4月 29

No.442 「路男」君の愉しみ(更新)

鉄道マニア(おたく)男を世の中は「鉄男」君と呼びます。

私もちょっとだけ鉄分系ですが
今日は新しいジャンルの“提案”をしたいと思います?!
「路男」君です。引かないでくださいね。

私は「路男」君です。→これが路上観察のきっかけ。今は路上観察者!!と呼んでます。

路地裏を入って行くと素晴らしい眺望に出会ったり
 

路(道)を歩くのが好きです。特に横浜の「路歩き」が好きです。
どこへ行っても自宅近所でも、観光地でなくても、
路から見える魅力は飽きることがありません。
何故「路男」?
みちを表す漢字は「途」「道」「路」「径」などいろいろあります。

国道も脇道に入りながら楽しめます


その中で人が歩く「みち」を楽しむにはこの「路」がぴったりだという理由で「路男」としました。「道」と「路」両者の違いは辞書的には
多くの解釈がありましたがここでは紹介しません。
(興味のある方はどうぞ)

(路男の旅)
これまでの徒歩旅行の最長距離は
勿来海岸から柏駅前まで三泊四日の徒歩旅行
のべ130キロくらいだと思います。何故“柏”かといえば
単純にギブアップしただけです。
茅ヶ崎から箱根湯本まで往復(一泊二日)
一日30キロ程度なら良くあります。
昔から
一日十里40キロ位とか 一時間4キロが目安ですが 歩くに徹した場合です。
ただ、最近は年のせいか寄り道が好きなので
ゆっくり歩くことが多くなりました。

去年は中距離級ですと
◎長津田駅から県境を北上し多摩川学園駅まで


◎舞岡駅から本郷台駅まで歩きました。


(自転車も最高)
自転車利用も楽しくなってきました。

その分歩くチャンスは減りましたが
他の都市に出かけると 時間があれば歩いています。

韓国の大邸(テグ)に仕事で行った時には
一日自由時間があったので
朝七時から夜7時まで十二時間街中を歩き
相棒と地元の人から奇異の目で見られました。

この看板 著作権侵害でしょう!でも人気あるんです。
韓国も旧商店街と新しいショッピングセンターの課題が山積みです

※因みに韓国語は話せませんがなんとかなりました。

(本題に)
路をただ歩いていることが楽しい訳ではありません。
楽しむポイントがいろいろあります。
発見、体験、冒険、推理
【発見】いろいろな発見をするのが路男君(路上観察)の醍醐味です。#路上観察
道標、記念碑、神社仏閣の発見
マニアックな発見
 交差点→T字路、三叉路、四叉路(十字路)、五叉路、六叉路〜

ダブル五叉路
藤棚六叉路
 

 道路標識→国道県道標識

路地裏→迷宮への招待
 すかしブロック→昭和の残骸探し?

横浜市内でも20種類くらい発見しました

石積み→横浜は傾斜地が多いので石積みも多数発見できます。

 

 橋→奥が深い。これだけで世界が拡がります。

(閉店した)(昔ながらの)商店の看板

【体験】
何はともあれ食べる!

【冒険】
裏路地に入り込むのも、渋い店に入ってみるのも
ちょっと勇気が。でも意外な発見が

【推理】
歩いている「道」と「地図」を比較しながらの時代を推理するのも愉しみの一つです。
ということで、今は路上観察として横浜の街を 徘徊しています。

4月 26

【番外編】全く横浜と関係無し?

なんとか横浜と結びつけよう!
と真剣に調査した訳ではありませんが
関連性が見当たらないので 単独で紹介しちゃいます。

戦後初のベストセラーって知っていますか?
「日米会話手帳」というタイトル通りの
英会話本です。
定価80銭 発売日は、1945年(昭和20年)9月15日で、発売から3ヵ月半という最短の期間で360万部を売りつくした戦後最大最速のベストセラーです。
村上春樹さんの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文芸春秋)は一週間で100万部で快走中ですが
「会話集」なんて実用書がとてつもなく売れるなんて!???
当時人口は7,214万ですから実に、20人に一人がこの本を買ったことにまります。
1945年(昭和20年)9月15日発売ですよ!
終戦の玉音放送が流れたのが8月15日ですから
一ヶ月後の「英会話本」大ヒット!
日本人の無節操?柔軟さ?
私も日本人の端くれですが 凄い変わり身の早さ。
この本を企画発行したのが
誠文堂新光社の創業者となった小川 菊松氏です。
小川氏は、まさに昭和20年8月15日旅行中の房州岩井駅で玉音放送を聞いている最中にひらめいた企画といいますから凄い!
その足で帰社し、社員の加藤美生に制作を命じます。加藤は「日支会話」や「日シャム会話手帳」を参考にしながら日本語の例文を作成し、東帝大の大学院生に三日間で英訳させたものを印刷にかけたそうです。
さらに凄い話しが待っています。
この大ベストセラー 4ヶ月持ちませんでした。類似本が雨後の筍のように出版され、しかも印刷用の紙が急激に値上がりし 定価80銭では採算が合わなくなり重版中止します。
全国で“類似本”が出回りますが その一冊を持っているのです!!

