。当時、駅の正面は西口の観音側でしたので、長尾台村にとっても重要な最寄り駅となっていました。
さらに翌年の1889年(明治22年)6月16日には横須賀線が大船駅〜横須賀駅間で開通し、鎌倉駅・逗子駅・横須賀駅も合わせて開業します。
戸塚町は明治中期以降、工業都市として急速に発展していきます。横浜市が昭和に入り「大横浜」を指向する中、柏尾川沿いの町は大横浜に入るのか、これまでのコミュニティを維持するのか、大きな選択を経て現在の横浜市域が誕生していきます。
改めて境界を歩くと長尾台から玉縄の台地を鎌倉時代、相模のもののふ達が去来した思いを馳せることができるでしょう。

6月 28

第895話 【横浜のミニ暗渠】新田間川緑道

横浜市内の小さな(短い)暗渠を紹介します。
今回はわかりやすい「新田間川緑地」です。
「新田間川緑地」は
帷子川支流の新田間川のさらに派川部分が暗渠になっています。
川の名称は運河となると少々面倒ですが、帷子川の派川の一つです。
ここは端から端まで簡単に暗渠探しできます。 起点(上流)は新田間川に架かる「新田間橋」脇の左岸から分岐し「新田間川緑地」の標識が設置されています。途中ビル街の合間を抜け、帷子川分水路出口にある「楠ポンプ場」まで暗渠となっています。ポンプ場の奥は「楠木町公園」、不思議な空間ですのでおヒマな時にお尋ねください。
話はそれますが、下水道局のポンプ場を探すとそこは<暗渠>のシグナルです。吉野町市民プラザ吉野ポンプ場(日枝神社大池)、桜木ポンプ場(桜川)などもかつては水路・池だった場所に設置されています。

もう一つ
新田間川(しんあらたまがわ)は、新田・間・川→新田と新田の間を流れる川という意味で名付けられたそうです。左岸側が岡野新田、右岸が安永新田・弘化新田にあたる場所です。まあ「しんでんあいだがわ」では呼びにくいですね。

この「新田間川緑地」はその昔、横浜駅西口一帯が埋め立てられた時期に排水路も兼ねて運河化しましたので「派新田間川」となりました。現在「北幸」と「鶴屋町」の境が運河で、上を首都高速三ツ沢線が走っています。
この「派新田間川」はある意味、嫌われ川で、何時暗渠化するのか<してほしい>という状況でした。
とは言え何年かに一度の<帷子川氾濫>への対策が求められる中、大規模の<分水路計画>が策定されます。
帷子川の中流部にあたる横浜市旭区白根1丁目付近で帷子川から分水し延長約 5.3kmのトンネルでつなぎ、ドブ川だった 旧派新田間川に接続、横浜駅東口あたりで帷子川本川に合流(総延長約 6.6km)する事業で 1997年(平成9年)に完成することで、死に体の「派新田間川」が生き返りました。
※それでも 帷子川はその後2度氾濫被害にあっていますので、自然は想定できないものだということを記憶しなければなりませんね。
※地図上の表記が「新田間川緑道」となっていますが、正しくは「新田間川緑地」です。訂正が面倒なもんですみません。
関連ブログ
【横浜風景】護岸・誤岸?

6月 3

第890話【横濱の風景】西之橋からみる風景

ふと気がついた疑問をFacebookにアップしたネタですが、結構反応があり改めて確認してみると面白いのでブログアップします。
昔の絵葉書や地図を少しコレクションしていますが、
絵葉書とマップを比較することはほとんどありませんでした。
今回のテーマは
【中村川】横濱西ノ橋川岸雪ノ景
横濱の冬景色の絵葉書は少なく風情のあるいい風景です。

この絵葉書に関してこれまで
下記のキャプションを用意してきました。
「中村川と堀川そして埋め立てられた派大岡川が交わるあたりを西之橋から見た雪風景です。現在は石川町駅と首都高速が川の上にありこの風景の面影は殆どありません。今の西之橋は大正15年に再建された震災復興橋の一つで画像上流には、中村川に架かる亀之橋が見えます。昔の美しい景色が写る貴重な運河の風景です。」

ここで遠くに見える橋を中村川に架かる「亀之橋」とばかり思い込んでいました。根拠は「横浜絵葉書」関連書籍に同じ風景が収録されていて
説明文では「亀之橋」とあったので検証しなかったからです。
ところが実際「西ノ橋」袂に立ってみるとここから亀之橋を確認することはかなり厳しい角度にあります。
奥に見える高架は根岸線、その奥が 「石川町駅前歩道橋」です。
1960年代に首都高工事で「派大岡川」を埋め立てた際に少し中村川の川筋が変わった可能性もあるので、過去の地図を幾つか探し出してみることにしました。