殆ど未使用の美本です。
その名も「新日米會話」
NEW JAPANESE AMERICAN CONVERSATION
昭和20年11月10日 貳円五十銭 宇都宮書店
「日米会話手帳」の二ヶ月後の発行です。
宇都宮書店は「栃木県」ではなく石川県金沢市の老舗書店です。
現在も「株式会社うつのみや」と社名を変更しましたが地元の一番店として経営されています。
wikiでは
「1879年(明治12年)に創業。徳田秋聲、泉鏡花、室生犀星も利用していた。石川県最古の書店チェーンで、社名は創業者の苗字である宇都宮を由来としている。」
冒頭で紹介した「日米会話手帳」は大ベストセラーになりましたが
現物は殆ど残っていないそうです。

私の持っている「新日米會話」もネット上では探すことが出来ませんでした。
タイトルすらヒットしません。
貴重品でっせ!!!!

4月 25

No.441 横浜・川越・甲州トライアングル

今日は、途中経過の話しで失礼します。
発端は、江戸時代最後の横浜エリアを治めていた大名は誰か?
から始まりました。


江戸幕府は統治システムとして、全国各地に大名や旗本を置き参勤交代や国替(くにがえ)転封(てんぽう)で権力基盤をコントロールしてきました。
地方分権と、中央集権の二重構造を上手に使った“しくみ”でしたが、
天保11年(1840年)の三方領知替えの失敗で一気に幕府衰退のキッカケとなっていきます。
横浜市域に話しを進めます。
横浜市域は武藏の国と相摸の国にまたがって拡がっています。
横浜エリア最後の大名は「六浦藩米倉家」でした。


米倉家は元々甲州武田家の家臣で、武田家が織田信長に破れて以降徳川家の下で側近として信頼を得ます。
キーワード 甲州は江戸の要
徳川幕府は江戸を統治する際、重要な領地を“親戚”と“側近”に統治させました。
例えば 近畿地方の要であった彦根を井伊家に任せ江戸幕府三百年の歴史の上で転封(てんぽう)の無い大名でした。
一方、
甲州街道の要だった甲州エリアは親戚の松平家や柳沢家(柳沢吉保)に任せていきます。
近場では、東海道から鎌倉・浦賀に抜ける重要な「金沢道」を
「米倉藩」に任せることになります。


米倉家は1722年〜1869年まで150年にわたって六浦藩主として長く統治しました。冒頭で転封(てんぽう)の無かった井伊家を紹介しましたが
米倉家も1600年代から徳川家の要職につき金沢と上野に小さな領地を得ます。
1696年(元禄9年)に1万石を与えられ晴れて「大名」となり
その後下野皆川に移封され初代下野皆川藩主と初代武蔵金沢藩主を兼務します。
※領地としては下野皆川藩のほうが豊かだったようですが、金沢藩は浦賀・鎌倉への重要な場所であったため“名誉職”としては格が上だったようです。
米倉家(1722年〜1869年)
譜代 陣屋 1万2千石
初代 忠仰(ただすけ)〔従五位下・主計頭〕1706年3月15日〜1735年5月29日
二代 里矩(さとのり)1733年9月13日〜1749年4月22日
三代 昌晴(まさはる)〔従五位下・丹後守〕1728年5月30日〜1786年1月19日
四代 昌賢(まさかた)〔従五位下・長門守〕1759年7月21日〜1798年8月5日
五代 昌由(まさよし)〔従五位下・丹後守〕1777年12月8日〜1817年2月8日
六代 昌俊(まさのり)〔従五位下・丹後守〕1784年10月15日〜1812年5月28日
七代 昌寿(まさなが)〔従五位下・丹後守〕1793年2月21日〜1863年5月7日
八代 昌言(まさこと)〔従五位下・丹後守〕1837年4月13日〜1909年2月27日

この六浦藩初代藩主「米倉 忠仰」は
嫡子の無かった米倉藩に養子として入り、米倉家を継ぎますが
父親は 柳沢吉保です。
柳沢吉保は ご存知の通り 大老格で最高権力に立ち様々な改革を行った大名です。小説やドラマの影響か“悪役”系ですが、実際は名君、優秀な官僚だったようです。