大正11年
昭和2年

見えないこともない?色々探してみると 発見したのがもう一つの橋でした。
「亀之橋」と「西之橋」の間にもう一つ橋が架かっている地図があったのです。
現在の根岸線の石川町駅前歩道橋あたりに架かっていたようです。
<ようです>というのは
この謎の橋が表記されていない地図もあったからです。戦前の地図、少なくとも橋に関しては、<謎の橋>が時折現れます。ここにもう一枚、陸軍測量部迅速図明治41年発行「横浜」を拡大しました。陸軍の迅速図の場合、要素が欠けている場合がありますが、余分な情報を付け加えることはありません。西ノ橋と亀之橋の間には橋が確認できます。
さて?
この橋の名は。地図上にも橋梁名が記されていません。
仮に<石川町橋>とでもしておきましょうか。
解明はこれからです。

さらにこの地図から新たなる疑問が。「堀川」ではなく「中村川」になっています。正式に堀川は何時から呼ばれるようになったのでしょうか。(2017.09追記)
また宿題が増えました。

5月 2

【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!part2

関東大震災まで元町に「百段坂」がありました。
以前このブログで、
「百段坂」は俗称で実は?101段である。
実際元町百段坂を数えてみました
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9211
結果
やはり101段だろう という結論におぼろげながら達しました。
まあ「101段坂」よりはすっぱり「百段坂」が良いでしょうね。
今回
画像に不明な点もあったので新しい画像を元に
再度「百段カウント」に挑戦してみました。
元になった写真

これを拡大し階段を一つ一つ確認していくと
出てきた不明点があります。
(第一の不明点)
最初の一段はどこだ?
階段の始まり、小学生とおぼしき少年と愛犬らしき動物の後に段差があるように思えます。スロープににも見えますが、段にも。

ここは0段、グランドフロアみたいなものか?

以前Part1に使用した写真の0段付近を拡大してみることに。

段差があるようなないような。あるといえばある。
ただ、
Part1は明治初期(電信柱も電力柱も無い頃)と思われるので、階段下は整備されてまもなくのころで<登る人>も少なかったのではないか。

Part2の写真では30個の碍子「電信柱」が写っていますので明治中期以降だろうろ推理できます。

(第二の不明点)
ちょうど90段目あたりの段差が確認しにくいのですが、高くなればなるほど段差は狭く見えるはずなので91段目をカウントしました。

【結論】
結論はやはり101段が正解のようです。
なんだ! ということですが、百段坂の時代変化も少し確認できたので<良し>としておきます。

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4月 6

第885話【横浜の橋】都ぞ春

開港時から明治期にかけて、横浜開港場界隈に架かる<橋>数数あるなか
知名度なら「吉田橋(派大岡川)」でしょう。
明治初期、開港場付近の橋といえば?
辨天橋・大江橋・前田橋・西之橋・谷戸橋・湊橋・豊国橋 他
居留地と外を結ぶ<関門橋>があり、多くが現存(架替えていますが)しています。
中でも吉田橋は、関内外を結ぶ橋として一際注目されてきました。
横浜の重要な道を繋ぐという視点で<橋>を眺めてみると
「都橋」が横浜発展の要となっていたことに気がつきます。
「都橋」は
1872年(明治5年)7月
「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」
開港時「野毛橋」と称していました。
東海道から帷子川の越え、野毛坂を越え「野毛村」と突貫工事で切り開いた開港の道(横浜道)は「野毛橋」で大岡川を越え吉田橋関門へとつながる重要な橋の一つでした。
この「野毛橋」の架かる一帯の整備が行われ、
道路を改修、新しい橋に架け替えられます。
この時に、名称を「都橋(みやこはし)」と一新するのですが、
なぜ「みやこはし」となったのか?
オツな話が伝えられています。
古今和歌集56番
「見わたせば
柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける」素性法師
“ここから眺めてみると、
柳の緑と桜の色とが混ざり合って、
都が春の錦のようであることよ”
といった美しい春の風景を詠っています。
見渡せばとあるので 何処か高いところから見下して詠ったものですので
野毛に置き換えれば<野毛山>からの眺めと重ねたのかもしれません。
実は
「見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」の
歌中にある<柳><錦>から
都橋下流の大岡川と派大岡川、桜木川(桜川)と川の十字路となっていたところに
「柳橋」と「錦橋」が架かっています。さらに明治初頭には「桜橋」が川の十字路を囲むように架かっていました。

 この3つの橋と桜木川をかけて
ちょうどよい歌を引用し「都」橋と名付けたそうです。
鉄製のアーチ橋
現在の「都橋」

#大岡川の橋

4月 3

第884話【今日の横浜】4月2日リベンジ横浜!