今話題の東急線と東武鉄道が繋がった「横浜・川越」の
川越藩主として素晴らしい街づくりをした領主でもあります。

(横浜と川越が繋がりました)
今日はこの辺で 次回にこのトライアングルから始まる話しを紹介します。

4月 24

【番外編0424】区の順位

(役に立たないランキング)
横浜市には十八の区があります。
今日は役に立たないランキングを紹介しましょう。
人口順や、面積順といったランキングは“少し”役立ちますが
全く?役に立たない「区の順位」です。
注意:ここでのランキングは
 区の優劣とは全く関係がありませんのでご了承下さい。

さて!最初のQ
このランキング基準はわかりますか?
第一位
 西区→195
第二位
 中区→107
第三位
 神奈川区→79
第四位
 南区→56
第五位
 鶴見区→52

第十四位
 戸塚区→28
第十五位
 瀬谷区→26
第十六位
 緑区→24
第十七位
 港南区→21
第十八位
 泉区→19
※18区を一覧にすると
西区(195)→中区(107)→神奈川区(79)→南区(56)→鶴見区(52)→都筑区(47)→青葉区(46)→金沢区(45)→旭区(45)→保土ケ谷区(43)→港北区(35)→磯子区(33)→栄区(33)→戸塚区(28)→瀬谷区(26)→緑区(24)→港南区(21)→泉区(19)
※ヒント 何かの数量です。
 ランドマークタワーのおかげかな?
(答えは末尾に)

ちなみに横浜市が一般書式に使用する区表記の順は
鶴見区→神奈川区→西区→中区→南区→港南区→保土ケ谷区→旭区→磯子区→金沢区→港北区→緑区→青葉区→都筑区→戸塚区→栄区→泉区→瀬谷区
となっています。
※横浜市市域拡大の年代から順位を設定しています。
 戸塚区からいち早く分区した「瀬谷区」が
 いつもラストになってしまうので
 瀬谷区はかわいそう!ですね。

Wikiより

では?この順は国政レベルでも同じか?
調べてみました。総務省の決めた
全国の市町村区にはコード番号があります。
JIS地名コード、地方自治体コード、都道府県コード、市町村コードとも呼ばれています。

鶴見区のコードは141011

全6桁の上2桁が都道府県、残り4桁が市区町村コード
その順でいくと神奈川県横浜市のヘッドコードが141で
鶴見区が01で末尾一桁がチェックディジットとなっています。
鶴見区(01)→神奈川区(02)→西区(03)→中区(04)→南区(05)→保土ケ谷区(06)→磯子区(07)→金沢区(08)→港北区(09)→戸塚区(10)→港南区(11)→旭区(12)→緑区(13)→瀬谷区(14)→栄区(15)→泉区(16)→青葉区(17)→都筑区(18)
※横浜市が使用している順位と比較すると
南区まで一緒ですが六番目から大きく変わります。
 瀬谷区は最下位から脱出していますね。
 Wikiでは 区の順表記をこの市町村コードに従っています。

Q2
ではこの順は?
中区(224)→西区(320)→保土ケ谷区(334)→瀬谷区(367)→神奈川区(411)→鶴見区(510)→港北区(540)→南区(743)→磯子区(750)→金沢区(788)→泉区(800)→港南区(847)→戸塚区(866)→栄区(894)→緑区(930)→都筑区(948)→旭区(954)→青葉区(978)
※ヒント小さい順に並べました。量ではありません。


Q3
さらにこの順位は?
西区(220)→神奈川区(221)→港北区(222)→都筑区(224)→緑区(226)→青葉区(227)→鶴見区(230)→中区(231)→南区(232)→港南区(233)→磯子区(235)→金沢区(236)→保土ケ谷区(240)→旭区(241)→戸塚区(244)→泉区(245)→瀬谷区(246)→栄区(247)
※これも数量ではありません。

■■こたえ■■
Q1→郵便番号の数です。西区はランドマークタワーがフロア毎に
  郵便番号がふられているからです。
  中区が第2位?その訳は?
  http://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=14&city=1141040&cmp=1
  何故か?
  町別に丁寧に番号が割り振られています。
  中区には136の町名があります。
  136分の107ですから約79%に郵便番号が振られています。
 →ちなみに神奈川区は134の町名があり79の郵便番号ですから
  58%になります。どうしてでしょう?
  郵便番号の設定基準調べは今後の課題ですね。
Q2→区役所の電話045の次ぎにくる3桁番号です。
  昔は、局番でおおよそのエリアが判りましたが、
  最近は全く地域とは関係なくデジタル回線が割り当てられています。
Q3→郵便番号
  これもどのような基準で番号が振られたのか?
  よくわかりません。おいおい調べてみます。
**************
ということで全く役に立たない調査はひとまずお終いです。

※そもそもなんで無駄なデータ?
探しを始めたか?
郵便番号や電話番号、市町村コード なんでバラバラなのか?
から始まりました。
無駄の排除はまだまだあると思いますね。
4月 18

No.440 濱の噺家談義 (情報追加)

「品川の圓蔵」こと4代目橘家圓蔵(本名 松本栄吉)が、横浜伊勢佐木の「新富亭」で急死し記念碑が弘明寺観音に建てられた話は以前紹介しました。
「No.109 4月18日 品川の名人濱に死す」

今日も、落語家の話しです。
落語家の紹介には苦労します。
落語家、まず誰の下に弟子入りしたか?時には師匠が変わることもあります。
生涯何回かその名が変わります。
さらに、名跡を継ぐことで、(何代目)◎■△と系譜を踏むことになります。
加えて所属団体(落語の同業者組合)も幾つかあって、これまた余り仲がよろしくないというから話しがこんがらがってきます。

完全にほぐすことはできませんがハマの噺家を紹介しましょう。

網羅していませんが横浜出身の噺家は結構多いようです。

(濱出身の噺家)※後半で紹介します

3代目 笑福亭松鶴(1845年〜1909年3月30日)
初代柳家三語楼(1875年3月〜1938年6月29日)※
6代目春風亭 柳枝(1881年1月〜1932年3月1日)※
4代目古今亭志ん馬(1889年3月26日〜1961年8月2日)※
7代目橘家圓蔵(1902年3月23日〜1980年5月11日)※
4代目桂米丸(1925年4月6日〜)
金原亭伯楽(1939年2月16日〜)
9代目雷門助六(1947年1月13日〜)
三遊亭左遊(1953年9月28日〜)
五明樓玉の輔(1966年1月4日〜)
桂歌丸(1936年8月14日〜)※
立川談奈(1972年8月18日〜)
立川志の八(1974年5月24日-)
5代目柳家小せん(1974年6月28日〜)
(特別横浜関係噺家)
初代快楽亭ブラック
1858年12月22日(安政5年11月18日) – 1923年(大正12年)9月19日)
No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子

(初代柳家三語楼)
本名は山口 慶三さん。
家業は廻漕業で、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ出身という異才落語家です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ
英語が堪能でしたので少年時代には外国人商社等で働いていたそうです。
英語が堪能と言えば
前述の初代快楽亭ブラックは「日本語が堪能な」噺家でした。
4代目橘家圓喬に入門し後に3代目柳家小さん門下で三語楼を名乗ります。
大正期を代表する人気落語家の一人で、古典落語に大胆なアレンジを加え新しい境地を開きます。
最初の師匠圓喬を崇拝し「俺が死んだときは、師匠から貰った袴が大事にとってあるから、それをはかして棺の中へ入れてくれ」と遺言していたそうです。

(6代目春風亭 柳枝)
横浜商業学校出身で「横浜の柳枝」と呼ばれました。
実家が「ゴミ六」という居留地の清掃業で、地域消防団の親分でもあったらしくポンプゴミ六と呼ばれていたそうです。
前述の三語楼とは同時代のライバル、横浜出身噺家として活躍します。
→追加情報がわかりました。
 実家の「ゴミ六」は 本名「石橋六之助」他に通称“十六番”と呼ばれていたそうです。現在の千葉県蓮沼出身で東京(当時江戸)でオールコックに仕えていたそうです。東漸寺事件で襲撃にあった時にオールコックを助け横浜まで逃げた時に随行した功績で居留地内でビジネスを始め道路改装、道路清掃を請け負います。
一方で、居留地消防団として活躍し薩摩町近辺の消防の頭目となります。
「そらゴミ六のポンプが来た。火は消えるぞ」といわれたほど信用があったそうです。
 六さんは、火消しの途中で二階から落ち怪我をして以来人事不詳となり長患いの末 1906年(明治39年)4月21日73歳で亡くなりました。外国人とも積極的に交流した人物で、多くの人に慕われていたそうです。
※情報追加2013年4月28日

(古今亭志ん馬)
本名は、金川利三郎。
「No.109 4月18日 品川の名人濱に死す」

で少し触れましたが、4代目橘家圓蔵と並んで弘明寺に碑が建てられています。
15歳の時に5代目笑福亭松喬(後の2代目林家染丸)に入門しますが横浜「新富亭」の高座に上がっている時に立花家橘之助に見出され3代目古今亭志ん生の門をたたき古今亭を名乗ります。「横浜の志ん馬」と呼ばれました。
落語関係のコレクターとして三遊亭圓朝の遺品を含め落語史の一級資料を保管し寄席文字家元の橘右近が受け継いで今日に至っています。