 万治2年2月11日(1659年4月2日)
横浜の原点となった「吉田新田」の第二回鍬入れ(再開)の日です。 旧暦では2月11日ですが、ここではネタ用に西暦を使わせていただきます。
実は 吉田新田干拓計画はさかのぼるところ
1656年9月5日
明暦2年7月17日に江戸の吉田勘兵衛が江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得て、入海の新田づくり鍬入れ式を行います。
ところが
1657年6月21日
明暦3年5月10日に新田工事の最中、13日まで大雨が降り続き
6月24日に潮除堤が崩壊し干拓工事事態が中止に追い込まれます。
これに屈すること無く、吉田勘兵衛は新田開発再開を決意、
万治2年2月11日(1659年4月2日)に
再開の鍬入れが行われました。この再開の決意がなければ現在の横浜はどうなっていたのでしょうか?
様々な想像ができます・
ただ、大岡川の隣を流れる帷子川に見られるように 大岡川河口もしばらくして複数の干拓事業が行われたでしょう。地権者が増えることによって このエリアの発展がスムースに進んだか? その後も沼地のままになったかもしれません。  今年は、「吉田新田完成350年」にあたります。
一人の事業者によっていち早くこの一帯が整備された意義は大きいのでないでしょうか。
吉田新田事業「土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島」から持ってきたそうです。

(吉田新田前史)
今から約350年以前の横浜エリアは、山手から砂嘴が突き出し、その内側には大岡川の河口から釣鐘形をした深い入り海が広がっていました。
このくちばしのような<砂嘴>の突先に 弁天様が祀られ
洲干弁天と称しました。 1170年代、12世紀の治承年間 源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。以降、850年近く経ちます。
■枕詞を疑え!!
少々余談となりますが、横浜史の枕詞(まくらことば)に
「入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり」
「戸数約100戸の半農半漁の寒村・横浜村(今の関内地区)」
と決まってペリー来航以前を<寒村>をしますが、
私は違和感を感じます。ここが<寒村>とするなら 日本中の豊かな村とはどんな村なのか?問いたい!
国語辞典にも「かん‐そん【寒村】 の意味 貧しい村。さびれた村。」
「洲干弁天社は開港前から景勝地として知られ、開港後は開港場の中心をなす横浜町の入口に位置することから、横浜名所の一つとなり、茶屋などが集まった。(開港資料館)」
と近年 横浜村周辺の表現が変わりつつあります。
→横浜村風光明媚論は追って書きます。