(7代目橘家圓蔵)

本名は市原虎之助、現在の石川町駅近くで生まれました。
Wikiでは「本名 市川虎之助」とありますが 誤記です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/橘家圓蔵_(7代目)
虎之助の母“安”は千葉県茂原市の旅籠「大黒屋」の長女。
虎之助の父“直吉”は千葉県茂原市の旅館内田屋出身で、母となった“安”とは幼なじみだったそうです。直吉は若くして亡くなり、弟の金之助と再婚します。
母“安”は二人の夫の間に十二人の子供を育て、末っ子が市原虎之助(7代目橘家圓蔵)として育ちます。
二人目の夫金之助も虎之助が4歳の時に亡くなり
八百屋に養子に出されたり、姉に引き取られたりと彼の疾風怒濤の人生が始まります。
洋服屋から始まり、横浜吉岡町の鍛冶屋から渡り職人となり、吉原の牛太郎(遊女屋の客引き)や、外国航路船のコックなど職を転々としますがその間、遊びで寄席や遊興の寄席芸に触れることになります。
芸人になることを選び1923年7月に8代目桂文楽に入門しますが素行の悪さで破門、
4代目鈴々舎馬風の紹介で7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵)一門に移籍し柳家治助を名乗りますがこれまた破門。
噺家を辞め、寄席で奇術の手伝いや吉原、名古屋、大阪で幇間など様々な職に就きます。
(それでも芸人の近くにいたのは、この世界への未練?相性が良かったのでしょうか)
1941年(昭和17年)に40歳の二つ目として再度文楽一門で出直すことになります。
1946年(昭和21年)3月に4代目月の家圓鏡襲名真打昇進。
1953年(昭和28年)3月に7代目橘家圓蔵を襲名します。
林家正蔵没後に「林家三平」一門が圓蔵の下に入りますが、過去に破門された師匠の弟子ということで「林家三平」と「橘家圓蔵」とはかなり確執があったようです。

長くなってしまいましたが、

噺家の世界が全て“おどろおどろしい”訳ではありません。
芸一つで生きていくキャパの広い世界であることは間違いありません。

4月 17

【番外編】横浜サウンド特集リンク集

横浜市内のオリジナルサウンドショップを集めてみました。
★ハマ楽器
http://www.hama-gakki.co.jp
〒231-0045
神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2丁目8-7
※関連
No.109 4月18日 品川の名人濱に死す

ハマ楽器本社は 元「新富亭」という横浜でも大型劇場だったそうです。


☆株式会社 横浜日本屋楽器
http://www.yngakki.co.jp/
1958年(昭和33年)創業
横浜市神奈川区反町1-6-7
Tel:045-322-6388
オンラインショップ
http://onlinestore.yngakki.co.jp

★ピアノ修理工房 有限会社クラビアハウス
http://www.klavierhaus.co.jp
横浜市保土ヶ谷区上菅田町417
045-382-8322 

★セントラル楽器
東白楽にある管楽器専門店で、日本国中からお客様が来られるそうです。
 〒221-0822 
 横浜市神奈川区西神奈川1-15-2 
 TEL 045-324-3111(代) 
 FAX 045-324-4025 
http://central-gakki.jp

★ノナカ
http://www.nonaka.com
No.272 9月28日(金)横浜の中の世界のノナカ

☆横浜ジャム音楽学院
1978年(昭和53年)に開設され2001年(平成13年)現在の桜木町に移転
〒231-0063
横浜市中区花咲町2-62-8 ジャムビル
http://www.yokohama-jam.com


☆横浜音楽院
http://www.yokohama-music.co.jp
〒220-0004
横浜市西区北幸1-2-13 横浜西共同ビル
 株式会社 横浜アオバ楽器
インターネット上の仮想資料館が面白い!
※ビクトロンの歴史
※オルガン・コンクールの歴史

☆GRINNING DOG® studio (グリニング・ドッグ工房)
Custom Pickupの製作&PickupのRewind, Rebuildなど
Pickupに関するあらゆる作業のプロショップ
http://greens.st.wakwak.ne.jp/904354/menu2.html
横浜市南区白妙町1丁目1番地
TEL/FAX: 045-251-6433(9:30〜19:00)

☆elmore
ギター&ベースに関する
製作・修理・改造・点検・コンポーネント・販売
http://elmore.boo.jp/profile.html
〒231-0846
横浜市中区大和町2丁目32番地
TEL / FAX 045-625-6517

4月 15

No.439 へいらく・たいらこ

会社の転勤“好き”はどうやら中世からの伝統らしいです。
転勤“好き”というか“命令”に従うことで出世の望みを託す?
これ日本独特の慣習ということですが、
武士が頭角を顕し始める頃から(平安後期?)豪族が国内を移動するようになるなか、
磯子から本牧にかけた一帯の豪族として統治した相摸の“もののふ”の転勤?物語を紹介します


(平子氏家紋は丸に三つ引両)
その一族の名は
「平子氏(たいらこ し)」
人気ファッションモデル・タレントで吉田栄作を夫に持つ平子 理沙(ひらこ りさ)さんがいますが、関係は判りません。
平子氏のテリトリーは、久良岐郡の平子郷と呼ばれていた一帯で
本牧・中村・根岸・堀之内・滝頭・岡村・磯子(禅馬)を含む狭い領地でした。
館は、真照寺(平子一族の菩提寺)近くにあり、地名の堀之内も平子氏の館と関係のあるものだといわれています。

三浦一族とルーツを同じくする豪族で、
平安中期から鎌倉時代に勢力を振るいます。
三浦一族のルーツは桓武平氏説、在地豪族説などがありますが、源平の時代平氏の出として活躍したことは確かなようです。
この時代源平共に混在していたようで、源頼朝挙兵の際、平子ともども源氏に参戦し平家追討に功をたてます。
この戦(いくさ)出陣の際に菩提寺である真照寺に建立した毘沙門堂の毘沙門天は磯子七福神の一つです。
この真照寺の外観は必見!です。→機会があればぜひ毘沙門天も

(平子氏地方へ)
冒頭にも紹介しましたが、中世に登場した武士は日本全国を駆け巡ります。
京都への上洛は勿論ですが、平子氏は鎌倉時代に周防国、越後国に分家して勢力を伸ばします。周防国吉敷郡仁保庄、越後国山田郷にその名を残しますが
周防平子氏(仁保氏)は、周防の氏族 大内家の重臣として活躍しますが戦国時代に毛利氏によって主家と共に滅ぼされます。
越後平子氏は、13世紀ごろ越後へ進出し上杉家の重鎮として活躍します。16世紀上杉謙信に従軍した記述が残っています。
まさに謙信急死後に起ったお家騒動、1578年(天正6年)「御館の乱」以降、平子氏の記録が消えますが、滅亡したわけではなさそうです。
山形県長井市に居住される平子氏の家伝には、関ヶ原の戦いに敗れて米沢領に落ち延びたと伝えられ、関ヶ原の役を最後に越後平子氏は滅びてしまいます。

(磯子平子)
磯子・本牧一帯の「平子氏」は、1180年(治承四年)源頼朝の旗揚げで活躍、のちに論功行賞で一族が周防国吉敷郡内仁保に分家
本家はその後、鎌倉御家人となり1221年(承久三年)承久の乱で幕府側で活躍し、その戦功で一族が前述の通り越後へ分家しますが、
鎌倉幕府、執権北条氏の勢力拡大に伴い次第に衰退していったようです。
室町時代中期の記録を最後に、資料から姿を消します。

平子氏 磯子・本牧の丘を駆け巡る
No.437 横浜ドラゴンズ、吉田さんに斬られる!
ここでも簡単に触れましたが、
磯子・滝頭・岡村一帯と中村・平楽・根岸・本牧一帯は丘陵で繋がっていました。
尾根伝いに道があり、平楽あたりから見る開港場(吉田新田)は絶景だったでしょう。

No.390 危なくない?デカ。
謎の「エリヤX」「根岸住宅地区」は、さすが米軍!
平子氏の絶景エリアです。

No.168 6月16日(土) 6月のカナチュウ

桜木町駅前から保土ヶ谷駅東口をつなぐ11系統というバス路線があります。
この11系統はかつて「横浜市営バス」が同じ11系統として営業していた路線です。
市があきらめた路線をカナチュウが運行しています。
このルートで まさにこの平子郷の平楽側を楽しめます。
最後に 「平楽(へいらく)」は「たいらく」から来ていると言われています。
平子氏も「太楽」や「大楽」の苗字で登場する記述があり、「たいらこ」ないし「たいらく」から「へいらく(平楽)」になったのではないでしょうか。
歴史記録は時の流れで、少しずつ風化し変化していきます。
そのなごりを辿るのが歴史散策の愉しみですね。