<簡単横浜の新田史>
1640年代(慶安年間)には元町1丁目の増徳院が別当となります。
1656年(明暦2年)吉田勘兵衛、江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得ます。
1656年(9月5日)(明暦2年7月17日)吉田新田 鍬入れ式が行われます。
1657年(6月21日))明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで大雨で潮除堤が崩壊
★1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を開始 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島から
1667年(寛文7年)吉田新田 完成
1669年(寛文9年)功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)公式の検地、新田村となった。
1707年(宝永4年)宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火
1761年(宝暦11年)検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
1780年(安永9年11月)検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)検地を受け藤江新田となる。
1818年(文化15年)「横浜新田」の名が初見(完成は?)。
1830年(天保年間)程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを開始。
1833年(天保4年)岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)検地を受け弘化新田となる。
1853年(嘉永6年)「太田屋新田」完成。
1854年 3月8日(嘉永7年)アメリカ海軍提督ペリーが黒船を率いて日本へ2度目の来航をし、横浜村へ上陸する。
1859年11月10日(安政6年)太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年6月2日(安政6年)横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟竣工。
1864年(元治元年)さらに検地を受け岡野新田拡大。
1867年(慶応3年)慶応の大火事の復興工事、町は和風から洋風への建て替えが始まり、石造りの洋風2階建ての「神奈川奉行所」完成。それを期に「横浜役所」へ名称変更。馬車道が開通する。
1868年8月(慶応4年)横浜町と太田町をあわせて二地区(上町・下町)に分け、5名の名主が担当した。
1869年(明治2年)洲干弁天社が移転。
1869年(明治2年3月)花咲町6丁目の内田清七、福島長兵衛ら県より請負い吉田橋北詰より野毛浦までの埋立てに着手。
1870年(明治3年)町屋の整った地域に長者町・福富町の二町が起立。
1871年7月(明治4年)横浜町と太田町の区域に正式に町名を付ける。本町・南仲通・北仲通・弁天通・元浜町・海岸通・堺町・太田町・小宝町・相生町・高砂町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・港町・駒形町・羽衣町
1871年8月(明治4年)横浜関内各町を五区に分け、各々1名の名主が担当する。
1872年11月28日(明治5年)横浜役所は「横浜税関」へ名称変更。
1873年(明治6年)南一ツ目にあった遊水池(沼地)埋め立て、寿町ほか7か町が起立(埋地7か町)。
1873年5月1日(明治6年)神奈川県を20区に分け、区下に複数の番組を編成。横浜町は第1区1番組に編入される。
1873年5月1日(明治6年)平沼新田のうち、横浜道沿いの町屋が形成されていた箇所に平沼町が起立する。大区小区制により神奈川県第1大区3小区に属した。
1874年6月14日(明治7年)大区小区制に伴い、第1大区1小区に編入される。この頃伊勢佐木町ほか数町が起立
1874年8月1日(明治7年)堀割川開削完了。中村・大岡・吉田の各川に航路が開通。
1876年(明治9年)洋式の公園「横浜公園」が開園。
1878年(明治11年)郡区町村編制法により以前の新田村が復活し、久良岐郡平沼新田、橘樹郡岡野新田に戻るが、平沼町は横浜区に編入された。(久良岐郡より独立)
1878年11月21日(明治11年)郡区町村編制法に基づき、横浜区となる。(久良岐郡から分離)
1878年7月(明治11年)市街地化した南三ツ目・北四ツ目までが横浜区に編入
1880年(明治13年)南三ツ目に高島町遊廓が移転
1889年(明治22年)市制町村制が施行され、平沼新田は久良岐郡戸太村に、岡野新田は橘樹郡保土ヶ谷村に、平沼町は横浜市にそれぞれ編入される。
1889年(4月1日)明治22年 市制施行により関内全域が横浜市となる。久良岐郡吉田新田から久良岐郡戸太村大字吉田新田となる。
1894年(明治27年)横浜港鉄桟橋(現:大さん橋)が完成する。
1895年(7月1日)明治28年 町制施行により久良岐郡戸太町大字吉田新田に。
1901年(明治34年)戸太町(戸太村が町制を施行)と保土ケ谷町の一部が横浜市に編入され、西平沼町と岡野町が置かれる。
1901年4月1日(明治34年)横浜市に編入。大字吉田新田の地に南吉田町を起立。全域が市街地となる。
■ざくっと一覧にして
関内外エリアがあらためて 埋立ての町=運河の町であることがわかります。
No.701 運河の街誕生(序章)

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

番外編ですが
堀割川の話です。ちょっと力作(自分的には)
No.437 横浜ドラゴンズ、吉田さんに斬られる!

3月 28

第880話【絵葉書の風景】横濱乗物図鑑(加筆修正)

「車馬交通の最も頻繁なる桜木町通り」

私のお気に入りの絵葉書の一枚です。
改めて見直すとこの<風景>少々 不自然さ感じませんか?
意図して、当時の乗物すべてをここに集めて撮影したとしか思えない構図となっています。
カメラマンは市内の乗物を一同に並べ 一斉に走らせ シャッターを切った!
という感じがします。
市電は止まっているかもしれませんが、自転車を含め動きもあります。

(画像右から)□歩行者
電信柱の横、歩道に女性が歩いているのは判りますか?
□馬車
袋をいっぱい積んだ馬車と車夫
後続の馬車
□人力車
□多数の自転車
□高架に電車
□自動車
□市電(307番)上り線
横切る自転車荷車、大八車を引く人
空(から)のものから満載まで多様な荷車が道路を走っている姿が捉えられています。

■撮影時期の推定
大正13年〜昭和初期あたりと推定できます。
時刻は 左の時計から午後3時50分あたりでしょうか。

■画像左のマールの建築は「神奈川県農工銀行」
明治31年〜昭和19年まで営業

昭和4年

「農工銀行(のうこうぎんこう)とは、日本全国各地に戦前に存在した、特殊銀行の一つ。」で戦後勧業銀行に吸収されました。
こうやって改めて見直すと
まさに 「横濱乗物図鑑」のような風景です。
ここで空に航空機が舞えば パーフェクト、とまでは望まないことにしましょう。

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