4月 12

【番外編】善悪の彼岸

歴史上の人物評価は難しいものがあります。
歴史の多くが“勝者”の描いた史実を重ね合わせた結果です。
近年、敗者の歴史と言う視点で新資料を元に新しい人物像が描かれています。
横浜を舞台にした人物像にも評価の分かれる人が
意外と多いことに気がつきました。
特に
明治維新前後に登場する多くの重要人物は歴史的政変に関わっているため、評価は立場によって大きく変わってきます。
徳川政権から明治政権に劇的な政権交代の狭間で、歴史に埋もれてしまったり善悪の評価が二分されてきた時代です。


横浜に関係が深く評価が分かれた人物として良く知られている人物は
「井伊直弼」でしょう。
安政の大獄で多くの要人を処刑、処分等を行い「桜田門」で元水戸浪士達に暗殺されました。
薩長出身者には“親の敵”、水戸徳川家には攘夷破りで“目の敵”
明治維新後も井伊直弼支持者と薩長明治政府派とは反目し合います。
その象徴が「掃部山の井伊直弼像」です。
井伊に関しては別のコーナーで一部紹介していますが、
より鮮明に 横浜の直弼騒動を追いかけていますのでまとまり次第紹介します。


「幕末悲運の人びと」で石井孝さんは四人の悲運な人物を紹介しています。
■岩瀬忠震
■孝明天皇
■徳川慶喜
■小栗忠順
中でも「岩瀬忠震」「小栗忠順」は特に横浜と深く関わる人物です。
目下「小栗上野介忠順」に挑戦しています。
小栗忠順は実に興味深いキャラの持ち主です。


まとまり次第 紹介します。

(新田義貞)
突然時代は14世紀に遡ります。


偶然目に止まった本から 鎌倉武将「新田義貞」に関心が湧いてきました。
鎌倉 稲村ケ崎で剣を差し出したパフォーマンスで有名です。


群馬県人には郷里の英雄「歴史に名高い新田義貞」とうたわれています。
上野国新田荘に拠点を持つ関東の御家人で
鎌倉幕府倒幕で「かまくら攻め」のため
南下し 鎌倉道を経由し稲村ケ崎まで一機に攻めくだります。
このとき 横浜市域を通り
「瀬谷」にその足跡をみることが出来ます。
その後、最終的に 福井県(越前国)で最後を遂げます。
評価の分かれる「新田義貞」に関しても
目下 実際に鎌倉道散策中です。

戦後も評価の分かれた人物の一人に
神奈川県知事「内山岩太郎」がいます。
横浜市と神奈川県の仲の悪さ?の原点となった
戦後自治体の制度設計を巡って激しい論争を行います。
少し紹介しましたが
No.399 神奈川都構想で抗争
彼についても目下 下調べ中ですが 中々面白い!
ということで これも時期をみて紹介します。

No.350 12月15日(土)横須賀上陸、横浜で開化。

No.324 11月19日(月)広田弘毅に和平を進言した男像
※もっと、改めて 評価していく人物も多いようです。

今日は 今関心のあるテーマの紹介のみとします。

4月 5

No.438 神奈川奉行入門

特に詳しく知っていて 役に立つとは思えませんが、
恐らく、幕末の幕府役職の中で、
どちらかといえば 任命されたくない
 でも優秀な人材が望まれたポジションでした。
今日は、横浜散策の際 ちょこっと他の人に差をつけるかもしれない神奈川奉行について紹介しましょう。

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神奈川奉行所の運上所が現県庁に

「お奉行!」で最も有名なのが?
遠山の金さん、大岡越前守あたりですかね。
「奉行」という役職の歴史は古く、江戸以前の平安時代からある役職です。
簡単に言えば「行政官」のことで、政務を担当した職名を指しました。
江戸時代に官僚制が成熟し様々な「奉行職」(役職)が設けられました。
■三奉行
寺社奉行
→エリート中のエリートが就任、宗教団体担当
勘定奉行
→会計ソフトの商品名にもなっていますが
 幕府の財務、会計、幕府直轄領の支配等を担当
町奉行
→江戸の民政最高責任者、南北に分かれる
東京都知事兼警視総監兼東京地方裁判所長みたいなもの
■その他
道中奉行、作事奉行、普請奉行、寄場奉行、書物奉行、腰物奉行、吹上添奉行
この他にも様々な役職があったようですが、今日のテーマである
「神奈川奉行」は遠国奉行(おんごくぶぎょう)という役割の中の一つの職制でした。

(遠国奉行)
幕府直轄の要地に配した奉行の総称です。
江戸の町以外の幕府直轄領(天領)のうち重要な場所を管理監督しました。
重要な直轄都市が「京都」「大阪」「駿府」の三都市です。
設置年代順(幕末時点)に都市名を挙げると
長崎・(京都)・(大阪)・伏見・山田・日光・奈良・堺・(駿府)・佐渡・浦賀・下田・新潟・箱館・神奈川・兵庫
といった順です。
長崎奉行は1603年(慶長8年)に設けられた最も古い奉行で外国貿易を政府が管理した最初の奉行です。
数ある各都市奉行の中で
神奈川奉行は1859年(安政6年)に
兵庫奉行が“徳川幕府最後の”設置で1864年(元治元年)でした。
兵庫奉行は短く、殆ど機能しませんでしたので最後の重要な「遠国奉行」が神奈川奉行でした。
長崎に始まり神奈川(横浜)・兵庫(神戸)に終わったのも
歴史の皮肉でしょう。

(神奈川奉行)
横浜港が開港された1859年(安政6年)に開設されました。
開港が決まった初期は外交専門担当の「外国奉行」(遠国奉行より上格)が兼務していました。
初代「外国奉行」が横浜開港をリードした岩瀬忠震です。
神奈川奉行の任務は開国に関する様々な事務ですから
開港場建設の責任でもありました。

設置当初の神奈川奉行は三カ所で運営されました。
当時1,000人以上のスタッフ(役人)を抱え日本最大級の都市管理組織となります。
【会所】→事務所
青木町(神奈川県横浜市神奈川区青木町)

【奉行役所】主に内国司法・行政事務
戸部村宮ヶ崎(同西区紅葉ヶ丘、現・神奈川県立青少年センター)


【運上所】主に関税及び外務全般事務
横浜村波止場近傍(同中区日本大通、現・神奈川県庁付近)
運上所は1860年(万延元年)に独立します。

No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

(外交官兼務の神奈川奉行)
1859年(安政6年7月)外国奉行に就任し、8月には神奈川奉行を兼務早々、重要な命令を受けた「新見正興」は
1860年(万延元年)(3月18日に安政より改元)
日米修好通商条約批准書交換使節団の正使として渡米の任に就きます。
「万延元年遣米使節団」と呼ばれたこの使節団は
副使に村垣範正(淡路守)、監察には小栗忠順(豊後守)が任命され共に外国奉行経験者で批准書交換を達成した優秀な三人組でした。
「万延元年遣米使節団」の護衛という名目で渡米したのが
「咸臨丸」で乗船メンバーが派手?だったので有名になりましたが
正使はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込み横浜よりハワイを経由し太平洋を横断、サンフランシスコに到着しパナマ経由でワシントンD.C.に到着大役を果たします。

開港記念会館のステンドグラスに描かれたポーハタン号
ポーハタン号

到着したのが
1860年5月15日(万延元年閏3月25日)
そして正式に調印(批准書の交換)したのが
旧暦4月2日(1860年5月22日)
アメリカ合衆国大統領ブキャナンと謁見し、
批准書が交換され任務を終えます。
使節団は
1854年の開国後、最初の公式外国訪問団であり、世界一周も達成します。

黒ルートは咸臨丸、遣米使節団は赤と緑ルートで世界一周します

この批准を記念して百年後の1960年に「日米修好通商百年祭」が開催されます。
吉田茂元首相が民間の遣米使節団の団長としてアメリカ諸都市を訪問し、100年前に新見ら遣米使節団を迎えたのと同じ会場で開催された正式午餐会に出席しました。
一方、アイゼンハワー大統領の日本訪問も計画されましたが、日米安保条約改定をめぐる国内の「安保反対」運動の高まりを受けて、実現しませんでした。


使節団をアメリカまで運んだポーハタン (USS Pawhatan) 号をモチーフにしたマークが作られました。

 


写真はその時の切手、記念フラッグと皿です。
「ポーハタン (USS Pawhatan) 号は、南北戦争時の米国海軍の外輪フリゲート艦である。
名前はアメリカ・インディアンのポウハタン族に由来する。米国海軍では最大かつ最後の外輪フリゲート艦であった。嘉永7年(1854年)のペリーの日本再訪の際の黒船の一隻。」
このポーハタン号と同型の「亜墨利加蒸気船 長四十間巾六間」をデザインしたイヤープレートが今年2013年横浜焼の伝統を受け継ぐ
増田工芸によって制作されました。

http://www.masuda-art.com/masuda/cn89/pg1296.html

(余談) 
新見正興が外国奉行就任時の領地は現在の横浜市戸塚区品濃町あたりだったそうです。


今日番外編で咸臨丸

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2

No.34 ‎2月3日 ポサドニック号事件で咸臨丸発進

No.386 清水の次郎長、横浜に通う

No.55 2月24日 YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA